A: 人が宗教に近づく場合、おおむねニつの傾向があるようです。即ち、感性的・美的傾向と理性的・理論的傾向とのニつであります。前者は読経の美しさや寺院建築・仏像の荘厳さに惹かれて宗教に近づいてまいります。これに反して、後者は法話・お説教を聴聞したり、あるいは宗教書を読んだりして近づいてまいります。 これら二種のアプローチのうち、いずれが正しく、いずれが間違っているとはいえないのであり、むしろいずれも正しく、しかも究極のところ二者は一に帰するというのが、小生の結論であります。
或る人がかつて僧侶になったばかりの頃、宗派の長老格の人に、「今後どのように勉強して行ったらよいでしょうか」と質問したところ、その長老は「君は何が趣味かね」と問われたので、「私は流行歌や演歌を歌うのが得意です、音楽ならなんでもこなします」と答えました。そうしたら、長老は「そんなら君はこれから読経の専門家になるように研鑽したまえ」と忠告されました。かくしてこの青年僧は永い厳しい研鑽の末、読経の専門家となり、今では多くの弟子を育てた師匠となっております。
こういうふうに見てきますと、あなたは感性的・美的ご性格ではなくて、むしろ理性的・理論的ご性格のようですね。そうだとしたらあなたはとりあえず、ご法話聴聞に努め、それから少しづつお聖教を読むように心がけ遂には教学研究の道に踏み込まれたらよかろうと存じます。
このように教学研究にいそしんでいるうちに、あなたは先ず、読経の大切なことを、報恩行として知るにいたり、他方漢文の棒読みの読経にも慣れてまいります。そうすると漢文の棒読みの読経をしながら、その経文の意味をたどることが出来るようになります。そうなりますと、さらに読経の音楽的美しさをも感ずるようになります。
カトリックのミサは、ラテン語で歌う合唱でありますが、実に美しいコーラスです。しかし浄土真宗の漢文棒読みの読経(声明)もそれに劣らぬ美しい仏教音楽であります。従って概念から入っても、遂には美的鑑賞に到達するのが不思議なところであります。
ニつの道のうち、どちらでもご自分の好きな樂な道を選び、歩んでいけば、遂には同一に帰するというのが小生の結論であります。
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回答者: 田ノ倉 亮爾
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