大白法

昭和54年10月16日号


主な記事

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創価学会問題に関して宗務院より通達



院第18号
                              宗 内 一 般
 昭和54年10月8日
                           日 蓮 正 宗 宗 務 院

 今般、法主上人の御意向に基き、現時局下における宗内僧俗の進むべき方途につ
き左のとおり通達いたします。
 これは去る8月21日御公布の訓諭の趣旨に則り、より具体的にその指針を示し
たものでありますから、よく理解の上、誤りなく実践されるよう願います。

一、創価学会に対する基本的な態度は、前法主日達上人が示された既定の方針と聊
 かも変るものではない。それは、去る昭和53年11月7日創価学会創立48周
 年記念代表幹部会の席上及び本年5月3日同第40回本部総会における御講演を
 始め、各種院達等に明確にされている。
  即ち、
  「この数年、宗門と学会の間に種々な不協和の点がありまして、さわぎにもな
 りましたが、こういう状態が続くことは宗開両祖の御精神に照らして憂慮すべき
 であることはいうまでもありません。こうした状態をいつまでも続けていること
 は、世間の物笑いになり、我が宗団を破壊することにもなり兼ねないといつも心
 配しておりました。
  幸い、学会においてその点に気付かれて今後の改善のために、反省すべき点は
 卒直に反省し、改めるべき点を明確に改める決意をされたことは、まことに喜ば
 しいことであります。
  ……今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現
 されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をつ
 けて、相手の悪口、中傷をいい合ろことなく、理想的な僧俗一致の実現をめざし
 てがんばっていただきたいのであります」(53・11・7)
  「この数年間、まことに残念な出来事が続き、混乱を招きましたことは、悲し
 いことでありました。幸いにして前会長の英断と、心ある人々の努力により、再
 び秩序の回復に向かい、晴ればれと今日の天気のごとく明るい出発ができること
 は、まことに喜ばしいことであります。……私は、日淳上人のもとで創価学会の
 宗教法人設立に立ち会った一人であります。宗門の外護団体としての創価学会の
 理解者の一人であったし、今後もそうありたいと念願しております。
  どうか今後は、信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただき
 たいのであります。そのうえで自主的な指導と運営で伸びのびと御活躍を願いた
 いのであります。
  なお、我が日蓮正宗には創価学会の他にも法華講および檀徒会に属する信者が
 おることは御承知の通りであります。同じ信者として仲良くしていただきたいの
 です。これまでの経緯は水に流して大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に
 協力していただきたいのであります」(54・5・3)
 と御指南のごとくである。
二、僧侶にあっては上求菩提下化衆生の誓願に徹して慈悲の精神に立ち、法主上人
 のもと一結して僧俗和合協調の右基本路線に添い奉るべきである。
  したがって、御講を始めいかなる場においても、また各種紙誌等出版物におい
 ても創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない。
  さらに創価学会員に対しては、自らの意志・希望によって檀徒となることを申
 し出た者の受け入れは差支えないが、それ以外は一切の働きかけをしてはならな
 い。このことは指導教師または住職として所属の法華講・檀徒の全員にも充分徹
 底せられたい。また正宗信徒として法華講・檀徒及び学会員の間で、互いに謗法
 呼ばわりする等誹謗中傷し合うことも断じて許されない。
  宗祖大聖人生死一大事血脈抄に曰く、
  「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にし
 て南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が
 弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮
 が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と。以っ
 て肝に銘ずべきである。
  我々正宗僧俗は、いたずらに過去の行きがかりにこだわり、内輪同志で反目し
 合い、世間の嘲笑の的となる愚は避けなければならない。そして今や互いに励ま
 し合い、助け合い、異体同心の上、外に向って謗法不信の人々の慈折教化に全力
 を注ぎ、以って一天広布の願業に邁進すべき時である。
  勿論もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然
 と破斥し善導すべきであり、またそこに何等かの複雑な問題を含むときには宗務
 院に報告して善処を委ねるなり、或いは地方協議会の機関に諮る等の道を講ずべ
 きである。
三、創価学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経
 緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽して説明徹底することを怠ってはな
 らない。即ちそのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分
 を明確にし、またそのような指導を行なったことについて卒直に反省懺悔し、再
 び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない。

                                   以上





御法主日顕上人猊下御言葉 婦人部登山お目通りの砌


本日は、法華講の信徒各位、特に婦人部の皆様には、例年の通り総本山において奉修致しますところの“日寛上人御正当会”に当たりまして、御逮夜法要に参詣のために御登山をせられまして、まことに御苦労様でございました。

総本山に対して、真心の信心をもって登山をし、そして御戒壇様に罪障消滅を願って真剣に読経・唱題し、その真心の信心をもって、仏法に御供養するところの功徳がどれ程大きいものであるかということは、既に皆様方も大聖人様の御書のいろいろな御指南を通じてよくお分かりのことと思います。皆様の本日の御登山、またひとり一人の真心の信心というものが、実に功徳が大きいのであるということをよくお考え頂きたいと思います。

日寛上人様は、言うまでもなく総本山第26嗣法(しほう)の御法主上人であらせられまして、特に教学を勉強されておられます方は、日寛上人の教学が、非常に勝れた、大聖人以来の相伝の仏法を、更に御書のあらゆる面における御指南を通じて、脈絡一貫したところの筋道を明らかにせられ、そして大聖人様の正義をいやが上にも興隆せられた方であるということは、既に御存知のことと思います。

よく日蓮宗等の他門の人々が悪口を言いますのに、「大石寺の教学は26代の日寛によって作られたものだ」というような、見当違いなことを言うことがございます。もちろんこれはとんでもない、観点の狂った見方でありますけれども、そう見えるような理由が多少は無いわけでもありません。ということは、やはり日寛上人が新たに仰せになられたというような教義説明が、実は有るのであります。

しかしこれはよく考えてみると、そこのところが実は日蓮宗等の邪宗の狂った考え方からは、到底理解できないところであるのでありますけれども、例えて申しますと、日寛上人の六巻抄の『当流行事抄』という御抄において、「我々の毎日の勤行に、何故寿量品を読誦するのであるか」ということについての御指南が、教学的にきちんと示されてあります。しかし、日寛上人以前の御先師のどなたも、このことについて教学的な立場において触れられた方は無いのであります。

従って、「これは日寛上人の発明である」というように簡単に思ってしまっているのであります。ところがそれはまったく違っておるのでありまして、大聖人様・二祖日興上人様以来の御相伝の仏法において、「朝晩の勤行に、方便品を読み、寿量品を読誦し、お題目を唱える」ということは、まったく変わっておりません。

しからば何故に日寛上人が、「朝晩の勤行に方便品・寿量品を読誦する」ことを明らかにされたのかと申しますと、その理由として、まず日興上人の時代に、当時の不相伝家の間で、「迹門方便品の読誦・不読誦の問題について」の争いが起こりましたので、正しい教学の立場から、「方便品を何故読誦するのか」という理由をきちんと表わされたのがその時代でございました。これは、二祖日興上人からそのお弟子であられた三位(さんみ)日順という方の時代で、その時代に明らかにその理由が示されております。しかし寿量品の読誦については、当然読誦する意味はあったのですが、特に明らかにする必要がなかったから争われなかったのであります。

しかるに、徳川時代になって丁度日寛上人のおでましになられた頃に、寿量品に関する問題、本迹一致・本迹勝劣の問題等が再びやかましくなりましたので、その時に御出現遊ばされた日寛上人が、「何故寿量品を読誦するのか」という理由を、御相伝の仏法の趣旨に基いて、きちんとこれを立て分けられたのであります。ですから、表面上の形だけをみれば日寛上人が初めて仰せになられたようではありますけれども、その根本は大聖人様の南無妙法蓮華経の五字・七字の中に末法の仏法の行法・内容というものがことごとく込められておるのであります。また、それを相伝の法主がその時代時代の必要に応じてそれぞれの指南を遊ばされておるということをもって考えれば、いささかも勝手な考えというものは無いということを、教学的な面からも御理解頂きたいと思います。

それと同じように、我々の信心の立場におきましても、御本尊様の南無妙法蓮華経の五字・七字の中に、あらゆる宇宙法界の義・理、一切の人生の筋道も意義もことごとく込もっておるのでありますから、皆様がそれぞれの立場立場において、あるいは男の人もあり女の人もあり、あるいは幼い人もあり賢い人もあり、いろいろな立場の人、いろいろな境遇の人もありますが、それぞれの人が、大聖人様の南無妙法蓮華経を真剣に受持し奉るところに自然にその功徳によって、お題目にはあらゆるものが込もっておりますから、いかなる人でも、それぞれの立場に応じての“応病与薬の功徳”というものを生ずることができるのでございます。

そういう意味からも、皆様方がいよいよ大聖人様の御本尊様の即身成仏の功徳とうものを確信せられ、一層信行に倍増せられることをお祈り致しまして、一言御挨拶と致します 御苦労様でした。




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