<第37回法華講連合会総会から>
<講頭・副講頭指導会から>
<宣法寺落慶入仏法要から>
本日、法華講連合会第37回総会が、柳沢委員長ほか全国の法華講員多数の参加により盛大に開催されまして、皆様、まことにおめでとうございます。
我が宗門は、今や僧俗の固い一致団結のもと、明後年に迫った宗旨建立750年の佳節に向け、広大なる下種本仏宗祖大聖人に対し奉る仏恩報謝のため、ならびに大正法広宣流布のために堂々の大前進を行いつつあります。
さて、ここで一往、過去を振り返るとき、昭和より平成にかけて、その内面に包んでいた邪義による、池田創価あら学会の次第に露わになった宗門への誹謗に対し、たび重なる我らの教導も聞く耳を持たず、宗門への蔑視・軽視がいよいよ著しくなりましたそこで、ついに平成2年12月、法華講の清浄化と刷新のため、法華講本部組織に関する規則を改正し、具体的には池田大作ほか学会幹部の法華講本部役員としての関与を排除いたしました。
以来、池田大作ほか創価学会の荒れ狂う有り様は、付嘱の大事も700百年の仏法正統血脈をも土泥に踏みにじる悪をもって、ありとあらゆる誹謗・迫害中傷を行ってきたことは皆様も御承知のとおりであります。これに対し、宗門は、あくまでも宗祖大聖人の正法で義を守りぬき、広布への前進を志してまいりました。
すなわち、法華講の皆様による平成2年の三万名総登山より、4年後の平成6年の六万名総登山、そして不思義な阪神大震災の因縁によるところの客殿新築に伴う平成10年の10万総登山が、ことごとく大成功をもって結ばれたのであります。
思えば、池田大作等の異体異心の仏敵と大きく異なり、真の法華講としての在り方より、また、その全体的活動機構としての法華講連合会が、僧俗一致の麗しい団結のもとにこのように大発展を重ねつつ、宗祖大聖人、歴代上人の御命たる正法広布に大前進をなすことは、宗門史上、まさに未曽有のことであると信ずるのであります。
この我らの正法弘通は、止めどなき五濁乱漫の相によって腐敗・堕落した日本社会のあらゆる機構を根本的に浄化するところの、本仏大聖人の大慈大悲を現実に実践し奉る、唯一の大道であると確信いたすものであります。
そこで、この総会に臨み、私より皆様に一つの提案がございます。それは、目下の状況上、推測されることは、本年4月28日に、かねて建立を発表した奉安堂の着工法要を執り行う運びが予測されます。あるいは期日に少々の前後があるかも知れませんが、この奉安堂の起工式の日より100日間を限り、皆様一人ひとりが特に一日3000遍、100日間で30万遍の唱題を行い、もって宗祖大聖人様の、「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594)の御金言に広宣流布の功徳と実証を込め、折伏の大増進と成就を期したいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか。
唱題は、本仏大聖人が常にあらゆる御書に御指南の如く、本地甚深の奥蔵にして一念三千の法門を振り濯(すす)ぎ立てられた大御本尊への帰命であるとともに、祈りとしてかなわざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなき、現当二世の功徳を成就する真実行であります。この肝要な時期に、御本仏の忍難弘通の大慈大悲を拝しつつ行ずることこそ、最も宿願成就にかなう所以であると信ずるものであります。
ただいま秋元渉外部長より、去る3月21日の地裁の判決が、いかに不当、理不尽であるかの詳細の発表がありました。さらに私が触れることは重複になりますが、当事者本人として、仏法上の意味も含めて少々申し述べたいと存じます。
昭和38年3月16日、すなわち今より37年前になりますが、宗門より第1回のアメリカ出張御授戒が行われた時、私と大村現教学部長が出向いたのであります。ロサンゼルスより二手に分かれ、私はシアトル・シカゴ・ノースカロライナ等の各地で授戒を行いつつ、ニューヨークヘ向かい、大村師と合流しました。
この件について私は、もちろん大法弘通のお手伝いのできる身を心より有り難く思い、慣れぬ外国旅行の全行程中、この使命に対して敬い慎み、かりそめにも誤りのないよう、誠心誠意の心掛けをもって終始したことは当然であります。そして、この出張授戒はなんらの問題もなくすべての予定を完了し、同月30日、無事に帰国いたしました。
しかるに、突如として、それより29年後の平成4年6月に学会員のクロウ・ヒロエなる者が、私の、シアトルに一晩宿泊した際に売春婦と関係を持ち、料金のことでトラブルを生じてた警察沙汰になったということを、微に入り細にうがって作り上げ、学会機関紙に大々的に報道いたしました。もとより全く身に覚えのない私は当初、呆然といたしましたが、そののちも、これでもか、これでもかという学会の攻撃に対し、事実無根の認定を取るために、やむをえず平成5年12月15日、東京地裁に民事提訴をしたのであります。
この提訴は東京地裁十二部で、当初は篠原勝美という裁判長により審理が進み、クロウおよび現場にいたと称する元警察官・スプリンクルの尋問など、重要部分を含め、第15回期日まで訴訟指揮が行われました。したがって、篠原氏によって地裁の判決が出されるものと思っていたところ、突然、転任となり、後任担当として濱野という裁判長が訴訟指揮を執ることになりました。
濱野裁判長が担当してから述べたことは、訴訟原告代表、すなわち、かく言う阿部日顕に直接、裁判所で話を聞きたいということでありました。宗門としては、前例のないことで、当初はすべての宗門内の人が私の身分を考えて出廷に反対でありました。しかし私は、いかなることも正々堂々と処理をするという信念のもとに、出廷要請に応じたのであります。
平成9年12月22日、濱野裁判長により開かれた法廷で私は第1回の主尋問の証言を行い、創価学会のクロウによる宣伝等が全くの捏造・虚偽であることを堂々と申し述べました。ところが、こののち創価学会側の反対尋問があるわけですけれども、2回目の裁判長として私の証言を要請し、かつ、これを実際に聞いたにもかかわらず、この2人目の濱野裁判長は、私の証言を聞いた直後、不可解にも別方面へ転勤となりました。
かくて学会よりの反対尋問は、3人目の裁判長たる下田氏によって平成10年2月2日と同年5月18日の2回にわたって行われ、以後、数回の審理と書面による証拠等の追加提出等ののちに結審となり、今回の判決となったのであります。何かこの各裁判長の交替、特に濱野氏から下田氏へのあまりにも性急な交替劇は、過去においてあまり例のないものであるように感じました。それはともかく、裁判とは、あくまで双方の主張を聞いてこれを丹念に比較し、客観的な証拠による条理に基づいて公平な判定をすることが正当な在り方のはずであります。
ところが、先程の秋元渉外部長の話の如く、クロウ・ヒロエの当初の申し立てには事実としてありえない様々の矛盾が山積しております。先程の秋元渉外部長の話のほかにも、まだまだ色々なことがあると、私は思います。例えば多くの現地警察官の証言にも反しており、特に現場にいたと称する元警察官・スプリンクルの証言ともはなはだしい食い違いがあって、到底そのまま信用はできえない内容であるにもかかわらず、この判決の内容骨子は、クロウの証言が唯一絶対に正しいんだという立場を取り、他の一切の条理に基づく反証・反論を無視し、あるいは切り捨てるという、独断極まる裁定と思われるのであります。
また、スプリンクルに関する、証人としては不当な金銭授受や、1963年3月19日乃至20日の、あの問題の日における不在証明等、宗門の明らかな客観的証明主張にも全く取り合わず、創価学会の主張のすべてが正しいという論旨であります。さらに、FBIコンピューター入録事件に至りましては、司法省のハッフ部長が「そのようなものは全く存在しなかった」と明らかに述べております。
ところが、平成7年1月8日付の学会機関紙に秋谷なる不逞漢が、私に対する大悪口とともに、その事件についてコンピューターの入録がFBIの記録としてあったということを大々的に確言いたしました。しかし、その時に既に学会では、その記録のないことを知っていたのです。知っておりながら無残無愧の名誉段損報道を行ったにもかかわらず、今回の判決では、それが名誉殿損にならないというのです。「無理が通れば道理引っ込む」という警告的なことわざがありますが、どんな無理を押し通しても創価学会を勝たせようという、本当に一方的な、不公平極まる判決だったと、私は思うのであります。
かの熱原の法難は、建治2年のころより日興上人の教化により富士下方一帯に正法の信徒が増加したことに対する、邪教の滝泉寺行智等が妬んで鎌倉幕府に訴え、弘安2年9月21日、稲刈りの時、神四郎等の20人を有無を言わさず召し捕って鎌倉へ送るという大陰謀事件でありました。さらに、鎌倉で強制的な改宗を迫られ、聞かないと見るや、主立った神四郎等3人を直ちに打ち首の刑に処しました。これは、いわゆる国家権力と邪宗教とによる、正義を蹂躙した大悪事の現証であります。しかし、このような方式はけっして当時のみではありません。まさに現在の池田創価学会こそ、その邪智と魔力をもって国家権力に対し、あらゆる策謀をもって悪影響を及ぼしつつあるではありませんか。
今回のあまりにも一方的な判決も、大局的に見ればその一つの現れではないでしょうか。かの熱原三烈士の首を切った張本人である平左衛門は、それより14年ののちに自らの悪業によって誅殺され、「還著於本人」の仏罰が明らかに現ぜられたのであります。また、大聖人様を流罪、死罪等によって苦しめた北条幕府も、51年ののちに滅亡いたしました。仏敵・池田創価学会に対する仏罰も、必ずや種々の相をもって訪れると信ずるものであります。
ただし、「人衆(おお)ければ天に勝ち、天定まって人に勝つ」との俗諺があります。また『開目抄』に、「謗法の世をば守護神すてゝ去り、諸天まぼるべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還って大難に値ふべし(乃至)悪国悪時これなり」(御書571ページ)との仰せの如く、創価学会の如き謗法者の人数の大なる時は、一時的に正しい者が不利になる時もありましょう。今回の事件はまさにそれであります。しかし、天に背いて非理を行う者は、一時は天に勝つようであるが、また必ず天はこの悪を罰するのであり、正法の信者・行者を迫害する者も仏法の厳然たる因縁果報の道理に順じて、必ず仏罰を受けるのであります。
皆さん、どうか、このような一時的な、しかも世法上の判定に迷うことなく、仏法による真実の現当二世の大利益・大勝利こそ、本門戒壇の大御本尊様を守護し奉り、宗祖大聖人御本懐の正法正義をもって、自他の真の幸福のため、同帰寂光を志す我が日蓮正宗の信心修行にあることを確信し、白行化他に大いに精進、邁進しようではありませんか。
皆様のいよいよの信行倍増と御健勝を心より祈り、本日の言葉といたします。
もともと、クロウの証言は、日顕上人が海外出張御授戒のために渡米されたことにかこつけて、全く根も葉もない話を捏造したものであります。作り話であるがゆえに、これを裏付ける客観的な根拠などあるはずもなく、30年も前の作られた「記憶」なるものに完全に依拠するものです。30年も前のことなど、普通の人であれば誰も事細かに覚えているわけがありません。それにもかかわらず、クロウは、いつ、どこで、どういう状況で、誰から、何を、どうした、と、まるで台本を読むかのように、非常に細かい事柄に至るまで、すらすらと供述したのであります。
今回の下田裁判長判決では、このクロウの供述を「具体的に証言しているものであり、その内容は迫真性に富んでおり、実際に経験した者でなければ語ることのできないもの」とか、「特段の矛盾や変遷等はない」として、まずクロウの作り話を鵜呑みにしています。全く何を考えているのか、理解できません。
クロウ証言の「迫真性」や「経験」など、本件においては全く関係のないことであります。実際、世の俳優たちは、自らの経験などにかかわらず、「迫真」の演技で様々な役柄を演じております。これと同じく、本件で問題なのは、クロウ証言の「迫真性」や「具体性」などではなく、その内容が真実か否かであります。少なくともクロウは、自らの証言が真実であるように話さなければならないのですから、その内容が非常に具体的であり、追真性に富んだものになることは当然であります。それは、演技をする俳優が、その演ずる役柄になりきるのと同じであります。
だからこそ、クロウ証言が本当に事実を語っているのかどうかは、それを裏付ける客観的な証拠に照らして判断されなければならないのであります。こんなことは、法律の専門的知識の有無にかかわらず、一般的常識に照らして当たり前のことです。
しかしながら、今回の下田判決では、クロウ証言を裏付ける証拠としては、(1)スプリンクル供述、(2)メイリー供述、(3)当時の創価学会婦人部員供述、(4)ジョージ・ウィリアムスという元SGI・USA理事長の供述という、すべて創価学会側の、しかも口での供述というものだけを挙げ、客観的な当時の資料、物証を何ら示していません。
特にスプリンクルが、当時空軍に徴兵されていて、警察官を休職中であったことは、数々のアメリカ公文書に照らして明白であります。にもかかわらず、クロウが言うような事件をスプリンクルが「経験した」というのであるから、それに間違いはないという全く無茶苦茶な理屈にもならない理屈で、スプリンクルが警察官として休職中であったことを示す客観的なアメリカ公文書を無視しているのであります。それとともに、スプリンクルは、クロウの代理人から、調査員兼コンサルタントという名目で、月額4000ドルもの大金を支払われているという、まさに証人工作ともいうべき不透明な関係いつこについては、一顧だにもしていません。
また、クロウ証言が信用できないことについて、当時のクロウが言う「現場」という所は、ほとんど買春が行われるような地域ではなかったことを警察察の売春婦・検挙記録から客観的に証明したにもかかわらず、これもクロウがそう言っているから、「現場」では売春婦が横行していたんだと言い張っているのであります。
さらに、ジョージ・ウィリアムスが、昭和38年当時とクロウ事件後では、全く違う供述をしているという事実についても、説得的な根拠を示すことなく、昭和38年の証言より、今の証言のほうが信用できるとしています。そして何より、当時の記録をありのままにつづられた日顕上人の手帳についても、クロウ証言が真実なのであるから、手帳は信用できない、として斥けているのであります。このように、今回の判決は、結論が先にあって、これを覆す客観的資料を、すべて斥けているのであります。要するに、クロウ証言は信用できるから、人の口による、しかも作られた「記憶」だけを頼りに、これに反する客観的な証拠はすべて信用できないとして、クロウの証言をクロウ証言で証明しているという、論理破綻を来たしております。
こんな馬鹿な話が一体どこにあるでしょうか。また、判決は、クロウ証言に矛盾はないと言いますが、一般的に考えただけでも、どこの世界に、料金トラブルを警察に訴え出る売春婦がいるでしょうか。売春婦が検挙されていないのに、日顕上人がなぜ警察に拘束される必要があるのでしょうか。そして、当時シアトルでは売春行為は違法であったのですから、売春婦が検挙されなかったのはなぜでしょうか。なぜクロウは日顕上人の代理として4枚の調書にサインする必要があったのでしょうか。
このように、クロウ証言の数々の矛盾および変遷は、すでに宗門が詳細に指摘しておりますが、それを待つまでもなく、常識的にも明白であります。何より、創価学会自身、これらクロウ証言の決定的な矛盾を何とか覆い隠そうと、当初、日顕上人が買春行為を行って売春婦と料金トラブルを起こしていたとしていたのに、「買春の事実はともかく、この事件は、日顕上人と売春婦が深夜何らかのトラブルを起こしたというもの」と、買春行為そのものの証明を自ら諦め、何らかの形で、とにかくトラブルを起こしていたものと、できるだけトーンダウンしようとしたのであります、特に、クロウは、この「買春」なる事実をスプリンクルから聞いたとしているのに、当のスプリンクルは、そのようなことは全く言っていないとはっきり証言しているのでありますから、ここにおいてクロウ証言は矛盾に満ち、全く信用できないことは明白であります。
しかし、今回の判決では、創価学会が報道したのは買春事件であるから、その事実の立証が必要だとしつつ、客観的な証拠などもちろんなく、学会側に雇われ、実は現場にもいなかったスプリンクルさえ、元警察官として否定せざるを得なかった買春行為を「日顕上人が買春した」と、何の根拠もなく断定しているのです。まさしく、創価学会すら証明できなかった、むしろ完全に証明に失敗したことを、裁判所が独断と偏見で、勝手に憶測し平然と認定したのですから、これは全く常軌を逸した異常な判決といわざるを得ません。
また、宗門が提示した各種公文書によれば、クロウは裁判所に提出した自らの経歴を示す陳述書すら嘘の記載をしています。自ら虚飾を混ぜているのです。このように、クロウなど、所詮自らの経歴すら平然と偽るような人物なのですから、そんな人間の証言をそのまま鵜呑みにすること自体が、全く不可解です。
このような文字通り数々の、しかも根本的な矛盾に全く触れることなく、しかも積極的な証拠の検討と、説得的な証拠の評価をすることなく、ただ単に「矛盾はない」とかたくなに言い張っているに過ぎないのですから、今回の「東京地裁判決」には、呆れてものも言えません。
だからこそ杜撰かつ理不尽にして、一方的な事実認定であり、余りにも一方的な誤認した「事実」なるものに基づいて判断しているから不当な判決、常軌を逸した判決なのであります。こんなことが、このまままかり通ることなどあり得ず、この判決がこのまま維持されるはずもありませんから、いずれ正当な判決が下るものと確信するところであります。
平成14年の大佳節に向かい、このような社会的公権力をも巻き込んで、我々を証かそう、正信から引き離そうとする魔は、いよいよ激しく現れると思います。特に創価学会は、この判決を盾に、「シアトル事件が真実であることが証明された」と大々的な活動を展開しておりますが、その判決の実体は以上申し上げました程度のもので、とても真摯に検討した結果の判決ではありません。
この時こそ「大悪をこれば大善きたる」との御金言を確信し、御本仏様から、より一層の精進を督励されていると捉え、関係者一同より気を引き締めて、東京高裁においてこの判決が破棄されるべく、鋭意対処する所存であります。
皆様方には、今回の独断と偏見に満ち満ちた、しかも一時的な不当判決にとらもとわれることなく、日顕上人の御下に一結して、さらなるる精進に邁進せられるよう念願いたします。
なお、大白法の号外が配布されたと存じますが、お読みいただいて正しく理解をいただき、この不当判決を捉えかえし、広布のため精進されますことをお祈り申し上げ、私からの報告を終わらせていただきます。
本年度の法華講連合会春季総登山会に当たりまして、宗務院の企画により講頭・副講頭指導会を開催することになりました。皆様方には大変お疲れのところを御苦労に存じ上げます。本日ここに講頭・副講頭指導会にお集まりになりました方々は、他の関係者も含め、総数1,500名になんなんとする数だと承りました。過去の宗門における法華講の在り方を顧みましたときに、このように多くの講頭・副講頭が、自らの信行の練磨と広布への前進を誓いつつ、大法弘通のために一堂に会するということは、かつてなかったことと思うのであります。
近年はこのようなことが度々行われてはおりますけれども、それ以前のことから考えますと、本当に隔世(かくせい)の感がするのであります。これはひとえに各寺院において着々と法華講が結成されたところから、今日、564の各支部に講頭・副講頭が厳然として控えられて、それぞれの正法弘通の役割を担われておるからであり、その姿は大御本尊様の見そなわすところと拝する次第であります。
先程は早瀬庶務部長から講頭・副講頭の心掛け、内容等について実に詳細な、しかも非常に的確で大切な事柄が述べられました。また、それに続いて藤本総監からも、今日の宗門の在り方、信徒各位ならびに講頭・副講頭の進むべき方途について、種々の話があったようであります。
たしかに、この大法を弘通するということは難しいのであります。「此(これ)は為(こ)れ難事なり 宜(よろ)しく大願を発(おこ)すべし」(新編法華経351ページ)ということが宝塔品にも説かれております。先程の話にもありましたように、この大法を受持した以上、いかなることがあっても絶対に退転しないという覚悟を持って唱題をしっかり行っていくところに、おのずから講中の進むべき道も開け、また、講頭・副講頭としての真の信行の功徳が顕れてくるものと私は確信するものであります。
大聖人様の『開目抄』の有名なお言葉でありますが、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の首を刎(は)ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来(しゅったい)すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかひし願(がん)やぶるべからず」(御書 572ページ)という御文があります。
この本仏三大誓願のお言葉の前に「善に付け悪につけ」ということを仰せになっておりますが、これは「どんなに善いことがあっても、いかなる利益があろうとも、絶対に退転してはならない。また、いかなる大難が起こってきても絶対に退転してはならない」という御指南であります。その道を通して初めて、未来永劫にわたる燦然(さんぜん)たる成仏の境界が存するということを、私どもは常に肝(はら)に入れなければなりません。その上から講頭・副講頭の皆様が、今日、現在のところから、まず一歩を踏み出していただきたいと思うのであります。
たしかに、色々な面で講頭・副講頭の役割を考えるときに、様々な心構え、あるいは早瀬庶務部長から縷々(るる)指導がありましたような意義があると思います。たいへん大切なことであります。しかしまた、一歩下がって考えますときに、皆さん方のなかに「自分はそのようなたくさんのことをやっていくことは、到底、できない」と思う方がいらっしゃるかも知れません。しかし、信心の上から唱題をして現在の段階における講中の姿をはっきりと御覧になり、そこのところから大聖人様の「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」という御指南を根本として、自分はどのように一歩を進み出すべきであるか、ということをお考えいただきたいのであります。
多くは求めません。正しく法華経の信行に基づいて、一歩一歩、進んでいくということであります。それでよいではありませんか。その上で、講頭・副講頭の方々は、本年度の折伏目標、また、講中として課せられた在り方を常に肝に入れて進んでいくためにはどうしたらよいか、ということを忘れてはなりません。その根本は唱題行だと思います。
自分では判らないものですが、人間は善いところも具えておれば、悪いところも具えておるものです。すぐに怨嫉が出たり、あるいは下から来るものを蹴落(けお)としたり、上の者を引きずり下ろしたり、色々な意味で人間の悪い面が、信心のなかにおいても罪障・罪業として出てまいります。特に先程の藤本総監の話のなかに、池田大作は大増上慢によって宗門を蔑視・軽視したというお話がありましたが、たしかにそのとおりであります。
しかし、私は、もう一つそこに、あの池田大作は経文にあるところの「猶多(ゆた)怨嫉」の怨嫉であるということを付け加えておくものであります。いわゆる妬(ねた)みなのです。宗門700年の正しい仏法の伝承に対する立場に自分が立てないことに対する妬みであり、そこから池田の増上慢が起こってきておるのであります。これは非常に恐ろしいことでありますが、それを池田は法華講総講頭の立場において行いましたので、非常に大きな害毒を宗門にもたらしたのであります。
しかし、私ども一人ひとりの心のなかにも、色々な面における小さな心、暗黒な心、怨嫉の心等が存在するのであります。ですから、自分の悪いところを唱題によって開いていくことが大切なのであります。そうすると、そこから開かれた人格が顕れて、周りの多くの人々を勇気づけ、あるいは指導し、あるいはお互いに団結し合い、正法護持興隆、講中の発展に向かって進んでいくところの姿が顕れると思うのであります。
本日ここにお集まりになった皆さん方一人ひとりの信心を、御本仏大聖人様が御照覧あそばされておるということを確信していただきたいのであります。その上から、大聖人様の御照覧に応え奉るところの自分になっていこう、その意味でしっかり唱題をしつつ、自分を磨き、講中の隆昌発展に資すために自分が今の立場にならせていただいておるという自覚のもとに、これからもしっかり指導教師を助けて、信心倍増に御精進を願いたいのであります。
以上、簡単でありますが一言申し上げて本日の言葉とする次第であります。
この原稿は昭倫寺支部の若山さんのご協力で転載いたしました。
故にこそ、来たる平成14年の宗旨建立750年の佳節に対し、我らの大法弘通の精進と、その実証を顕すことがまことに大切であり、本年こそ、その大切な年に当たると思うものであります。
さて、本日のこの機会に私も一言、触れておきたいことは、邪悪な創価学会の宗門に対する捏造・中傷のなかでも最も重い謗法の意味を持つのが、故クロウ・ヒロエによる私・日顕に対する虚偽の誹謗事件と今回の地裁判決についてであります。
大聖人様は『諸経と法華経と難易の事』に、「仏法は体のごとし、世間はかげのことし。体曲がれば影なゝめなり」(御書1469ページ)と仰せであります。まさにこれ、現代においては創価学会が、いったんは正法の門より出ながら、池田大作、秋谷等の我意我見による、あるいは血脈に対する怨嫉による仏法違背、血脈蔑視の悪業をもって邪教・仏敵となって正法をねじ曲げ、世間を誑かして悪に走らしめているところの現証ではないでしょうか。
クロウ裁判報告 宗務院渉外部長 秋元広学御尊師
すでにご承知の通り、「クロウ事件」は、去る3月21日、東京地裁が、創価学会の報道と全く同じ一方的に偏った事実認定をなし、宗門の請求を全面的斥けるという常軌を逸した不当極まる判決を下しました。もちろん、これは一審の東京地裁の判決ですから、クロウ裁判は、これで確定したわけでなく、今後、東京高裁での控訴において、東京地裁判決が全面的に取り消され、宗門の請求が正当に認められることを確信しておりますすが、あまりにも杜撰にして理不尽な今回の判決に、我々関係者一同、唖然とするとともに、激しい憤りと裁判所への強い不信感を抱かざるを得ません。皆様方のご支援とご協力にお応えする結果を出せなかったことは、非常に遺憾であります。
加えて、「FBI決定的証拠事件」では、アメリカ公文書によって、そのようなものが実在しないことが明らかとなっていますし、何より、創価学会副会長でもある福島弁護士自身が、東京地裁における証人尋問の際に、そのような記録を実際に入手していなかったにもかかわらず、あの大々的な報道を行ったことを認めています。つまり、その「決定的証拠」なるものを見たこともなく、まして入手したわけでもないまま、「シアトル事件を裏付ける決定的証拠があった」と、全く根拠なく名誉段損報道を行ったのであります。これほど明白な事実に対しても、今回の判決は、名誉毀損していないと、頑迷固陋(がんめいころう)に言い張っているのです。
このように、白を黒と言い張り、何がなんでもクロウ証言は正しいとするこの判決の目的は、真実を明かにするためなのか、それとも別の意図があるのか、判然としません。まさしくこの判決は、創価学会の言い分のみを一方的に挙げ、クロウがこういっているというただそれだけの薄弱な理由で、それに反する宗門側のアメリカ公文書を含む多くの重要証拠のすべてを斥けているのですから、司法に対する強い不信を抱かざるを得ず、この判決を眼にした人は、誰でもそのような印象を強く受けるものであります。