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中橋俊雄の場合・・・前編 2004年5月30日 |
近藤寿は、二種目の世界では<アイガ−の北壁>と恐れられている人物だった。 同種目を選択する誰もが彼の難攻不落な強さを西アルプスの高峰になぞらえ、そう呼んでいたのだった。 並外れた強靭なパワ−と細部にわたり緻密に計算されたテクニック。そして多分、酸いも甘いも知り得るよわいを幾星霜かさねたからなのだろう、滅多にプレッシャ−に動じないふてぶてしい試合勘。 これらを武器に彼は今まさに向かうところ敵なしの状態で、東日本では、その余りの強さに戦いを挑む者さえいないと言う状況が久しく続いていた。 だから試合と言っても実質的にはこの日もひとり舞台で、さびしく自分の投げを確認する、と言ったかんじで彼は投げを繰り返すだけでしかなかった。 「あのね、中橋君」と、近藤寿はもう一度言った。 細めた目尻が「へ」の字に泳いでいかにも好色そうだった。 「きのう奥さんとヤッたね?」 そう言うと近藤寿は口端を曲げてぐふふ、とまたいやらしく笑った。 中橋は、はじめそれがなんの事やら判らずに頓狂な顔をしていたが、ほどなくしてその意味がわかると急速にうろたえた。近藤寿の言う事が図星だったからである。正確に言えばきのうではなく今朝方、であったが・・・。 コトの顛末はこうだった。 中橋はこの日、久方ぶりの試合と言う事もあって緊張からか、なかなか寝付けずに明け方まで無聊に苦しんでいた。そして彼は今日の試合でやるべきテ−マをつらつらと夢うつつに思索しながら何度となく寝返りを打っていたのだった。 そんなときだった。隣ですっかり寝入ってたと思ってた妻がいつの間にかするり、と彼の寝床に這入って来たのだ。中橋はそれがどう言う事なのかすぐに了解した。普段、タンパクな妻が何を思ったのかみずから夫を求めてきた、と言うわけなのであった。 中橋は驚いた。そして、「た、多佳子!」と妻の名前を小声で叫んだ時にはすでに彼女の両手がしっかりと中橋の腰に絡め付いていた。 中橋はどうしたものかと迷いあぐねた。何故なら、もうあと二時間も経ったら集合場所の東高円寺駅に行かなくてはならないからだった。 中橋はクラゲのように絡まる妻を打ち遣り、ゆっくりと上体を起こすと五燭の電燈が灯るうす暗い部屋全体を眺めた。 社宅として彼にあてがわれた部屋は1LDKながら家族全員が住むには充分な広さであった。 キッチンは八畳あり、入り口からよく目立つ欄間つたいに二年前まで在籍していた四国のOFC(オペレ−ション・フィ−ルド・カウンセラ−=店舗経営相談員)時代の数々の功労をたたえる賞状が家族旅行のスナップ写真とともに誇らしげに飾ってあるのが、夕霞に煙るように、おぼろに見えた。 居間は十二畳ほどもあってその真ん中の仕切り戸を取り払い、子供の机が置いてある。その奥に二人の子供たちが並んでスヤスヤと寝息を立てていた。上は中二になる男の子で下は小六の女の子だ。二人は今まさに思春期真っ只中で、そろそろ大人達の秘め事などに興味が芽生える年頃である。 中橋は黒い紗がかかったような部屋の奥まりを目をこらして入念に窺うと、彼らが泥のように間違いなく寝入っているのを確認し、まずは安心した。 それから再び床にもぐり込むと久方ぶりに妻の肩を引き寄せた。 最初彼は冷静に構えていた。 なにしろ今日は大事な試合当日だ。 それも、先週までの調子ならあの黒澤もここで叩いておくことが出来る。 ここで情交し、みすみすエネルギ−を消費するわけにもいかない。 彼はそれだから、ありきたりな戯れでこの場の茶を濁し、その後少し早目だがさっさと家を出てしまおう、と考えていたのだ。 しかしながら確実に増幅するえもいわれぬ快感を求むるあの想いがない交ぜになって、津波の様に彼に押し寄せて来たのだ。そう簡単に妻を拒む事など出来はしなかった。 すべての歯車が自分を中心に回る感覚さえあった。 事を終えた彼は、いつまでも恍惚の余韻に浸って放心していた。 「なっ?なっ?ヤッたんだろう?」 近藤寿の再三再四の執拗な問いかけに、中橋はフト我に帰った。 そして近藤寿の言葉を皮切りに、たちまち周りから退屈な連中が撒き餌に群がるボラのようにわらわら寄って来た。 「そうですかあ、中橋さん。きのうヤッたんですか?そりゃよござんすね。よござんす。よござんす。夫婦円満ってわけですね」と、多辺がニヤケて幇間のように囃し立てた。 すると、「ぬふふ〜ん」と、平野明広が不敵に笑いながら勿体つけて多辺の尻馬に乗ってきた。平野も先週までの不調は何処吹く風といった調子で、本日は無二のキャスティングを繰り返し、2位以下に大きく水を開け勝利に酔いしれていたところであった。 「・・・でもアレですな。試合前にナニするなんて中橋さんも、へっへっ、相当に好きですな。へっへっ。あっ、それとも毎日オツトメなさってるわけ?中橋さんちの場合?へっへっ、この好き者!」みんな一斉にどっ!と笑った。 彼はこのテの与太噺しとなると、いつでもタイムリ−でキレのある半畳を入れるのがうまかった。 「そりゃあ中橋さんの場合、ストレスが溜まる仕事されてるものなあ」と、黒澤も話の輪に這入って来た。 「毎日でもアレしなきゃ、やってられねえのよ実際のトコロ」黒澤は現在の中橋のキツイ仕事を噂に聞いていたことから、わけしり顔にそう言ってみずから納得するように大仰に点頭いた。 「しかし達者ってもんじゃねえか。羨ましい限りだよ」と、近藤寿が江戸っ子チャキチャキ弁で言い放った。 「そりゃあ近藤さんトコみたいにまだ枯れちゃあないわけだからさ。中橋さんちの場合。まだ花の咲き誇っておりところだし、アッチもコッチもピンピンなわけよ」多辺がハスッパに言った。 「そ!そ!そ!そ!」と平野はいやらしく唇を舐めながら賛同した。 濡れた唇がぎらりと光って、中橋は人間の性欲の何か根源的な深さ、のようなものを一瞬だが平意の中に垣間見たような気がした。 「それにさ、中橋さんトコの奥さん看護師だって言うじゃない?近藤さんみたいに場末のフ−ゾクでやるコスプレとは違うのよ。本物のナ−スなわけよ。白衣のね、天使なわけね。うへへへへ。癒し系ってヤツ?だもの毎日燃えないわけないじゃん。オレも癒されてみたあい!がはははは」平野が軽薄そのもので笑った。 白衣の天使?黒澤が目をむいた。 そしてごくり、と息を呑んだ。 そうか!中橋さんの奥さんは看護師なんだ、とイタく驚くと羨望の眼差しでねっとりと中橋を見つめた。 中橋はこれらの口舌にあからさまな渋面をつくって、ひたすら黙って耐えるしか術がなかった。 話しがここまで盛り上がってくると最早、自分の意思ではどうにも収拾がつかないのが彼にはわかっていたのだ。よし、一言なにか弁解でもしようものなら、たちまちその何倍にも膨らんだレスポンスが返って来て、中橋自身が火ダルマとなる。そうなればまさにテキの思うツボだ。 中橋は今しがたまで行われていた試合の内容など顧みるいとまもなく、痴話狂いのサロンと化したこの場に、茫然自失で突っ立っていると後ろからトントンと肩を叩かれた。 振り向くと鷹濱芳明がいかにも困り果てた、と言ったふうに立っていた。彼は先程まで遠巻きにこの乱痴気騒ぎを窺っていたのだが、寄ってたかって周りから冷やかされている中橋があまりに気の毒に思えて、居ても立っても居られなくなって来たのだった。まるで鷹濱本人がこの渦中にあるかのようだった。 それは彼も中橋同様、下衆な噺しが何よりも嫌いであったからなのだ。とても他人事、とは思えない。鷹濱は何も言わず目を伏せると、しずかにかぶりを振った。そしていかにも「処置なし」、「胸中、お察し上げます」と、目顔で言った。 中橋も黙って肯い、犬のような悲しい笑いでコクリと頷いた。二人はそれだけで了解し、お互いすべてが納得し合えたようだった。 中橋は以前からキャスティング会場に来ると、寄ると触るとはじまるこの手の露骨な猥談が苦痛に思えてならなかった。 そもそも男だけの集まりで行われるこの競技は、お互いの本性がムキ出しになっていつでも修羅のちまた、と化すのがつねだった。 そんな中にあって<下ネタ>は、和気あいあいの意思伝達の最も身近で手っ取り早い手段のひとつ、と言うことが出来たし、中橋にもそれが判らないわけではなかった。判らないわけではなかったがしかし、一方では大の大人が語るには余りに幼稚でミもフタも無い即物的な話しではないか!とも思っていた。 みんな仕事は違っていても職場に戻れば部下を何人か抱える分別盛りの中年ばかりだし、家に帰れば、子供にいっぱしの人生訓などを説くいい親爺なのだろう。 それなのにひとたび、そう言ったしがらみから開放されたこの集合体の雰囲気はいったい何だ!この人格の変わりようはいったい何なのだ!と、いつでも思ってしまうのだ。 「ケッ!ほたえる(ふざけた)連中よ!」 そう言って中橋は、いまいましく吐き散らすようにつぶやいた。 「エロ噺しだけがコミニケ−ションじゃあるまいに!」 中橋は生真面目な男だった。 しかし仲間達のドトウのようなえげつない言葉の氾濫がそんなヌルイ感傷に浸る彼を完膚なきまで打ち砕いた。 そして、彼の持つ美意識もまた色情の権化となってしまった彼等に、いともた易く一蹴されてしまうのが哀れであった。 続く・・・ |