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「ついにやってもうた」というか、「双頭の人」、「黒檜姉妹」等で過剰なもの、逸脱した人体への偏愛を露にした風太郎のフリークス小説の極点。せむしの億万長者郡司仁三郎と結婚した女優宝珠富貴子が信州の片田舎で見たものは、あまりにも奇怪な祭典だった・・。畸形国で繰り広げられる畸形人間たちの饗宴には、言葉なし。フリークス趣味では、乱歩「孤島の鬼」にひけをとっていない。優越感丸だしの女優の末路は、映画「フリークス」のラストにも似る。
著者自身の青春の思い出が色濃くにじみ出た旧制中学での青春物語。それが一筋縄でいかないのは、無論のことである。山陰地方の山間にある戦時中の旧制豊国中学の寄宿舎「星雲寮」で4人の悪童たち(運野甚太左右衛門、風早扇吉、頼大太郎、雨宮宗兵衛)がまき起こす珍無類な教師襲撃事件。そのいたずら内容がまた、すべて「うんこ」を用いたもので、ここまで徹底すれば「スカトロジー文学」の相貌を帯びてくるといっても過言ではない。特に、最後の大ネタの際に演じられる「黄金仮面」劇で、万葉集、マタイ伝、荘子まで繰り出されるスカトロ問答は圧巻。ここで展開される「うんこ」騒動は、まさに「ラブレー的うんこ」(C 笠井潔)そのものである。ミステリでも使えるトリックが惜しげもなく埋め込まれているのもさすが。冷静な軍師格「風早扇吉」は、風太郎の若き日の自画像か。
昭和20年8月、日本敗戦の直前、信州伊那を舞台に、三人の学生と少女の間で展開される青春悲歌。二人の学生の死の真相が最後に明かされるミステリでもある。信州に疎開している医学生大島連太郎、宗像啓作たちは、8月9日愛国の思いに駆られ、信濃鉄血隊を興し戦争継続を決意するが、同じ学生ニヒリスト鏡七馬は、それをせせら笑う。旅館の娘葉子は大島を恋しているが、大島は祖国に殉じ葉子を振り返ろうとしない。かくて、8月15日の大破局に向けて、運命の歯車は、4人の男女を飲み込んでいく…。祖国を吉田松陰の首に仮託する大島、葉子に祖国をみる宗像、それぞれの価値を物象化という形で自らを支えている男たちの論理が、最後のブラックで哀切な真相によく呼応している。
ちなみに、ここで吐露される戦争に対する心情は風太郎自身のものともいえるもので、特に「信濃鉄血隊」のアイデアは、「戦中派不戦日記」の中でも忘れがたいあの8月14日の記述、風太郎と友人の胸を吹きすぎていった「狂風」の体験に基づくものに相違ない。そのほか、学生たちの宿舎は「桐好館」は「白桐館」に、佐々教授の言葉(8/11付け)は作中の津村教授の言葉に、ほぼそのまま置き換えられているなど、風太郎の個人史的観点からも興味深い。
密室内で友人の不思議な死体が発見されるという発端から、その顛末を語る死んだ友人の手紙、余韻嫋々のラストまで、もはやいうべき言葉もない神技的逸品。ミステリであり、恋愛小説であり、怪奇譚であり、エロチックな小説であり、切支丹物であり、デッドエンド・サスペンスであり、かつそのどれでもない不思議な味わい。焼跡版グロテスクとアラベスクの物語に切支丹という背景が与えられ、異形なものに心奪われた男の歓喜と苦悩が、エゴイズムの振幅があまりにも豊かな物語を紡ぎだしている。
なんとブッダとその弟子アングリマーラの物語。額に蓮の花のような痣がある盗賊、凶賊アングリマーラは女を犯しては、その小指を切り取っていく。不思議な娘スンダリーは、この凶賊にあこがれ探し求め、彼の千人目の犠牲者となる。そこに現れた釈迦の一行の威光に打たれ、アングリマーラは、仏門に入るが、スンダリーは妖尼僧チンチャーにそそのかされ、ブッダに罠をしかける・・。ミステリの趣向も入っているが、寓話的な進行の中で明かされるアングリマーラの悪の信仰の告白、魂の叫びは深く胸を刺す。
なお、アングリマーラは、仏典(テーラ・ガータ等)に登場するブッダの弟子。「アングリ」とは「指」を「マーラ」とは「花冠」もしくは「髪かざり」を言う言葉で、多くの人々を殺しその指をとって首飾りとしていた凶賊であったことからその名がついたという。釈迦の偉大さを物語る話を風太郎は、もう一度ひっくり返しているわけだ。
フランスの片田舎を舞台をにした純ミステリ。耳が聞こえない司祭サフラック師と唖の甥マルタンが静かに暮らす田舎の教会に盲目の美少女エレーヌが一緒に暮らしはじめてから、悲劇は、ゆっくりと動き出す。寓話風に語られる物語の中で背教というテーマが浮かび上がるが、ここでは十分に掘り下げらずに、謎解きに深入りしすぎた印象を受ける。三者三様の感覚機能の欠損が物語を紡ぎだす原動力になっているというメカニカルな小説の構造にも注目しておく必要があろう。それにしても、ラストでホーマーの詩句をくちずさみながら去っていく探偵役の正体には、誰しも唖然とさせられるだろう。
初出時に「今や戦後派の代表選手たる鬼才が、勇躍“死者と裸者”に挑戦する驚天の野心作」というキャッチ・コピーが付いていたという(川崎賢子「奇想の森の満開の下」)中編。圧倒的迫力をもって描き出されるガダルカナル島での死の行軍。人外魔境小説の趣のあるホポマナシン村の造形。軍人たちが大義のために、楽園の人々を狂風に巻き込んでいく最後は、アンチ・ユートピア小説の域に達しているのではないか。作品中の随所で披露されるカニバリズム描写の凄まじさといい、意想外の展開といい、風太郎を語る上で絶対に落とせない超異色作。
「新潮」の「探偵小説特集」に書き下ろされた短編。探偵小説の地位も低かった時代であり、純文芸雑誌の特集は、探偵小説界にとっても「事件」だったようで、この件について乱歩も「探偵小説40年」で大きく頁を割いている。風太郎としても力を込めた作品と思われるが、出来が意に沿わなかったせいか、一度も単行本に収録されていない。冒頭は、新宿区の貯水池で起きた女性の溺死事件の検証調書。現場の雪の上の足跡等から、彼女は事故死と判定されるが、続いて、同じ場所で起こった第2の女性の溺死事件の新聞記事が挿入され、最後は、2人の女性の死の真相を巡る男2人の温泉地での対話。短い枚数でここまでやるかというくらい探偵小説的トリックが連打されるが、胸に残るのはインセスト・タブーをモチーフに恋情に翻弄される男女の悲しい姿。おそらく、探偵小説部分のトリックが浮き上がりすぎたのが作者の不満の種と思われるが、こちらはこちらでなかなか凄い。
初出の雑誌の角書きには「ニュースストーリー」とあるという(文庫解説)。梅毒によって脳を侵され入院している娼婦に献身と純情を捧げる若い警察官の姿があった。昭和20年菊水作戦で肉弾特攻する一夜、契りを交わした男女の運命の転変を描かれる。時事ネタを装っているせいか、若干印象薄いが、冒頭と末尾の聖書の引用が効果を挙げている。
死刑執行を前日に告げられた女の心象風景。ギリシャ神話のプシケのように清純な少女三千代が四人殺しの淫婦になり果てるまでの運命の変転がカットバックで描かれる。聖女/淫婦は、風太郎の主要なモチーフだが、現在と過去の交錯が圧倒的な迫力で読者を引きずり込む。この作品で少女の運命を駆動させる力は、牧師の深い嫉妬。マタイ伝「毒麦」がモチーフとなっている点でも、背教を描いた一連の作品とも比較できよう。三千代が狂乱するたびに、乳房が飛び出すのは、読者サービスか。以下、引用「ああ、彼女がこの「何か」を持ってさえいなかったら、ほかのすべての女のように、平凡な幸福な娘として、平凡な不幸な妻として、生きることができたであろうに」
小田原の宗俊の名をかたった小悪党の悪事の顛末が伝馬町の牢内で語られる。賭碁を扱ったコン・ゲーム風の趣があり、小悪党の語りも躍動して、小気味よい。
なお、蛇足ながら河内山宗俊は、江戸時代後期の茶坊主。水戸家の闇富くじ事件を種に同家を強請って捕らえられ、1823年(文政6年)に牢死したという。伯円の講談、黙阿弥の歌舞伎等で美化された無頼ぶりが評判を呼んだ。
「悲壮をきわめる日本切支丹殉教史のなかに、たったふたつの醜怪な腫物のごとく存在した恐るべきふたりの背教者」長崎のフェレイラ(沢野忠庵)と江戸のキアラ(岡本三右衛門)との相克を江戸小日向の切支丹奉行井上筑後守の屋敷「山屋敷」を舞台に描く壮絶な信仰と背教の物語。転び伴天連フェレイラは、キアラに棄教させるために、妖艶な死刑囚の妻と合牢にするという奸計をめぐらし、キアラはその罠に墜ちるが、それは単なる肉欲ゆえではなく、天帝の恐怖から逃れたいという、もっと奇怪な感情からだった・・。キアラが信仰に導いた牢番長助とおはるの恋愛と対比させながら、神を棄て切支丹を迫害する魔酒のごとき快感を得ていくキアラの陥った感情の魔界を描ききった傑作。妖人フェレイラの語る「感情倒錯症」をみるまでもなく、風太郎の主人公たちは、一種の論理によって魔界に陥っていく。遠藤周作がキアラを主人公に「沈黙」を書いたのは、この作品の16年後のことである。
ここで語られるフェレイラ像は、後の「外道忍法帖」の原型ともなっており、晩年のキアラは「売色使徒行伝」に顔を出す。柳生但馬守、沢庵のゲスト出演あり。