仏教ちょっと教えて 




052 友引に葬儀を出すのは悪いか


Q:  先日、母方の祖母のお葬式に田舎に行ってきました。その時、最初に伯父が決めた日が友引だったため、親戚の人が「とんでもないことだ。絶対にだめだ」と言って聞かず、お葬式を一日先に延ばしました。父に「なぜいけないのか」と聞いたら、よくわからないが、家の方でも友引は葬儀場が休みだということでした。友引に葬儀を出すのは悪いことなのでしょうか。(十六歳・男)


A:    中国から伝わる古い占いのひとつに六曜があります。六曜は、太陰暦に基づいて先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口を一定の規則によってあてはめていく、ごく単純な占いです。中国では、とっくの昔に信じられなくなったものだそうですが、日本では、特に戦後になってからあらゆるカレンダーに書かれるようになり、こだわる人が多くいます。もともと仏教とはなんの関わりもないものですが、仏滅というように仏という言葉が入っているものですから、仏教と関係があると勘違いしている人もいます。

 さて、「友引」のことですが、もともとの占いでは「引き分け」ということだそうです。しかし、「友を引く」とも読めますので、お葬式に行って死者に友を引かれては困るということで、葬儀を行ってはいけない日と言われています。ようするに単なるごろ合わせに過ぎないことなのですが、大の大人が恥ずかしげもなくみんなして言うものですから、真実味を帯びて聞こえてくるのです。
 私たちの回りには、このようなごろ合わせや、縁起かつぎによって行動が制約されてしまうことがよくあります。例えば、四十九日の法要を三月にかけて勤めてはいけないという地域があります。それは、「始終苦が(四十九が)身につく(三月)」という落語の落とし話のようなごろ合わせからきているものなのです。馬鹿馬鹿しくて開いた口がふさがらないような話なのですが、信じている人は真剣なので、なかなか無くすことができないのです。

 このように、私たちが習慣や習俗の中で、なにげなく行っていることの中には、思いもかけないようなおかしなしきたりがたくさんあります。特に、仏事に係わるものにはおかしなものが多いのです。

 つまらない語呂合わせに私たちの行動が拘束されてしまうのですから、非常に迷惑な話です。ましてや、悲しみの中で送っている身近な亡くなられた方を、生きている人に取りつく魔物のように考えるのですから、とてもほめられた考え方ではありません。少し大げさに言いますと死者を冒涜しているとも言えるのです。これらの習慣の多くは、死への恐れからくるものであります。そして、生きているものの都合のみで、死者をないがしろにしている点も共通しています。

 また、清め塩のしきたりなども、どう考えても納得のしにくい習慣です。私は、葬儀や仏事の時の清め塩の習慣は止すべきであると折りに触れてお話しています。「清め」という考え方には「けがれ」という考えが存在します。「けがれ」があると信ずるからこそ清めなければならないのです。それではなにが「けがれ」かという点を考えますと、死者に対して大変失礼な行為をしていることに、すぐに気づくことができます。



 戻る

  POSTEIOSホームページ目次へ戻る