Ryuさんの月替わり日本史まめちしき

 

 「HP開設5周年記念新コンテンツ」第1弾です。
 私とメールのやりとりをしているみなさんはご存知でしょうけど、私の署名には「Ryuさんの月替わり日本史まめちしき」と題した日本史のウンチクが1行もので添えられています。これらのウンチクは、これまでは1か月経つと次のものにチェンジとなってお役御免となっていたのですが、せっかくなのでバックナンバーをここで紹介していきたいと思った次第です。1行で紹介し切れなかったウンチクや、このまめちしきを選定するに当たって苦労したエピソードも添えたりなんかして。

 「事実と違ーう!」という点がありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。歓迎します。

 

Vol.1(2002/11)

山梨県塩山市の恵林寺にある武田信玄の墓、隣は柳沢吉保の墓

 【Ryu談】…まあ、「最初はどんなネタにしようかな」と思って、何気なくパラパラめくっていた『歴史と旅』に載っていたネタのなかでたまたま自分も知らなかったものをピックアップ。この2人がもう300年近くの間ずーーーーーーーーっと隣組を続ける間柄だなんて、生前の関連もロクにないだけに(そりゃそうだ。時代ズレてるし(笑))驚きでした。でも、よくよく考えてみりゃ、柳沢吉保って最後には甲府藩主も務めてたし、全く関係ないわけでもないか。
 この他に「え? この人の墓の隣にこんな人も?」ってネタとしては、ベタだけど「木曽義仲の墓の隣は松尾芭蕉の墓」ってのも。こっちは芭蕉が遺言してそうなったんだとか。

Vol.2(2002/12)

浅野内匠頭、刃傷後田村右京大夫邸で煙草を所望したが拒絶される

 【Ryu談】「やっぱ12月は忠臣蔵ネタでしょ」ってことで。忠臣蔵ネタだったら、もう、ネタ本なんか探さなくても100や200ぐらいすぐ出てくるRyuさんではあるものの、その中でも取っておきの自信作をここで。しかし…切腹ほぼ確定のヒトに対して、なんとまあ冷ちゃーい仕打ち…。
 もっとも、拒絶されたのは、当時の御定法としては「罪人に煙草は御法度」ということで当然のことだったらしい。ちなみに、それならと所望したお茶については望み通り出してもらえたとのこと。
 浅野内匠頭の介錯を務めた陸奥一関藩士は「磯田武太夫」。大石内蔵助の介錯を務めた肥後熊本藩士の「安場一平」とペアで覚えてしまいましょう。

Vol.3(2003/01)

伊達政宗の血液型はB型。一方、嫡男の第2代藩主忠宗はA型

 【Ryu談】3回目にして早くもネタ枯渇気味(苦笑)。というわけで、前年11月に出かけた東北旅行のときのメモを切り崩しました。伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」の宝物館でメモしたネタ。遺骨が残っていて血液型判定が可能だったんだとか。ちなみに、忠宗の母親で政宗の正妻だった「愛姫」は、この2人の血液型から推定すればA型。忠宗が不義密通の子じゃなければ(笑)。
 ちなみに、伊達政宗の死因は胃噴門部にできた癌とのこと。NHK大河ドラマ『独眼流政宗』でも触れられていたネタ。
 もう1つ余談。この瑞鳳殿の脇には政宗に殉死した家臣20人を葬った宝篋印塔が立っているんだけど…例の地震で一部崩落したらしい。あんりまー。

Vol.4(2003/02)

大岡越前守忠相、1717年江戸南町奉行就任時の前職は普請奉行

 【Ryu談】このネタは、第8回「日本史王」の超難問ボードの予想問題として用意しておいたもの。「最初に就任した職→伊勢山田奉行」はかつて「FNS」のグラチャンでも出題されてそれなりに知名度もあるネタだけど、こっちのほうは案外知られてなかったでしょ? 私Ryuの究極の隠し球として用意してました。ちなみに、大会主催者の千馬くんにメールを出すときはこの1文はキッチリ隠させていただきましたです。出題予定だったのに急遽差し替えられたらイタいし。なんと姑息なRyuさん(笑)。でも、結局本番では出題されなかったというワナ(笑)。
 ちなみに、忠相は、江戸町奉行を19年半務めた後、1736年8月12日に寺社奉行に昇進。寺社奉行は本来は大名が就任する職であり、石高5,920石の忠相が就任するのは異例中の異例のことであったらしい。いかに忠相に対しての吉宗の信頼が厚かったのかの証明と言えるだろう。1748年閏10月1日には奏者番兼任となり、役料4,080石を加増、計1万石となり、名実ともに大名の仲間入りを果たした。このときに治めた藩は西大平藩。現在の愛知県岡崎市のあたりである。1751年12月19日に没した後、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺に葬られた。

Vol.5(2003/03)

井伊直弼の墓所があるのは、小田急の駅でも有名な「豪徳寺」

 【Ryu談】そらやっつけだ!(笑) すっかりクイズベタになっているネタぢゃないか。いかにこの時期ネタが枯渇していたかが覗われます。
 これだけじゃ怒られるので、追加をいくつか。豪徳寺は「招き猫」で有名な寺院。井伊直孝が鷹狩りに出かけたときに大雨に遭い難儀していたところ、寺にいた1匹のネコが招きよせて寺で雨宿りをしたとか。その縁で、直孝は寺に莫大な寄進を行い、豪徳寺は井伊家の菩提寺になった…というわけなんだそうです。ゆえに井伊直弼の墓もここにある、というわけ。で、このときに直孝を招き寄せたネコを偶像化したのが、今我々が目にしている招き猫なんだそうです。

Vol.6(2003/04)

忠犬ハチ公の孫のなかにはスキ焼きにして食べられてしまったものも

 【Ryu談】さらにやっつけだ!(爆笑) あまつさえ、かつてRyu杯で出題しているネタぢゃないか。よっぽど余裕がなかったのかなあ、この時期…。そういや、よくよく思い起こせば胃腸ブッ壊したのこの頃だったな。
 このかわいちょーなおイヌさまのお名前は「鉄」。当時生後9か月の秋田犬。昭和23年11月10日に飼われていた仙台市内の家から行方不明になったのをくつ屋「斎藤某」が見つけ、工員「高橋某」のうちに連れていき飼わせているうちに若者5〜6人に殺され、なんとスキ焼きにしてて食べられてしまったとのこと。嗚呼。
 ハチ公がらみで追加をいくつか。ハチ公の告別式にはメスの「デビー」との間に生まれた息子の「クマ」も参列したみたいです。また、遺体を解剖してみたら、胃の中から焼き鳥の串が出てきたとのこと。やっぱり屋台の焼き鳥は好物だったんですね。串も好物だったかどうかは知らんけど。ちなみに、青山墓地にある上野英三郎博士の墓の隣には、ちゃんとハチ公の墓もあります。剥製にした残りのパーツが納められているのでしょうか(え? どこ?)。

Vol.7(2003/05)

徳川14代将軍家茂、遺骨を調査したところ、実に虫歯は31本中30本

 【Ryu談】ここんとこ2作がやっつけ感バリバリだったのに発奮した、というわけじゃないんですけど、今回は頑張ってみました。うまく隙間にハマってくれたネタを引っ張り出すことに成功と自画自賛しとりますです。
 徳川家茂、直接の死因は脚気衝心(「脚気から来る心疾患」でいいのでしょうか…)ですが、虫歯が原因の摂食不良・栄養失調なんかも遠因みたいです。ま、もともと病弱だったみたいなんですけど。しかし…それでも「虫歯30本」はスゴすぎ。歯磨いたことあったのかな?(←そもそも江戸時代に歯磨きの習慣あったんか?)
 この「遺骨を調査」というのは、昭和33年から35年にかけて、戦災で荒廃した東京・芝の増上寺で徳川将軍家墓地を改葬した機会に行われたものです。このとき、6代家宣、9代家重、12代家慶の遺骨も調査されて、それぞれ記録が残っています。なお、2代秀忠は棺の上の石の重みで圧縮されて頭蓋骨が正常な形を留めておらず、7代家継は棺内に水が入ったためほとんど骨格すら残っていない状態だったそうです。

Vol.8(2003/06)

木戸孝允、新撰組に同行を求められた際、脱糞するふりをして逃亡

 【Ryu談】あーあ…シモに行っちゃったよ。まいっか。昔懐かしい「ボキャブラ天国」風に言えば「シブ知」じゃなくて「バカパク」。いや、「ポイ」されてしまうネタかも。
 この「脱糞するふりをして」だけど、文献によっては「実際に脱糞した」というものもあって、真相は定かではありません。ネタ元は当の木戸孝允が維新後語った話だそうですから、まあ本当のことなんじゃないでしょうか。彼に虚言癖がなければ。
 「桂小五郎」と名乗っていた幕末期、長州の過激な尊皇攘夷運動の先頭に立っていた彼は、「逃げの小五郎」と異名を取るぐらい危機的状況を何度もすんでのところで切り抜けていったらしいです。1歩間違ったら池田屋で新撰組に斬られてジ・エンドだったし。天が維新のために彼を生かしたのでしょうか。でも、維新後にショボくれてグチグチこぼすだけで早世したのは惜しまれますな。彼自身の評価を下げてしまう形になりかねないですし。
 ちなみに、このネタ、上野も知ってたそうです。2人ともネタ元は同じ、小学生時代に読んだ学研まんが。学研まんがって、けっこうクイズネタの宝庫ですよね。ウラ取りはキチンとしなきゃ、ですけど。

Vol.9(2003/07)

源頼家、暗殺されたとき、激しく抵抗したので股間を掴まれたとのこと

 【Ryu談】またシモかい!(笑) そろそろこのコンテンツに大量のヒツジを登場させて小島奈津子に「小さいお子ちゃんは寝てくだちゃいねー」と言ってもらわないといけなくなりそうな気配…って、みんな覚えてる、このネタ?
 しかーし! イマイチ信憑性が怪しかった前月のネタと違って、今回のネタはソース的には確かでっせ。なにしろ『愚管抄』でっせ、『愚管抄』。え、ご存じない? いけませんなあ…。日本史Bでも受験ベタですぜ。クイズ屋のみなさんも受験生のみなさんも(←…見てるの、ここ?)「作者は慈円」「『神皇正統記』『読史余論』と並んで“日本3大史論書”とされている」「『道理が歴史を貫く』という独自の史観で書かれている」ぐらいは押さえておきましょうね。
 この「頼家暗殺」が描かれている部分はあまりにも生々しいので、あえて原文をそのまま引用してみたいと思います。「元久元年(Ryu注.=1204年)七月十八日ニ修禅寺ニテ頼家入道ヲバ刺シ殺シテケリ。トミニ獲取リツメザリケレバ、首ニ緒ヲツケ、フグリヲ取リナドシテ殺シテケリト聞ヘキ」。「フグリ」というのは…そのー、例の「金の玉が2つ((C)一之宮博士from『ウルトラQ』)」のことです。頼家はけっこう武勇に秀でていたために刺客もなかなか殺害に手間取ったらしいのですが、何もあーた、やるに事欠いて急所なんぞ…。いやはや、いつの世も、暗殺者というものは手段を選ばないものですな。そういえば、今年(2004年)は頼家没後800年目に当たります。

 

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