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098  戦争と追悼 - 国立追悼施設新設と宗教者の課題 -


戦争と追悼
- 国立追悼施設新設と宗教者の課題 -

by 池田 行信

 はじめに
 2003年11月11日、京都市・興正会館で真宗遺族会・浄土真宗本願寺派反靖国連帯会議共催による「『新しい国立追悼施設』をめぐる討論集会」が開催された。このたび、ポストエイオス編集室から、当日の発題内容の掲載の依頼があった。よって、当日の発題内容の要旨に若干加筆し、新たにタイトルを付して掲載させていただくことになった。

1、戦没者遺族の心情に寄り添う
 靖国問題への取り組みは、戦没者遺族の心情に寄り添う立場と言葉で語られねばならない。すなわち、靖国神社にも参拝し、住職が案内すれば千鳥ケ淵法要にも参加してくれる、戦没者遺族の心情に寄り添う議論でなければいけない。
 毎年9月18日、東京・国立千鳥ケ淵戦没者墓苑において厳修されている、浄土真宗本願寺派主催「千鳥ケ淵全戦没者追悼法要」は、まさに、戦没者遺族の心情に寄り添いつつ、過去の過ちを反省し、平和への決意を新たにするための法要である。


2、「宗教的人格権」の主張と「国立追悼施設新設」は矛盾しない
 真宗教団連合における靖国問題への取り組みは、1980〔昭和55〕年の鈴木首相ほか17閣僚による靖国神社集団参拝や、1985〔昭和60〕年の中曽根首相の靖国神社公式参拝以降、「国立追悼施設建設の要請」から「首相・閣僚の公式参拝反対についての要請」へと、「要請」内容が変化した。この「要請」内容の変化を、運動方針の転換と見るか、質的転換と見るかで、今回の「国立追悼施設新設」問題の認識が異なってくる。
 すなわち、「国立追悼施設新設」に対する反対論は、「国立追悼施設新設」が「宗教的人格権」を侵害するという。よって、真宗教団連合における「国立追悼施設建設の要請」と「宗教的人格権」は両立不可能となる。
 言い換えれば、「国立追悼施設新設」反対論の依拠する「宗教的人格権」の立場においては、これまでの真宗教団連合の「国立追悼施設建設の要請」と「首相・閣僚の公式参拝反対についての要請」とを論理的一貫性をもって説明することが出来ない。かりに両者に論理的整合性をつけようとするならば、これまでの真宗教団連合の「国立追悼施設建設の要請」と「首相・閣僚の公式参拝反対についての要請」との間には、質的転換があるとしなければならない。そして、もし両者の間に質的転換があるとするならば、その質的転換の内容を説明しなければならない。しかし、「国立追悼施設新設」反対論においては、この「要請」内容の変化に関する認識は全く語られていない。
 私は、これまでの真宗教団連合の「国立追悼施設建設の要請」と「首相・閣僚の公式参拝反対についての要請」との間には、運動方針の転換を認めても、質的転換を認めることはできない。したがって、「公式参拝違憲訴訟」と真宗教団連合の「国立追悼施設建設の要請」、言い換えれば「宗教的人格権」と、今回の「国立追悼施設新設」問題は矛盾なく、論理的一貫性と論理的整合性をもって把握することが可能である。
 では、運動方針の転換と見るか、質的転換と見るかの相違は、何に起因しているのか。それはこれまでの「宗教的人格権」や「宗教的プライバシー権」の論拠としての、「神祇不拝」「国王不礼」の解釈に起因する。


3、「宗教的人格権」の再構築
 かつて真宗者の靖国問題への取り組みの論拠をめぐって、その論拠を「神祇不拝」に求めるか、「兵戈無用」に求めるかの論議があった。浄土真宗本願寺派は「神祇不拝」「国王不礼」に反靖国の論拠を求め、その運動論を構築してきたといえよう。
 その「神祇不拝」「国王不礼」を論拠にした反靖国の運動論とはどのようなものか。その運動論を図式化していうならば、「軍国主義」=「国家神道」、「真宗者」=「神祇不拝」、だから「神祇不拝」=「国家神道反対」=「軍国主義反対」=「反戦平和」であり、さらに、「天皇(現人神)」=「大日本帝国(国家)」、「真宗者」=「国王不礼」、だから「国王不礼」=「反天皇制」=「反国家」という論理展開であった。
 しかし、このような「神祇不拝」「国王不礼」の解釈は、国家を最終的に否定する、マルクス主義の史的唯物論に依拠した一面的な国家観であり、また、社会的実践の「質」により、信仰の「質」もおのずから明らかになるという一面的な信仰理解に依拠した解釈である。このような一面的な国家観や一面的な信仰理解は、今日、『日本国憲法』下におけるトータルな真宗信仰理解の方法としては、大いに疑問である。
 少なくとも、これまでの「神祇不拝」「国王不礼」の解釈は、1975〔昭和50〕年度の「門信徒会運動計画」をめぐる、いわゆる「菩薩戒経問題」の学びから後退した議論に陥ってはならない。
 すなわち、佐藤三千雄氏はいう。

 かつて「菩薩戒経」の「出家のひとの法は、国王にむかいて礼拝せず、父母にむかいて 礼拝せず、六親につかえず、鬼神を礼せず」というくだりが、論議を呼んだことがあっ た。それをむし返すつもりはないが、事はきわめて簡単明瞭であるように思われる。わ れわれの礼拝するのは弥陀一仏である。ということは、他のいかなるものも礼拝の対象 ではないということである。絶対の権威は仏にのみある。その仏を礼拝するということ は、他の一切の権威を相対化するということを意味している。それは国王を軽んぜよと いうことではない、などという注釈は必要ではない。むしろ必要なのは、もし国王に敬 意を払うとすれば、いかなるものとして敬するのかという説明である。信仰の外護者と してか、秩序の維持を司るものとしてか、その説明が必要である。(『生活の中の信仰』)

 まさにこの「神祇不拝」「国王不礼」の解釈は、今日、真宗者は『日本国憲法』の「象徴天皇制」をどう考えるのか、とのテーマでもある。
 さらにいえば、「神祇不拝」「国王不礼」の「真宗者」=「反天皇制」「反国家」、だから「国家悪」「国家の否定」というような信仰理解も再考を要する。
 佐藤三千雄氏はいう。

 戦争はつねに国家によって遂行されて来た。国家をなくすれば戦争もなくなると考える 人もいる。しかし、高度に発達し複雑化した現代社会は、国家機構をますます不可欠の ものとしている。(中略)今や世界はますます一つになり、相互依存が高まって、どん な問題も国際的、いな地球的にしか解決されない所に来ているのに、国際政治の単位は 依然として前世紀的な主権国家に止まっているところに問題の核心がある。(『生活の 中の信仰』)

 「国家悪」や「国家の否定」は理念としては理解できる。しかし、現実の選択肢としては、理念や目標を現実化していくための、よりましな政府の選択しかありえない。これまでの史的唯物論の発展史観に依拠した一面的な国家観と、社会的実践の「質」により、信仰の「質」もおのずから明らかになるという一面的な信仰理解に依拠した「宗教的人格権」や「宗教的プライバシー権」は、新たな反靖国の立場と方法をもって再構築されねばならない。


4、「宗教的追悼権」について
 「公式参拝違憲訴訟」では「神祇不拝」や「国王不礼」を論拠に、「宗教的人格権」や「宗教的プライバシー権」が主張された。しかし、「中曽根首相公式参拝違憲訴訟」の福岡地裁や福岡高裁の判決内容から知られるように、「宗教的人格権」「宗教的プライバシー権」の主張は、「宗教的感覚に鋭敏な人々」の公式参拝に対する「不快、怒り、危惧の念」にすぎず、「法的利益」が侵害されたということはできないという。
 今日、裁判所は、真宗者の「いやなものはいや」との主張は、私的利害の問題としてしか認識しないという。「いやなものはいや」を、保護するに値する「法的利益」と認めさせるには、新たな手だてが必要ではないか。
 私はこれまでの「宗教的人格権」「宗教的プライバシー権」は、新たな理論武装が必要に思う。そのためにも「遺族の心情に寄り添う追悼」、すなわち「追悼」が保護すべき「法的利益」と位置づけていくことが必要に思う。政府による追悼の独占を許さない。政府の関わる「追悼」は、あくまでも「信教の自由」と「政教分離」の原則内にて実施すべきであるとの主張である。
 この意味において、今回の「国立追悼施設新設」の提案は、「追悼」を保護すべき「法的利益」と位置づけていくための、一つの選択肢になりえる。そのためにも、「追悼」についての国民的コンセンサスが要請される。


5、戦没者追悼とは
 辞書によると「追悼」とは、「死者をしのんで、いたみ悲しむこと」(『広辞苑』)とある。5万年以前に、すでにネアンデルタール人は埋葬された遺体に花を捧げていたといわれるから、「追悼の心情」を否定する人はいないであろう。「追悼の心情」を肯定するなら、「追悼」のための「儀礼・儀式」とその「空間」(場所)の必要性も肯定されよう。問題は追悼をどう意味づけるかである。
 靖国問題への取り組みの上で問題となるのは、「国のために死んだ人を国が祀るのは当然」という言説における、戦没者追悼の解釈の問題である。この場合の追悼の意味づけは感情論と機能論の二面から考えねばならない。
 @感情論=追悼は自然な感情である。
A機能論=追悼によって癒される。
 しかし戦没者追悼の機能論には二つの解釈がある。
 ○a過去の過ちを反省し、平和への決意を新たにする。
 ○b「忠死」勧奨システム、戦争動員の巧緻なシステム。
 この「戦争動員の巧緻なシステム」という立場からすると、「国立追悼施設新設」は「国のための死を美化する」「第二の靖国だ」となる。しかし、戦没者、特に政府の命令で徴兵された兵士は、政府による被害者であると同時に、アジア諸国などへの加害者でもあった。被害者であることにおいて、加害者の立場に追いこまれた存在であった。戦没者遺族にとっての「追悼」は、「加害」と「被害」が表裏一体の構造になっているのである。
 だから、「国立追悼施設新設」は「国のための死を美化する」「第二の靖国だ」という意見も、「追悼の中心的施設は靖国神社のみ」という意見も、ともに一面的な見解であって、加害と被害が表裏一体である戦没者追悼の思想的論拠とはなりえない。


6、「怨親平等」の追悼
 戦没者追悼における加害と被害の問題の克服は、「怨親平等」の追悼においてはじめて可能である。
 広島や長崎の平和公園での追悼式典は、「被爆者」という意識に裏打ちされた平和への志向が強く感じられる。かつて敗戦直後の追悼式典は、被害者意識からの平和への志向が強かったであろうと思う。その後、ベ平連の時代には、アジア諸国に対する加害者意識からの平和への志向が強くなった。そして今日は、被害者意識からの平和への志向と、加害者意識からの平和への志向がないまぜになっているように思う。つまり「戦死者への記憶」は、遺族・国民において、時代とともに変遷する。
 1974〔昭和49〕年3月、新宗連青年会(新日本宗教青年会連盟)はシンガポールに「東南アジア青年平和使節団」(別称「アジア懺悔行」)を派遣した。シンガポールの「日本占領時期死難人民紀(ママ)念碑」(日本軍によって虐殺された人びとの遺骨発見場所に建立)に参拝しようとしたところ、現地の人から参拝を拒否された。参加者の懇願で「早朝、人目につかないように」参拝してくれとなった。その後、機会あるごとにシンガポールを訪れ、現地の宗教青年と話し合い、合同で「碑」の前で式典を開催するに至った。(『東南アジア懺悔行』)
 2003年8月、韓国の円仏教のキム・デソン氏が、新宗連の青年平和使節団との交流から、東京・国立千鳥ケ淵戦没者墓苑での「戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典」で祈りを共にしようと来日した。しかし、この計画を聞きつけた韓国の愛国主義者からの強烈な抗議を受けてキム氏は8月14日当日、式典への参加は見合わせた。(TBS「報道特集」8月17日)
 追悼には加害のイメージと被害のイメージがつきまとう。また、戦争をどう見るか(アジアの解放・侵略戦争)という立場によって、加害・被害のイメージも異なる。しかし、加害責任を明確にしなければ加害・被害の両者参加の追悼は成立しない。
 加害責任を明確にすれば加害者の戦死を讃える「顕彰」は出来ない。だから、靖国神社での「英霊顕彰」は、加害・被害を超える立場と方法にはなりえない。加害・被害をどう克服するかの共通理解、共通のイメージが成立しないと、すべての人の参加可能な追悼は難しい。加害・被害の関係を克服し、両者が共有可能な追悼の内実をつくること。加害・被害の両者が、追悼の内実を共有するための手段・方法をこうじること。それはまさに宗教者の使命であろう。
 日本には元寇の後、「怨親平等」の立場から北條時宗が建てた円覚寺や、楠木正成が建てた「寄手塚」などがある。しかしそれは、被害者の立場からの「怨親平等」であった。京都・西大谷には「日露戦争没私彼の墓地」という墓碑がある(『仏教婦人として平和問題を考えよう』)。加害責任を明確にした上で、加害・被害の両者が「怨親平等」の立場から追悼できる道を探る努力は、現代を生きる宗教者の大切な課題ではなかろうか。
池田 行信  
2003.12.01 

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