Paul Shortino/瀬上純/若井望/Shoyo/Louis Sesto/藤井重樹
増田勇一/広瀬和生

"鉄のまち"東海市 鋼鉄フェスティバル Vol.2
「今こそ語る!L.A.メタル」 Live & シンポジウム








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会場横では音楽評論家 増田勇一氏所有のLAメタルコレクションが展示


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ハリウッド、サンセットブルーバードに貼られたフライヤー


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タワレコ前のエアロ、Twisted Sister、Dokkenの看板


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オムニバス盤。ROUGH CUTTの名前もある。


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ある意味、今夜の主役とも云える「STARS」のレコード


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同「STARS」のレコード裏。


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DOKKENのEP「Back In The Streets」メンバーは全く違うとか。


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「U.S. Metal Vol. III」。Vicious Rumors、Vicious Rumors収録。


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非売品のガンズCD?


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初来日時のガンズ・アンド・ローゼズのインタビュー。スラッシュとイジー。


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これは珍しい、ガンズのコミック。


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ガンズの有名な疑似自主制作盤「Live ?!*@ Like a Suicide」


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「Welcome to The Jungle」のEPレコード


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ギルビー・クラークが かって所属していたバンド「CANDY」


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モトリー・クルーの新聞記事


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HR/HMがチャートを席巻という記事。ホワイトスネイク、モトリー・クルー..


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メタル・デイがあった「US Festival」のパンフレット。


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Quiet Riot 1st アルバム


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懐かしい「ファスター・プッシーキャット」








「今こそ語る!L.A.メタル」シンポジウム


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安江正也/広瀬和生/増田勇一/Paul Shortino/通訳/瀬上純


今回も東海市芸術劇場の館長兼芸術総監督・安江正也氏が取り仕切った。







 鋼鉄フェスティバルの第一弾、「NWOBHMを検証する!」から、早、半年余り。(多くの者が、昨年、開催されたと勘違いしていたが、実際は今年の3月13日なのである。)


 元アイアン・メイデンのポール・ディアノをゲストとしたこの第一弾が、大成功したからなのだろう。
 開催間隔の短さは、それに裏付けられた結果と思う。
 第二弾となった鋼鉄フェスティバル。今回のテーマは「今こそ語る!L.A.メタル」である。
 メタルの世界で、時代の大きな潮流となった「NWOBHM」から「L.A.メタル」へ
 時系列的にも、このテーマを取り上げる事は非常に理にかなっていると言える。
 そんなテーマに相応しいゲストが、絶妙な人選と云えるラフ・カット/元クワイエット・ライオットのポール・ショーティノであった。
 ジェイク・E・リー、クレイグ・ゴールディを輩出したラフ・カットの中心人物であり、ロニー・ジェイムス・ディオと深い親交があったポール・ショーティノはL.Aメタルの成り立ちに詳しいと思われた。
 それに、バリバリに今も、ステージで歌い続けている現役感半端ないだけにライヴにも十分、期待できたのである。




 さて、ライヴ前にはシンポジウムである。

 このシンポジウムは (今回から?)自由席となっただけに前方の列から人で埋まっていった。
 ただ、それでも満席とはいかなったが、熱心なメタルファンを中心に集まった。
 開演と同時に 司会である東海市芸術劇場の芸術総監督の安江正也さんが事前説明と、今回のイベントの趣旨を説明。
 その後、パネリストとしてBURRN!編集長広瀬和生氏、音楽ライター増田勇一氏、今回のポール・ショーティノ・バンドのバンマス瀬上純氏、そして最後に、いっそう大きな拍手を浴びながらポール・ショーティノがステージに現われた。

 LAメタル最盛期(BURRN!創刊 1984年〜)の頃、何をしていたか?という事を絡めての自己紹介の後(ポールは27年ぶりの来日との事)、いよいよLAメタルの真髄を語り始めた。
 最初のテーマは『LAメタルという言葉は、海外で通じるのか? もしかして日本だけの言葉なのではないのか?』であった。
 今まで全く考えた事もなかったが、そう云えば、LAメタルという言葉は、本場で存在するのか。最近では「ヘア・メタル」とよく言われるが.....。LAメタルの根幹に関わる良いテーマである。
 すぐさま、LAメタルの渦の中にいたポール・ショーティノに回答を求められた。
 静かに語り始めるポール。その口ぶりはやや重かった。だが、それが後に全く変わっていくことなど、想像にしなかったのだが(笑).....。
  一通り、話し終えると、通訳(B!誌でも連載を持つ、染谷和美さん)にバトンを渡した。

 そこで語られたのはLAメタル勃興時の話。

 QUIET RIOT、ランディ・ローズ、モトリー・クルー、KISSのポール・スタンレーなどの名称を交えながら、LA界隈での小さなシーンの成り立ちを話した。
 ポールはどうやら、LAメタルの歴史を大いに語ろうとしているらしい。
 そうなるとポールも、次第に饒舌になっていった。ハードロックからメタルへの転換。ロニー・ジェイムス・ディオの名前が登場し、私は自然と、感慨深くなった。
 だが、テーマから逸脱したポールに、歯がゆくなったのか、広瀬編集長は「LAメタルという言葉は使った事があるのか?」と直球を投げつけた。
 ポールは再び、静かに語り始めたが、LAでこのミュージックシーンをなんと呼ぼうかという話になった時、レコード会社が名付けたんだろう。とふわふわとした(?)回答をした。
 またRATTやRoughCuttなども、そのメンバーはLA出身ではなく、サンディエゴから出てきた者が多く、LAはメルティング・ポットのような場所であった。とも...。
 広瀬編集長もガンズ・アンド・ローゼズやモトリー・クルーのメンバーもLA出身ではなかったとポールの意見に補足を加えた。

 広瀬編集長は、ポールにRoughCuttの成り立ちについても切り込んだ。

 ポール自身は、両親の離婚によって、知り合いを頼り母と共にオハイオ州から14歳でカリフォルニアに出て、その頃、既にバンドでギターを弾いていたが、凄いギタリストに出会ってからというもの(ジョー・パスのような 笑)これは駄目だとベースに乗り換えた。(ちなみにその後、RoughCuttのメンバーとなる。)また既にその頃から歌も唄っていたと音楽的出自を語り始めた。
 しかし、ポールはここから何故か、壊れ気味になった(苦笑)。
 何が面白いのか、時折、一人でボケて、突っ込んで、まるであの「チキチキマシーン猛レース」のケンケンのような特徴的な”ウシシ”笑いを始めて、客は困惑していた。
 「もしかして、この人、ヤバイ人なのか?」そう思わずにはいられなかったのである。
 RoughCuttの前進バンドで、若い頃から活動していたポールが、始めて録音して自分の歌声を聞いた時、余りに酷くて驚いたと例の特徴的な笑い声を交え、紹介。
 そのRoughCuttのメンバーと出会ったのは、犬の散歩していた最中だった。とか嘘かホントか、どうリアクションしたらいいのか困る話であった。
 取り留めもない話に終始し始めたので、たまらず広瀬編集長が「ジェイク・E・リーが居たRATTは、当時、人気あるバンドだと知っていましたか?」と尋ねた。
 するとポールは「勿論、見たことはあったが、ハリウッドは意識的に避けていた」と衝撃発言。
 「えっ LAメタルの渦中に居たんじゃないの?」と思わずにはいられなかった。
 その後、ジェイク・E・リーや他のメンバーと意気投合し、一緒にバンドをやり始めた。とまとめた。
 広瀬編集長は B!の取材で、ハリウッド周辺にいたバンド関係者は
 「あの頃の、ハリウッド(サンセットブルーバード周辺)は良かった。あの頃に戻りたい。と言うけれど、ポールはそんな連中とは違う」
 と核心を突いた意見に なるほどと頷くばかりであった。

 ポールの思い出話は まだまだ続いた。

 いよいよロニー・ジェイムス・ディオとの関わりについて語られた。
 当時、巧いボーカリストを探していたロニーがバンドのリハーサルを見に来た処、ロニーがポールの声を気に入ったという。
 いよいよバンドとしてデモを作るものの、ジェイクがオジー・オズボーンの処へ行くことになり、他のメンバーもRATTに入る事となって、バンドにはポールとドラムのデイヴ・アルフォードだけが残されてしまった。
 其処で、ロニーから一緒にやろうと誘われ、他の不当な契約で縛り付けられていた当時、ロニーに色々、助けられた。とも語った。
 その後、改めて、バンドメンバーを探し、後にジェフリア、ディオに入るクレイグ・ゴールディと出会う。
 ロニーの家に下宿していたポールは、当時のディオの曲(「Holly Diver」)などが作られていく過程を傍で見ていた。と興味深い話も聞かれた。
 (これは初耳だっただけに自然と耳をそばだてた。)
 B!誌にも載っていたが、丁度この頃、ポールはジェフリアにもボーカルを誘われたが、RoughCuttが有る事を理由に断ると、代わりにクレイグ・ゴールディを盗られた事を自虐気味に語った。
 再び、メンバーが居なくなってしまったRoughCuttに、アミア・デラクというギタリストが入る事になるのだが、彼とのエピソードは爆笑であった。
 どうやら、ずっとバンドのグルーピーと勘違いされ、バンドに入ってもしばらく、ポールからはメンバーと認められていなかった。という話。(いつも 楽屋から追い出されていた。という)

 RoughCuttやRATTのような『名前が"R"で始まり"T"で終わるバンドは人の出入りが激しい』と増田さんや広瀬編集長は結論付けていたが、正にそうだ。と思わずにいられなかった。
 増田さんが「当時、LAメタルのバンドが日本に来て、取材すると、出身はLAじゃないよ。という返答が多かった。西のバンドのようにパーティ野郎じゃないよ」と言われたとか。
 結局、LAメタルというのは レコード会社が多く存在し、チャンスを掴みやすかったLAに他の場所(サンディエゴなど)から出てきて、シーンを形成し、必ずしもLA出身者がバンドを組んだという訳ではなかった。という事であった。
 加えて、増田さんが1983年の「US FESTIVAL」ヘヴィメタル・デー(5月29日:トリはVAN HALEN)に参加した時の思い出を語ると、あの頃は、LAメタルとは誰も言わなかったと証言。
 そして其処に来ている客は、LAメタルの象徴とも云える「カットソーのTシャツ」を着ていたという−実際に行った人しか知り得ない情報に興奮を覚えた程だった。
 この「US FESTIVAL」話を皮切りに、安江さんや瀬上さんのLAメタルに対する思い出話に、花が咲いた。

 次はLAメタルの音楽性について、移っていった。今までの英国のハードロックとは違い、魅せるに特化した、ハードロック以外の音楽をも溶け込ませたのが、LAメタルではなかったのか。とも述べた。
 80年代後半のジャパメタブームはLAメタルの日本的解釈だったと聞いて腑に落ちた。なるほど 確かにそうだ。
 それにLAメタルの萌芽は、イギリスから来たジューダス・プリーストと、アイアン・メイデンがアメリカでヒットした事に起因する説には大いに頷いてしまった。
 (ジューダスにしても、メイデンにしてもよりシンプルに、よりキャッチーな曲がLAメタルに影響を与えたという話も、至極、納得出来る話であった。)
 昔から私は「NWOBHMが、アメリカに渡ってLAメタルが生まれた」とずっと思っていただけに、その説が認められたようで嬉しくなってしまった。
 それから、多大なるMTVの影響。広瀬編集長、増田さん共に派手な作りのPVは、多くの人を振り向かせるだけの力があった。と述べた。
 ポールに「RoughCuttのPVはどうだったのか?」と尋ねた事をきっかけに、ロニー・ジェイムス・ディオは バンドメンバーが演技するPVをどう思っていたのか?という話にもなった。
 ロニーも曲に関係ない、ディレクターにあれこれ指示されるPVの作り方に、反感を持っていたそうである。
 また「DOKKENやRATTのように、RoughCuttもLAメタルの一派と言われることにフラストレーションはあったのか?」という問に、ポールは

 「RoughCuttは DOKKENやRATTよりもレコード契約が早く、若いメンバーは契約の為に何でもやると意気込んでいたが、ロニーが亡くなった後、ロニーがRoughCuttの一枚目をプロデュースしたがっていた。と聞いた。
 タイミングが悪くて、それは叶わなかったが、ウエンディ(ロニー夫人)が言うには、ロニーがもし、プロデュースしていたら、もっとDioっぽいアルバムになっていたかもしれない。」
と言い、質問の回答としてはズレてしまったものの、結果的に会場をしんみりとさせた。

 終了時間も迫り、話題は遂に『Stars』へと移っていった。

 広瀬編集長が「『Stars』を歌う時、ロニーからどんなアドヴァイス、ディレクションがあったのか?」と訊いた。すると
 あれは人生最大の、出来事だった。メンバー間にエゴもなく、ボーカル、ギター共に全員に最初から、最後まで弾け、歌えと指示され、それをロニーがピックアップした。ロニーは天才だ。
 これを訊いた広瀬編集長、増田さんは「全てのバージョンが聞きたい」と盛り上がった。そう 全てのメタルファンの夢である。
 広瀬編集長がこの『Stars』を初めて見たのは、新宿ツバキハウスのスクリーンだったが、その時、一番、衝撃的に巧かったのはポール・ショーティノとジェフ・テイトだったと褒めた。
 確かに、あそこに出てくるボーカリストで、誰にも似ていない、印象的な歌い方をするのはこの2人だけである。
 ポールも、ロニーの歌い方を真似するシンガーが多かった中、僕らだけが違う声だった、個性的だった。と追従した。
 『Stars』の中ではドン・ドッケンに対し、ロニーが「(歌唱)がスムーズ過ぎる」と注意するのだが、広瀬編集長にとってはドンは(ポールやジェフ・テイトのように)衝撃的ではなかった。と感想を漏らすと
 「でも 最近、衝撃を受けましたけど」と増田さんが先日の、DOKKENの来日公演でのドン・ドッケンの歌唱の不調ぶりを揶揄して会場が笑いに包まれたのだった(苦笑)。

 その後、RoughCuttの1stアルバムと、2ndアルバムの音楽性の違いは何故、生まれたのかという質問に対しても、突っ込んだ意見交換が為された。




 いよいよ シンポジウムも大詰めである。


 広瀬編集長が今回のシンポジウムのまとめに入った。

 「アメリカのレコード会社主導の、商業主義の、MTVと組んでヒットを飛ばすと凄く儲かると上手くハマったのがLAメタルで、隆盛を極めた数年間が有ったものの、意外に隆盛が続くこと無く、LAメタル以外のBON JOVIやホワイトスネイクが大ヒットした中で、LAで活動していたのにも関わらず、商業主義と関係なく出てきたガンズ・アンド・ローゼズが、時代を変えた。」

 「ガンズはLAメタルの範疇で語られる事はないが、LAメタルの終焉は、そのガンズ・アンド・ローゼズが商業主義を打ち破った瞬間ではないのか。」

 と結論付けた。

 ガンズがLAメタルを終わらせた−広瀬編集長のこの説に、私は新鮮な驚きを覚えたのだった。


 「RoughCuttで、新しいアルバムを出して必ず戻ってくる」と力強く、ポール・ショーティノは宣言し、シンポジウムも終了。

 ポールは、広瀬編集長、増田さん、瀬上さん、安江さん、一人ずつとハグをしてから 拍手の中、ステージを降りていった。




 6時からのライヴが 待ち遠しい。という気持ちを携えて−。








「今こそ語る!L.A.メタル」LIVE


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ポール・ショーティノ 登場


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若井望のギターが炸裂!


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バックコーラスの藤井重樹をセンターステージに呼び寄せ「STARS」を熱唱


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観客から花を受け取るポール


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若井望/Shoyo/藤井重樹/ポール/瀬上純/Louis Sestoの面々


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こうして、鋼鉄フェスティバル Vol.2は無事に終了したのだった。


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http://e-talentbank.co.jp/news/17919/












当日の「Stars」の熱唱、熱演を今一度
https://www.youtube.com/watch?v=hpz2st-ged8














SET LIST
1Rock In The USA (Rough Cutt)
2Double Trouble (Rough Cutt)
MC
3Bad Reputation (Rough Cutt)
4Dreamin' Again (Rough Cutt)
5Don't Settle For Less (Rough Cutt)                      
MC
6Dressed to Kill (Rough Cutt)
7Take Her (Rough Cutt) 〜 Drum Solo
MC
8Dont Wanna Be Your Fool (Quiet Riot)
9Stay With Me Tonight (Quiet Riot)
MC
10The Wild And The Young (Quiet Riot)
MC
11The Night Cries Out (Rough Cutt)       
12Piece of My Heart (Rough Cutt/Janis Joplin)
13Cutt Your Heart Out 〜 Rock In The USA (Rough Cutt)
・・・ Encore ・・・
14Metal Health (Bang Your Head) (Quiet Riot)
15Stars (Hear'n Aid)




「The Wild And The Young」「Metal Health (Bang Your Head)」はケヴィン・ダブロウ期の曲であり、ケヴィン・ダブロウに捧げられた。






















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