4 わたしの戦争体験
     H氏の証言は、予定の40分を越え、1時間におよんだ。用意した原稿に目を落とすことなく、話された。
氏には証言の10日ほど前に草稿を見せていただき、それに対して、わたしから、(1)、(5)〜(8)を付け加えてくれるよう要望した。氏もそのあたりはよく理解されており、同意してくれた。
証言本番では、草稿から省いた出来事があり、新たに付加された出来事もあった。以下の内容は、草稿の内容と付加された内容とを合わせたものである。記述は草稿の表現を基本としているが、繰り返しを避け、理解しやすくするために、趣旨を損なわない範囲でわたしなりの表現をした箇所も多く存在する。氏の生の言葉の一部は太字で示してあるが、証言の迫力にはおよぶべくもない。
 兵力などの数字は、氏の使った数字をそのまま採用した。それでも、以下の話の文責はわたしにある。

 講義時間の関係で(5)〜(8)は、いまだ述べられていない。まとめの部分であり、氏の考えの核心部分でもあるので、後期・平和主義の講義を終えたあたりで、話してもらうことになっている。
 

H.Y 『 わ た し の 戦 争 体 験 』

2003年6月25日

 (1) 徴兵検査・入営・訓練

@ 甲種合格、現役入隊。野砲第一連隊(東京)
 戦争にはみなが行くものであり、早く行きたかった。「お国のために戦って、手柄を立ててやる」と意気込んで入営。

A 東京で入営するも、ただちに中国・山東省に移動
 師団司令部のある済南にほど近い臨青に駐屯。
 神戸から乗船したが、その際、民家に分宿。

B 内務班
 部隊には100名くらいの初年兵が入ったが、その上には現役の二年兵、三年兵、四年兵がおり、その間に召集の二年兵、三年兵、四年兵がいた。点呼の際には、6発殴られることになる。気絶する者も出た。

 上官に4回戦ボーイのボクサー上がりが居て、その人のパンチはきつかった。背後の壁まで吹っ飛んでしまった。しかしその人は、一発しか殴らなかった。
 とにかく1期の検閲が終わるまでは、なんともひどい修行だった。

C 乗馬通信兵となる
 通信機と500b巻の電線2巻、銃身の短い騎銃?を持って行動する。
 訓練で疲れると、馬に乗ろうとしても足が鐙にとどかない。樽を踏み台にする。

 馬が兵をみくびる。噛みついたり、後ろ足で初年兵を蹴る。大徳号は前足でも蹴った。愛馬兼六号は、金鵄(きんし)勲章をもらっていた。金鵄勲章とは、武功抜群の陸海軍人に与えられる。終身年金が支給されたが、のちに一時金に改訂、戦後廃止。


 (2) 最初の交戦

@ 敵に遭遇したので応援を頼むとの要請で出動

 トラック2台をコウリャン畑に隠して展開。400〜500b前方の敵と交戦する。ラッパが鳴り響く。中国人通訳に「あのラッパは何の合図だ」と聞くと「突撃ラッパ」だという。敵は400名に対してこちらは60名。勝ち目はないので、退却する。

 30名ずつに分かれて援護射撃を繰り返しながら、トラックまで逃げる。トラックに最後に乗り込もうとした曹長が貫通銃創で戦死。いったん降りて遺体を収容する。前の車では、中尉が耳の後ろに銃弾を受け、全治三週間の傷を負っていた。

A 銃弾の音
 はじめは本当に怖かった。ピュッと来るとパッと身を隠す。死ぬかと思った(この発言の時の身のこなしは、83歳とは思えないほどに俊敏だった−筆者注)。しかし、実戦を積んでゆくと、しまいには音楽を聴くような感じになった。なかには、どんな無茶をしても不思議なくらい弾に当たらない戦友もいた。

B 帰隊後
 戦死者を出し、退却したのだから、上層部は新たな作戦を立てていたのかもしれないが、兵隊たちは「実戦を体験できてよかったなぁ」と話した。


 (3) ジュゴ作戦

@ 山東省奥地 (青島方面) の討伐作戦
 昭和17年1月から4月下旬、一個旅団約6000名が参加。

A 携帯食は約一日分、あとは徴発と呼ばれる現地調達でしのぐ。
 来る日も来る日も寒い日が続く。「零下17〜18℃だと軍医さんが言っておられました」。われわれ6000名ほどの兵隊は、ただ歩き回るだけ。いったいこれは何なんだろうと疑問に思う。

  幹部が述べた「討伐作戦」の意義
    内地では国民は米を食べずに雑穀でしのぎ、その米を戦地に送ってくれている。
    だから戦地の兵隊も、それに呼応して年に一度か二度、討伐を名目にして「食い出し」に行くのだ。

 わたしは部隊の糧秣担当として、済南の糧秣倉庫で働いたことがある。そこには白米が三斗ずつカマスに詰められ、山のごとく積まれていた。何万俵もの白米があったわけだが、兵士を養うには、相当の節約が必要だったのだ。
 [容量の単位:1合の10倍が1升(しょう。約1.8g)。10升で1斗(と)、4斗で1俵]

B 徴発に入った家で
 
一ヶ月も過ぎたころ、一軒の農家にはいる。そこには奥さんと4歳くらいの男の子がいた。「何か食べ物はないか」と尋ねるも、「いまお前のぽん友(日本兵)が来て、食糧をみな持って行った。布団まで持って行った。この寒いのに寝ることもできないから、布団だけでも取り返してくれ」と言われたときには、「戦争というものは悲しいものだ」とつくづく思った。わたしはその場を一瞬にして飛び出した。
 そしてほかの家に入り、やっとうどん粉を見つけて、その日は食事にありつけた。

C 交 戦
 毎日、前進、前進で進んでゆくうちに、ある山の裾野の曲がり道にさしかかった。馬を連れていたわたしは、一頭分の余裕ができたので前進した。わたしの後ろには担架に乗せられた兵隊が続いた。担架が曲がり角に来たそのとき、一発の銃声がして、担架の兵隊の大腿部を貫通した。運が悪いとしか言いようがない。

 わたしたちはすぐに山中に逃げ込んで、様子をうかがっていた。前方約600b付近の山際を敵兵が歩いていた。わたしたちは敵を追わずに山中を前進した。

D お大尽の日本兵対策
 身上(しんしょう、財産のこと)が一千万円あると言っていた現地人のお茶屋さんでは、土間に地下室のような大きな穴を掘り、家財道具などを隠していた。厚い板でおおい、そのうえに土を盛り、さらにその上に段通を敷いてカモフラージュしていた。

 外は寒いので馬をそこに繋いでおいたところ、馬が土間の異変に気が付いて、土間をコツコツ、コツコツと叩き出した。それを引き継いで兵が掘り起こしてみて、莫大な身上を見つけだしたのだった。

 実に悲惨だ。戦争というのはこういうことかと心が痛む。これも戦争中だから致し方ないと言ってしまえばそれまでだが。


 (4) 浙江作戦 〜 昭和18年4月中旬から10月までの討伐作戦

@ 三個師団、約7万五千人が参加
  兵隊一人1日米三合として1日に約600俵、それが180日だから10万8千俵→6480d

A 4月10日駐屯地出発 → 13日夜、杭州到着 → 行軍 → 長沙

B 南 京 (編集済みテープでは省略)
 南京にも行ったが、1937年末の「大虐殺」といわれる事件を連想させる傷跡は残っていなかった。
 日本円、軍票、現地通貨相互の交換比率の違いを利用して、資産を増やした者がいる。

C 連日の雨、雨、雨、…
 地元民から60年ぶりの大雨だと聞いた。われわれはほとんど、水虫になった。
 編上靴を履けないくらい膨れあがった者もいる。怪我人が出たり、病気を併発しても軍医は診察などできないから薬を与えるだけだった。放置するしかないので、死亡する兵隊もいた。

D 玉山市 (江西省) 駐屯
 人口50万人ほどの玉山にに着き、一ヶ月ほど滞在した。移動がないと気分が落ち着く。
 日本軍が来るというので地元民は着の身着のままで逃げ出した者が多く、何もかも残されていた。すぐ銀行に行った。紙幣がそのまま残されており、雑嚢にいっぱい札を詰めて帰ってきた。しかし、そのお金を使うことができない。
 「どうすべ…」。

 部隊長(少佐)の提案で、十数人の地元民を集めてきた。2〜3人一組で商売をはじめさせた。焼き芋、お汁粉、天ぷら、大福などいろいろの店を始めさせた。し かし焼き芋一本買うのに何千円と出さなければ買えないインフレ状態だった。雑嚢にいっぱいあった札も三日ばかりでバンザイして(空っぽになって)しまった。

 食べ物がなくなったので、民家を一軒一軒まわる。家財道具も食料もタンとある。宿舎に持ち帰り、料理して食べる。町中のものを食べ尽くすと、周辺の農村をまわり、農家から牛、鶏、アヒルとあらゆる動物、肉を徴発して食べる。

 一ヶ月が過ぎていよいよ出発の頃、玉山の周囲には食べ物はほとんどなくなっていた。われわれが去ったあと、農民はどうするのか? われわれはその部落よりさらに南進する大部隊である。

E 帰 路
 7月、長沙の手前まで行って、引き返す。
 このころはもう雨もやみ、兵隊も元気づく。上半身裸で過ごすことが多かったが、マラリアにかかるものも多かった。わたしは帰隊してから発病し、除隊後も悩まされた。

 兵隊の足元を見れば、編上靴はボロボロだ。支那人の履き物を掻っ払って、足に合わなければ縄で縛り付けている者もいる。クタクタでした。
 もと来た道は戻らず、ほかの町・部落を通って帰る。部落には農民がいたところもあるが、ほとんどが着の身着のままで逃げてしまっている。この大部隊が部落を荒らす。

 上官は、「あらゆるものを持って帰れ」と命令する。あとどうするかというと、「火をつけて帰れ」と命令する。だから私ら放火もしましたよ。放火もする、殺人もする、何でもやる。やったんです。……怖いよね。だって兵隊って、怖いものがひとつもないんですから。いまのアメリカ人と一緒です。……そんな調子で、家は焼き払う、人は殺す、ものは持ってくる。……

 だが、歩いているうちに持ちこたえられなくなる。自分で持ち歩くので、疲れてしまうのだ。どんな高価なものでも、身が持たないので惜しげもなく捨ててしまう。われわれが通ったあとの何百里の道には、ゴミの山ができた。

 部落はいつまでも燃えていた。そのあと、農民はどうしたのだろう? 「ほんとうに涙が出るくらい申し訳ないことをした。」

 9月下旬、「バンザイ」で杭州に帰着した兵隊はみな疲れた顔をして、ただ俯いたままだった。長い長い討伐だった。7万5千人が食べる量はいったいどれくらいだったのだろう。


 (5) 除 隊
 10月はじめに駐屯地に帰り、少しの間休養。そしてしばらくして、満期除隊の通知が来る。


<後期>
 (6) 内地へ帰還する様子 (輸送列車や輸送船も含めて)
 (7) 内地に帰還してすぐに考えたこと
 (8) 当時を振り返って、今考えること


5 証言後のどたばた

 H氏は性犯罪をのぞいて、ほとんどすべてを語ってくれた。自信の関わりを否定せずに。勇気ある発言に感動したのだが、証言を終えたあとで、社会のリアクションが急に心配になってきた。
 大阪の不戦兵士の証言活動を描くドキュメンタリーに、「近所の子どもたちに慕われている」ことをことさら強調していると感じられるシーンがある。不自然さが想起された。さらに「近所に住んでいる不戦兵士は地域住民には受け入れられていないと思う」という世田谷の友人の一言が不安をかき立てた。報道を通じて中国での行動を知った近隣住民が、H氏を異端視して、茶飲み友だちの関係が崩れるのではないか? また氏の曾孫たちが、幼稚園や学校で子どもたちからいじめられたりしないか? これが第一の心配。第二の心配は、右翼や旧軍関係からの嫌がらせであった。

 取材記者には、H氏本人の関わりをぼかすような表現をしてほしいと要請した上に、夜、メールで念を押した。
 翌日の毎日新聞・多摩版は、氏の言葉に忠実に、こう報じた。
     「『討伐』と称して現地の民家などで食糧を調達した過去を包み隠さず語り、『あちらには大変な迷惑だったと思う。いま考えるとなみだがでる』と振り返った。」

 朝日新聞・多摩版は、証言の大意を要約して報じた。
     [略奪や放火]「を紹介。『すべてを失い立ちつくす中国人の涙が忘れられない。兵士はどんな残酷なこともやるし、そうせざるを得なくなる。戦争は勝っても負けてもつらく、惨めなものです』と語った。」

 翌週に放映されたフジテレビでも、チームでの討議を経て、場面転換を駆使して、要望を入れてくれた。

 証言の翌週の講義の際、「見知らぬ人などから電話はありませんでしたか?」とH氏に聞いてみた。氏はこう語った。
 「わたしもそのことを心配した。帰宅して孫に、『大学で戦争体験を証言してきたから嫌がらせがあるかもしれない。そのつもりでいてほしい』と言い含めたのだが、今のところ嫌がらせはない。あるとすれば、直後からあるでしょう。今ないということは大丈夫でしょう」と。
 氏は、すべてを承知して証言してくれたのだった。その勇気に脱帽。

 かくして心配は杞憂に終わったが、こうした心配をしなければならないこと自体、日本は自由な社会ではないと言えるのではなかろうか。人権の考え方はまだまだ社会に浸透していないし、憲法は定着したとは言い難い。

 最後に、H氏、報道のみなさん、様々な手配をし、サポートしてくれた大学の企画担当にお礼を言いたい。ありがとうございました。
 学生たちの反応は、夏期レポートと関連づけて、後日まとめます。(03.08.31記)



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