仏教ちょっと教えて 




049 「位牌」ではなく、「過去帳」


Q: なぜ、お寺では、「位牌」ではなく、「過去帳」をすすめられるのですか?


A: 「位牌」とは、字義のごとく「位(くらい)」の「牌(ふだ)」という意味で、死者の生前の官位・姓名を記した木札(木牌)のことをいいます。
  この「位牌」は、古代中国の「儒教」の儀式に用いられたもので、「死者の霊魂を招くもの」あるいは「霊魂がとどまるところ」として民衆の中に定着していきました。
 そのような本来、中国の「儒教」の風習において用いられていた「位牌」が、禅僧によって先祖供養の道具として日本に持ち込まれると、日本においては、それが「仏教のもの」と誤解、受容され、ついに江戸時代頃には、一般民衆までにも普及していくこととなりました。

 さて、仏教の教えの根本は、ブッダ(お釈迦さま)の「無我(非我)」という言葉によって、よく顕わされます。ブッダは「霊魂」=「我」のような永遠不変なる存在は「無い(非)」のだから、そのような物にとらわれ執着してはならない≠ニ私たちを誡めておられます。この「無我」の教えこそが、われわれ仏教者・真宗者の依るべき立場であります。
 けれども、先の「儒教」にいう「位牌」は、あらかじめ死者の「霊魂」を「有る」ものだ、とやみくもに信じ固執させ、これを先祖の霊魂供養と関係づけて、その存在価値を認めさせいる、ただ、それだけのものなのです。したがって、「仏教の教え」とは相いれない「儒教」の「位牌」を、われわれが、あえてもちいなければなら必要性・必然性はありません。

 以上のことから、「仏教」では「位牌」を用いないということが原則となります。そこで、とくに「浄土真宗」では、「位牌」ではなく「過去帳」を用い、これをご門徒の皆さまにすすめています。
 この「過去帳」は「メモリアル・カード」としての任を担います。けれども、単に「メモリアル・カード」といっても、私たちが、おりにふれ、その「過去帳」に記された、ご縁のあった方々の「法名」に目を注ぐとき、今ある自分が、私一人の力ではなく、これまでの様々なご縁によって、たまたま生かされてきた(=「他力」)という事実に気づかされることとなりましょう。
 そして「法名」それぞれの願いに思いをはせる中、そのご縁あったの方々の「死」を機縁として、私たち自身も「死」すべき存在であるという事実と、そのわが身の事実(生・老・病・死)以外には「真実」はあり得ないということにうなづかされていくことができるのです。

回答者: 渡辺 了生


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