仏教ちょっと教えて 




054 真宗で塔婆の扱いが違う
 
Q: 義父の四十九日が近づいてきました。先日、親戚より塔婆の申し出があったため、お寺にお話しましたら、浄土真宗では塔婆は扱わないと言われてしまいました。
 私の実家の風習では、法事の際、塔婆を親戚どうしでやり取りします。私も供養と思って、親戚の法事に行くときには必ず塔婆を立てていただいています。親戚にはお断りすれば良いのでしょうが私自身納得できないような気がしています。

(五十歳・主婦)


 A:
 塔婆の習慣は、地域や宗派によって大きく異なっています。浄土真宗以外の宗旨では、墓地に立てる板塔婆は、死没者の冥福を祈る意味で年回の法要等で用いられます。地域によっては、親戚どうしの塔婆のやり取りが習慣になっており、言わば義務化しているところもあります。
 しかし、浄土真宗の寺院では、塔婆を扱いませんので、戸惑われたのではないかと思います。浄土真宗のお寺で塔婆を扱わないのには、宗教上の大きな理由があります。それは、塔婆が追善供養の習慣であるからです。

 塔婆とは、もともとインドの言葉で、ストゥーパを漢訳したものです。古代インドでは、お釈迦さまの遺骨(仏舎利)を祀る塚のようなものでしたが、舎利信仰の発展に伴って仏教寺院を象徴する三重や五重の塔になっていきます。もともとは、お釈迦さまにまつわる仏教信仰の象徴でありましたが、時代を経るにしたがって、一般のお墓なども塔の形態をとるようになります。

 そして、「造塔供養」が死者への追善となり、また本人の善根功徳として奨励されるようになります。墓地に供える塔婆も、この考えから奨励されるのです。
 しかし、浄土真宗では、年回の法要についても追善供養という考え方はいたしません。なぜならば、亡くなられたご先祖も、また今生きている私たちも阿弥陀さまの功徳の中にあるのですから、阿弥陀さまを信じ、感謝をしていくのが私たちの法事のあり方であります。もし私たちが阿弥陀さまよりもすぐれた善根を積めるのならば、追善ということも考えられるのでしょうが、私たちには到底無理であります。凡夫の身でありながら追善を考えることはおこがましいことでありますし、また阿弥陀さまを疑うことになってしまうからです。

 それでは、なぜ法事を勤めるのかといいますと、亡き人が往生された阿弥陀さまのお浄土のみ教えを、今私たちが亡き人を通して味わうのです。死者の追善供養をするのではありません。お浄土に生まれられたご先祖とともに阿弥陀さまのみ教えを聞き感謝するのが、浄土真宗の法事です。
 親鸞聖人は『歎異抄』第五章で「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」と言われています。お念仏は供養のための道具ではありません。親鸞聖人は、私たちの供養の姿勢の誤りをハッキリと否定しているのです。追善のために法事を勤めるという姿勢は、阿弥陀さまの功徳(お念仏)を自分の手柄のように追善の道具とするのと同じことであります。したがって、追善供養のための塔婆を立てることもいたしません。

 塔婆を立てる習慣の方々にとっては、塔婆がないということは、もの足らないのかもしれません。ある時、ご婦人が尋ねてきて、塔婆を依頼されたことがあります。浄土真宗では塔婆を立てない旨を告げてお断りしましたところ、「墓地に私がお参りした証拠が残らない」と言われました。私は、「貴方がお参りされたことは間違いないことであり、もし、お家の方にお知らせしたいのなら、お墓参りをしたことを電話でお伝えされたらよろしいのではないですか」とお話してお引き取りいただきました。

 親戚の方々にも、浄土真宗で塔婆を立てない理由をよく説明し、共に仏徳を賛嘆する法事をお勤めしていただくようお話していただきたいと思います。塔婆という習俗を縁として、浄土真宗のみ教えに一歩近づくことができたということは大変素晴らしいことだと思います。習慣を習慣としてのみ受け入れようとすると、タブーのようなものになってしまいます。習慣の本来の意味を学ぶことは大切なことであります。


〔小林泰善〕
(『法話情報大事典』雄山閣より転載)


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