僕自身感じることなんですが・・・。伝えると言うことは、相手の存在を抜きにしては成立しないと思うんです。しかし、確認したことによって伝わっていないことが判明することを恐れて、自分で思いこんだり、納得したりしながら、相手の存在を見失っていないでしょうか?
分かり合える可能性と同時に、分かり合うことが出来ない可能性も共に持っているのが、お互いの存在ではないかと思うんです。しかし、なかなか分かり合えないという現実にたつことが出来ない。何故なら自分の伝えようとする苦労が報われないからです。
ここに、すり替えがおきていると思います。相手に伝えようとすることの本質が見失われ、自分の努力が報われることが重要になってくるのです。そこには、伝わらない現実の中で「これだけやっても、どうせ分からない」という偏見が発生し、益々何故、何を伝えようとしていたのかという本質を見失う事になります。
何故、初めの一歩を忘れてしまうのでしょうか?何故お坊さんになったのか?何故お経をあげているのか?初めに踏み出した一歩を振り返ってみたいと思います。伝えようとしたこと、伝えたいと思ったそのとき、何を思い、何を感じていたのか?
私の恩師である浅井成海先生からいただいた言葉があります。「求道は伝道なり、伝道は求道なり」私なりに頂きますと、「浄土真宗のみ教えを聞くこと(求道)は、自らの殻に閉じこもることではない(伝道)。それは、他者と共に歩む道であり(伝道)、その道を歩むことは、常に、自分が問われるつづける事なのだ(求道)」と頂いております。
お経は聞いただけではわからない?ということの善悪が問題ではありません。そこをご縁にどのように関わっていけるのか?伝わらない現実から学びどのように関わっていくのか?そこが問題なのです。初めの一歩です。自分で相手を決めつけては、何も始まりません。努力が報われないときもたくさんあるでしょう。そんなとき、報われない悲しさを分かち合える仲間と共に、新たな方法を考えていきましょう。伝道の苦悩の中から「和語のお経」を実践し、一歩踏み出している方々から学ぶことはたくさんあると思います。多様な社会の現実の中では、同じ価値観を持った人と出会うことなどめったにないのです。そういう意味では、伝わらないことの方が多いのかもしれません。でも、私達の原点はお念仏です。阿弥陀様の自らの正覚をかけたご本願が私の存在を支えているのです。阿弥陀様の存在抜きにして伝道を語ることはできません。分かり合えない現実があるからこそ、益々ご本願の働きは輝きだすと思わずにはおれません。いろいろな方法論を採りながら、お念仏申すお互いのコミュニケーションを見つめ直すことが、大切であると思います。お互いにお念仏申す関係性とはなにか?そこにこそ常に相手の苦悩を見失わない常行大悲の利益が展開されるのでありましょう。
僧侶のみなさまのご意見をいただけたら幸いです。
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成田智信 (2002.07.16) |
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