黒沼のため息 2003年11月06日
 「なるべく早く帰るから」と、出来もしない嘘を吐いたとき少女マンガのヒロインが艱難辛苦の果てにようやく勝ち取ったしあわせに感涙するように、妻は大粒の涙を流してよよと泣きくずれた。
 結婚して15年。中学生のようなわがままな性格を身上にしてきた妻である。そう簡単に話を聞き入れてくれるとは夫の黒沼悦郎もはじめから期待はしてなかった。
 「大事な試合なんだよ。年に一度の男の勝負、なんだよ!!」
 黒沼は殊更に大仰に哀願した。
 「試合、試合といったってただのオモリの投げっこじゃないの」
 妻は柳眉を逆立てると目をむいて吼えるように喚いた。
 「あんな役にも立たないようなことやって何がスポ−ツよ。イイ歳してそんなことやってて恥ずかしくないのお!!」
 夫の黒沼がもっとも触れて欲しくないいわば己のアイデンティティの領域にまで妻はドカドカと土足で踏み込むように提起してきた。攻撃の内容がここまで及んでくるとさすがの黒沼も一言、云って自己防衛しておかねばならなかった。
 「あのねえ、おっしゃいますがねえ」と、前置きすると黒沼はねぶる様にべちゃり、とおのが唇をなめまわして口端をゆがめた。そして一拍おいてから、
 「わたくしのやっている事がスポ−ツでない、とおっしゃるならじゃあ陸上のヤリ投げやホ−ガン投げはどうなんだい?」と、反撃に転じ始めた。
 「あれもやっぱりスポ−ツじゃないんだろうねえ。何の役にも立たないわけだからさあ」
 黒沼は小鼻をふくらませるとしたり顔で普段から理論武装してある身勝手な理屈を展開しだした。
 「それとサッカ−なんてのはどう?あれなんかもボ−ル蹴るだけだけどね。あれも何かの役にたつためにやっているのかねえ?ん!ん!」
 黒沼は更にたたみかける。
 「それとも何の役にもたたないことだからこれもスポ−ツではないのかな。エッ?エッ?どうなの?」
 妻は思わず口をついで出てしまった幼稚な論鋒がヘシ折られた、と悟るやすかさずナマコのようにダンマリを決め込んでしまった。
 「うははははは」
 黒沼はカタルシスを得たように思わず破顔した。
 「だからねえ頼むよ。快く行かせてくれよ。妻よ」
 黒沼は新劇の俳優がよくやるように演技がかった芝居で訴えた。が、相変わらず何を云っても妻は頑として口を「へ」の字に引き締めたまま、ただただかぶりを振るばかりであった。
 遠征試合があるたびに、そのつど繰り返されるこのテの修羅場は黒沼にとってだいぶ慣れっこになって、いわば年中行事みたいなものではあったのだがそれでもやはりキャスティングに無理解一辺倒の妻を説諭訓導するのは並大抵の事ではなく、毎度の事ながら頭の痛いそして疲れる附帯事項であった。
 また黒沼の三人の子供たちもヌケ目がなくまことにもって厄介であった。両親の会話で父親の旗色が悪い、と視るやすかさずその弱みに付け入ってくるのだ。
 長男が「写メ−ル機能付のケ−タイ欲しいんだけどね」と、いえば次男も「ぼくリトル(リ−グ)で使う公式の硬球用バットが欲しいんだ」と、言下に続く。すると今度は五才になる長女が「可愛い洋服買って−」と、この時とばかりに一丁前な要求をしてきた。
 「わかったよ-。あ-わかった。わかった」
 黒沼は試合に行きたいがために何もかも考えるのが億劫になってやぶれかぶれに安請け合いをした。子供たちは俄然勢い付く。
 「それとねえ、お父さん。静岡行くんだったら帰りに<地域限定ワサビ味のカ−ル>買ってきてよ。あと釜揚げシラスと釜揚げサクラエビも」
 「う-わかった」
 「港北SAの豚まんとあんまんもね」
 「う-」
 「崎陽軒のシウマイも小粒でうまいよね。横浜はやっぱ本場な訳だし」
 「う-」
 「お父さん、わすれないでよ」
 「う-」
 「お・と・う・さん!」
 「・・・」
 黒沼は殆ど聞いてはいなかった。

 キャスティングの試合開始時間はいかなる時でも9時より早く始まることはまれで、これがために試合終了時間も必然的に午後4〜5時頃になることが殆どであった。試合が地元開催の時は、それでもまだ夕餉に間に合う時刻でもあり家族も大目に見てくれるのであるが、これが遠征するアウェイとなると妻の許容レベルは完全に逸脱してしまう。真夜中午前零時を過ぎてのきわめて遅い帰宅、となるからだ。

 「早く帰る」などと云ってもそれが見え透いたその場しのぎの嘘である、ということは誰の目にも明らかではあったが、それでも夫である黒沼に全幅の信頼を寄せている妻は、ただただそれを信ずるしか術がなかった。

 泣きはらした顔に小びんをほつらせて嗚咽を繰り返すばかりの妻は、しかしそれ故に不憫で、そして異様に鬼気迫って美しくも視えた。
 数日前にほぼ一ヶ月ぶりの<夫婦生活>をしたばかりだというのに、黒沼は計らずも上気した妻の貌をみてあろうことか再び欲情し、そしてやくたいもなくコトに及んでしまった。
 淫獣のような黒沼の四肢に組み敷かれた妻は、はじめのうちはそれでも形通りの抵抗するそぶりをみせていたが、やがてそれも弛緩するとめくるめく情炎の歓びのなかで息も絶え絶えにあえぎ始めた。
 黒沼は文字通り<体を張って>ジョ−カ−を切ったのだ。夫婦の営みがなされた、ということは即ち、夫である黒沼の要求を妻が呑んだと云うことに他ならない。
 黒沼は「ニヤリ」と、笑った。その貌はさながら曲がマイナ−からメジャ−にいきなり変調するような露骨な変貌ぶりだった。「泣く泣く」ではあったが、それで妻は黒沼の静岡行きを承認したのだ。

「やさしくして・・・」と、乙女ごのようにあえかにうわ言を繰り返す妻が、しかし黒沼には何故だかしみじみと哀しく惟えてならなかったコメント