〜 「涙」の百人一首 〜

〜 「涙」の表現における男女の差 〜

「涙」は古典のなかでも登場する。
小倉百人一首とて例外ではない。
ここでは、「涙」らしきものを歌に詠みこんだ歌を取りあげ、
その男女の表現の違いを考えてみたい。

以下が、「涙」を読み込んだ歌六首である。

<1>
うらみわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそをしけれ
作者:相模(♀)
現代語訳:
(ひとのつめたさを)恨み悲しんで、を乾かす暇もない(朽ちそうな)
さえあるのに、(そでだけでも悲しいのに、その上)恋の浮き名の
ためにすたれてしまうかもしれない私の名や評判が、なんともまぁ
惜しいことですことよ。

<2>
音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
作者:祐子内親王家紀伊(♀)
現代語訳:
評判に高い高師の浜のむなしく打ち寄せる波を、(うっかり袖)
にかけますまいよ、袖が濡れると困りますもの。
(そのように)噂に高い浮気なあなたを心にかけて慕いますまい。
後で悲しみのを濡らすようになっては困りますもの。

<3>
思ひわび さてもいのちは あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
作者:道因法師(♂)
現代語訳:
(つれない人を)思い嘆き悲しんで、それでもやはり、死にも
せず命はあるものなのに、つらさにこらえきれないのは
あるよ。

<4>
なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
作者:西行法師(♂)
現代語訳:
嘆き悲しめといって、月は、わたしに、あれこれ恋の物思い
をさせるのだろうか、いやそうではない。(それなのに)
月にかこつけがましくこぼれ落ちるわたしのであることよ。

<5>
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかわらず
作者:殷冨門院大輔(♀)
現代語訳:
(悲しみので色変わりしたわたしのを)お見せしたいものです。
(あの古歌のように)雄島の漁夫のさえも、波でひどく濡れて
いた(にもかかわらず)、その色は変わらなかった(ことですのに)。

<6>
わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそしらね かわくまもなし
作者:二条院讃岐(♀)
現代語訳:
わたしの着物のは、引き潮の時にも見えることのない沖の
(海中の)石のように、あの人は気付かないけれど、(悲しみ
の涙で)乾く暇もありません。

おしなべて、皆、恋愛のつらさを歌ったものであるが、ここで一つ着眼して
もらいたいのは、「涙」そのものの表現についてである。(訳中、赤字で表現)

<3><4>以外の作者は皆女性であり、その歌の中には「涙」という語は
使われていない。それに変わる表現として「袖」が「濡れる」「乾く」「色が変わる」
などの状態変化描写が使われている。

このことから、女性にとっての「涙」と男性にとっての「涙」の違いが感じられる。
例えば女性が悲しみの涙にくれる場合、顔面に怒涛の滝のような涙に放流していては
目もあてられない。誰が、「星飛雄馬の泣き顔」をした女性に慰めの言葉をかけ得るだろうか。
そんなもの、怖いだけである。
さらに通常涙を怒涛のごとく分泌した場合、鼻水も怒涛のごとく伴うのであって
そのような状態の顔面を晒した十二単の女性を想像するだけで、布団を頭から被り
たくなってしまう。

やはり昔も今も、女性が泣く場合は、あふれ出る涙を、(そして歌には詠み込まれていないが)
それに伴ってあふれ出る鼻水を、その都度きちんと拭うアイテムが必要なのである。
しかしこれらの歌が詠まれた平安の頃、ティッシュやハンカチなるものは存在しなかった。
しょうがない、着物の袖で拭いてしまえ… ということになったのだろう。
女性にとって「涙」と言えば「袖で拭うもの」…ということと同義になったのはごく自然の
成り行きといえよう。
それはそれでいいが、ただ恐ろしいのは… 着物の袖が鼻水でテカテカになっていなかった
のだろうか?…という疑問が残ることである。

一方男性の歌<3><4>では、きっぱりと「涙」という言葉を使っている。
女性の場合、涙の流しっ放しは、美的観点からいえば×であったが、男性の場合は
むしろ、流しっ放しのほうが望ましいと考えられている。
「巨人の星」のテーマソングのなかでも「涙を拭くな」と星飛雄馬にいさめている箇所
があることからも推察されるように、男がチマチマと涙を拭うことに対する日本人の
拒絶意識は、平安の頃も今も、変わらない。

以上。