大白法

昭和37年9月20日号


主な記事

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常泉寺山号額除幕式


常泉寺大門(10kb) 先年来本堂新築中の名刹・向島常泉寺は、同寺檀家・横山公男氏の設計によって、間口10間、奥行14間の鉄筋コンクリート2階建ての新様式の偉容を再現して、目出たく御入仏落慶式を終了した。

その後、御住職高野日深御尊能化におかれては、本堂正面の大門にかかげる山号額の御揮毫を、日達上人猊下に懇請されてあったが、このたび、長さ9尺、幅2尺5寸の大扁額の彫刻も見事出来上がり、8月27日午後3時、日達上人猊下の御臨席を仰ぎ、柿沼総監、早瀬庶務部長、阿部教学部長並に多数の御尊師がた壇徒総代世話人等列席の上、除幕式が盛大に挙行された。

式は先ず阿部教学部長の開式の辞についで、除幕の儀があって後、高野住職から猊下に鄭重なる御礼の御言葉があり、また参列者一同へは感激の挨拶があって除幕式を終了した。




全国連合会 月例登山日程決定


去る9月8日理事会において月例登山の日時が左記の通り決定致しました。

第1回:9月29日〜9月30日
第2回:10月27日〜10月28日
第3回:11月24日〜11月25日
※12月中止
※来春1月2日(初登山会)

会費 一泊700円、日帰り400円

集合場所 本山三門前集合

申込締切 第1回〜第3回までは、登山日10日前までに申込むこと。尚、1月2日初登山申込締切日、10月20日、特に宿坊及び人員割当の準備上締切日を厳守すること。

注意事項 登山に対し名簿作成(必ず用紙は連合会発行用紙を使用のこと)し各所属寺院の証明書(添書)は必ず添附する事。

右決定通り実施していただきたい。また過去の登山にたずさわり、特に地方の方々が種々雑多の感があって、登山委員が困惑致しております。全国連合会結成後の月例登山であります。今回より、全ての面において、足並を揃へ実施していく覚悟ですから、御協力を希む次第です。

登山実行委員




『統一要する信心の概念』 柳沢喜惣次


人の考えというものは色々千差万別ですが、さてどの考えが良いか悪いかと言う事になりますと、なかなか理屈が多くて簡単に決まるものではありません。個人個人が勝手に自分の考えを主張して思い思いの行動を取ると、御承知のごとく「てんやわんや」になって、誠に醜い姿になる事は誰でも理解できる事です。この簡単な事が日常の生活の中で毎日間断なく繰り返されておるとしたら、生活の在り方を誰でも一度振り返って見なければならないと思うことでしょうが、人の考えと言うものはなかなか他人の思うような自在のものでは無いようです。

今、我々の信心が夫々の人々に依っては異なっていたとしたならば、これは一体どういう事になるでしょうか。また、このような事が果たして有り得べき事かどうかと言う事も大切です。

人には夫々思想がありますが、その認識の過程上、見逃してはならない事は、生活環境を異にしておるという事です。逆に言えば、生活全般に亘って差別が有る故に考え方も異なっておるとも言えるものです。

さてこの環境の中で人は一体、どのような事を考え、またどのような事を思っておるものでしょうか。先ず十人が十人喰う事を考え、住む事を考え、着る事を考えるのは当然の事です。衣食住が整ってくれば次には、子供の教育、蓄財等、その他いわゆる五欲の欲する方向に人の心は流れて行くのが通常のようです。社会は長い間、この人間の欲望の命ずるままに栄枯盛衰を繰り返し、更にその時代の人々をして、その一時代を如何にしたら自分の身を守るかという事を考えさせて来たとも言えるものでしょう。人間はこうして、いつの間にやら社会の影響を受け、自分の考えを時代の枠の中で規制されてしまい、成長後は自分一人だけでも正義を貫くという思想を失って劣等感に苦しむものです。日本史上に現われる思想の変遷は社会の興隆と相関性を有し、そこにその時代の大衆は又、社会の興亡、浮沈に左右され、その中でも十分、自己自身が耐えられる保身の術を発見するものです。

近年の如く外界の変化が速くなって来ますと、自分自身の方も一定の見識を身につける事なく、何物かに追い立てられて、次から次と知識の為に、あくせくあくせくとしなければ保身が成り立たないような幻感に落ち入るものです。

冷静になって考えて見るならば現代の大衆は、その思想の上において念仏宗の浄土、穢土の思を社会の中でどのように変化しているかを発見出来るや否や。更に又、禅宗の持つ目的と手段手段と方法の思想上に発生する、向背の人間生活上に及ぼす大影響を社会の中で発見できるかどうか。又、真言の害毒である即身成仏の事理混濁の思想が、社会の中で発見出来るかどうか、挙げ始めたらきりがありません。問題は我々の思想上における誤りの点検になって参りますが、我々とて謗法と同様の社会に彼等と共に棲んでおるものです。従って当然、右のような事について十二分に反省もし、勉強もしなければなりません。

さて信心をしておると自分で思っていても、果たしてどのような信心をしておるのかが問題です。御本尊をただ拝んでおれば良いと思って、他の事を一切重要な事ではない故、行なわないと考えている人。或いは理と事を混濁して天台流の構えで御題目を唱え、諸法実相を研究していくのが教学の研鑽であると思っている人。いろいろな信心の仕方を夫々の人は自身で考えたのか、又は人に教わったかそのいづれにしても、本筋から離れている事には大体間違いはありません。

今、日蓮大聖人の御化導についてこの種の信心を見て行くならば、大衆の指導というものは、掌を返すようなわけには参りません。長い年数のかかる事は誰人も、少し折伏で苦労して来た者ならば簡単に理解できる事です。凡夫のように行き当たりばったりの一時しのぎのような安易な考えでは、決してこの大衆の指導は出来るものではありまん。そこに御自身の年令を考えられ、更にまた大衆に教えんとするものが何物であるか、また何故にこのものを教えんとするかなどを十二分に考慮致して、教えが施されるのが常軌ではないでしょうか。

即ち日蓮大聖人様は三大秘法の大御本尊様を御顕わしになるのが御一代を通じての大事業でございます。御年32才から、50才までの即ち竜ノロの断頭場裡、更に佐州遠流。この佐州遠流を堺として佐前と佐後にわけられておる事は御承知の如くであります。佐前までは、麻の如く乱れた弘法を寿量品を説かれた釈尊に帰一させて、この釈尊に向かって御題目を唱えさせ、三大秘法の中の題目を先ず弘めさせて来たのです。次に佐後は御自身の法華経身読体験の上から事理の一念三千あたかも掌の上を見るが如くに悟られておりますが、一応法格中心の上と更に人法体一とを分別して、弘安に入って出世の本懐を御顕わしになっておられるのであります。

従ってそれ以後の大衆は「てんでんばらばら」の物を拝んで南無妙法蓮華経と唱うるわけには参りません。即ち戒壇の大御本尊様に向かって御題目を上げなければ、大聖人様の信心ではなくなるわけです。更に円戒は死後に留むという事になって来ると、今の我々は更に一歩突込んで戒壇を建立する所の信心の概念に統一致してかからなければ、何時まで待っても整頓された、きびきびした信心修行の集団にはなる事は出来ません。

今や時代は大きく転換して来ております。我々の信心は、戒壇を建立する所に相寄り相集まった集団であるという事を忘れては肝心の意義を失ってしまうのでありあります。



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