黒沼倫子、戦う! 2004年2月6日
 朝から雪が降っていた。
 でも正確に言えば雪とは言ってもそれはかなり水気を含んだミゾレ状だったので積雪まで心配すると言う程でもなかったようだ。予報でも日中は雨が降り続くも夕方以降にはそれも上がって天気も回復すると言っていたし、強く降る割にはすぐに溶けてしまうこの雪を眺めていると

 「この分なら積もる事もないだろう」と、

 はじめのうちはてんぜんと考えていた。そんなことよりも私は子供たちが起きる前にいまだ夢の中で白河夜船の夫、悦郎を無理やり起こして朝食のテ−ブルに急き立てなければならなかった。
 そしてそれからいつもの様に日々の煩累な家事をひとつひとつ片付けていかねばならなかった。

 なに、優先順序は毎日の事だから決まっている事なのだけれど。
 先ず、夫の床を揚げ掃除機をかけなければならない。
 そして洗濯機も同時にまわしてしまうのだが、この時はよほど注意しないと朝から大ゲンカになってしまうまさに薄氷を履む瞬間でもあるのだ。
 と言うのも夫は朝起きるとテレビのスイッチを点けてニュースを見ながら新聞を読み、トーストを齧(かじ)ると言う、およそ全国殆どすべての男どもの朝の一連の行動を彼もまた例外なく同じように繰り返し続けているのだが、この時
 「掃除機や洗濯機のモーターの轟音に掻き消されて新聞の中身がロクに頭の中に入らない!」と、決まって鬼の形相で主張してくるのだ。
 夫は癇症だった。今朝もそうだった。
 「あのなあ、お前。倫子!」
 夫は眠たげな目を神経質にしばたたきながら私をいっとき見つめると、大急ぎで口端を歪めながらいまいましげに言った。
 「あのなあ、倫子よ。どこの国にこんな朝早くからガーガー洗濯機まわして掃除機かけてる家があるかよ。ええ?俺はなにも掃除が悪い、と言っているんじゃないんだぞ。それは妻のツトメとして大変重要な事なんだけどな。それが悪い、と言っているんじゃないけどな。ただ物事には順序、てもんがあるだろうよ」
 夫は半径1.5m内外に口の中のトーストやスクランブル・エッグの飛沫をそこらじゅうに撒き散らしながらいつもと同じ凶顔で、これまたいつもと同じフレーズをまくし立て始めた。
 「俺が朝メシ食いながらひとときテレビでも見て奥に秘めた闘志をだ、静かに燃やしながら「さあこれから男の仕事に打ち向かおうか!」って思っているその矢先に、お前何もその脇でガーガー掃除機ブンまわしているやつがあるかよ!そんなの俺が仕事に行ってからでもやればいいじゃないか!」
 夫はこめかみに静脈を浮かせると両目尻をぎゅっと吊り上げて般若様のように激しくなじってきた。
 私だって何も好き好んで朝早くから掃除機をかけているのではないし、そうする事が迷惑だって言う事ぐらい分からない訳ではないのだ。けれども私には私なりのその日の予定が頭の中に組み込まれているのだ。決して非常識にこの時間にガタガタとやっている訳ではない。それを、いつでも夫は分かってくれない。今のうちに掃除全般を済ませておかなくちゃ、あとあとの仕事の段取りに皺寄せがきてしまうのよと、反論めいて言えば夫はますます烈火に油を注いだように喚き散らす。毎度の事なのだから私ももう少しうまく立ち回らなくてはいけないな、とは思う。
 たとえ言いたい事があってもひたすら我慢し下手に出ていればそれで済む筈だったし、夫とてヌカに釘のような私には怒りようがないではないか。そんな判り切った事がでもやはり私にはなかなか出来ないでいる。やはり夫の指摘する通り私は気の強い、可愛げのない女なのだろうか。
 さてそれから私は硝子窓を拭いたり風呂の湯を抜いて浴槽を洗ったりと、いつものように一寸の暇なくスリッパの足音をぺらぺらと鳴らしながら右へ左へと忙しく動き回り始める。夫の言う事など一顧だにあたいしない。少しぐらいうるさくなったって私は私の方法が最善、と信じている。
 キッチンのテ−ブルには無精ヒゲをはやした夫が椅子の上に牢名主のようにどっかとあぐらをかいて納豆を入念に掻き混ぜている最中だ。

 それを見て私は夫も齢をとったものだな、と一瞬確かにかんじてしまう。額のあたりの生え際がやたらと後退しているのが今日はやけに気になったし、それに巨きな体に似合わず背中を老女のようにまるめ厚羅紗の半纏にとっぷりと身を包んでカメの様に首を突き出して無心に納豆と格闘しているのを見ていると、申し訳ないけれどマジでこのひとの年齢を意識してしまうのだ。
 このひとが本当に私の結婚した相手なのだろうか、と情けなくも悲しくなってしまうのだ。

 昔はこうではなかった。結婚した当初は髪も沢山あったし、スリムでちょっとはカッコよかったのにな、と思う。まっ、私だってオバさんになって人の事なんか言えた義理じゃないのだけれど。

 テレビで「今日の占い」が始まった。と言うことは時間はもう6時半か。
 毎日の事だから、番組で時刻が判ってしまう。
 今日は「グルメ編」だ。私の星座はうお座だけど、どやら仕事、健康ともにまあまあらしい。幸運な方角は南東で、ラッキーカラーは、へえ〜「みどり」なんだ。
 「ヨ−グルトを食べると人ずきあいが順調にいくでしょう」、だって。
 うふふ。これチエックね。あっ、そうだった。夫専用のヨ−グルトが今朝で切れるんだった。今日じゅうに買っておかなくちゃ、また何を言われるかわかったもんじゃないわ。
 「倫子。お前はこの俺が死んでもいいと言うのか!このヨ−グルトはな「LG21」(ヘリコバクターピロリ菌除菌すればいいじゃん=編集者ト書き)と言ってな、お前、いいかよく聞け、ピロリ菌を殺すのだぞ。胃がんや胃潰瘍にならないんだぞ。そう言う特殊なヨーグルトなんだぞ。俺はこのヨーグルトでなきゃダメなんだよ。死にたくねえからな。お前が食べてるようなアロエヨーグルトやあぶくま高原ヨ−グルトなんかじゃだめなんだかんな。よく覚えておいてくれよな。俺はまだまだ死ねないのだからな」、とか何とか言うに決まってる。
 それこそ納豆の様にネバネバ、ネトネト絡みつく様に、いつまでも、いつまでもくどくどくどくど・・・。
 そう言えば昨夜子供がよごしたトイレも朝のうちに綺麗にしておかなくちゃ。それが終わったら子供たちの朝食の用意だ。
 おかずは昨夜のうちに作っておいたからあとは電子レンジで「チン」すれば済むのだけれど、今日は一番下の子と幼稚園で親子リトミックをやるので、よそのお母さん方に負けないちょっとセレブなお弁当も拵えなければならない。
 ああ、まったく朝はいつも時間との勝負だわ。時間がいくらあっても足りやしない。それなのに夫ときたら今日もまったく安穏でいいわね。天下泰平そのものだわ。

 「私が朝からこんなに苦労して動き回っているって言うのにちっとも手伝ってくれようともしないんだから。まったくアナタは長生きするわね」
 私は忙しさにかまけて久しく美容室に行ってない事に気がつくと、肩まで伸びてきた長い髪を「ぎゅっ」と輪ゴムでひっつめて聞こえよがしにそうボヤく。夫はそれには応えず急に遠い目をして私を見つめると
 「今度の日曜日にまた試合で一日、家を空けることになるから宜しく頼むよ」と、
 また身勝手な事を涼しい顔して言ってきた。
 私は咄嗟に反論した。当たり前である。そんな勝手な事をされてたまるものか。
 「たまには試合で一日、家を空けることもあるけど、それもまあ男にとってはココロの洗濯、みたいなものだからしょうがないんだよ」などと普段から夫は折に触れては、いいわけを布石していた。私もそんなものかもしれない、と何とはなしに理解していたつもりだった。

 仕事でストレスを抱えながら企業戦士となって日夜、奮闘している世の男どもにとって、たまの休日そうやって日がな一日他愛のない趣味の世界に埋没して気持ちのリセットをする、と言うのも必要な事なのかもしれないなあと、ある一定の理解は持ち合わせているつもりだったのだ。
 元来、男と言うものは丈夫そうに見えてその実、繊細で女と違って存外モロいものだ、と友人の美和もよく言っていたし。

 杉野美和は高校からの旧い付き合いで、私と同級生だ。ちょっと日本人離れした大柄な体躯と、目鼻立ちのハッキリしたなかなかの美貌のもちぬしで、そのせいか何かと男出入りの激しい波瀾の高校生活を送っていた様だった。
 彼女は何故だか私と相性が合って、当時はどこへ行くのでもいつも一緒だった。たしか、旦那さんはどこかの銀行か何かに奉職してるって聞いていたけど。
 「だから、ホラあれよ・・・」
 美和は自慢の長い髪をうるさそうに手で掻き起こしながらハスッパなかんじで言っていた。
 「つまり、亭主が会社で上手くやっていく為には女は大抵の事には目をつぶらなくっちゃあイケナイ、って事なのよ。倫子、わかる?」
 「・・・」私は目顔で返事した。
 「賭け事や、女、じゃあないんだったら大抵は大目に見てあげなさいよ。釣りい?結構じゃないの。アンタそんな事で悩んでたら神サマにバチがあたる、てなもんだわよ」美和は大袈裟な身振り手振りをまじえて真顔で言っていた。
 本当は「釣り」ではなくて「キャスティング」とやら、なのだが話が面倒になるので、私はそれには言及しなかった。
 その後、よくよく聞いてみると美和の旦那さんは去年、会社の合理化で配置転換に遭い、それがもとで出社拒否症に罹って現在も精神科に通院しているのだと言う。
 ウチと同じ小さな子供3人を抱えて、である。
 気の強い彼女が泪を流しながらそうこぼしていた。
 私は慰藉の言葉もみつからなかった。私はそんな話を聞かされて以来、だから自分の夫にだけはそうなって欲しくないと言う思いから、出来るだけ休日の動向には干渉せず、自由でいられるようタズナを緩めるよう心掛けていた。

 でもしかし問題は、私の都合など委細かまわず今回の様に夫が一方的に話を決めてしまう、と言う所にあった。そこの所が私にはなんとしても納得がいかなかったのだ。
 結婚して13年目に入った。その間に3人の子供をもうけ必死に子育てをしてきた。一番上の子の芳明はまだ小六で今年の春からはやっと中学入学だ。次男の茂樹は小三で習字と水泳、最近では夫の肝いりでギタ−教室に通わせている。一番下の女の子、玉恵に至ってはまだ5歳で幼稚園の年中さんだ。雑多な用事も多いし、またそれゆえに何かと物入りになる事も多い。
 子供たちにとって今が一番大切なこの時期に、自分ばかりが浮世離れして独り勝手に遊び呆けていいものでもないし、それはやはりちょっと簡単に許される事でもないと思う。
 私だってそうそう良妻の顔で夫の言い分ばかりを呑む、と言う訳にもいかないのだ。
 ここが正念場、だ。ここで甘い顔をしたら夫はますます付け上がるに決まってる。
 「試合だって?この間やったばかりじゃあないの。そんなに試合試合って馬鹿じゃないの!ちょっといい加減にしてよお!家族の事なんだと思ってるの!」
 私は取り付く島も与えず言下に烈しくなじった。夫は左右に瞳を逃がした。構わず私は更に畳みかける。
 「第一、今度の日曜日は午前中は茂樹のギター教室があるし玉恵のピアノのお稽古もあるのよ。それが終わったら高萩の実家に行ってお米もらって来たり、今秋に結婚する甥っ子の挙式の打ち合わせなんかもあるんだからね」
 私は立て板に水の如くまくし立てた。
 「それからね、それがぜ〜んぶ終わっても夕方には芳明の野球のお迎えに行かなくちゃならないし、お買い物にだって行くんだからね。とにかく、やることいっぱ〜い、あるんだからね!」
 私は自分の言い分がひとわたり終えると今度は夫の出方を伺うべく「さあ来いっ!」とばかりに挑発的な臨戦体制をととのえた。
 夫はその機を見透かした様に一拍置いてから「でもね」と、やんわりと切り出した。少しでも私の怒りをはぐらかそうとしているらしかった。
 「でもね、芳明の野球のお迎えは基本的にあちらのお母さん方がボランティアでやってくれる事じぁないか。リトル(リーグ)は学校の野球少年団と違って送迎とか、そういったケアが要らないから『楽でいいよな』って二人して決めたことじゃないか。それを今になって・・・」
 読経のような言い分がひとくさりすると、夫は唇を舐めた。その唇が光った。月謝も高く、ボ−ルも硬球を使用して小学生にはちょっと危険かな?とも思えたのだけれど、預けておけば安心で一切の煩わしさがないから、と言うのでリトルに入団させたのは本当の事だった。
 「じゃあ茂樹はどうなのよ!」私は間髪を入れずに食い下がった。
 「茂樹のギタ−はあなたが是非にって始めさせた事じゃないのよ!プロのジャズギタリストにするんだって!芳明と違って茂樹の方はあまり頭の方では勝負できそうにもないから、ここはひとつ、芸事でゴハンが食べられる様になれるといいなって、あなたが提案した事じゃないのよお。いずれはNYのビレッジ・バンガードやミケールズなんかのライブハウスで華々しいデビューをさせるんだって、あなた夢みたいな事言っていたでしょうよ!」
 夫は私の気迫に鼻白んで、明らかに狼狽している様だった。さすがに良心の呵責もかんじているらしかったがそれでも夫は、新聞で丸ごと顔を隠すようにして、けなげな訴えを続けた。
 「ギタリストにはするよ・・・。俺の出来なかった夢、だからね」と、夫は言った。
 「それと、帰りはね、早くなると思うんだよ。今度もこの間と同じ水戸でやるんだけど・・・、だからその、近い訳だしその分帰りも早くなると思うんだよ」
 新聞の向こうから弱々しい声がする。何だか夫が気の毒に思えてきた。
 「早いって?いったい何時?」
 「う〜ん2時ぐらいかな」
 「だってこの間水戸でやった時は2時どころか5時過ぎだったわよ」
 「あ・・・あれは仲間とその後お茶なんか飲んだもんだから、それで遅くなったんだよ。今度は大丈夫だよ。絶対2時には帰って来るよ。そしたらみんなで何か旨いもんでも食いに行こうよ」
 「本当でしょうね?本当にその時間に帰って来るんでしょうね?」
 「ああ本当だよ。本当に決まっているじゃないか」
 そう言って夫は唾をごくり、と呑みこんだ。げんきんなものだ。うかつにも仏心を出した私の顔色を見て、試合に行ける手応えを掴んだのだろう。夫は喜色満面のていで小鼻を膨らますと、100ワットの電燈がともるような安堵の表情を新聞の隙間から晒して見せた。
 「俺もねえ、いつもお前には悪いなとは思っているんだよ。いやホント」
 夫はテーブルに散らかった玉恵のお絵かきノートをトントンと片付けると、豆絞りの手拭を雑巾代わりにしてせっせとそこらじゅうを拭き始めた。男の浅知恵で少しでも妻の私に媚でも売っているつもりらしかった。
 「でもね、そう言うこともじゅうじゅう承知の上で清濁併せ呑む、とでも言うのかねえ、つまりそう言う気概をね、妻のお前にも判って欲しい訳なのだよ」
 夫は得意そうにそう言うと「けけけけけ」と、唇をめくって笑った。
 「あっ、俺の友達でさあ、山田って奴がいるだろう?よく家に電話のかかって来るあの岩手大理学部出身のインテリ崩れ・・・」
 私は「来た!」と、思った。話題をすり替え始めたのだ。夫がよくやるいつもの手だ。
 私は夫の話を殆ど無視した。それよりも窓の外でさっきから降り続いていたミゾレ雪が本格的な牡丹雪に変わっていたのに気が付いて、私はいささか驚愕してしまった。
 「あいつのカミさんがね、この間浮気したらしいよ。うはははは。俺は前から忠告しておいたんだけどね、『奥さんが可愛い、可愛いで大事にし過ぎて・・・・になっていると、そのうち若い男なんか拵えちゃったりするからね。だからいくら奥さんを愛していたってタマにはちょっと突き放してテキの見脈を伺うぐらいの駆け引きも大事な事なんだよ』ってね。そしたらアイツ、鼻で笑って俺の言う事なんかどこかの不良親父のタワゴトみたいに、てんで耳を傾けようともしなかったけどね。そしたらこのザマよ。まっ、今となってはもう手遅れだけどね」
 私は相変わらず窓の外を眺めていた。どんよりと、にび色にくすむ空の下。私は家の前の縄手の先まですっかり雪で銀色に輝いているのを見て、その美しさとは裏腹に、これから娘と歩いて幼稚園に行かねばならない事を考えて、鉛のように重く憂鬱な気分になってしまっていた。
 「奴の家庭は今じゃもうガタガタらしいよ。そりゃあそうだろうねえ、夫でなく妻の、浮気だものなあ・・・。奴は毎晩布団に突っ伏して大泣きしてるって噂だぜ。うははははは・・・」
 夫のつまらぬ話はいつまでも終わらない。私の無言の了解を得たのがよほど嬉しいと見えて、それは際限なく喋喋と続いていた。

 私は不図、庭の先に目を遣った。
 去年の暮れに義母がホームセンターから買って来た南天の苗木がすっかり地面に根付いているのを発見した。
 私はひそかに安心した。重い雪の帽子を頂いた南天の実が赤く点じているのが可愛らしく、私には、そしてそれがなんだかとても幽すいに観えた。