中橋俊雄の場合・・・前編 2004年5月15日
「お疲れ様でした。」

 試合が終わっていつものように虚脱感の只中で道具の後片付けをしている中橋俊雄の背中に向かって、同じ六種仲間の黒澤越生がそんな歯の浮くようなおべっかを言ってきた。
「ちょっ!イヤな奴が来よった!」
 口の中だけで吐き捨てるようにつぶやきつつも中橋はあわてて表面だけは、にわか仕立てのつくり笑いを浮かべた。

 今日の中橋は内容が思わしくなかったので、とても愛想する気分になれなかった。が、だからと言って試合の終わってしまった今になってもその事をズルズル引きずっていつまでも気に病んでいるのも、大人気ないなとも思った。
「そらまっ、おえらい(お疲れ)さんですな」
 中橋はやっとの思いで形式的にだけ、そう言った。
 黒澤は荒涼とした頭部が冷えるのか、季節がもう春だと言うのに爺くさい毛糸の帽子を目深にかぶって、所在なげにウスラ笑っていた。

 本人みずからも気にかけていたようだったが、実際黒澤は近年とみに髪の毛が薄くなって来ていた。ちょうどそれはノルウェ−のフィヨルド海岸を思わせるように、額の両端がM字形にスルドク後退しており、笑っていなけれ凶悪な殺人犯か何かのような凄みのある貌立ちをしていた。

 中橋は四、五年前豊橋で行われたNSC選手権大会で初めて黒澤に遭った時、その余りの凶顔に何だか少しだけたじろいでしまった事を今でもハッキリと覚えている。齢の割に薄い頭髪の本当の理由はたぶん、この男が年甲斐もなく男性ホルモンか何かが異常に過多の絶倫タイプで、もっと言えば性欲全開、ドロドロの助平親爺だからなのでは?と、中橋は心の一隅でいつも考えていた。
 生臭い高校生のようにたぶんこの男は四六時中、女色の事ばかりを思いふけっているイロキチガイに違いない、と踏んでいたのだ。
 そう思うと殺人犯、と言うよりはむしろ猟奇的な性犯罪の被疑者、と言った方がマトを得ているかもしれなかった。
「ぐふふ・・・、そんなかんじだ!」
 中橋は自分が見たてた推測があまりに的確だったのに感動して思わず声を漏らして悦に入ってしまった。
「えっ?何笑ってんの?」何も知らない黒澤は怪訝な顔で聞き返した。
 固より中橋の心のうちの事などこの男には何ひとつとして判る筈もなかった。世の中の苦悩から遠く乖離した平和な世界にこの男は棲んでいる。
「いやなに、こっちの事じゃ」と、中橋は慌てて笑いながら取り繕った。
そして、「それにしても黒さん、今日もなかなかでしたな」と、当り障りのない事を言って故意に話題をそらした。

 関東オ−プンと銘打ったこの大会で黒澤は五投目に出した213Mで三投平均をようやく210M台に引き上げる事に成功したものの、その時はもう時すでに遅しで、追い風時に三投をまとめる事が出来なかった彼は、結果的にトップに3M余りのビハインドで三位、に終わってしまった。
 また例によって持ち前の気弱な性格がここ一番、と言う時になって台頭してしまったのだ。普段から勝負事は勝ちか負けるかの二通りしか存在しない、と豪語している黒澤にとって、この三位と言う結果はいわく言いがたい不満の残る試合内容であったに違いなかった。まるっきり入賞すら能ぬ、と言うでなくさりとて優勝したわけでも勿論、ない。
 この宙ぶらりんな結果を踏まえて中橋は「なかなかでしたな」、などといかようにも取れる苦しい世辞を吐いたのだった。

 理由は判っていた。一、二投と珍しく序盤からリ−ドしていた黒澤は順風に変わった三、四投を<勝ち>を意識する余り失投してしまったのだ。
 それは呼び込みでオモリが充分に入ってこないまま投げの動作に入ってしまう、と言う俗に言う投げ急ぎ、で誰の目にも明らかな初歩的失態であった。
 黒澤は小心者であった。それだから体の動きも甲冑を身にまとったPUPPET(かいらい)のようにぎくしゃくとしていた。中橋はそんな黒澤の萎縮ぶりをネット裏から息を殺してねめつけながら「くふくふ」と、悪魔のように目を細めて笑った。

 人の失敗ほど嬉しいものはない。黒澤が緊張からおどおどしながらオモリを呼び込んだ時、中橋はああコイツは今日はダメだな、今日は自分に負けてるな、とほぼ確信に満ちてそして期待を込めて考えたのだ。
 そして果たせるかな、結果は見事に彼の予期した通りになった。中橋は周りが失敗する事で自分が優位になる事に、いささかの不条理とわずかばかりの良心の呵責に戸惑いつつも、「勝負の世界だからな。コレばっかりは、どちらいか(どうも)しょうがねえ」と、ついつい緩んでしまう自分の目尻に閉口しながら、懸命に殊勝貌をしつらえた。
 黒澤が三位に沈んだからと言ってしかし、かわりに中橋が上位に繰り上がるわけではなかった。

 この試合の丁度一週間前、捲土重来を期すべく同門の近藤寿、多辺一顕らと三人でわざわざ東京から水戸まで練習にやって来た時、中橋は恐ろしく絶好調だった。
 朝八時頃から午後二時頃までブッ通しで投げ続けた彼は、終始衰えることなく思い通りの投げを展開し、腰や体のキレは最後まで申し分のないものであった。
 黒澤が不調から190M台でひいひい喘いでいるなか中橋は独り200オ−バ−を連発し、この分なら今度の試合こそ黒澤を叩き潰す事が出来るかもしれない、と心ひそかに期していたのだ。

 なにしろ中橋はこの黒澤が嫌いでならなかった。とくにコレと言った理由はなかったのだが強いて言うなら、悩みや心配事とは全く無縁で世の中がすべて自分中心に回っているような、がさつな性分がなんとも自分には相容れなかったのと、他人を思いやる気持ちに欠け無遠慮に人の内面にまで立ち入って来たり、馴れ馴れしく自分との距離を縮めて来るのがわずらわしく不愉快でもあったからなのだ。
 勿論、同じ六種を遣る者として厄介な存在であることも好きになれぬ理由のひとつではあった。

 だから中橋はたとい試合に負けようともこの黒澤だけには負けたくない、絶対に負けるものか、と言う堅固な対抗心を常日頃から持っていた。
 今までの試合を振り返ってみて負ける事の方が多かった中橋だったが、今度の試合にだけは、ぜひとも勝っておきたいものだ。勝って黒澤の低い鼻梁をヘシ折って遣りたいものだ、と考えていた。
 けれども試合となると、中橋もまた黒澤と同様に本来の自分の力を充分に発揮する事が出来ないタイプだった。
 たった五発きりの勝負だと言うのに、彼はいつものように濡れ紙をはがすような臆病な投げに終始し、Fもないかわりにどれひとつとして先週のようなキレのある凄まじい振りが出来なかったのだ。

 中橋は落胆した。またも黒澤に負けてしまったのだ。彼はふがいない我と我が身をののしって、ひたすら悔やんだ。

「あのね、中橋君。ぐふふ・・・」と、近藤寿が含み笑いをしながら何か面白い下ネタでも考えついたのか手ぐすね引いてやって来た。

続く・・・