A: 浄土真宗では、毎日の読経の義務を課したり、目に見えるような信心の姿を求めたりということをいたしません。
それは、私たちの信心のありようによって阿弥陀さまからいただく功徳が異なってしまうということがないからです。また、誠実にお勤めをしないと阿弥陀さまのご機嫌を損ねてしまうというようなことも心配する必要はありません。
お経には、阿弥陀さまが、私たち人間ひとりひとりが煩悩という大きなハンデを背負い、傷つけ傷つき合いながら生きていることを十分承知の上で、愛想尽かしをすることなく救いの手をさしのべ続けていてくださることが説かれています。阿弥陀さまの広大無辺の功徳とは、私たち人間の思慮分別など、はるかに超えた大慈悲心であります。
その大きなお慈悲を感じ取っていくことができることが、まさに信心の姿なのです。親鸞聖人は、「阿弥陀さまという仏さまについてよくよく学び考えてみれば、まさに私のような煩悩にまみれた者のために仏さまになられていらっしゃったのだなあ」と述懐されています。
私たちは少々自我意識が強く、我が力を過信していますので、阿弥陀さまのお慈悲に目が向きません。そのこと自体が煩悩のなせる技なのですが、それに気づくことはまれであります。仏教は、そのような私が仏になる教えです。惑いを断ち切って悟りを開くのです。
浄土真宗の絶対他力の教えが面白いなあ、素敵だなあと思えるのは、私が自身の煩悩を断ち切りながら仏に近づいていくのではなく、私が願う前に阿弥陀さまの方から願われていることに気づかされるからです。そして、お慈悲を感ずることができますと私自身の煩悩がくっきりと見えてくるのです。私たちは、この他力のみ教えが無ければ、自分自身の煩悩と対峙することもなく見逃し続けて漫然と一生を送ることになってしまったのだなあと思います。
私たちが毎日お経を称えるのは、いわゆる「修行」でもありませんし、義務でもありません。その行為によって良いところへ生まれようと見返りを求めているのでもありません。あくまでも私たちにお慈悲を与え続けてくださっている阿弥陀さまへの感謝のお勤めです。
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回答者: 小林 泰善
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