<2〜4面>
大客殿で御出棺の御経・四門行道に続いて、御本葬は午前11時半過ぎ正本堂東側広場にて行われ、引き続いて歴代上人の御墓所において御埋葬の儀が行われた。又、同日午後4時からは大客殿において、初七日御逮夜法要、同7時からは初七日忌御題目講が、翌9日午前10時からは大客殿で初七日忌御正当会、御墓参が修された。
大客殿において、午後7時から御通夜の儀が行われた。大村寿顕教学部長の開式の辞があり、参列者一同が唱題してお迎えするなか、御法主日顕上人猊下が大客殿に御出仕され、御法主上人の大導師のもと厳粛に読経へと進んだ。寿量品に入り、御法主上人が御焼香ののち、葬儀委員長、副葬儀委員長、宗会議長、各尊能化、ならびに御僧侶各位、遺族・親族の順で御焼香され、つづいて全参列者も懇ろに御焼香を申し上げた。このあと、大村教学部長から閉式のあいさつがあり、御通夜は午後7時45分終了した。
小憩ののち、午後8時過ぎからは藤本総監の御導師による御通夜が、また、9時過ぎからは椎名重役の御導師による御通夜がそれぞれ厳修された。このあとも、総本山塔中、法類・遺弟の各御僧侶によって、翌朝の6時まで通夜の御経が懇ろに修された。
<7日>
大客殿、午後7時、大村教学部長の開式の辞があり、前日に続いてお通夜の儀が御法主日顕上人猊下の大導師のもと厳粛に奉修された。この日も読経、焼香、唱題と懇ろに進められ、唱題終了後、ひきつづいて葬儀委員長である藤本総監からあいさつがあり、御通夜の儀を終了した。
そのあとも、午後8時過ぎから藤本総監の御導師による御通夜、午後9時過ぎから椎名重役の御導師による御通夜が、それぞれ厳修された。また、このあとも、総本山塔中、法類・遺弟の御僧侶による御報恩の御経が翌朝6時まで続けられた。なお、法華講からは代表千名が登山し、それぞれの行事に分かれて参列した。
<8日>
御本葬は、まず大客殿において、御法主日顕上人の大導師のもと、御出棺の御経で始められた。午前9時半第1号鐘(雲版)、同9時45分第2号鐘(喚鐘)が全山に響きわたる。大村教学部長の開式の辞があり、御法主上人が御出仕された。つづいて、方便品、自我偈の読経、焼香、唱題、回向と進み読経を終了。
このあと、大客殿前に御出棺の行列が整えられ、同10時43分御灰骨を納めた御霊棺を中心にした行列が出発して御出棺の儀が進められ、御本葬式場である正本堂東広場に向われた。行列の順序は、教学部長大村寿顕尊師を先達として、金棒、お供、御先払、先陣の御僧侶方、花篭、高張(鶴丸)、大宝華、燈篭、大旗、四本旗、四華、白蓮華、御華、大講頭、炬松、御本尊捧持の藤本総監、御本尊御供、鈴、銅羅、御経、御書、法衣、蝋燭、御華、御水、二之膳、香炉、位牌の菅野庶務部長、御霊棺(棺側・負担役)、天蓋、御履物、御杖、墓標、高張、雨屋、後陣の御僧侶とつづき、最後に遺族・親族がつづいた。
行列は大客殿前を出発し、鬼門を通り、富士学林の表門を通り過ぎ、雪山坊前を左に折れ、常唱堂、宝物館、東之坊、蓮葉庵、遠信坊の塔中を静かに進まれた。法類・遺弟の御僧侶により御負但申し上げた御霊棺の前を行く花篭からは、五色の花に例えられた色紙が行列の行く道に花を咲かせた。
式場には竹矢来が組まれ、その四隅には、発心・修行・菩提・涅槃の四門が古式に則り、整然と構えられた。まず、行列は発心門から式場に入り、修行門を抜けて行道ののち、ふたたび修行門から入って菩提門を抜け、さらに一巡して菩提門から入った御霊棺は、正面に安置された。
この日は、全国から参集した檀信徒約1万4千人が、立錐の余地なく御本葬式場を囲み、唱題のなか御霊棺御安置と同時に御本尊奉掲と進み、大村教学部長から「ただ今より、総本山第67世御法主日顕上人の大導師により、総本山第66世御法主日達上人御本葬の儀を奉修致します」と開式の辞があり、御法主上人の大導師により厳粛かつ荘重な儀式がすすめられた。
方便品の読経で御法主上人が御焼香ののち、葬儀委員長、葬儀副委員長、宗会議長、各尊能化をはじめ五僧侶の各代表、さらに遺族、親族の御焼香ののち、檀信徒の代表が御焼香申し上げた、読経は寿量品の長行に入り、竹矢来の外に置かれた焼香台にも全参列者の焼香の列が切れ目なく続いた。
寿量品の長行「而説偈言」のところで鈴が入り、御法主日顕上人が「歎徳文(たんとくぶん)」を奉読され、ふたたび自我偈の読経・引題目へと続けられた。こののち、葬儀委員長である藤本栄道総監、遺弟を代表して菅野慈雲庶務部長がそれぞれ挨拶され、大村教学部長の閉式の辞をもって御本葬を終了した。
続いて「多宝富士大日蓮華山大石寺血脈付法の法主第67世日顕上人御猊座へおなおり」と藤本総監が仰せられ、瀬戸執事の御先導により、柄香炉を持たれた御法主上人は御宝前に進まれ、三拝された後、猊座に御着座あそばされた。この後、御法主日顕上人猊下の大導師により、読経(自我偈)・唱題が行われ、御座替式を終了。
まことに宗門の大発展の時期であり、またそれに伴って、様々の御苦労がお有りになったことと拝するのでございますが、そのらをことごとく強い御信念の下に、全てをその大きな腹中に呑み込まれて、大きな慈悲の下に我々僧侶一同をお導き下され、又あらゆる大きなお仕事をことごとく遂行せられたということは、その御徳の大きさを、我々共々深く拝しておる次第でございます。
しかしながら又、追億談でございますから、もう少し人間臭いといいますか、人間という立場から、近くで拝した日達上人猊下というような意味で、少々お話を申し上げたいと思う訳であります。
私の好きな言葉に、「風去って竹、声を止めず」というのがありまして、これは、風が吹いてくる、そうすると竹林の竹がさやさやと音を立てますけれども、結局風がさっと吹き去ってしまって、無風状態になればもうすでに竹は声を鳴らさない。我々凡夫は色々な失敗をしたり何かをしますと、ついくよくよと何時までも考える場合もありますけれども、達人はもうさっとしてしまえば意に介さないというようなことがありますが、日達上人の御性格は竹を割ったようであり、色んなことは常に心配なさるけれども、繰り返してどうにもならないことについては、もうさっとあきらめて、またあきらめ方も非常にお早いようにも拝しておった訳でございます。
ですから、万事にこだわらない方でございますから、私共、あるいはお弟子方を薫育するという意味においても小さいことにこだわらないで、その人の持っている長所をなるべく生かそうというようなお気持ちで接せられたということが、特に今日残っておられるお弟子さん達も、良く考えて見ると、そういうことに思い当たられるのではにかと思います。
この人の長所を生かすということは仲々できないことでございますが、しかし小さいことにこだわらないで、その人の小さなきずや何かを特に取り上げて文句を言ったり、あるいはその人間をそういうことによって否定するということがなく、大きく抱えてその長所を生かしていくというところが、やはり多くの弟子を持たれて、その薫育をされるお立場においての実に達人の御境涯であらせられたように拝します。
最初の編纂が、約5年かかってやっと終わりましたけれども、又すぐそれに続いて関係した仕事ができてきて、今度はその前後の、明治以前と以後を合本するという仕事が今まだ終わらないで、年表の委員の方によって行われておるような次第でございます。
この富士年表の編纂によって、宗門において今まで不明のところも全部研究し尽くされて、他宗他門がどのような風に、宗門の教学・宗史の中において、その間隙を突いて悪口を言おうというようなことを考えても、絶対に揺るぎのない立派な歴史、その証拠を持ったところの年表というものができた。言わばこれはもう大変な、宗門の教学史上にも有意義なことこれ以上は無いと思われるお仕事でございましたが、それは又、それに携わった25人乃至30人の、まあ一番最初の方は既にもう故人になった方も沢山おられます。
昭和35年から始りましたのが、その人達の一人一人がやはり法要法務の仕事に忙しい中を取り組んでいく、その中から宗史に対しあるいは教義に対し、あるいはその外にも宗門の色々と深い法の在り方というものにつきまして、自然にその人達が身にしみて、ある見識を持ってくる、力を持ってくるというようなことが有ったようにつくづく思われます。ですからこれも全部、富士年表を作れという日達猊下の、大きな立場から見通された意味での構想、御指南というものによるのであり、実にこの宗門という面においても、大きな力がそこに発揮されておった訳でございます。そういう面で、薫育という点も巧まずして自然に多くの人が成長していくという、大きなお仕事を与えて下さったというところに、実にこの、それに関与した人々が皆深くそのお徳を、心から拝しておる次第であると思います。
そう言えばみんなよく分かると思いますが、ああ自分もあの時あんなことを言われたと、まあ独身の者が猊下の前へ出ると、お前嫁はどうした、なんて言われてですね、その内に「どうだ、あれと一緒になったらどうだ」、などという話を聞いた人もかなり居るんじゃないかと思いますが、まあこればっかりは中々その、たとえ猊下のお言葉でも色々とその人間それぞれの都合がありまして、まあ時にはそのお言葉通りにしたいんだけれども、中々できなかったような場合もあったかも知れません。しかし、非常にこの、誰一人として、目に触れる者を何とかしてやりたい、そういうお気持ちが常にあるためにですね、何かこう相手を見ると、その人その人に欠けているものを充足してやりたいというようなお気持ちが出てきて、それが色々のお言葉となって出てきたように思われます。
まあこれは、私事になりますけれども、大変御親切という意味におきましては、昔私が本行寺の住職をしておりました。で、本行寺の再建がやっとできましたのが大体、昭和23年の11月でしたけれども、それから約2,3年程の間は、創価学会の折伏もまだまだ緒についておりませんで、ぼつぼつはやっておられたようですけれども、まあ当時は宗門も戦後の大変苦しい時代でございまして、総本山も苦しかったし末寺も苦しかった。
その頃は私共も変な話ですが、毎日の食べ物といえば、闇米なんてのは幾らでもあったけれども、お金が無ければとても買えない。ですから毎日の食べ物は芋しかないんですね。薩摩芋を毎日食べるんですが、しまいにはあのボコボコしたのが本当に胸を通らない。のどを通らなくなってしまって、しようがないから、お湯で薄めてドロドロのお粥にして、それで流し込んだんですね。そんなように苦しい時代でございました。その頃の宗門の非常に貧乏な姿というものをまだよく記憶している方もあると思います。
その頃実は、私の母親と、それから死にましたけれども母親のまた母親、これは俗名彦坂文と言いますけれども、それがお山の日開上人の御遷化のあとの蓮葉庵に居させて頂きましてですね、これは今の蓮葉庵でなく元の蓮葉庵ですが、ともかく芋粥をすすりながらも本行寺が東京で再建できたので、そちらへ引っ越すことになりましたけれども、その引越しのお金がないんです。それで母親も困っておりました。
ところが、日達上人が当時常在寺の御住職をしておられまして、どこで聞かれたんですか「おい、困っているんだってな、昔は世話になったもんな」と言ってその妙修尼(私の母親ですが)に、相当の引越し資金を下さいまして、それでまあそれを頂戴して実に有り難く、困っていたところを引越しをすることができたのでございます。ですから私の母親が、よく死ぬまでの間に2回も3回も、その猊下が仰ったお言葉を申しまして、本当に有り難かったということを言っておりました。
つまりそれは、どういうことかと言いますと、猊下の履歴を拝しますと、最初に得度の前にお寺に上がっておられたのが東京の常泉寺で、それから2,3年して日正上人の徒弟として出家得度を遊ばされて、その後でまたもう一辺常泉寺へおいでになって、在勤されているように思われますが、その時に丁度私の母親も開師のお傍におりましたので、常泉寺のまあ台所の方で働いておった訳で、まあそういう時のことによって、非常に昔世話になったというふうなことを、日達猊下が仰って下さって、そしてその有り難いおぼし召しを賜ったということを、本当に死ぬまでの間に何回も母親が言っておったのを、私が覚えておる訳でございます。
しかしその反面、また非常にこの細心な面もお有りなりました。小さいことによく気がつかれ、また非常に小さいことでもよくお考えである。まあ大体が偉い方というのは、大胆ばかりでもいけないらしいんです。それから細心で、小さいことばかりしか考えられないということでも、またこれはだめなんで、両方を兼ね備えて、始めて小さいことも大きいこともよく分かる、そこにあらゆる人と交わり、あらゆる人を導いて行くというような、基本的に優れた御性格が、そこにお有りになったんだろうと思うのでございます。
お名前が細井というんで、ですから随分細いというようなことをすぐ連想致します。そういうことで面白い話がございまして、昔戦後すっかり焼けてしまって、常在寺ももう、ここに奥様がいらっしゃいますが、一時戦後の常在寺は、東京のどこの寺もそうでしたが、本当に8畳か6畳一間ぐらいの所に御本尊様を安置して、仏法の法脈を各寺が継いでおったような姿でありました。ですから大変な時代でしたが、それが段々と、猊下は特にお徳が高いものですから、信徒も非常にそのお徳を慕ってくる人も多く、あれは昭和何年頃でしたかちょっと忘れましたけれども、立派な寺院をお作りになった。それがほとんどその御自分のお寺の収入でもって、立派な寺を作られてしまった。
その頃既にもう創価学会の戸田会長さんが、たしかもう会長になっておられましたけれども、何かそういった大きな建築をするについて、創価学会として、戸田会長の気持において御供養したいということをお話されたところが、いや今回はもう私は自分でこれをやることになっているんだから、全部自分の考えで貯めたので寺院の建立をやるんだから結構です、また将来お願いします、ということを言われたということですが、そのことを落成式の時に戸田会長が言われまして、あれは本当にどうも名前は細井だけれども、胆は太い人だということを言ったことをよく覚えております。そんな訳で、何でも仏法のためには非常に大きな気持でそれに当たられたということが考えられるのでございます。
で、猊下がおいでになって、そのお汁粉を一口飲まれたら、さすがの猊下が渋い顔をなさいました。甘い物を召し上がって渋い顔をなさるというのはちょっとおかしいんですけれども、それで「お湯を持って来い」と言われたのがありましたですね。その時始めてあーさすがの猊下でも、やっぱりお湯がいる時があるんだなというのを私も感じましたですね。
でも猊下は、甘い物、特にお汁粉は大変若い頃からお好きでございましたけれども、塩を入れるのがお嫌いでしたですね。うっかり塩を入れるとこれはまた渋い顔をなさる。で、塩の入らない甘さでなければ、本当の甘さではないんだということを、常に私共に「御指南」を頂きました。まあ人によっては、塩が入らないと、どうも何だか甘みが甘みにならないということを言う人がありますけれども、猊下は絶対に、塩を入れたら本当の甘みがないんだ、ということだそうでございました。これは私が、甘い物が余り好きじゃありませんので、その辺のところはよく分からないんですけれどもですね。
けれども、それに余りお懲りになることなく、ちょいちょいお出ましを頂きましたんですが、やはり京都がお好きなんだなと思ったのは、とにかくこのような状態であってもですね、駅にお迎えに上がる、それから車で平安寺まで参りまして、2階に猊下の御居間がありますが、そこへお通りになると、実にのんびりとした、落ち付いたお顔をなさってですね、「やれやれ、また京都へ来た」というようなご様子を、私も感じた次第でございます。
ああなる程京都がお好きなんだなということを、つくづく感じました。ですからもう、京都の町を夜、ちょっとぶらぶらとお歩きになることも大変お好きでございまして、やはりそういう京都の雰囲気といいますか、これは色々と御家族等の因縁もお有りだったと思いますけれども、京都という土地が、本当に懐かしい心の故郷というような意味で、お考えになっておられたものと思うのでございます。
ああいう剛毅な方でございますし、何でもバンバンおっしゃるような方ですから、何か一人で随自意になさっていらっしゃるというふうにも取れますし、またそういう面も無論有ったと思いますけれども、やはりこれだけの大宗門を正しく大聖人様の仏法の広宣流布に向って、お導きをされて行くというところには、実に言い知れない御苦心があったように拝察を致します。
ですから私共も、そのお心をこれから更に深く体して、猊下のお残し下さったところの、また我々に与えられたところの道を、深くどこまでも正しく邁進して行くことが、御法主日達上人猊下に対し奉る本当の御報恩の一分に当たると存ずる次第でございます。
ですから、悪いことを悪いというのは結構な話、だけれども、それに捕らわれてしまって、執着してしまって、どこまでもそういうことがその本義だというふうになってしまったんじゃ本末転倒という意味もあると思うんですね。その辺はやはりこの物事に達せられた日達上人の御境涯というものは、あらゆることを御指南遊ばされ、あらゆり意味においてお示し遊ばされてはおるけれども、すべてに達して、その上で一切を包容せられるというところに、その御境涯があらせられたということを深く拝するものでございます。
どうぞまた、その意味におきまして皆様方も各々の立場において、御報恩の信心をいよいよ倍増せられんことをお祈り申し上げまして、つたない話でございましたが、御報恩の一端の追億談とさせて頂く次第でございます。大変御清聴有り難うございました。
総本山第66世日達上人の御本葬の儀は、8月6,7日大客殿における御通夜、8日の御本葬と、3日間に亘り総本山において奉修された。これにはいずれも、葬儀委員長である藤本栄道総監をはじめ全国の各御僧侶方、又、法華講連合会からは佐藤委員長はじめ連合会幹部、さらに檀信徒の代表が多数参列し、懇ろに御報恩の読経・唱題、御焼香を申し上げた。
<6日>
8月6日、先に総本山第66世御法主日達上人より、金口嫡々の御相承を受け継がれた第67世御法主日顕上人の御座替式が、午前11時過ぎから、総本山の大客殿で厳粛に奉修された。これには、総監藤本栄道尊師をはじめ全国代表および総本山塔中の各御僧侶方、又、法華講連合会からは佐藤委員長をはじめ連合会幹部など、さらに檀信徒の代表が参列した。
午前11時5分、御法主日顕上人が大客殿に御出仕され、総本山執事である瀬戸恭道尊師の御先導で、内陣の東側に設けられた学頭の席へ御着座され、藤本総監の御導師で方便品、寿量品の長行「而説偈言」のところまでを読経。
今晩は日達上人の第初七日忌の御題目講を奉修致しましたところ、多くの方々がお残り頂きまして、御報恩の読経唱題を奉修して頂きまして、誠に有り難く存じておる次第でございます。例と致しまして、歴代上人の御遷化の初七日の御題目講には、追億談を申し上げるということになっております。私も真に口下手で、充分に思うことも申し上げられないのでございますが、故上人の御徳を拝して思うところを申し上げたいと存ずる訳でございます。
とにかくこの、日達上人猊下の御在世における宗門の大発展、そして又、そのお仕事の量と申しますか、あるいは質と申しますか、その両面共に宗門の歴史の上においてまず比類のないお方であらせられたということは、これはもう皆様が言われるまでもなく、心の中に痛感されておることと存ずるのでございます。
それで、名は体を表わすといいますけれども、日達というお名前が必然的に考えられる訳で、その意味において、あらゆる面からそのお気持ちが、いわゆる達人といいますか、巧まずして自然にあらゆる物事に達せられておったというように考えられます。ですから、非常に能くすべてのことに気が付かれて、それでいながらいろいろと世話を焼かれるけれども、物事に決しておこだわりにならない、そういうところが真に達人の境涯であるというように拝せられます。
それから又、仕事を与えることによって、その人の持っておる立派な力をどんどんと引き出して行くということも、実に名人であらせられたように思います。その内でも特に私共が痛感しておりますのは、私も前に永年教学部長を勤めておりまして、例の富士年表という年表の編纂がありましたが、これが仲々大変な仕事でございました。
それから大変御性格が親切といいますか、まあこんな言い方をしてはいけないのかも知れませんけれども、御親切な方でいらっしゃいまして、何でも他人のことを考えないではいられない方でした。
それから又猊下は、これも皆様よく御承知のことですが、大変この大胆な方で、何が起ろうと少しも意に介さないどころでなく、曲がったことを言ってくるような者に対しては、もう堂々と説破して、あるいはその不正をあくまでも叩き潰していくというような、実に強い一面がお有りでございます。ですからそいう時に猊下のお姿を見た我々は、もうびっくりして、頭を下げるようなことがよくありまして、実にその勇壮と申しますか、どんなものにも負けないぞというお顔で、相手に対してその誤りを正すというお姿があったようです。
それから又、猊下の特徴の一つは、甘い物が大変お好きだったということでございまして、これはまあだれでも知っておることなんです。ですがあんまりこの甘い物といっても程度問題ですが、とにかく甘い物が好きなんだからどこまでも甘くすればいいだろうというんで、砂糖を沢山入れた上にまた砂糖を入れて、お汁粉を作ったお寺がある。
それから、京都という土地を大変愛されたことを覚えております。私も永く、約15年程京都の平安寺に住職を致しましたが、その時によく日達上人が平安寺にお泊りを頂きました。まあ私なんかは大体こういう、どちらかと言いますと余り愛想のない方の人間ですし、猊下がおいでいただいても、お気に入るようなお話も中々できない。何とかして少しでもお相手をして、猊下のお心を安めたいという気持はあるんだけれども、何しろ口下手だし、あんまり話題が豊富な方じゃありませんので、どうも大変申し訳ないと思っておったんです。
というようなことをお話している間に、約30分を経過致しましたので、まあ大体この辺で失礼を致しますけれども、実にこの猊下の、御法主様としての20年間のお姿というものは、宗門の大発展の時代でございましたけれども、またそれだけに、本当に我々凡夫の者の量り知れない大きな御苦労というものが、そこにお有りになったということを、つくづく今、拝察を申し上げておる次第でございます。
特に近年におきましては、色々な問題もございましたが、御遷化の前、今年に入りましてからは、特に日達上人猊下の御指南の中に、一切のものをやはり救っていかなければならない、但し、正すべきものはもちろん正し、誤りはきちんと正して行かなければならないけれども、その上においては、一人一人、僧侶と僧侶、あるいは僧侶と在家、あるいは在家と在家、とにかく正しい大聖人様の御本尊を受持する者はですね、ことごとく異体同心の気持ちを持って、広宣流布に邁進をして行かなければならないのである、というこの御指南があったように拝するのでございます。