先日の全日仏の教化セミナー「葬儀のこれからを考える」に出席しました。
「葬儀のこれからを考える」
全日仏ではこのテーマで連続してセミナーを開く予定とのこと。そこで第一回としては、フロアからの声を拾わずに、パネリストだけの発言による問題提起のみに留めたいとの意向が始めに進行役の中野氏から説明されました。
その言の通り3時間弱のセミナーは現状の仏教式葬儀への不満と提言で費やされます。
講師は葬祭業社相談役で作家の青木新門氏、葬祭業界向けの雑誌「SOGI」編集長の碑文谷創氏、曹洞宗教化研修所の中野東禅氏、大阪大教授(宗教社会学)で浄土真宗本願寺派僧侶の大村英昭氏の4人。この顔ぶれをみると、葬祭業者(仏教外者)対僧侶(仏教内者)という図式になりそうなものですが、そうはなりませんでした。
というのは、中野氏は寺院経営(?)の実務から離れて20年以上たち、その間葬儀を執行したことはないとのこと。また大村氏の所属寺は完全な地元密着型(農村型)で、何十年も‘いちげんさん’の葬式などしたことはないそうで(だから現在問題視される仏教の堕落は、東京のマスコミが東京の限られた事情をネタに煽っているだけだと力説します)。碑文谷氏は自ら称して「東京発信型(つまり大村氏の言うところの仏教を揶揄する)マスコミ人間」。しかして実体は真摯なプロテスタント信者だったりします。ということは、葬儀をテーマにしながら、本当に葬儀の現場に日常的に関わっているのは青木氏一人(青木氏も現在は相談役として現場を離れているようですが)。
現場に立つ青木氏と、いわば現場を離れたところから論じる三氏。各氏の問題提起後の自由討論で両者が見せたコントラストは私には意外でした。僧侶である中野氏、大村氏は僧侶は余計なこと(布教)はするな、遺族の悲しみをくみ取る存在であれ、という立場をとるのに対し、教えの無い所に癒しはなく、まして救いはない、と怒りを交えて訴える青木氏。その間で碑文谷氏は「葬儀で信者を増やそうなんていうのはスケベ心だが、伝えるべき教えはあるべき」と語ります。
最も多様な現場をふまえた青木氏が最も信心を求めている。正確に言えば、その不在を嘆いている。それは私自身が僧侶として、何かたかを括っている部分があるのではないかと点検することを余儀なくされる対論でした。
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当日の私のメモから各氏の発言をごく一部ですが紹介します。 |
碑文谷 創
世間の流れから見ると、86年から、死の問題がマスコミ等で取り上げられるようになった。そして88年からは墓の問題。墓の値段とか、形態が話題になる。92年からは葬儀のあり方に関心が高まってきた。そして96年から今にいたって、死や葬儀は個人的なものと捉えられるようになっている。
その中で見られる現象は葬儀の小型化だ。現在は社会の高齢化が進み、実は今亡くなる人の4割が80歳以上になっている。そこで行われる葬儀の参列者は、故人を直接に知っている人と故人の子や孫の関係者との割合が3対7くらいが一般的だが、今、後者の7を切っていく傾向が見られる。そうすると、以前なら300人位の参列者が見られたのが100人程度になっている。
また、バブル崩壊以降上昇志向がなくなり、「良い戒名を欲しい」と望む人も少なくなった。これは後の寺との付き合いが嫌だという思惑も強い。調査によると、葬儀にかかったお金のうち、葬儀社に払った分よりも僧侶に払った分を高いと感じられている。これは、葬式において僧侶がはたす役割が見失われているということだろう。
さらに見られる傾向が世俗化だ。今葬式は別れの式となった。葬式において仏教は「普通のファッション」、「世間並みのやり方」でしかない。
今増えていると言われている無宗教葬は、全国で一番多い東京でも5%にすぎない。しかし心情的な支持は多い。それは反仏教的心情というよりも、自分が帰依・帰属している意識の無いものにそいたくないという思いだ。
「無宗教葬」という呼び方は実は間違いで、実際の「無宗教葬」は非常に宗教的だ。むしろ、仏教葬一般の方が無宗教的だと言える。
仏教における葬儀は別れの式ではなかったはずだが、現実に告別式が葬儀をのっとってしまった。そして今、告別式が通夜をものっとり始めた。通夜の方が会葬者が多くなり、通夜を主と考える傾向が生れている。
私が問題と考えるのは、そのような現状の中で遺族の悲嘆が孤立化していることだ。葬式の中で遺族の気持ちをくみ取る相手がいない。僧侶も、近所の人も、もちろん葬儀社もその役をはたしていない。
特に僧侶について言えば、皆どうせ分からないんだから、という姿勢が見える。葬式で布教をしろと言っているわけではない。葬式で信者を増やそうというのはスケベ心だ。しかし伝えることはあるはずだ。仏教界はある意味でいいかげんだ。僧侶が通夜葬儀の時間だけにつきあっているのは手抜きである。
葬儀にしても散骨にしても、現状の仏教式以外のものが求められているということは、現実的には仏教への否定ではない。本来あるべきもの、あってほしいものが見えなくなったから、新たなものを求めていると考えるべきだ。
社会の中でキリスト者はだいたい1%。そしてキリスト式の葬儀も1%だ。そして神道の信者も1%で神道式の葬儀1%。これら信者と葬儀の割合は対応している。しかし仏教はそうではない。
キリスト教は実は共同体内しか相手にしていない。しかし仏教は開かれている。ただしそれが一人一人に対して関わっているのか。一人一人に関わるにはそれなりの教学があるべき。現在的な関わりが抜けていることが問題と思う。
永代供養墓が広まってきたのは88年からだが、永代供養墓は自分の骨を捨てる所とは思われていない。自分が何処の永代供養墓に入るかの判断は、その寺を自分が信用できるかどうかによっている。今迄寺は壇家だけを対象にして、他の、求めている人をよそ者として扱ってきたのではないか。それを見直すべきだ。
いったい葬儀は死者のためか、遺族のためか。プロテスタントは遺族のためと考えている。しかし遺族にとっては、死者のための葬儀でないと遺族自身の力にならない。葬儀がグリーフケアーにならない。
大村英昭
戒名問題は、東京発信型のマスコミの反仏教的姿勢がひきおこしたものだ。同時にそれは明治以降こぞって仏教を貶め、揶揄してきた結果でもある。
それら反仏教政策やマスコミの誘導により、宗教に反感を持つ人が多い。しかし実はそういう人たちは反宗教ではなく反特定宗教だ。毎日神社にお参りして掃除を欠かさない人に、信心深い方ですね、と話しかけたところ、とんでもない、私は宗教は大嫌いだ、と言う。では、あなたが毎日していることはなんですかと尋ねると、これは宗教ではなく「たしなみ」なのだそうだ。「たしなみ」でけっこうではないか。
日本では仏(ブツ)とホトケを区別してきた。それがいつ結びついたかは諸説あるが、しかし、死んだらホトケという怨親平等思想や、死んでお詫びをするという滅罪思想はあきらかに民衆の智慧だ。これを仏教と呼ぶのがいけないなら、ホトケ教と名づけてもよい。
我々の心根には、後世を祈るというやるせない思いがある。これを軽んじることは愚かなことだ。人間が死んだらどうなるか。無仏派はゴミになる、と言う。さすがにゴミになるとは言いきれない人たちの最近の流行は、ゴミにはならない、しかし仏にもならない、自然に還ると言う。一見美しい話だが、こんな話を聞いた。海に散骨をした遺族が、散骨をした場所の海図を大事に持って帰るという。なぜかと言えば「ここに、故人が眠っている、毎年ここに来て花を供えたい」と言う。自然に還ったはずの人が、広い海の中のほんのちっぽけな場所に留まって眠っているという感情。これは自然に還るというものではない。
日本には火葬文化がある。それは成熟したものだ。アメリカでは火葬は文字通り灰にしてしまう。しかし日本ではある程度形を残す。それは日本人の心情にそったものだ。
日本で散骨をするには遺骨を更に砕かなければならない。しかし、それが難しい。ある人が亡父の骨を砕くのにすりこぎを使うわけにもいかず、亡父のゴルフクラブを持ち出したが結局できなかったという。
私が散骨などの「葬送の自由」を称える人をみて思うのは大変な疎外感だ。やるせない思いを表現できないという疎外感が散骨などを選ばせている。
戒名について私が思うのは、鎌倉末期に真言律宗の僧侶が起こした戒律復興運動だ。彼らは運動の中で死後授戒を意義付けていった。それは、今生で成仏はできなくても、せめて(地獄餓鬼畜生ではなく)人間に戻って修行しなおせ、という救いの運動だった。
そういうことから、現代の葬儀での僧侶の役割については、チャージとディスチャージということを考える。僧侶はついチャージ、法義の注入を考えるが、そうではなくディスチャージ、共に泣くことが大切なのだ。
たしかに現代の僧侶、特に真宗の葬式は不埒、自信なさげだ。近代仏教の偏見に足をすくわれた僧侶は浄土をリアリティをもって語れないため、自信をもって葬儀ができない、それは不埒というしかない。真宗で着る七条袈裟は晴れ着だ。浄土往生を祝う晴れ着でなかったか。
中野東禅
戒名、戒の基本は帰依三宝戒だ。だからすべての宗派に通じるものだ。
この多様な現代に仏教式の葬儀を選んだということは他を捨てたということ。評価すべきことだ。
遺族が一番欲しいのはお悔やみだ。僧侶がするべきは教義を教えるのではなく、お悔やみ説教だ。共感からしか始まらない。
あの世とは、あこがれだ。不実なものに気づいた者のあこがれだ。
青木新門
「お悔やみ」は仏教的ではない。グリーフケアー、癒しと仏教は違う。なぜ、仏教が葬儀と関わっているかを確認して欲しい。
一般の人が僧侶に抱く不満は、ふに落ちない、理解できないところだ。なぜ葬式に僧侶がくるのか。なぜ経を読むのか。経はどんなことを言っているのか。なぜ戒名をつけるのか。なぜ布施が高額なのか。亡くなった人はどうなるのか。
私が葬儀の仕事をしながら思うことは、僧侶に死んだ先のことを語ってほしいということだ。行き先を決めずに生き方を語れるか。東京に行くか京都に行くかを決めずに電車で行くか歩いていくかを悩んでいるようなものだ。父が母がどこへ行ったのか、体でわかることが癒しの原点だ。
僧侶は死に関わってきたか。僧侶には現場がない。生の現場も死の現場もない。そこで何事かを語ろうとしているのが僧侶ではないか。
葬儀社としては世の流れに対応していく。散骨をしたい、無宗教でしたい、と望まれれば対応していく。だから、僧侶が「こうあるべきだ」と打ち出してほしい。 |
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資 料
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「僧侶は遺族と悲しみを共に」
全日本仏教会が葬儀を考えるセミナー
仏教離れに危機感
全国七万五千ヵ寺、六十宗派でつくる財団法人全日本仏教会は十八日、「葬儀のこれからを考える」というセミナーを東京の築地本願寺で開いた。背景には、自然葬や無宗教の葬儀の広がりなど、仏教離れに対する危機感がある。講師からは「今の葬儀には信仰がない」などと厳しい意見が相次いだ。(池田洋一郎)
各宗派の僧侶ら約百二十人を前に、四人の講師がまず問題を提起した。
冠婚葬祭会社での仕事の経験を『納棺夫日記』に記した作家の青木新門氏は「高度成長のころから、祭壇が華美になり、ご本尊そっちのけで遺影ばかりが前面に出てきて、読経もBGMになってしまった。何のために仏教が葬儀にかかわるのか、という疑問がある。葬儀の場から信仰が失われている」と語った。
葬祭業界向けの雑誌「SOGI」編集長の碑文谷創氏も「葬儀は死者をあの世に送るという宗教儀礼だったのが、最近は単なる死者とのお別れの会に変わってきた。信仰があるから仏式を選ぶのではなく、一般的なファッションとして選んでいるに過きない。布施や読経の意義や価値もわからなくなっているから、高過ぎるという不満も出てくる」と指摘。さらに「昔は、葬儀の際、親族や地域社会がケアしてくれたが、今は僧侶さえも遺族をケアしない。『悲嘆の孤立化』が進んでいる」と話した。
曹洞宗教化研修所の中野東禅講師は「宗教が多元化している現代、檀家制度は崩壊し、仏式葬儀も減っている。寺院経営が中心となり、僧侶の救済意識が退化し、信徒への教化も不徹底だ。教えが十分伝わっていない中で、葬儀を行うことになる」としたうえで、「布施や戒名料の問題も、その額を檀信徒が参加し、合議・公開の原則で決めるなど、信頼回復のための自浄努カが必要だ。仏式で葬儀をしたいという人には、基本戒名を無条件・無料で授けてもいいのではないか」と提言した。
浄土真宗本願寺派僧侶でもある大村英昭・大阪大教授(宗教社会学)は、こう語った。「明治以降、『反仏教』『無宗教化政策』がとられ、マスロミや文化人は仏教者を揶揄し続けてきた。その結果、今では、死んだらどうなるか、だれもわかっていないのに、平然としている。こんな文明はかつてない。仏教者が立ち上がり、発言しなければならない」 討論に移ると、論議は、葬儀における僧侶の役割に集中した。
青木氏は「現代は、生まれてから死ぬまでの間だけの価値観しかなく、死後どうなるかが抜け落ちている。そんな状況で、本当に宗教が葬儀にかかわれるのか。僧侶はこれまで死と真剣に取り組んできたのか。僧侶こそ、人は死ねばどこへ行くのかをきちんと示すべきだ」と注文をつけた。
碑文谷氏も現代人は浄土や成仏に具体的イメージがもてないでいる。そうした人に、仏教の教えをどう伝えるか、工夫が必要だ。今の葬儀は、僧侶がほんの一時間ばかりやって来て、読経するだけ。昔は、僧侶がずっと遺族に付き添った。それが遺族の癒しになる」という。
これに対し、中野氏は「今の僧侶は葬儀の決まった手順を行うだけで精いっぱいで、確かにいい加減な面はある」と述べた。
大村氏は「葬儀は遺族のやるせない思いを発散させてあげる場だ。僧侶は遺族に寄り添い、悲しみを共にし、その思いを発散させるお手伝いをすることに専念すべきだ」と語る。
これを受けて、中野氏は「遺族の癒しに一番必要なのは、僧侶の心からのお悔やみだ。僧侶が人の痛みに本気で共感し、読経を終えた後に、自らの言葉で仏の教えを説くべきだ。そうすれば、遺族や会葬者との間にも関係性が生まれてくる」と強調した。 近年、自然葬(散骨)や無宗教式葬儀の増加、戒名や墓の不要論、承継者がいなくても利用できる合葬式の永代供養墓の登場など、葬儀を巡る様々な動きがみられる。こうした動きを受けて、全日本仏教会では、この種のセミナーを今後も続けていく方針だ。また、「戒名(法名)問題に関する研究会」も設置し、年内にも論議を始めるという。
浄土宗など、戒名問題に関する研究会を組織しようという宗派もある。個々の僧侶の間でも、曹洞宗の有志でつくる「21世紀の仏教を考える会」(藤木隆宣代表)のように、葬儀についての意見募集やアンケートをして、議論を起こそうという試みがある。が、葬儀や戒名に対する各宗派の考え方の違いもあり、解決策を提示するまでには、まだ時問がかかりそうだ。
(『朝日新聞』1998.11.24夕刊「こころ」欄)
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(松本智量) |