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歴史が好きな方には、本願寺が東西に分かれる過程において、信長、秀吉、家康という武将が大きく関わっていることで、よく知られているところです。
そもそも本願寺は親鸞聖人の血脈を相続しており、東本願寺(真宗大谷派)、西本願寺(浄土真宗本願寺派)ともに、二十数代を数えています。
まず、東西に分かれる以前の本願寺についてお話いたします。 本願寺は七世の存如上人までは不振窮乏の中にありましたが、長禄元年(1457)に蓮如上人が第八世の門主についてから、一気にその教線を拡充しました。 蓮如上人は山科に本地を構えましたが、第十世証如上人の時、細川・六角氏や日蓮宗の攻撃を受け、山科は焼け落ち、証如上人は大坂に本願寺を再興します。
証如上人の息子の顕如上人が門主となっていた頃、大坂に寺地を構えていた本願寺に対して、戦略上の要地である大坂を是非入手したい信長は、その退去を要求してきます。 ここにいわゆる石山合戦が始まります。反信長の各地の戦国大名や、伊勢長島を初めとした各地の門徒などの抵抗や、鉄砲を多数入手していた紀伊雑賀門徒が石山内で抵抗し、前後十一年あまりの持久戦となりますが最終的に信長に屈しました。 本願寺は石山から和歌山県の鷺森へ退去しました。この間、顕如上人の長男教如上人は信長との和議に反対し、父顕如上人と行動を異にします。ここにおいて、のちに本願寺が二つに分かれる要因が生まれます。
本願寺が鷺森に退去してのち、信長は本能寺の変に倒れ、秀吉がその後継者として地位を確立していきました。秀吉は大徳寺で信長の葬儀を営みますが、本願寺は鷺森から香資を贈っています。
和泉の地が手狭であった本願寺は、秀吉から新たに天満の地、さらに京都六条に土地を与えられました。現在の西本願寺の場所に当ります。
顕如上人は間もなく寂し、教如上人は第十二世の伝統を継ぎますが、顕如上人は三男准如への譲状を残しており、秀吉は教如上人に譲歩をすすめました。結果、教如上人は退隠し、准如上人が第十二世の伝統を継承しました。以後、教如上人は裏方と呼ばれます。
豊臣氏に代わって徳川氏の覇権が成立する過程で、教如上人は次第にこれと接近し、関ヶ原の役後、家康は教如上人に烏丸七条に寺地を与えます。教如上人は慶長八年、この地に移り、本願寺十二世の伝燈を称するにいたり、ここに本願寺は東西に分かれたのであります。
ちなみに、京都の西本願寺の正式名称は、「久遠実成阿弥陀本願寺」といいます、 一方の東本願寺は「真宗本廟」と称します。
竹柴 俊徳
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