首都圏の都市開教は、拠点も徐々に増え着実に進んでいると思われます。しかし、宗門において都市開教に関する認識が正しく伝えられているとはとても思えません。時には、東京教区の寺院が既得権を守るために閉鎖的になっているという声もしばしば聞かれることであります。都市開教を進める意味でも、東京教区寺院の一住職の立場から都市開教への考え方を述べたいと思います。
首都圏に居住する人々のなかで、潜在門信徒の数はどのくらいあるのでしょうか。そして、その中で移住してこられてすぐにお寺との関係を持たれる方はどれくらいの割合になるでしょうか。潜在門信徒の数は、莫大です。そして、その中でお寺との関係を求める方はごく少数です。
多くの潜在門信徒の方々は、首都圏の地域文化が希薄な社会の中にあって、核家族として家の文化も未成熟なため、門信徒とは言いましても結果的には浄土真宗の信仰文化に触れることもなく雲散霧消していくことを予測することは容易です。その方たちを、またそれ以外の方々を、お念仏の同行としてお育てし信仰拠点となる寺院が必要なことは目に見えています。既存の寺院だけでそれをカバーできるとはとても思えません。
首都圏に限らず、仏法に耳を傾けるきっかけとなるご縁は、身内の方の葬儀であります。従いまして、新たな都市開教拠点において門徒組織をつくるためには、葬儀は大切なご縁であります。
ところが、最近とみに目立ってきているのは、葬儀はするがその後の法事を受け付けない僧侶(?)の出現です。私どもの近隣の寺院では、四十九日や一周忌になって訪ねてくるケースが時々あります。その方たちに話を聞きますと、「葬儀の時には動転して葬儀屋さんにすべてを任せてしまった。法事を行うために葬儀屋さんに問い合わせたところ法事はしていないと言われた」とか、場合によってはここでは紹介しにくいようなケースもあります。
葬儀社の下請けで小遣い稼ぎをする僧侶(?)やひたすら営業に走り門徒教化への意欲のない僧侶には首都圏に来て欲しくないというのが正直な思いです。
6月10日付けの本願寺新報「赤光白光」欄には、過疎地のご門徒への視点の大切さが説かれていました。都市においても、私たちはご門徒に対する視点を失ってしまってはならないことと思います。
先に紹介した、四十九日や一周忌になって訪ねてくるケースですが、訪ねてこられる方は、まだ熱意のある方です。わざわざ真宗寺院を探して見えるのですから。愛想尽かしをして他宗派寺院に行ってしまうなどのほうが、はるかに多いのではないでしょうか。都市開教どころか、浄土真宗の信用に著しく傷をつけているのです。
都市開教は、大変な事業です。一寺の建立を目指すのですから。浄土真宗の寺はどのようにあるべきか、しっかりした理念をもっていなければならないと思います。もっともそれは都市開教だけでなく既存寺院においても同じです。
それにはご門徒に対する視点を失わないことが大切なことであります。都市開教を過疎問題にからめて論じられるとき、得てして、寺院の経済面が優先され、ご門徒への視点が失われていると感ずることがあります。「拓く伝道」という言葉が空虚に聞こえてこないように、真剣に都市開教対策に取り組んでいかなければならないことと思います。それにはまず、停滞している首都圏センターの機能が十分発揮されていくように努力していかなければなりません。
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群生海 2003.06.16 |
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