![]() |
中橋俊雄の場合・・・完結編 2004年6月5日 |
茨城県水戸地方はこの日、三月中旬の割にのどかに暖かった。 朝のうちは若干肌寒いかなとも思えたのだが、正午近くになるとポカポカした陽光が野辺一帯に差し込み、中橋はなんだか空気が膨らんでいるような感覚にとらわれた。 ゆるやかに吹く春風にカサカサと葉音をたてる、枯れた葦やセイタカアワダチソウの群生を見ていると、まだまだ冬の名残を引きずっているかのようだったが、ふと地面に視線を落とすとそこはもうヨモギやアザミやらの葉が滄海の如く会場一面に拡がっているのに気がついた。 ヒバリやウグイスのさえずりがうららかに響き渡り、その合間からどこに潜んでいるのかキジの声が時折ケンケンと鳴いているのが聞こえて来て、なにやら一幅の水彩画を観ているような幽寂な眺めである。 中橋はさいぜんから鼻をかすめる肥溜めのオワイの匂いに閉口しながらも、蒼く澄みきった空を何気なく見渡した。 野ネズミかハクビシンか、何かそう言った小動物でも狙っているのだろうか、上空はるか高くに停まったように浮かんでいるトンビが目に這入った。 中橋は春の陽だまりの中でこれら生きとし生けるもの総てに、しずかに感動し満足していた。そして中橋は、なつかしい吉野川流域の風景にそれらを重ね合わせ、遠いふる里の徳島を思い出してみた。 えにしとは不思議なものだ。少し前までわしがこんな遠い国で竿を振っているなどと、誰が想像しただろうか?と。 中橋俊雄はコンビニ業界最大手を謳うガリバ−企業、「セブン・ストア−・ジャパン」の東京本部スタッフ社員である。 今でこそ出世コ−スに乗った彼ではあるが、そこに辿りつくまでの道程は決して安穏ではなかった。 四国のとある県立高校を卒業した彼は、若干18歳でそのまま社会に投げ出される事に一抹の不安を抱き、「進学」と言う名の形ばかりの体を繕うために地元のある商科系専門学校へ通い始めた。進学はするものの、しかし確とした目的意識も有たなかった彼である。 この頃から将来に対する何とはなしの不安、つまり今後わしはどうなっていくんやろか?と言った漠とした焦慮感を本格的に抱く事となった。 周りを見渡すと、どいつもこいつも額面通りに受け取っていいものか、みんな利口そうに見えたし、やたらまじめくさった難しい顔をした連中が集まっている。本当に理解しているのか、難しい「財務会計論」や、「金融政策論」等の講義をふんふん頷きながら彼らが熱心に聴講しているのを見ていると、青春真っ只中だと言うのに大声出して笑う事もなければ、冗談のひとつも言わないでいるのが、奇態で無気味にさえ思えた。 そしてお互い疑心暗鬼に駆られてけん制し合い、スキあらば仲間を蹴落とそう、とたくらむ狡猾な眼だけが彼らには光っているのだった。 中橋は自分独りが取り残されたような感覚に襲われ、そして落ち込んだ。彼は心のうちに惟った。 コイツ等みんな敵じゃ!と。 将来何らかの形でわしの敵にまわる連中じゃ!・・・そう本能的に直感したのだ。 然し彼は、それだからと言ってその敵に対抗すべく自分も勉強しなくてはならぬ筈であったのに、それが出来なかった。 授業の内容が余りに実生活を離れた学術論で、全く興味が湧かず面白くもなかったのである。向学心に燃えた彼の意気込みはそこであえなくも、ついえた。 それからの彼は何をするのでも無気力であった。たとえて言うなら、外角低目からちょいと上を見上げるような、ふて腐れたアウトロ−を気取る日々を送ったのだった。そして結局、何等の初志を貫く事もなく2年の後に、まるで厄介払いにでも遭ったようにほうほうの体で学校を逃れたのであった。 そんな彼にもしかし、「専門学校卒」の肩書きだけは残った。 親類縁者はこぞって彼に就職の口を周旋してくれた。そして田舎特有のネバつくコネを十二分に駆使して貰い、彼は難なく地元のある地方銀行の一支店にまんまともぐり込む事に成功したのである。 彼は親類の期待に応えるためにも、そしてそんな彼等の顔にドロを塗らぬ為にも精一杯努力した。地方銀行とは言え、中橋の実力、肩書きからすれば勿体無いくらいの安定した、いわば花形企業である。それだから彼は寝食を忘れて己の身に余るこの会社に奉職した。 営業の基本である融資に取り付くために、足を棒にして駆けずり回り、余人に先駆けて苦労を買い、懸命な努力を惜しまず、身を粉にしてその職務遂行に尽力したのであった。 そんな中橋であったが、しかしある時またふと、自分の仕事に疑問を持ち始めてしまったのだ。それはたとえば、金利や業務の自由化とともに金融機関の見直し、合併、などの再編が進む昨今、彼の銀行もまたこれらの影響の余波をモロに受け、通常彼の就業内容の商工ロ−ン等の融資業務や債権処理業務が激化し、その前途が多難になって来たからであった。 またそれに加え銀行間の競争や、証券業務への進出、郵便貯金の一部参入。某大手デパ−トによる異業種や新型銀行の参入等、数々の要因が日ごとに激化して来て、地銀とは言えまさに金融界は波乱の様相を呈して来た事が、中橋をして限りなく不安にさせたからだった。 中橋はそんな中で将来の展望を考えた時、このままこのような問題処理や目先の営業に奔走しても、多分自分が経営陣に加わる事は未来永劫にないだろうな、と踏んでしまったのだ。そう思い始めた時、彼はいともあっさりとこの銀行を辞めてしまった。 変わり身の早さ、切り換えの早さは尋常ではないのだ。勿論、糊口の資を与えてくれた親戚一同には申し訳ない、と言う後ろめたさはあった。が、中橋が生き甲斐を感じぬ以上、これ以上この会社にとどまるのは彼等だって不幸、と思ってくれるに違いないと得手勝手に考えた。 夢のない仕事ほど空しいものはない。それは誰だって判る事だ。「セブン・ストア−・ジャパン」は、中橋のような中途採用の者にも実力さえあれば上級ポストを用意すると言う、実質本位主義を高く標榜する企業だった。 実際、幹部クラスの連中の経歴を見てみるとこの中途採用者が多数いて、それも嬉しい事に、彼と同じ金融あがりが多かった。それを見たとき中橋は、「よし、わしだって!」と、心丈夫に思いこの会社に決めたのだ。 最初彼は、トレ−ニング部の社員として入社したのだったが、本人の実直な性格もあってアシスタント部、OFC、へとアレヨアレヨのまたたく間に上級職に駆け上がって行った。 同郷で鳴門市出身の織本健一は、出世の先を越された腹いせか、事あるごとにこの中橋をつかまえて「なにしろ俊雄さんはヒトの気持ちを掴むのがうまいで」などと、お世辞とも皮肉とも取れるような事を、妬みがましく言っていた。 なるほど織本が言うように、中橋が齢に先がけて出世しているのは幾多の昇給試験に順調に合格している、と言う事だけではなかったようだ。それは、「仏の俊雄さん」と言うアダ名が示す通り、若さに似ずやけに年寄りみたいに腰の低い穏やかな性格が、周りから愛され受け容れられた、と言う事も大いに起因していたと思う。 「最後はやっぱり人望、ってことだよなあ。わしにはその徳がねえで。俊雄さんみたいによ!」 果たして,中橋は中央に迎えられ、東京本部スタッフ社員となった。まさに誰もがうらやむ見事な栄転だった。 現在彼の役職は、ディストリクト・マネ−ジャ−と呼ばれる経営の一翼を担う重要なポストである。彼の長年の夢だった経営参加が、とうとう実現したのである。 そんな順風満帆な中橋であったが、周りのうらやみを余所に彼はいつでも心の中で打ち叫ぶ事があった。 それはこれまでの自分の生き方が織本や他の仲間が言うような、人のゴキゲン取りやゴマスリ人生では決してなかった!と言う事だった。 決して無意味な仏顔でバカのように腰を低くしていたのではない!と言う事だった。 中橋は幾度となく悔しい思いを経験した。つらい思いも重ねた。それだから努力したのだ。それらに負けまいと必死で抗ったのだ。だから周りが言うようにゴマスリ人生、等と簡単にひと括りの評価が出来るほど、自分の生き方は浅薄で平坦ではなかった、とつよく信じていた。 「職場に戻りゃ、へらこい(ずるい)上司の二、三人はおるし、同僚にもわしをスポイルする奴がゴロゴロようけおるんじゃ。たまにそいつ等をみんなせんぐりに(次々と)ブチ殺してやろうって言う衝動に捕われる時だってあるんじゃ。上に駆け上がれば駆け上がるだけ敵が増えて、そう言うとんでもない感情さえ押さえられんて、押さえられんて事もある言うのんを、お前等識っとるんか!」 中橋は、誰に言うともなく心のうちに叫んだ。 「誰だってそう言う思いのひとつやふたつは、ある言うもんじゃ。人間なんだからな・・・」そう言って彼は遠い目をした。 中橋は会場脇にある土手に独り離れて腰を下ろすと、今朝来る時に買っておいた缶コ−ヒ−を呑み、やおらタバコをくわえた。 遠くで中間達が相変わらずバカ話しに興じているのが見えた。ここから観ているとちょうどそれは黒いひとくれの陰毛のようだ。 試合が了ったと言うのに、名残惜しいのか、みんななかなか帰ろうとはしないのだ。 不意にまた破裂するような大爆笑が起こった。どうやら今度の茶坊主は黒澤のようだった。ディスト−ションの効いたような巨大な声で彼が必死に仲間に抗弁しているのが遠くからでも判った。そのたびに仲間の笑いを誘っている。 「まあ、あれだな・・・」中橋は口の中だけで呟いた。 「あの黒澤にしたって、このわしにしたって、ああやってみんなからたっすい(馬鹿)にされちょる位で丁度いいのかもしれん。」 そう言うと胸一杯に吸い込んだ紫煙を惜しがるように静かに吐いた。 「もっとも黒澤の場合、しょうたれな(つまらない)ただの純正アホやけど・・・」 そう言って中橋はあはあはと、喉の奥で笑った。 そして、「たっすいに思われちょる位が、周りに敵つくらなくて済むけん、な」と、自らを説得するように呟いた。 それはあたかも、達観した儒者の言葉の響き、に似ていた。 「おーい、中橋さん!」 遠くで多辺が何やら大声を上げている。見ると大きなナリをした彼が、両手を振り回しながら無邪気な貌で中橋に向かって駆け寄って来るところであった。 「帰りに納豆買って行きましょうよ。ワラ納豆!美味いんだよ、水戸のは。本場だからさあ!晩酌の肴にね、最高なんだよ。たまごひとつ落とすのが、通なんだよ」 「ああ、いいね」 中橋は唇だけで笑い、そう言った。 「で、もうそろそろ帰りましょうか?」 だいぶ近くまで来てから多辺は、はあはあ息を切らせながらそう言った。にこにこ笑って子供のように屈託がない。 キャスティングと言う同じよしみで集まる人間は、殆どみんなこう言う愉快で気の置けない奴ばかりだ。お互いに利害が無いのが人間同士の付き合いを素直にさせているのかもしれない。それを感じる時、中橋はいつでも優しい気分になる。 帰ろうか?どうしようか?一刹那、中橋は思いあぐねた。 タバコの煙が行き場に困り果てて途方に暮れたように、いつまでも中橋の周りから離れようとはしなかった。 静かな午後。時が止まっているようだった。 帰るのはまだ早いかな?中橋俊雄はそうかんがえ、仲間ともう少しここに残って居たい、と思った。 午後の陽射しを一杯に浴びて、葦の葉影の向こうに那珂川の川面がキラキラ輝いているのが見えた。 |