番外編・真実!山田しげき論 2004年3月19日
(番外編)真実!山田繁喜論

 EK山田繁喜は山羊のようにおとなしい男であったが酒には滅法強かった。今では茨城県ひたちなか市在住ではあるけれど、大学を出る二十二歳の春まで郷里の岩手で多感な青春を過ごしその時分から相当な酒量を誇っていたらしい。黒沼悦郎もこと酒飲み、ともなれば人後に落ちない方ではあったが、この山田に較べればいささか心許ないように惟えた。
 山田の父親は彼が小さい頃、長い療養の果てに物故しておりその時の病名が「脳卒中」と云うことだったので、多分過度の酒飲みから来る高血圧、そしてお決まりの最終コ−スで脳疾患、と云うパタ−ンではなかったのかと黒沼は何とはなしに確信めいて考えていた。
 酒を飲む事しか娯しみのない岩手の寒村で、そんな左党の父親のDNAを受け継いだ山田である。酒に弱かろう筈がなかった。山田は、献酬をかさねるにしたがって貌色が浅藍に変わって目付きが吊り上るのが無気味ではあったが、それ以外は総じて文句の付け所のない温厚な性格で黒沼にとっては目下のところ一番気の措けない友達の一人、と云う事が出来た。

 「キャスティングの話をしながら呑む酒は、これまた旨いのよねえ」
 随分と前の事だったが、妻が実家の福島に帰郷して居ないから、と泊りがけで呑みに行った時,黒沼に向かって開口一番、山田がそんな事を云ったのだ。
 「ホント、よく来てくれたねえ、うへへへ・・・。おし!今日は呑むぞ!うへへへ・・・呑むぞ!呑むぞ!」
 山田はそう云って相好を崩すと、黒沼が家に訪れるやすぐに二階の自室に招き入れた。何台ものパソコンやそのデバイス。会社で必要なのだろう、関係書類やデ−タファイル。床にはきわどい成人誌や何やら難しそうな学術書。そして釣りのタックルボックスや工具類・・・。ちょっと枚挙にいとまがない程、いろんなものがいろんな形でそこらじゅうに雑然と散らばっていた。まったくこの辺の感覚は俺と似ているな、と黒沼は心の中で笑ってみた。
 山田は部屋の真ん中でそれらに埋もれながらニカニカ笑いながら突っ立っていたが、黒沼が両手にビニ−ル袋を下げているのを発見すると、大慌てでうずたかく積まれた書類の一隅をまるで雨滴を拭うワイパ−のように手で大きくざこざこと、なぎ払うとそこに畳一帖位の空き地をつくった。そして目もとまらぬ一閃、と云うかんじで素早く黒沼の両手から酒やつまみ類の入ったビニ−ル袋を引ったくると、それを大胆にどかどか床にぶちまけたのだ。
 「何買ってきたの?ねえ、何買ってきたのさあ?ひひひ・・・」
 山田は妖怪のようにあやしく笑いながら訊いた。つまみは黒沼の好みのものばかりで、定番の柿ピ−、サラミ、カマンベ−ルチ−ズの他にアン肝やホタテの貝柱、牛肉のしぐれ煮などの缶詰類。それから惣菜コ−ナ−で買ってきたエビチリや筍とピ−マンの細切り炒め、つくりたての小籠包などなど。目に付いたものを手当たり次第に買い込んで来たのだった。
 山田はアン肝の缶詰とエビチリを両手に取ると、それがとりわけ彼のお気に入りなのか牛のようによだれを垂らさんばかりに、そいつを交互にためつすがめつ眺めまわすと、
 「コレ旨いんだよねえ。うへへへ・・。コレだと酒がいくらでも入っちゃうんだよねえ。うへへへ・・・」
と、云って痴人のように正体なく笑った。

 「んだね、ほっほっほっ」黒沼も翁の様に嬉々と笑った。
 二人とも酒盛りともなれば、あたかも禁断症状に喘ぐ者に薬物を注入するが如く、双(もろ)手を挙げて歓び合ってしまうのが常だった。

 そんな山田は一流大学出身の、いわゆるエリ−トだった。黒沼は脳ミソの片隅でいつもその事で彼を畏敬していた。

 子供の頃、勉強など一切遣らずもっぱら釣りばかりに熱中していた自分と違い、恐らく山田は毎晩遅くまで机に向かってコツコツ、カリカリと勉強をやっていたのだろうと云う事は想像に難くなく、そんな山田を見るにつけ勉強とは全く無縁で劣等生だった自分の少年時代を重ね合わせると、黒沼はただただ恥ずかしさからボリボリと頭など掻いてしまうのだった。
 けれども黒沼は彼のようなエリ−トにはあまりなりたくはないな、と一方では考えていた。それはクラブ員達と一緒に投げの練習をしている時も頭に<補聴器>のようなヘッドフォンを付けて熱心になに事かの勉強をしていたり、日曜日だと云うのに突然携帯が鳴って泡を食って会社に駆り出されているのを見てて、つくずく彼が気の毒だな、と惟えたからだった。
 三流私大卒で余り上等でもない黒沼が技術系の山田の会社に採用されるとはまずもって考えられないし、まあ荒唐無稽な話しではあるが、もし彼と同じ会社の人間であったなら、いつまでたっても自分が<ヒラ>でウダツが上がらぬことなんて判り切った事だし、同じ齢の山田にはるか先まで出世を越されてヒイヒイと喘いでいる自分の姿が容易に想像する事が出来た。いや、場合によってはヒエラルキ−の末端で右往左往している己に嫌気が差して、ノイロ−ゼか何かになってとうの昔に首でもくくって死んでいたかもしれない。

 黒沼は目下の自分の仕事がそう云う非常な状況にはない事を、つくずくしあわせに感じる事があった。
 終わりのない努力。
 烈しい進取の気性。
 そして、常に見え隠れする強迫観念と焦燥感・・・。
 エリ−トにはエリ−トの苦しみが間違いなくある筈だった。

 黒沼はひたすらに鈍才で機転の利かぬ男であったし、自分でもその事を嫌、と云う程自覚していたが、だからと云ってその事を苦に病むと云うふうでもなかった。

 彼は能く云えばオプティミストだった。自分には自分なりの<生き方>があるのだし、ささやかではあるけれど<幸せ>だってそれなりにあるのだ、と惟うようにしていたのだ。

 先日、そんな山田に偶には一杯やろう、と進言したのは黒沼の方からだった。だいぶ前に自分の住む日立と云う街で呑み会を遣ってもらった事を黒沼はいつまでも気にかけていて、いつかそのお返しに山田の住む街で一献あげなければ、と律儀にかんがえていたのだった。が、それともうひとつ本当の事を白状すれば普段仕事に追われて、ちょっとした旅行すら出来ないでいる黒沼が、どこか識らない街で気ままに呑んでみたいと云うささやかな願いも実は寡しは、あったのかもしれなかったが。

 店は前々から黒沼の方でアタリをつけておいた。山田の最寄の駅であるJR佐和駅からほど近い、表通りから寡し中に這入った閑静な住宅地にまるで人目を憚るみたいにしてその店は在った。
 入り口は余計な装飾を一切しないで、紺地の和紙にたいしてウマくもないクセの強い字で<酒処・佐和>、とだけ小さく白ヌキで書かれた矩形の提灯がぶら下がっているだけの、しょうしゃな普請の居酒屋であった。向こう三軒両隣かせいぜい町内の客しか相手にしない、と無言のうちに主張しているようなその店は、提灯が降りていなければ普通の住宅なのかな、と見まがう程ソッ気ないしもたや風のたたずまいであった。が、逆にそんなところが前々から黒沼の好奇心を惹いていたのだ。
 「得てして、地味な店ほど良かったりするものです」と、黒沼は僧侶のようにおごそかに云った。
 「それにひきかえ、目抜き通りで華々しくやっている店はいけませんね。あれは絶対にやめといた方がいいですね。高い家賃を返済する為に料理のひとつひとつが割高で、誤魔化したものが多いからね」
と、黒沼は断定的に云った。
 「それにね、繁華街はね黙っていても客が勝手に這入るもんだから、店側の方で経営努力をしませんね。自助努力も経営倫理も欠けますね・・・」
 山田は神妙な面持ちでこくりこくりと頷いて、時折
 「ふ〜んそうですかあ」などと云って間が抜けた合いの手など入れていた。
 が、然し本音のところでは、要するに廉く呑めさえすればそれで充分なようであった。

 山田は黒沼ほどには食い物に対して頓着せずその造詣も稀薄であった。人の宜い山田は黒沼の気分を損ねぬよう、それでも表向きだけは迎合する事を忘れないのだ。

 その日、黒沼は山田と夕方六時に駅前で落ち合うと勇躍、くだんの呑み屋に這入った。黒沼の目論みは見事に的中した。果たして店の料理のどれもが大変に旨いものだったのだ。品数が幾分少なめともかんじられたが、その分その一品、一品がまことに呑み助のツボを押さえた丁重な味付けになっていて、マンガの<海原雄山>なんかの食通がよくやるように,黒沼は一口食べては「う〜ん」だの「むむむ・・・」だのと大袈裟に云っては劇画調に喜んだ。

 小皿に盛られた縞鯵や石鯛の造りは、新鮮でカドが揃っていたし、伊勢イモの炊き合わせ、筍の木の芽焼き、それからふきのとう、こごみ、タラの芽なんかの天婦羅も高級感が漂うまさに絶品と云えるものばかりだった。
 そうかと思えばどこの呑み屋でも定番メニュ−のもつ煮込みなんかも如才なく置いてあり、食い道楽の黒沼にはただもう満足この上ないものだった。

 黒沼は山田を前にして上機嫌で肴を食らい、たらふくの旨酒を呑んではいつもの様に厚顔な自慢話を始めた。
 独自のキャスティング理論や運動理論。
 そしてこれまた独りよがりの政治見識や青臭い人生観などなど。
 酔いに乗じた黒沼は、身のほど知らずにも強引な口吻で問わず語りを展開したのだった。

 黒沼の自慢話はいささか鼻持ちならない事ばかりで、その内容もオ−バ−にデフォルメされたものが殆どだった。が、それも酒宴なればこそ、の他愛ないざれ言と云う事が出来た。話しを面白、オカシクしてその場を盛り上げようとするのは黒沼一流のパフォ−マンスであるのだ。たといどんなに酔っていようと充分許容範囲内での会話だ、といつでも黒沼は計算していた。
 能くしたもので山田は山田で徹底した聞き役に甘んじるのがそれ程苦痛に惟わない質(たち)のようであった。
 そして、そんな割れ鍋にとじ蓋的な所も二人が気の合う要素、となっているようだった。

 実際、キャスティングを通して長い付き合いになる山田とは齢が一緒なせいか確かにやることなすことの大体に於いて、価値観が同じであった。
 例えば、釣りは面白くて安上がり、その上食って旨ければ尚のことよし、と二人の意見は相場が決まっておりそれは例えば、えせモラリストがよくやるいたずらに魚を傷つけて釣り上げておきながら、すぐまた無責任にリリ−スすると云うルア−釣りや、苦労して一度でも水温が高い南へ遠征したのにワカサギクラスのピンが2〜3匹の釣果、と云った法師の苦行のような春まだ遠いキスの投げ、と云ったものに一切見向きもしなかったのだ。
 「何でそこまでしてよお・・・。なあ」
と山田が云えば、相方の黒沼もヒザをポンと叩きながら、我が意を得たりとばかりに
 「んだよなあ。そんな事やってっから釣り師は変わり者が多い、なんて世間様から云われんじゃねえの。なあ」
と、二人はこの手の話題になるといつも気味が悪いほど馬が合っていた。
 そして同時に二人はこれらストイックな釣りに走っている仲間をあざけり、ボロボロにこき下ろす事も忘れはしなかった。
 二人は釣りに対し無理矢理に実体のないロマンをこじつけようとしたり、繊細な釣りにその奥義を極め人生のヨロコビ、機微などと云ったものを押し付けがましく投影する、と云った事を好まなかった。
 夢がない男たち、と云えるかもしれなかった。
 が、然しそれゆえに現実的、と云うこともまた出来たかもしれぬ。

 こう云った共通の価値観は<本業>においても同様の傾向が見られた。
 即ち、キャスティングはとべばよい、的なコンセプトに終始したのである。
 つまりそれは、より遠い飛距離を得るためにはフォ−ムの研究、基礎体力の充実。実践でのメンタルケア、自己コントロ−ルと云った事を優先するのが大事なのであって、間違ってもロッドやリ−ルの新商品を競って買う事ではなかったのだ。
 「高い新商品のロッドを買って10センチでも飛距離が稼げるんだったら、俺らあとっくの昔にでも買ってっぺ。だげどよ、そうはいがねえのはみんな誰でも判ってる事だっぺ。それが単なる気休めだっちゅう事がよ」
 山田はそう云うと黒沼に同意を乞うように傍らのビ−ルを注ごうとした。
 黒沼はそれに応える様にグラスを目の高さまで挙げると片手で虚空を切る様にして大仰にごつあんをした。そしてグラスをナナメにかしぎながら
 「んだね。そりゃ、尤もだね」
と、張り子の虎の人形の様にひたすらぺこりぺこりと首肯った。
 「周りの連中は俺等の顔見りゃ、『竿も買わねえケチンボ』だの『そうだ堅ぐしていまに蔵でも立てるつもりだっぺが』だのと、勝手な事云いたい放題でよ・・・」
 俺等って?ひょとして世間から見れば自分も山田と一緒に一括りになっているのかな?と、黒沼は心の中で思った。
 だとすると、それもちょっとウスラ弱った話しだなあ、と今更ながらに黒沼は考えた。
 「俺に云わせりゃあ『お前等の方こそ問題ハキ違えているんじゃねえか!』って、云いてえよな・・・ちくしょう」
 普段の鬱積がたまって余程悔しかったのか、山田は堰を切らした様にドトウの如く不満をまくし立て始めた。そして話題の中心が佳境に這入るやお決まりの一席を最後までぶちまけないと気が済まぬ、と云ったかんじになってきた。山田のボヤキは執拗を極めた。
 「まあ、あれだね」
 黒沼はそう云うと激昂する山田の話しを大手を振って遮るとその後を引き継いだ。
 「たしかにキャスティングって云うのはスポ−ツであって、新製品の道具を揃えることなんかじゃあ、あんめえな!道楽モンのコレクションじゃねえ訳だがらな!スポ−ツな訳だがらな!」
 黒沼は眉間に深い縦皺をつくると、干しダコのように口をとがらせて続けた。
 「技術を磨いてどんどん試合に出る事だっぺよ。それが連中ときた日にやあ、メ−カ−に踊らされて竿やリ−ルは買うが遠征試合にゃあ金が廻らねえからとんと出やしねえ。ホント、いったい何のためのキャスティングなんだか・・・。本末転倒してるって思わねえんだっぺが!」
 そう云って感極まったのか、掌のひらを固めると、どん!とテ−ブルを強打した。
 周りの客は何事か!と、一斉に黒沼達の方を振り向いて注目したがとるに足らない事だと判ると、すぐまた自分たちの会話に戻った。
 黒沼は周りの視線を気にしながらも、尚も傍若無人に言葉を継いだ。クドくなったのは齢のせいなのか、それとももって生まれた恥ずべき気質なのか。
 「陸上の選手が新しく買ったスパイクを自慢するか?違うだろう?ニューレコ−ドをひたすら希求するだけだろう?」
 「巧い事を云うねえ」
 鼻の頭を真っ赤にした山田が、赤目を無防備に垂らして嬉しくてしょうがない、と云ったかんじで肯った。
 「だろう?だったらキャスティングも同じじゃねえか!いい記録を出す事なんだよ。スポ−ツなんだからよ!ケッ!」
 一応、もっともな理屈ではあった。二人の話しには確かに筋が通っていたし、そこには他のいかなる論敵も打ち砕く理論の整合性が存在した。
 二人は能く云えば地に足のついた思考型、であり合理的な考えに物事の座標軸を措く、理論武装を、基本的スタンスにしていたのである。

 十人十色との諺が教示する通り、人の考え、価値観はそれぞれが実に様々である。そんな中にあってこれだけことごとく共通項を拾える二人と云うのも珍しい方ではないか、と黒沼は酔った頭で惟った。
 山田の黒沼に対する接し方も遠慮やつつしみとは無縁のものばかりであったが、逆にそんな所も黒沼にはひどく嬉しいものに映じていた。それはお互いが同じ人種の匂いを嗅ぎ取る一瞬でもあったし、転じて山田にしてもそれだけ黒沼に気を許している事を裏書するようなもの、であったからである。

 「我々はァ!かかる日本資本主義経済のォ!」
 突然、山田が絶叫した。絶望的に深紅に染まった貌と犬のように吊り上った眼が焦点の定まらぬ中空をキッ!と見据えると、山田は凶状持ちの面持ちでタダナラヌ気配をそこらじゅうに照射したのだ。
 「・・・元凶であるところのォ!物質欲、ならびにィ!米帝国主義追従型のォ!プチブル至上主義的指向をォ!厳しく自己批判しィ!」
 「そうだ!そうだ!もっと云え!もっと云え!竿買わねえがらって俺ら労働者をバカにすんなよ!」
 黒沼は何だか愉快になって、無責任に山田に焚き付けた。
 カウンタ−の奥で店の親爺が明らかな迷惑顔で、市松模様のねじり鉢巻を解くと、広い貌一杯をはたり、はたり、と拭いていた。
 「我々、プロレタリア−ト同胞にィ!不当な弾圧を加える当局のォ!日和見的反動勢力のォ!欺瞞性をォ!断固として粉砕すべくゥ!今こそォ!我々はァ!団結しィ!総決起しなければならなあい!」
 「うはははは。よっしゃ!よっしゃ!いいぞ!いいぞ!うはははは・・・!」
 黒沼ははじけるように笑った。

 山田は見当違いのアジを繰り返しながら、それでもワリ勘負けしないよう、目の前の料理をひとつ、ひとつ、着実にスルドク摂取する事を決して怠らなかった。

 黒沼も同様にぺたこ、ぺたこ、と舌鼓を打ちながら、ただもうそうすることが目下、人生最大の業務であるかのような決死の形相で、料理をむさぼり食い続けた。

 そしてその日、二人はいつものように一点の曇りもなくバカなよたれ話しにいつまでも、いつまでも、果てることなく打ち興じていた。