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016  岐阜龍谷会事件の
     本山の責任について

   いくつもの不祥事を抱え、その処理内局として東奔西走している現執行部にとっては、岐阜の問題は一応のめどがついたとの印象であろうと思います。借り入れが成立したことにより不正受給金の返還が可能になりました。公金の不正受給をしたその上に、返還命令を受け入れずに踏み倒すという二重三重の不祥事を回避することができたからです。

   しかし、借り入れをめぐる岐阜教区の実情を知るとき、本山の責任のとり方に疑問を覚えます。直属寺院の不祥事は、本山が責任をとるべきです。別院が行った不祥事の尻拭いを教区寺院門信徒に押しつけることは納得がいきません。

   教区会が、本山の責任に対するスケープゴートになってしまっています。12月21日の教区会は、教区会議員は3日前に通知を受け、2日前に議案を知らされたとのこと。議会では、「組に持ち帰り組の意見集約をしてから審議に望みたい」との良識のある当然の意見が複数出たにもかかわらず強引に採決してしまっている。総局の宗務日程に合わせてシナリオ通りの結論に導いているのだと思われます。返済計画が、総局主導でたてられたか教務所主導でたてられたか(これからの論議で重要なところ)は、わかりませんが、いずれにしても総局の圧力があったことは確かだと思われます。償還計画のない借り入れはできません。とはいえ、今回の不祥事の一番の被害者と言ってもよい岐阜教区に借り入れの半額を保証させることなど、非常識としか言いようがありません。

   これでは、今までの宗門の体質が、改まろうはずがありません。不祥事の損失は身銭をはたいて償わなければいけません(教区や宗派に頼るのではなく、直属寺院または本山の資産を売却してでもということです)。それでこそ、事件の反省ができ、再発の防止ができるのです。今までは宗門の対面を汚さぬよう、取り繕い続けてきました。そのために、不正を良しとする人間が、宗門の中でのうのうと生き続け、いつの間にか、本派は世間的にもみっともない事件が続発する教団になってしまったのです。

   同じ轍を踏まないためにも、まず、宗門が社会的責任を果たし、損失に関して当事者の責任を追及する作業をすべきだと思います。


         (1999年3月 Sho)

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