『朝日新聞』(2003年9月15日号)に「分裂続ける原水爆禁止運動 存在価値問われる節目」という記事が掲載された。 旧総評系と共産党系の二つに分かれたままの原水爆禁止運動を「統一」できないかとの模索が始まっているとの内容である。
一方の大会に顔を出せば、その主催する組織の系列下にあると見られてしまう。だから、原水禁・原水協いずれの陣営でもない市民や団体は参加をためらい、運動のすそ野のひろがりを抑える原因となっているという。
ことは原水爆禁止運動だけの話ではない。かつて私が学生時代、よくいわれたのは、君は伝統宗学派か教団改革派かであった。 郷里に帰り教区に顔を出すようになると、君は基幹運動派か反基幹運動派かとなり、教区基推委にかかわり差別問題への取り組みになると、君は解放同盟支持か全解連支持かとなり、そして最近の国立追悼施設新設問題では、君は中央相談員支持か総局支持かとなった。
いつまでこんな「踏み絵」をしなければならないのかと悲しくなる。 これでは、どちらでもない一般の僧侶・門信徒は基幹運動にそっぽを向けるだろう。事の本質は何かをきちんと見きわめなければいけない。
@伝統宗学派か教団改革派かは教学理解の問題である。
A基幹運動派か反基幹運動派かは、教学理解とリンクした運動の進め方の問題である。
B解放同盟か全解連かは、部落差別の現状認識とリンクした運動の進め方の問題である。
C中央相談員か総局かは、手続き問題に終始してしまったが、その本質は国家をどう認識するかの、真宗者の国家へのスタンスの問題である。
上記@ABCの問題は、それぞれに宗門・教区・組や宗門内の教化団体などの人事や人間感情がからんでいる。だから論理で割り切れる問題でなくなっている。 しかし、たとえ見解・現状認識が異なっても、互いに話し合える度量が必要に思う。 どこぞの○○○掲示板では実名をあげて批判しつづけている。見解の相違、運動の進め方で議論や批判をするならば、もっと度量ある宗門人であってほしく思う。
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無上士
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