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091 靖国と愛国心


靖 国 と 愛 国 心

 ある席での一コマ。
 講師は80歳を過ぎた教育者。講師いわく。
 「今日の『日本国憲法』と『教育基本法』は、アメリカにたてついたり、文句をいったりしない日本人をつくるためのものである。
 だから憲法と教育基本法を改めて、アメリカに売った日本人の魂を取り戻さねばいけない。
 そのためには愛国心と靖国の問題をなんとかしなければいけない。靖国の問題は公明党がうるさいのでなかなかむずかしいが・・・」

 話題に靖国問題が出たからか、司会者は「僧籍にある方の意見を聞きたい」と私に振る。
 私も一言。

 「先生のおっしゃった愛国心と靖国の問題について、私は先生と意見が違います。
 まず、靖国問題についてですが、国権の発動による戦死者を国が追悼するというのはわかります。
 しかし日本には神道だけでなく、いろいろな宗教の人がいます。だから、追悼するなら、靖国神社という、神社という形式だけでなく、靖国寺院や靖国教会もつくる必要がありましょう。
 それが出来ないなら、特定の宗教形式にこだわらない追悼施設をつくるべきではないでしょうか。
 二つ目の愛国心の問題ですが、先生が愛国心が大切ということはわかります。
 しかし、かっては忠君愛国と天皇に忠義を尽くすことが、すなわ国を愛することとされてきました。
 しかし、愛国忠君ならどうでしょう。愛国という目的があり、そのための忠君と考えるなら、忠君は方法・手段となります。愛国は目的で、忠君は方法・手段と考えれば、今日、愛国心を育てるために、忠君以外の方法・手段もあるのではないでしょうか。
 もし愛国忠君はおかしい、忠君愛国でなければいけないというのなら、先生は天皇の戦争責任をどう考えられますか」

講師は、「天皇にも戦争責任があると思う・・・」と。

 翌朝、前日の司会者から電話がある。
 「昨日の靖国神社だけでなく、靖国寺院や靖国教会があってもいいじゃないかの意見は興味深くききました。
 浄土真宗の靖国反対というのは一宗教法人としての靖国神社の存在を否定することではなく、靖国神社が国家と特別な関係になることは政教分離や信教の自由の観点から容認できないということだとわかりました」
と。

 お互いが誤解を解きつつ、ともに学びを深めることの大切さを改めて思ったことである。
 8月15日を迎えるこの時期、愛国心や靖国をめぐる書物の出版が相次ぐ。
 最近の靖国神社国家護持推進派の論調は、

 @「国家主権、畢竟、交戦権」の回復によって謝罪外交から縁を切れ。
 A首相の靖国参拝は習俗としての信仰心に基づくものであり、「信教の自由」に抵触しない、の二点に要約できる。
 @Aの論調をそのまま認めることはできない。しかし、反論・説得もなかなか容易でない。

 対して、「政教分離」「信教の自由」の観点から、靖国神社の国家護持、首相・閣僚の靖国神社への公式参拝は容認できない。しかし戦没者の国家による追悼施設は必要であるという立場からの本が出版された。
 菅原伸郎編著『戦争と追悼−靖国問題への提言−』(八朔社、2003年7月25日)である。ジャーナリスト2名、仏教者3名、キリスト者2名の共著である。以下に目次だけでも紹介したい。

 「悲しみの空間をつくろう」
    (菅原伸郎・元朝日新聞記者)
 「ドキュメント・靖国参拝と千鳥ケ淵」
    (広橋 隆・「新宗教新聞」編集長)
 「追悼懇の『報告書』を考える」
    (幸 日出男・同志社大学名誉教授)
 「平和憲法を象徴する施設に」
    (児玉暁洋・元真宗大谷派教学研究所所長)
 「『ヤスクニ』からの解放と真宗信心の追悼」
    (本多静芳・武蔵野大学助教授)
 「『信教の自由』と戦没者追悼」
    (池田行信・武蔵野大学講師)
 「公共性から新追悼施設を考える」
    (稲垣久和・東京基督教大学教授)

 もはや「脱政治」「反権力」の運動論では靖国問題は解決できない。新たな反靖国の論理と運動論が求められていることを考えさせられる本である。是非、ご一読をお勧めしたい。


無上士

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