大白法

昭和37年8月20日号


主な記事

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<2面>


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発刊の言葉


揮毫 法華講全国連合会の機関紙が皆様の集まった力で発足いたしました。御法主上人猊下からは、本紙名をおつけくださいましたばかりでなく、題字の揮毫までも賜りました。これは全国法華講衆の名誉であります。大白法という立派な名前にまけないような機関紙に育てていくために、及ばずながら全身の努力を信力に載せて行く覚悟です。

各地方記者、連絡員は、会長さんからお頼みして下さる筈ですが、私共からも、各地の情報や、新聞を良くして行くための建設的な御意見、御叱言などを、どしどしお寄せ下さいますよう、部数を1部でも増やして、少しでも多勢の人々に仏縁を結ばせて下さいますようにと、心からお願いいたします。

創刊号は僅か2頁ですが、根深ければ枝繁し、大発展が近いうちに行われますよう、計画しております。どうか全国法華講衆の手に手とった異体同心の願力で、大白法が全国の家庭に、一世帯一部のの割で配られる日を、一日も早く来らしめたいものです。




法華講全国連合会結成大会を総本山大講堂で挙行


参加人員5,200余名。全国法華講員多年の念願、法華講全国結成大会は7月31日総本山大石寺大講堂で挙行された。前夜来の雨も上り当日は改正微風の下、全国の同志は夜を日に継いで続々登山午後1時15分に始まった大会は、平沢益吉全国連合会長より御法主日達上人猊下へ、宣誓書が献ぜられ、大会はその幕を下した。

時、まさに昭和37年7月31日午後3時7分過、大同団結はその実をあげたのである。宗門700年の伝統とともにある法華講が、今雄々しく眠りよりさめて起ち上ったのである。応に出陣の時、新らしい時代を法華講衆が荷うための出陣の銅鑼は高らかに総本山大石寺に鳴り響いたのである。さあ、全国の同志の諸兄、諸姉よ、がっちり手を組んで新らしい時代へ大きくはばたいていこう。


大垂幕 会場、大講堂正面4階から地上まで下げられた大垂幕には、墨痕鮮やかに、日蓮正宗法華講全国連合会結成大会会場とある。当日は前夜来の雨も上り快晴微風の上天気。我々法華講員の信力、行力がこの好天気をうみ出したのだ。

会場、大講堂からは勇壮なマーチが早くから流れ、全国の同志は北は北海道、南は九州より全国八地区連合会長統師の下に続々と登山。午後1時10分入場全く完了、その数およそ5,200余名、会場内に入りきれずに廊下で参加する者がいたほどの盛大なる大会となった。会場ではすでに“日蓮正宗の歌”、“東洋広布の歌”の大合唱が館内を揺さぶり大会の雰囲気はいやが上にも盛り上がって来た。掲げられた数々のスローガンが更にその意気を盛り上げた。“倒せ邪教、全国の団結で”、“築け楽土、組織の信心で”、“今日よりは広宣流布へ大前進”、“自覚せよ、法華講の大任務”。

午後1時24分、ブラスバンドの突然はじけるが如き力強い演奏が始まり、同時に期せずして湧き上る捲き起った大拍手の中を、御法主日達上人猊下御入場されここに大会の幕は切って落された。

まず、開会の辞が九州連合会長・真武正親氏より力強く宣せられ、続いて、今日結成大会を持つまでの法華講の各連合会粒々辛苦の経過報告が、東京連合会企画部長・柳沢喜惣次氏より綿々と語られた。ついで、今日に至るまで各地方にあって大同団結の気運を盛り上げて来た功労者、各地方連合会会長の紹介があり、代表して北海道連合会長・反橋信一氏より先輩弥四郎国重等法華講衆に続けとの挨拶があった。会場は割れんばかりの拍手がおこり、皆の心はすでに一つに溶け合ってきたかにみえた。

次に、御法主日達上人猊下より昨年、全国連合会長の重責を拝した、平沢益吉先生が登壇し、諄々と法華講衆の在り方を説かれて我々法華講衆の今後歩むべき大綱が示され、会場全員一段と大きな拍手で賛同の意を表した。

続いて再び湧きおこる歓呼の嵐の中を、第66世御法主日達上人猊下御登壇され我我法華講員に親しくお諭しがあり、全員のいいしれぬ感動の波が場内に漲り、団結の喜びが、ひたひたとおしよせて来た。続く柿沼総監の御祝辞に一層の盛り上りをみせた雰囲気の中を平沢益吉会長が満余の講衆を呑んだ大講堂の中で、宣誓文を声高らかに読上げて、御法主上人猊下に奉呈し、本大会は最高潮に達した。

日蓮正宗法華講衆700年の悲願、諸先師、先輩の願い、日蓮正宗法華講衆の大同団結はここに結成されたのである。時、正に昭和37年7月31日午後3時7分過。宗門のいや世界の歴史の新らしき一頁を飾る不滅の金字塔はここに打ちたてられたのである。

続いて場内左手2階ブラスバンドの伴奏が起り、日達上人猊下も御唱和の下に、このわきあがる大歓喜を、“日蓮正宗の歌”に爆発させて、午後3時12分、大会は静かにその幕を閉じたのである。




日達上人猊下御賜言
法華講全国連合会結成大会の砌


本日は、全国法華講の結成大会に当りまして、6千の法華講員が集合し、ここに大会をせらるることは、まことにこの上もない喜びと存じます。

わが宗が宗祖日蓮大聖人宗旨建立から正法を護ってきたにもかかわらず、この700年来、本宗は実に勢力微々たるものでありました。徳川時代の末の、今から百二、三十年前におきましても、わずかその時分の大石寺の法華講員は奥州地方法華講衆また福島地方の法華講衆、江戸地方、それからこの駿河地方それから金沢、それから浪速それだけが中心の法華講衆でありました。それは、またいかに世間に邪法が満ちておったかということでございます。それぞれの地方において、それぞれの法華講衆は、それぞれの折伏をしておったのでございますが、徳川時代の政策により、あらゆる圧迫により改宗ということが出来ずあるいは内得信仰あるいは一代信心というような事において、わずかに信心はせられておったけれども、なかなか発展してこなかったのであります。

それが明治維新になって、宗教の自由によって、あの名古屋地方が盛んになり、、あるいは、九州地方において、あるいは、信州地方においてそれぞれ、正宗の信徒がふえていったのでございます。しかし、この明治の初年、廃仏毀釈の行き過ぎから、一時緩和された宗教政策によって、そういうふうに伸びてきたのでございますがまた、それを抑圧されてついにそれ以上に伸びることもできず、寺院の建立すら出来なくなってしまったのでございます。

ところが、今回この世界大戦によって、この日本の未曾有の変革によって、ここにはじめて真の宗教の自由というものが出来てきまして、そして折伏が盛になり、時あたかも創価学会が出来て、正宗の信との集りとして、大活躍せられまして、益々、この正宗の発展を来たし、今日また、法華講員もそれに従って、またそれぞれに働いて折伏を始めて、今日創価学会並びに法華講の大躍進となって来て、今日こういう大勢の法華講員が、この大講堂に集まって、この盛大なる儀式を行う事が出来たことは、誠に有難い事とは存ずるのでございます。(拍手)

会場

今、我々は何が有難いかと申しますと、大聖人様の御本尊を信ずるが故に有難いのであります。よく世間では、法華経が有難い、法華経は釈尊の出世の本懐であるこの法華経が有難いから法華経を信心するのであると、こう申されております。なるほどそれは、ひと時代前の法華経の信仰の状態でございます。大聖人様は、三大秘法鈔に、諸仏出世の一大事と説かせられてあるのは、この三大秘法の含ませたもう経にてあるが為なりということを、最後にお書きになっております。

ただ、法華経が有難いといっても、我々は決して解からないのであります。ならば法華経のどこが有難いんだ。法華経を始めから終いまで読んで、ここがありがたいという指摘する人はおそらくないと思います。それは法華経は、仏と仏といましよく悟られるところのお経である。我々凡夫がこの法華経をもって、ここが有難いから読むんだということは、とうてい出来ないのであります。それは勿論、先師がた、あるいは天台あるいは伝経等の諸大師がたが、いろいろと講義をせられておるから、なるほどなと思って解るけれども、実に我々が読んでみて解かることは絶対にないのでございます。

それは、釈尊の一代の聖教を通じて、この法華経へ来って始めて、その一代の仏教の一代経教のその最後のしめくくりを説かれた、即ち最後の成仏ということを説かれて来ておるからであります。その成仏ということは、ではどこに説いておるか、またそれを追求していくと、我々では仲々わからないのであります。ただ今の大聖人様の仰せの如く、三大秘法を含めておるこの経であるが故に有難い、ではどこに三大秘法がふくめておるかというと、またこれもわからないのであります。そこに法華経の文底ということを大聖人様が仰せになっておるのでございます。

ただ法華経の文そのものによって、釈尊の一切のお経を集結し総括したところのものであるところの法華経は、薬王等の諸菩薩によってそれを付属せられて、釈尊滅後、正法、像法の年間において利益あらしめておるのでございます。末法の今日、それらの法華経をもって、我々を利益せしめようということは絶対にないのでございます。その法華経の肝心かなめ、すなわち寿量品の文の底に説かれるところの南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経の御本尊様。その御本尊様を我々が拝まなければならない。

では、誰がその御本尊様を、教えて下さるか、すなわち、宗祖大聖人様がその御本尊を我々に示してくだされ、そしてその御本尊の南無妙法蓮華経を我々に下種して下さるが故に、我々は有難く、そしてそれを信ずるが故に、即身成仏の本懐を遂げるのであります。これなくしていかに法華経を研究しても、或は釈尊の一代五十年の説法を研究しても、成仏ということなくしては、なんにも役に立たないのであります。(拍手)

故に法華経は了義経といい、一切の爾前経は、不了義経というのであります。不了義経とは、如何に理論が立派にとかれておっても、その最後の記別成仏ということを説いてはないのであります。法華経は、その最後の成仏を説いておる。これを信じ、これを唱うる、今私がいう法華経を唱うるということは、大聖人様の南無妙法蓮華経であります。この南無妙法蓮華経を唱えることによって我々が成仏する。それを説いたるが故に、それを了義経というのであります。故に釈尊は、了義経によって不了義経によらざれと、明らかにお示しになっておるのでございます。(拍手)

今先程申しました通りに、とかく世間の学者達は、法華経をすみのすみ、文字の文字、或は裏までも通してこれを研究しようとして、学的にこれを研究しております。しかし、それではなんにも役に立たないのでございます。今、法華経に教義のそのもの、法そのものを説いておることは明らかには分からない。これは爾前経においてすっかり説き尽くされたるが故であります。その爾前経のあらゆる画竜点晴と申しますか、魂を与えたのが法華経であります。だから今の学者が法華経を裏返し裏返して読んでも、少しもその法門を得ることが出来ず、ただ法華経が有難いんだというだけに止まっております。

私は若い学生時代に禅宗というものが世間で非常に騒がれるから、私も一つ禅宗をやってみようと思いました。ところが私の先輩の諸師に非常に怒られまして「お前は馬鹿だ、いま大聖人様の法門を信心し、南無妙法蓮華経を唱えておるお前が、禅宗を勉強して何に役に立つか。禅であろうが、真言宗であろうが、華厳宗であろうが、それらの宗を知りつくして研究してきて、はじめて大聖人様が南無妙法蓮華経と教えておるじゃないか。」といって私は大変叱られたことがございます。それで止めてしまったのでございます。

そして、まったくその仰るとおり南無妙法蓮華経がすなわち六度の万行である。あらゆる菩薩の行が永い間の行が、この南無妙法蓮華経に含まれておる。またあらゆる諸仏出世の本懐が、みなこの南無妙法蓮華経を、そのまた久遠の初の仏が悟りを開いてその南無妙法蓮華経を、末法において建立せられたのでございますから、この南無妙法蓮華経の本尊に向って、この大聖人様の南無妙法蓮華経を信じて唱えるところに本当の本門の題目が存在するのでございます。(拍手)

この題目はすなわち釈尊の題目でもない、大聖人様が上行菩薩の唱える南無妙法蓮華経は釈尊の題目にあらず、すなわち上行自身の題目であるということ仰せになっております。また御義口伝には「妙法蓮華経の五字には三世の諸仏ゆるしたまいて未来末法のためなり」と仰せになっております。あらゆる仏が南無妙法蓮華経は、ただ末法のためにこれを説かず、これを残されておったのであります。その南無妙法蓮華経を宗祖大聖人様が我々に下種結縁せられて、今日にあるのでございます。いかにこの法華経を研究して、あるいは振り返って、一切の爾前諸経を研究しても真の成仏ということはできないのでございます。

日寛上人が正境に縁すれば、信心の薄い薄信のものでも、その功徳大なり、ということを仰せになっております。またいかに信心が厚くとも、正境にあらざれば地獄に堕つるということをお説きになっております。我々が信心薄い場合でも、あるいは初信者の人でも、この御本尊様を信ずる時のその功徳は、またあらゆる過去の諸仏に身をもって仕えた一切の功徳に勝るとそれこそ法華経に説いておるのでございます。

この我々が幸いにして本日それを信じ奉ることができる。これはすなわち700年前から皆様の先祖がこの信心を伝えてくださったその恩徳もあるのであります。あるいは初めて信者になった方もございましょう。しかし今日南無妙法蓮華経に入るということは、必ず過去の宿縁があるのです。過去の大昔に南無妙法蓮華経というその御声を聞きあるいは折伏をせられたその宿縁によって、今日新しく入ってくることができるのであります。また過去からのこの題目も、今日我々が唱えている題目も少しも変りなく、今後もまたますます盛んにしていかなければならないのでございます。

それならば我々は何をもってこれから先していくか。第一の信心は勿論御本尊様を信じ、三大秘法を信じていくのでありますけれども、どういう修行の方法にしていけばよろしいかということを考えなければならないのでございます。それは先程も、ここにいらっしゃる皆様のこの辺の非常に古い旧家の家の過去帳を持って来られた方がございまして、それを見まして、この中に、日英上人の御文がのっておりました。先ず信者がこの題目を唱えて信心する第一は、この大法が広布する、大法広布を第一に祈れと書いてあります。すなわち広宣流布を第一に祈れ、それこそ自分の国は勿論、世界を安楽にし、この娑婆世界を寂光浄土にするところの根本であります。娑婆世界を寂光浄土にするということは、人のみならず、自分もともにその安楽の世界に住することが出来るのでございます。それ故にこの大法を広宣流布することを第一に祈りなさい。

第二に宗祖、開山、目師の三師の御恩徳を報じなさい。これもまた我々が今日こうして信心を励むことが出来るのは仏祖三宝の御恩によって出来るのである。その恩を忘れたならば、我々は犬畜生と同じで、何にも役に立たない事になるのであります。

第三はすなわち自分の先祖の回向をしなさいとこう書いてありました。それが個人の過去帳にある訳であります。皆様方が毎朝拝む時にお前さんの先祖は第三だぞ、先づこの正法を世界に広宣流布することを第一として、第二に仏祖三宝宗祖大聖人様の御恩徳に感謝し奉りそして第三に始めて自分の先祖に回向しなさいと、それこそ本宗の信心の在り方なのであります。(拍手)

とかく世間では、自分と云うことを先に考えます。あらゆる邪宗においても皆自分をなくして、他を考えてはおりません。しかし、本宗の昔からの教えは、この広宣流布ということが第一であります。自他ともに楽しむ、自他ともに安楽の世に、そして即身成仏の境涯に生きようというのが大聖人様の教え、歴代先師方の教えでございます。広宣流布することこそ我々の第一の目的でこの信心をする時の第一の修行であるとお考え下さい。(拍手)

だから、あなた方のお父さんでも、おじいさんでも、皆、折伏をしておるのであります。そのために村八分になり、また人々に偏屈人の様に、ののしられて来たけれども、その我々の先祖の大目的を知らない邪宗の人々がそう云う偏頗な考えでやってきたのであります。

しかし今日この宗教が自由の時代こそ我々はこの第一の目的に向って広宣流布に向って、折伏に励まなければならないのでございます。折伏を励む時、あらゆる苦しみがまた、わくかも知れません。こう云う暑い所に集って、共に仏道修行に励むのもこれも一つの修行でありましょう。

しかしいずれ広宣流布した暁は、実に世界が安楽な国になり寂光浄土となった暁こそ、自他共に喜ぶべき時と考えるのであります。先程、皆様が暑くて、汗一ぱいにかいた時、下の方で風を入れたらあの穴から風が来て一寸皆様は、涼しかったでしょう、それと同じことで、我々が折伏して、苦しんだあげく、本当に世界に広宣流布し、皆帰妙法した暁こそ、吹く風枝を鳴らさず、雨土壌をくだかざる実に本当の仏国土と開顕するのでございます。

それまでは、あらゆる苦しみを除きあらゆる迫害をしのんで、そして共に南無妙法蓮華経の信心に励み折伏に邁進されんことをお願いする次第でございます。(拍手)





祝辞 『胸を張って堂々と法華講の使命に生きよ』
日蓮正宗総監・柿沼広澄御尊師


本日の法華講の連合大会は私にとりまして2度目の感激でございます。なぜならば、たしか昭和18年ごろと思いましたが、軍部の統制によりまして、日蓮宗は14派あったのに、これを一つになれと命令が参りまして、この時に法華講の講中の方々に御影堂に緊急に集まって頂き、僧侶も全国から馳せ参じていわゆる憂宗護法会というものを一日開催致しまして、その中には多少反対派もございましたが、皆様方の熱烈なる大聖人様の精神のままに護法精神と僧俗一致して、この日蓮正宗はどこの宗旨とも合体することなく、単立になろうともとうとう最後までどこの宗派とも、一体になることはありませんでした。

軍部は身延山と一緒になれと申してまいりました。富士山と身延山とくらべて、どっちが高いか軍部はわからなかったと思います。それで一国をまかせて、戦争をしようというのですから、それは負けるのがあたりまえです。我が正宗はどことも合同することなく、戦争には負けましたが我が宗門の歴史には、一点の傷を残すことなく、今日あることは、ひとえに、これ法華講中のおかげであると私は考えております。(拍手)

しかも、この法華講中は本年、日達上人は熱原山竜泉寺というお寺を熱原弥四郎国重の時にちなみまして、一寺を建立致しまして、その霊をあつく慰められたのでございます。神四郎亡くなって802年目、かくの如くめでたく日達上人の竜泉寺を建立する意志を皆様方が体した如く、北海道から九州の人々が集って法華講の連合会がここに出来たという事は、まことにもって本当に大聖人様に対する御奉公のこれが真心であると私は考えます。

法華講中の人は弘安2年に捕らわれて、弘安3年の4月8日首を討たるもの3人。20人はところを追われその中に1人の婦人も入っておったということでございますが、802年にして大同団結がここに出来て、お互いが手をにぎって試みに今、この場で皆様方が手をにぎってごらんなさい。誰がこのまん中を通ることが出来ましょうか。手をにぎらなければ一人一人ならば通っていく事が出来ます。お互いが腕を組むことによってここを誰も通る事が出来ない。この如く団結してはじめて力が出来るのであります。

皆さん、ただ今EEC(ヨーロッパ経済共同体)という言葉がはやっております。世界はまるでソ連と米国しかないように思い、毎日の新聞がそう報道されております。たった2つの国しかないように思われております。ところがヨーロッパの国々が、フランスがドイツが、30年間の間に2度も戦いをしたドイツとフランスが手を握って、ローマがたってデンマークがたって、今ヨーロッパの6カ国というものが出来上がろうとしています。これが出来たならば文化の水準も同じであり、労働の賃金も同じである。米ソといえどもこれに手をつける事が出来ない、第3の勢力が出来上るということになっております。

ここをひとつ皆様方がよく考えていただきたい。北海道の法華講はただ北海道にばかり閉じこもっておったならば、それは北海道のだけの力しかありません。九州もしかり、四国もしかりであります。手をにぎることによってお互いが大同団結することによって、信心というものが倍増いたしてまいります。しかも今、世界において論じられているところの問題は、ボタンひとつおせば地球が吹っ飛んでしまうということは子供でも知っております。ですからして論じるものはお互いに平和を論じ合っています。

18カ国が集って、ジュネーブにおいてはすでに4ヵ月もやっていますが、まだ結論は出ません。8月1日から6日までは原水爆に対する平和運動が東京でおこなわれて、2万人の人が集るということであります。その平和というものが、甲の平和は乙にとっては平和ではない。乙の平和は、甲にとっては平和ではない。みな何を目的として平和を唱えるのか、この根本が成り立っておらないのであります。

米国は長いこと日本を占領しておりましたからして、なぜ日本が負けなかったかという事を研究いたしました。そして最後の結論は宗教に到達いたしました。それはどういう宗教に到達したかというと、日蓮聖人の教えというものに到達しました。真宗の数が多いのでありますが、浄土をたてるということになればキリスト教とたいしてかわりありません。即ち、天国も浄土も同じようなものであります。なにゆえに一番特色のあるのは何かというならば、これは日蓮聖人の教えが一番特色がある。なぜかと申しますと我々の住んでいるところに、ただ今日達上人のお言葉のあった通り、平和な世界をこしらえようという教えは、大聖人様の教えしかありません。他の教えはここは仮に住んでいる世の中だと教えています。死んだならば天国へ行くのである。あるいは極楽へ往くのである。わずか仮のものにすぎない。ですからしてこういう連中が集っていかに世界の平和を論じても、ただこれはそこに永住するのではない。日蓮大聖人の教えだけが法華経に通一仏土という言葉がありまして、この娑婆即寂光にならねばならない。我々はこの娑婆世界からどこにもいかないんだ。だからそこに平和な土地をこしらえなければならない。彼等は永久に地球に住んでいることを考えないからして、一発で地球がぶっこわれるものしか考えないのは当然であります。彼等は住んでおらないのです。

宿屋にいってお茶をこぼしてごらんなさい。あわてて拭く人は一人もいません。自分の家ではないと思っているから、そのうち畳が吸っちまうっていってる。これが自分の家ならあわてて雑巾を持ってこいとか、あるいはハンケチでさえ拭きます。ところが、宿屋ではこれを拭きません。馬鹿々々しい。宿賃払ってあるのだから。明日はいないのだから。そういう連中が集って世界平和会議をやっている。結論の出ないはずです。出ないのが当然であります。

ここに大聖人様の考えの根本がある。700年の昔から、時の御法主は丑寅の勤行怠慢なく、勤行は広宣流布を祈る所に丑寅の勤行があるのであります。まことにわれわれ日蓮正宗の法華講の人達は胸を張って、我こそ真に日本の柱であり眼目であり大船である。広宣流布はわれわれの手で法華講の手でなしとげてみせるという決意に燃えるのがこの大会の精神であるとともに、常に丑寅の勤行怠慢なき日達上人のお言葉に従って、右に向けといったら必ず右を向くところに信心があります。左も向けといったら左を向くところに信心があります。時の法主をいただいてこれに我々が信心をまかせ、大御本尊様にお誓い申し上げるところに法華講の使命と、これが世界につながっていくところに広宣流布の精神があると思うのでございます。いよいよ邁進せられんことをお祈りいたします。





挨拶 『大同団結の今日を契機に広布に邁進』
法華講全国連合会・平沢益吉会長


全国の法華講の皆様、お目出とうございます。本日、大御本尊様に無事お目通り申し上げ、広宣流布の御祈願と、御報恩謝徳、諸願御祈念を申し上げました事を、心からお喜び申し上げます。

ここ大講堂に、恐れ多くも御法主上人猊下の御親臨を仰ぎ、宗務総監並びに重役、宗務院、塔中、各支院長の尊能化及尊師方の御臨席を賜りまして、日蓮正宗法華講支部の、全国連合会結成大会を、開催することが出来ました事はご同慶の至りであります。

かくの如く全国から多数の法華講員が歓喜にみちて一堂に会し得たということは、何を意味しましょうか。この事は昔から先輩や法友諸賢の、一連の希望であり悲願ででもあったのであります。今度、企画部長の報告にありました様に、各地区連合会長並びに幹部の方々の熱誠あふるる御尽力により、茲に開宗以来初めての、盛大なる会合を見るに至りました事は感激にたえない所であります。

それ法華講の語源は、宗門史上まことに古く、普通の講中名ではありません。非常に意味深いものであります。先刻、反橋北海道連合会長の申された様に、大聖人様は弥四郎国重始め一同を戒壇の大御本尊建立の願主として、法華講衆と仰せられ、対告衆となし給うたのに始まります。其後信徒の集まりを指して土地の名称を冠して江戸法華講衆等と言うた時代があったそうでありますが、明治の中葉からそちこちに信徒の集団が、勃興しまして、各々が別々の名称を附して講中を結成し、大法護持と信心活動に励んだのであります。現在尚これ等の講が健在して活動して居る所も相当にあります。

昭和16年、本宗の宗制改正の際、本宗寺院の檀信徒を網羅する、団体を結成することとし、あらためて、日蓮正宗法華講衆であることを銘記されました。従って在京の講中は、全部末寺に所属し、且つ監督せらるる処の、日蓮正宗法華講支部であり、講員はそのまま法華講衆として、大聖人様への御奉公を、実践することに規定されたのであります。

「日蓮が一類は、異体同心なれば、人々少なく候えども、大事を成じて、一定、法華経ひろまりなんと覚え候」のお諭しを体して、信徒の数は少ないながら、未だかつて、上からの権力に屈した事なく、亦時流に迎合する事なく、総本山に安置まします、大御本尊様を、外護申し上げ、法灯相続によって、親から子へ、子から孫へと宗祖の御遺訓を信じ奉って、広布の時の到来を待ち来ったのであります。

然るにかくの如く日蓮正宗法華講が規定せられて、既に20年を過ぎた今日、檀信徒すべてを網羅する団体が完成されたでありましょうか。否と申し上げなければならぬ状態にあった事を、遺憾に存ずるのであります。信徒の集団が出来ないばかりか、法華講の如何なるものかを知らぬ檀徒さえあるのであります。

さて、日蓮正宗法華講支部は、前述の様に夫々の末寺の檀信徒を集合した団体でありまして「自他彼此の心なく、水魚の思いをなして、異体同心にして、南無妙法蓮華経と唱え奉る」とのお言葉の如く、各自お互いに、仲よく信仰を増進しあい、末法の教義を堅く護持し、正法を弘宣し、三大秘法の大願成就を祈願するものであります。全国連合会は、宗門的信仰活動の上に於て、各地区連合会が相互に横の連絡を緊密にして、講員の親睦を深め、異体同心の実を挙げ、広宣流布達成のために、険難極まりない道を、雄々しく前進すべく、寄与する為に張り廻らした所の、連絡網たらんとするものであります。

「仏法の根本は、信を以って源とす」とのご金言がありますが、仏道修行には、信ずる事が根本であって、信なくして行ずるも、亦、信なくして教学を修するも、何を感ずる事が出来ましょう。強盛な信心に住して、大聖人様の教えを正しく、行学にはげむ事こそ、法華講衆としての、名を恥ずかしめぬものであります。「行学の二道をはげみ候べし、行学絶えなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候え、行学は信心より起るべく候、力あらば一文一句なりとも、かたらせ給うべし」のご文は自行化他に亘る信心態度をやさしくお示しになり、下種折伏を我々にお命じになっておられるのであって、これが大聖人様の仏法修行の根本儀であると思います。

大聖人様は、信行のありかたについて水火をおたとえになり、泉より湧く水が大きなエネルギーを蔵し、滾々(こんこん)としてつきず昼夜別なく流れて止むことのない様に大御本尊をたもち奉って少しも撓(たわ)む心なく信心せねばならぬと仰せられました。凡そ御書を読みますことは誰でも読みます。そして一応は了解したかに思いますが、その文の真意を知り、文底秘沈の意まで把握することは、まことに難しいのです。しばしばその真意を曲解され易いのであります。然も、深遠極まりない、仏法の極理を察することは、甚だ困難な場合が多いのです。えて我見に陥り易いのであって、邪宗邪義の徒が、大聖人様の正法の教旨を伝える事の出来ないのは、一に之がためであります。我々法華講員は、「御書を心肝に染め、極理を師伝し、若し暇あらば、台家を学ぶべき事」と云う日興上人の御遺誡を遵奉するためには、幸にも我々は指導教師を戴いておるのでありまして、本宗の教旨、宗風は、大聖人様の御心に寸毫も違う事なく、浸透し正法正義を信じ切る事の出来るご功徳を頂戴しておるのであります。

先師日淳上人はかって「立宗700年までは、宗門の護持の時代であり、それ以後は、流布広布の時代である」と仰せられましたが、今まで700年間の本宗の歴史の中で、時々興隆したことはあったのであります。私が実際に、見聞したものを見ましても、今から半世紀前に、僧俗一致の体勢におきまして、あるいは会場を借り、あるいは路上で、罵詈、妨害を尻り目に布教演説会を催しまして、大いに意気あがるものがありましたが、時の到来致しませんためか、成果は余りあがりませんで、終ったことを記憶しております。このような布教活動は、時にまた所々で行われておりましたが、ひたすら広宣流布の時を待望しつつ、正法の清流をけがすことなく、堅く護持し奉ったのであります。

法華講員も亦正法外護のため、迫害や誹謗にたえ、血のにじむ清い伝統を継承して、今日に到っております。今や、流布折伏の強化に、教学の充実に全員歩調をそろえて邁進すべき、一大転機であると、信ずるのであります。個々の立場から、古い因習の殻に裁われて、発展の遅々である事を徒らに嘆いておる時代ではないのであります。一人も傍観的、批判的立ちん坊にあることを許さないのであります。

ここ、大石寺は、猊下のお慈悲による事は申すまでもありませんが、創価学会の目覚しい折伏大進撃があって、わずか一昔の間に、ご覧になる様な、大々的の発展をなし、今尚夜を日についで力強い、槌の音が世紀の大客殿建立へ続いております。更にはこの後、何年何十年と続くかわからぬ大計画が、なお本山内において、大総合委員会を設けられ、世界の一大聖城建設について審議されておるのであります。われわれが、広宣流布の願業成就のお役に立たん為には、在来バラバラであった全国法華講員は、大いに反省して異体同心の御聖訓を体し、乾坤一擲、奮い立って、縦横の連絡を密にし、お互いに眠れるものはこれを呼起し、退転せるものは、正法の精気を吹き込んで蘇生せしめ、人の和によって、大同団結し、雄々しく折伏の一大聖戦に参戦しようではありませんか、これこそ、先祖や先輩の浄業に答うるものであり、法華講衆として、御報恩謝徳の万分の一を尽くす道です。

全国連合会の結成を見ました今日只今から、あらためて信行学をしっかり身につけて、一つの大きな塊となり、折伏教化の聖業に突進すべきであります。大聖人様の正しい仏法修行をするためには一にも折伏、二にも折伏であります。折伏による大法、宗勢の拡大は、広宣流布達成に直結するものであり、仏国土は折伏によって建設される。

全国連合会は、各地区連合会相互の緊密なる連絡によって、異体同心の御聖訓を奉じ、全信徒の和合をはかり、広宣流布の願業を祈願して、信行の増進、折伏の強化、教学の振興をいたさんとするものであります。逐次、目的達成のため、種々な活動を展開する考えでありますが、結成以後直ちに実行に入るものをお伝えしますと

一、連合会の機関紙発行
一、年2回の総登山及月例登山
一、総本山並に各法華講所属寺院の外護
一、法華講員の世帯数及人員数の調査把握

以上の如くであります。全幅の御協力御尽力を御期待申し上げる次第であります。



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