涙の黒沼 2003年12月21日
 クルマに戻って弁当のフタを開けてみると「ツユダク」になっていたので、俺はにわかに落胆してしまった。「紅しょうがを多目にしてツ・ユ・ヌ・キで並を一人前、お願いね」と、あれほど念を押して云ったのに、だ。
 しょうがのほうは俺の注文通り五袋も入っていたからいいようなものの、肝心の牛丼のめしの中身が褐色の甘ダレで、夥しく横溢している。
 「ツユダクとツユヌキじゃあまるであべこべじゃねえか。ちくしょう、バ−ロ−」
 俺は頭の芯からユゲが立つ思いで小声で、しかし口汚なく罵った。
 「だいたいこの不景気によ、この店は客に対する注意とか、キメの細かい対応とかに配慮が欠けてんじゃねえのか。経営のありようとしてよ」俺の怒りはなかなか静まらない。
 「一杯二百八十円だなんて、安けりゃいいってもんじゃねえだろ。それにだいたいがあの若造店員が、まず気に入らねえよ」俺は怒りの矛先を経営者から店の従業員に向けた。
 「若いくせして、生意気にエンピツで描いたようなドジョウひげなんかたくわえやがってよお。俺が並一個注文したら、「チョ−マジッスかぁ?」なんて云いやがった。ちくしょう。あれじゃまるでボウソウゾクかヤンキ−じゃねえか」云いながら俺は不承ぶしょうに紅しょうがの小袋五個を全部牛丼にぶちまけると、片手に持った割り箸を歯で割って、まんべんなくそれを丁寧に敷き詰めた。たちまち牛丼の表面は紅しょうがで真っ赤に染まった。
 むかし、紅しょうがに入っている食添が発ガン性を含んでいる、と認められて余り多量に摂ると有害である、と騒がれた事があったが、俺は誰がなんと云ってもこの食べ方が殊の外お気に入りだった。乳臭い幾分クセのある牛肉の甘カラ煮に、甘酸っぱい紅しょうがを一緒にほお張ると、瞬時にしてその絶妙な相性のよさに口中一杯に旨味が拡がっていくのだ。

 毎週日曜日。俺は遠足を待ちわびる子供のように苦もなく朝も早よから飛び起きると、クルマで三十分ほどかかるキャスティング練習場へと向かう。そしてその途中、この「吉田家」に必ず寄って朝めし代わりの牛丼を食うのを、週に一度のささやかな愉しみにしていたのだ。
 一昨年前の市の健康診で高脂血症値と尿酸値が高いと指摘されて以来、俺は食い物には実にところ涙ぐましい程の気を使ってきた。主食は玄米中心にして、魚や野菜を努めて食べるようにして肉やアルコ−ル、揚げものは極力控えるようにしていたのだ。
 俺も四十六歳。ちょっと油断すれば忽ちのうちに重度の疾病に罹ってしまう、そんな中年真っ只中だ。牛丼は無論、本来からすれば真っ先に忌避しなくてはならぬ食べ物であった筈なのだが、しかし「週に一度だけ」と、心に決めてせめてカロリーの多いツユを排除する事で、自分の気持ちを偽って食べるのを密かな愉しみ、としていたのだ。
 それほどまでにして気を使い、人生のささやかなヨロコビにしてきた俺なのに、ひとの注文もロクに聞かないで「この野郎は!!」と、思った。
 思いはしたがしかし捨てるわけにもいかず、俺は割り箸を中空にかざすと一閃、弁当の一隅めがけて「えいやっ!」と、突き刺し大ぶりのカタマリをほかり、と口中に放り込んだ。
 「旨い!」俺は情けなくも唸ってしまう。久しぶりの肉はやはり旨い。ツユダクであるだけになおの事旨いのだ。体にはよくないがしかし、旨いものは旨いのだからしょうがない。俺は多摩川の川べりでブルーのテントに大挙して居住しているホームレスのように、犬のようなあさましさでむさぼり食った。
 食いながらしかしいつまでも罵るのを忘れはしなかった。食い物の恨みはしみじみと深いのだ。「ちくしょう。今度間違ったらタダじゃ済まねえかんな」と、思ったがでも肉の量がいつもより多いみたい。
 「うふふ」と、俺はホクソ笑む。「今日のトコロは、まあ勘弁してやるけどよ、今度こんなことがあったら店に石投げっと」と、思ったが玉葱が味がよくしみてて、これもなかなか・・・。「うふふ」と、またしても笑みが零れる。
 「まてよ。石投げたらキブツ破損かなにかで、逆に俺が捕まっちまうな。うん。ここはやっぱり大人っぽく訴訟、か?」と、思ったがそれとは裏腹に次第に幸せな気分で満ち足りてきて、そこでまた「うふふ」と、キ印のようにして笑った。

 練習場に着くと時計の針は既に八時をまわっていた。途中、コンビニに寄ってアダルトコーナーのグラビア誌を夢中になってめっくているうちに、ずいぶんと時間が過ぎてしっまたようだった。
 俺はグラウンドに立つと先ほどからずっとがまんしてきた尿意を解消すべく、付近の枯草めがけてやおら、馬のようなドトウの勢いの小便をたれた。十二月も中旬を過ぎて今朝も相当に冷え込んでいる。放物線を描いて放たれた小便は寒さのせいでいつまでも白いモヤとなって俺の足元に絡まっていた。
 俺は「ぶるぶる」と、身もだえるように震えると自分のイチモツをズボンにしまい込み、そしてそこで始めてグラウンドの全景をひとわたり眺めた。

 ひたちなかグラウンドはキャスティングをするうえで、まことに都合のよい場所であった。広大なグラウンドの周りを赤松や疎林がぐるり、と縁取るように植林されていて、滅多に風の影響を受けにくくなっているし、そのうえ冬のあいだは草も枯れて居ながらにしてシンカーのリトリ−ブも可能であるからだ。
 一応、国の管理する地所と云う事にはなっていたが我々やゴルフ愛好家の連中は「公然の秘密」として、無断でここを借りていた。時折、巡回するパトカーが思わせぶりに近くを通る事があっても、とりたてて彼らが何かを云ってくる、と云うこともなかった。

 俺はグラウンドの端っ方に三脚を据え付けると、そこで道具を拡げてさっそく準備にとりかかった。もうずいぶんと永いこと、この同じ作業を繰り返してきている。何万回だろうか?不図、俺はそんな意味もない事を考えめぐらせた。準備する俺の手はいささかの澱みもなく、流れるようにいつも通りに動く。
 その時、後ろでブレーキの踏む音がしてたて続けに三台のクルマが停まった。いつもの見なれたクルマだった。ひとつはSTと四種が専門のベテランK地さんのレガシィ。ひとつはなんでもやってなんでも結果を出してしまう新進気鋭、U山君のランドクルーザー。そしてもうひとつは俺に異常な敵愾心を持つ六種のK川君のエルグランド、だった。
 「ちくしょう。みんないいクルマ乗ってやがる」と、俺は思った。俺はどこに行くのでも自分家(ち)の屋号入りの営業車で済ませているのに、と思ったのだ。
 三人が道具を胸一杯に抱きかかえるようにして現れると、俺はそれぞれに簡易な挨拶を交わしたが手許は休まず、準備を続けた。

 どうも今日はロッドの込みが正確に一致しない。彼らも挨拶などそこそこにして早速に投げの支度を始める。そんな中、何気なく気配を感じて横を見やるとK川君の目がじっと俺の顔の真ん中を捉えているのに気がついた。彼の趣味の悪い銀ブチ眼鏡に朝のまばゆい陽光が突き刺すように反射すると、そいつはなんだかドラマに出てくる悪役の必須アイテムみたいに「ぎらん」と、無機質に輝いてみせた。
 俺は、一刹那「ぎくり」と、たじろいだのだが努めて平静を装ってみた。けれどもK川君は白く乱反射する眼鏡の奥で、カエルを狙うヘビのようなただ一点を見据える無表情な目付きを、なおもやめようとはしなかった。
 俺は、ん?何だこの目は?と思った。何か俺に云いたいことでもあるのかしらん?と思った。
 そして、ほどなくして彼は「黒沼さん・・・ねえ」と、沼のように果てしなく暗い声で云った。俺はうわあ、と心の中で叫び、わけもなくうろたえた。
 なんだか知らないが、この男は俺に重大な言い分があるらしい。この恨めしい目が何よりもそれを物語っているではないか。俺が何かよくない事でもしたのか?「何を?」「いったい俺が何を!?」「・・・!!」
 そこまで考えて俺はハタリ、と思い出し体ごと大きく頷いた。先日の飲み会か?そうかそこで何かあったのか・・・?
 そう思っているとK川君は言葉をひとつひとつ選ぶようにして喋り始めた。その目はしかし笑ってはいなかった。いやそれどころか犬のように目を吊り上げて、ふんまんやる方ない、と云ったかんじだ。
 「いくら酒呑んでいるからって、横からきて俺の女をああロコツにカッサラっていく事はないんじゃないですか。はあはあはあはあ」
 彼は感情を殺し、努めて大人しく云ったつもりなのだろうが、しかしその顔は見事に紅潮して息使いも荒々しくなっていた。精一杯虚勢を張り、おのが主張を訴えたつもりなのだろうが、彼の小心な性格をその時、計らずも露呈してしまった恰好となった。

 先日の飲み会とは、バトル挙げてのクラブ忘年会の事で、毎年これを愉しみにしている者も多かった。普段練習には来なくても、この時だけは喜んで参加するご仁もいるくらいだ。今年は東京から飛び入り参加も含め、総勢二十名近い陣容でとりおこなわれたのだが、さすがに参加人員がこれだけ多いと酒宴も佳境に入ってくれば、酒池肉林、嬌声絶叫、阿鼻叫喚、と云った趣となってくる。酒が入ってドッチラケになれば、畢竟、これはもうお互い何を云ったのか何をしたのか覚えていようがない、いわゆる無礼講モ−ドになる。
 この二次会のスナックでの事、らしい。俺はこの店の女がらみでK川君の逆鱗に触れるような事を、どうやらしでかしたらしいのだ。

 彼は地獄からの使者のような怨み声でなおも続けた。「黒沼さん。あんたももういい中年なんだから、いつまでもあんな子供みたいな事やってるんじゃないですよ。はあはあ」説教調になってきた。「いったい何の事だか・・・」と、俺は云いかけると「判らないと云うんですかよ!!」と、彼は敬語と粗野な云い草を奇妙に同居させたような云い方をした。
 「どっかの国の将軍様じゃないんだから、いくら酔っ払ったからと云って、やっていい事と悪い事の区別がつかんわけないでしょうが。はあはあ。まったく。はあはあ」彼は云いながら、自分の感情を鼓舞し、段々に怒りのトーンをフィードバックしてくる、と云うタイプらしかった。ヘビのような赤い舌をチロチロだしては盛んに唇を舐めている。よほど興奮しているようだった。
 俺は何が何だか判らぬまま、取り敢えず誤っておこうとしたが、そこで「ん?」と、かんがえた。つまるところこの男は、飲み屋の女の子の事でこんなにアツくなっている訳なのか?だとしたら、それこそこの男の方が青臭い子供のようではないか、と思ったのだ。別にあの娘がK川君の彼女、と決まった訳でもないし、それからまた俺があの娘をテゴメにした、と云うのでもないのだ。たかだか酔って少しぐらいタガをはずした程度なのだ。つくずく滑稽な話ではないか、と思った。おかど違いもいいとこじゃないか、と思った。
 と、そこまでかんがえていると突然K地さんが間に分け入って「まあまあ、それぐらいにして」と、篤志家らしく取り繕った。すかさずU山君も背後に回りこむと、俺の両方をなだめるように押さえ込む。若い彼はこの場の空気が読めなくて殴り合いのケンカになると、勘違いしたらしい。げんに、押さえ込んだ手の力が異常に強い。これじゃ羽交い締めと変わらない。
 「まあ、酒の上でのことだからもうそれぐらいにして、早く投げやりましょうよ。K川君。黒沼さん」と、K地さんが温厚そのものの笑い顔で云った。「そうですよ、黒沼さん。もう準備できたんでしょう?早く投げましょうよ」U山君も云った。可哀想に彼は目をまんまるに見開いて、すっかりおびえてしまっているようだった。
 K川君は周りの仲間に諭されてやっと正気に戻ったのか、片頬をひきつらせると不自然な笑みを繕った。そしてそこでようやく俺も開放された。

 それにしても正直なところを云えば、二次会に行ったスナックの娘の事など俺は今の今まで考えた事もなかった。まるで眼中になかったのだ。それよりも俺はその後行ったスナックで決定的に哀しい思いをしてしまったのだ。そっちの方がはるかに俺にとっては重大事、であった。中年になってはじめての淡い恋やまいだったのだから。
 先日の忘年会の帰り、俺と友人の山田勝也はギリギリの間一髪で間に合った最終電車に乗ってようやく二人の地元、JR日立駅に降り立つ事が出来た。時刻は夜更けの十二時になろうとしていた。北関東の地方都市の駅前と云っても、時間が時間であった。

 ビル群のほとりは漆黒の闇にダマリ込み、寒い夜の風に晒されたゴミクズがカサコソと虚空に舞っていた。駅前交番の警官二名が退屈そうに俺達を見ているほかは、人影もまばらであった。山田は酔って気が大きくなり、電柱に立てかけてある風俗がらみの看板を景気よくケトばすと、忽ち遠くでノラ犬が吼え始めた。俺も同士のよしみで今度はその犬めがけて石ころを投げてやる。石は当たらなかったが、犬は血相を変えて逃げていった。
 俺は相当に酩酊していた。が、それでも肩など組みながら俺達は、器用に酔っ払いの吐いたゲロなどをかわしつつ足早に前々から予定していたスナック「Y]へと急いだ。何しろ時間が遅いのである。急がねば店が閉まってしまう。店が閉まればあの娘に会えない。
 それにしてもと、俺は歩きながら酔った頭でかんがえた。二次会の席で呑んでいた時に、大事なズボンに零したモツ煮込みのシルの匂いが、やたらと気になったのだ。
 大学生の時、女子大とのコンパのために苦労して買った、えび色のホ−ムスパンのトラウザ−ズでポ−ルスチュア−ト製だった。俺にとっては一張羅のお洒落着で、これに黒のモンクを合わせるのがいつものやり方であった。
 こんな匂いのまま行ってあの娘、アサカちゃんは俺を嫌わないだろうか?俺は不図、心配になった。アサカちゃんとは一ヶ月前に一度しか会っていない。だからそれほどまだ彼女との間柄が親しい、と云う事でもなかった。ただその時の印象が俺は勿論の事、彼女にも「それなりに」良かったようで、常連の山田が再三、「彼女が俺に会いたがっている」と、云っていたのだ。
 俺は「そんな事はあるまい。あんなきれいな女(ひと)が俺なんかに会いたがる筈がねえよ。商売上のリップサ−ビスにきまってるじゃねえか。バ−ロ−」と、にべもなくしていたのだが心の中では、荒波に浮かぶ小船のように動揺していたし、やはり、嬉しかった。もし、山田の云うように本当にアサカちゃんが俺に「その気」があったのならどうしょうか?と、かんがえてみた。じつにオメデタイ仮定ではあったが、もし万が一でもそのような事があったのならどうしょうか?と、一方では真剣にかんがえてみたのである。

 俺には妻も子供もいる。家庭を壊してまでも道ならぬ恋に身をやつす度胸がいったい俺にはあるのか?と。答えは否、であった。俺は古い人間なのだ。そんな勇気など逆さに吊るしてもありはしなかった。それだから今迄一ヶ月近くも山田の誘いに乗らずこの店に来なかったのだ。けれどもその日は忘年会であった。気の弱い俺は、予定通り大酒を呑みその酒の酔いに乗じて一目、彼女を見ようと思ってやって来てしまったのだ。
 店には五分でついた。山田がいかにも常連さんの慣れたかんじで体ごと押すようにしてドアを開けた。俺もすぐさま奴に続く。と、とたんに店のママが「いらっしゃいませ」と、赤い声で出迎えてくれた。かたわらにはくだんのアサカちゃんが、バラの花がはじけるような笑顔をして佇んでいた。
 俺は久しぶりの店内を見回すいとまもなく、彼女に吸い寄せられるようにして、デコラ張りのつい立で仕切られたボックスシ−トにふかぶかと腰を沈めた。
 人気店らしく普段は六、七名はいる女の子も、夜も遅いせいだろうか改めて見渡すと今はママとアサカちゃんの二人しか居ないようだった。客も俺達以外ほかにおらず、どうやら前もって予約しておいた山田のために二人のみが居残っていたようだった。俺は彼女との久しぶりの邂逅に、面映さもてつだって柄にもなくテレて無口になってしまった。
 店内にはサム・クックの唄が流れていた。曲名はMeet  me  at  Mary's  Place  だったか。典型的なゴスペル・バラッドだ。

 「こんにちはあ、どおもお。覚えてるう?あたしの事」彼女は顔の真ん中から底抜けに明るい声で云った。
 「あ。ああ、・・勿論だよ」
 「どうして今まで来てくれなかったの?あたし、ずっと待っていたのに」
 「う、うん。仕事・・・がね、忙しくてね」
 俺の声が学芸会で台本を読む小学生のように、緊張して棒読み状態になっているのが自分でも良くわかった。
 「お酒、いっぱい飲んでいるの?ね、ね、そうでしょう?」
 「ちょっと水戸で忘年会の帰り、だったから・・・」

 そこまで云って俺は改めて彼女の全容を視た。シャンブレ−のブラウスと浅緋に小紋の入った地味なニットをタイトスカ−トでちょっと生真面目なかんじでまとめていた。あまり化粧化がなかったが、もともと素地に優れているのか博多人形のように危うげに白く、華やいだ貌立ちをしている。ロング・ボブにまとめた髪と、怜悧に尖ったおとがいが端正な貌をより小さく可愛らしくみせているのだ。齢は二十四、五と云ったところだろうか。かんがえてみると俺はまだそれすらも訊いてはいなかった。そして、しなやかでスリムな体からはちょっと不釣合い、と思えるような品のいい、豊かな胸が目に飛び込んできたとき俺は、思春期を迎えた男の子のように「どきり」と、赤面した。
 俺は言葉が見つからずに「あいかわらずきれいだね」と、ありきたりな事を云うと彼女はそれには応えず、急に声のト−ンを下げて、「あたし、待っていたの。ずっと・・・」と、つぶやくように云った。
 そして涙目になって、いきなり俺の左肩に崩れるようにしてその身を預けてきた。俺は同時に隣に座っている山田を見た。山田は気を利かして向かいのママと話をして俺達に気ずかぬふりを演じてくれていた。
 彼はもともと俺のために今日このセッティングをしてくれたのだ。彼は俺のために「脇役」に徹しようと云う思い入れが、最初からあったのかもしれない。
 「すまない」と、俺は思った。
 アサカちゃんはそれから、その美しい顔を俺の左肩から胸に移すと両方の腕を、俺の上体全部にまわしてすっぽりと俺の胸の中に収まってしまった。形容しがたいほどの美しく、甘い香りがすぐさま俺の鼻腔をついた。そしてなにより彼女の魅惑的な柔らかい胸のふくらみの感触が、全身が覚醒したように敏感になっている俺のからだの隅々を電気のように駆けめぐった。

 俺は嬉しかった。たとえようもなく、それこそ天にものぼる思いで嬉しかったのだ。この美しい女(ひと)がすべてを投げ出し、俺の手中に収まったのだ。男なら嬉しく思わない訳がないだろう、と思った。と同時に「これはやはりちょっとまずいな」、とも思った。このままでは本格的に俺は彼女にのめり込んでしまうと恐れたのだ。
 俺は若くもなければ、いっぱしの女衒でもない。不器用な俺が家庭と愛人を両立し、なおかつ彼女を幸せにするだけのマメな才能を有しているとは、到底思えなかった。
 そこまで考えたとき、俺は計らずも冷静になってしまっていた。胸の中の彼女を、抱いて応える事もなければ、甘い言葉のなにひとつもかける事が出来なかったのである。いいや、そればかりではない。あろう事か俺は、彼女の両肩を掴むと「ぐい」と向こうに押しやって拒絶してしまったのである。
 彼女は一瞬、信じられないと云うような顔になって眉を曇らせると、目を巨きく見開いて小さく「ひっ!」と、叫んでころがるように席を立ってしまった。

 それで終わりであった。それきり彼女は奥に引っ込んだまま二度と出てこなかった。
 山田がタクシ−を呼ぶ二十分もの間、俺は呆けたように店の天井の一点を見つめたまま意識が飛んでしまっていた。タクシ−が到着し山田が俺の肩を激しくゆすり、名前を何度か連呼するのがなんだか夢の中に居るような気がしてならなかった。
 「黒沼さん、起きなよ!黒沼さん、帰るんだよ!」山田のダミ声は続く。
 「黒沼さん、タクシ−が来たんだよ」
 「黒沼さん、早く!」
 「黒沼さん、早く!」
 「黒沼さん、早く!」
 「黒沼さん、早く投げなよ!」不図、俺は我に返った。
 あれから一週間。「今日はいつもの場所で投げ錬に来てたんだっけ」と、気がついた。
 仲間の三人はもうすでに投げ終えている。俺がいつまでも投げないで居るので、みんな糸の巻き取りに行けないで痺れを切らしているのだ。業を煮やしたK川君がさっきから俺の名前を連呼している。
 俺はのそりと立ちあがると、尻についた芝生のカスをぱたん、ぱたんと、振り払った。
 「K川君は<ハムラビ法典>のような男だからなあ」
 俺は独語症患者のようにつぶやいた。
 「俺に勝負で負けるとムキになって挑戦してくるものなあ。こいつは」
 俺はそうポツリとつぶやくと、K川君に向かって「今、行くよ!」と、笑っておどけてみせた。