大白法

平成13年1月16日号


主な記事

<1面>

<2〜5面>

<6〜8面>


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千葉県八千代市 弘法山正願寺落慶入仏式


12月21日、千葉県八千代市大和田新田に、このたび新寺として弘法山正願寺が建立され、その落慶入仏式並びに御親教が、御法主日顕上人猊下大導師のもと厳粛かつ盛大に奉修された。

これには、随行の教学部長・大村日統御尊能化、大石寺理事・山崎慈昭御尊師、さらには重役・吉田日勇御尊能化、大石寺主任理事・八木日照御尊能化、宗会議長・土居崎慈成御尊師、千葉布教区からは支院長の弾正寺住職・梶原慈文御尊師、副支院長の清涼寺住職・野村慈尊御尊師をはじめ布教区内外より多数の御僧侶方が御出席された。また法華講連合会からは島崎総務部長、浦上千葉地方部長をはじめ清涼寺支部より信徒代表350余名が参列した。


午前10時過ぎ、僧俗一同がお出迎え申し上げる中、御法主上人猊下は正願寺に御到着あそばされ、直ちに鈴木信福御尊師に初代住職の辞令を下賜された後、布教区内外の御僧侶・信徒代表・寺族・親族の順に御目通りを許された。

法要の部は、御法主上人猊下大導師のもと午前11時に開始され、山崎理事による御本尊御開扉、大村教学部長による献膳の儀、読経・慶讃文・読経・唱題と奉修された。この後、御法主上人猊下より親しく御言葉を賜った。

引き続き式の部に移り、増田廣司清涼寺総代による経過報告に続いて、宗務院を代表して大村教学部長、布教区を代表して梶原支院長、信徒を代表して島崎総務部長より、それぞれ祝辞が述べられた。そして当寺初代住職に就任された鈴木住職より、御法主上人猊下をはじめ参列の各位に対して、丁重なる謝辞と今後の決意が述べられた。

小憩、信徒入れ替えの後、御親教の部に移り、御法主上人猊下より『開目抄』(御書540ページ)の御文について甚深の御指南を賜った。この後、本堂正面において御法主上人猊下による「しだれ梅」のお手植えがなされた。最後に、本堂において御法主上人猊下御臨席のもと記念撮影が行われ、午後4時過ぎ、御法主上人猊下は僧俗一同がお見送り申し上げる中、正願寺をお発ちになり、法要の一切が滞りなく終了した。

正願寺は、千葉市の清涼寺住職・野村御尊師が、宗旨建立750年を記念して、仏祖三宝尊の御鴻恩に対し奉り、御報恩の誠を尽くしたいとの御一念より、新寺を建立寄進することを発願され、東葉高速鉄道の八千代緑が丘駅より徒歩7分、利便性の良い新興住宅地に適地を求め、清涼寺僧俗が一致団結して信心の誠を傾け、平成12年7月12日に上棟式を奉修し、このたびの慶事を迎えたものである。





第2回 奉安堂建設御供養を奉呈


平成13年度法華講連合会初登山会第1日目の1月3日、午前9時半より、大書院において行われた各支部講頭御目通りの砌、昨年12月にとりまとめられた全国の奉安堂建設御供養(第2回分)の目録が奉呈されたここでは、法華講総講頭・柳沢委員長から、新春の御挨拶並びに初登山者の御報告を申し上げた後、奉安堂御供養目録を読み上げ、御法主日顕上人猊下に尊い全国からの御供養を奉った。

宗旨建立750年慶祝記念局委員会より一任の御供養の勧募について法華講連合会は、昨年12月、第2回分として取りまとめた奉安堂建設御供養は、総額46億5204万6413円となった。(昨年度、第1回御供養は総額33億182万5566円)

御法主上人猊下は、御供養目録を快くお受けあそばされ、さらに、「日蓮正宗の僧俗がこれから本当の正法正義に基づいて、大聖人様の大法を護持し、広布に向かって御奉公していくという、真心をもって異体同心の上に建設されるのが、この奉安堂である。また、奉安堂は、未来広布に向かっての大事な要となり、原動力となるところの建物である」(趣意)と話され、皆様方の御供養をもって立派に奉安堂の建設を行う旨の御指南を賜った。

なお、今回の御供養に対して、総本山より後日、各人宛の受書が授与されることになっている。



信行を磨く 『大歓喜の人生を心より御報恩謝徳』
本行寺住職 高野日海御尊能化


立宗749年の新年、明けましておめでとうこざいます。本門戒壇の大御本尊の御威光は、一閻浮提に遍く流布し、奉安堂建立の槌音が力強く総本山に響きわたって、御法主日顕上人猊下の御機嫌いよいよ麗しい誓願貫徹の新春を、御一同様と共に心より寿ぎ奉ります。

代はまさに五濁悪世、闘諍言訟、苦悩に満ちた末法でありますが、法華経『寿量品』には、「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(法華経440)とあって、御当代日顕上人猊下の御指南のまま、信伏随順して折伏弘教に精進する世界は、まさに光明燦然と輝く平穏無事なる常住の浄土であると開かれます。

私たちの信心は、妙法信受の一行以外、他の何物も差し挟まない純一無雑の信行であります。その妙法は、言語道断・心行所滅の境ですから、一言に言い尽くせませんが、梵語のサダルマを翻訳して、勝れた・すはらしい・満足というような意味を含んだ、不可思議・蘇(よみがえ)る等と訓ぜられ、ここを『開目抄』には「妙とは具足、六とは六度万行」(御書548)、「満足の義なり」(同)、「衆生無辺誓願度此に満足す」(同)等として、一人ひとりを成仏させ幸せにするのが妙法であり、妙法こそ「大歓喜の中の大歓喜」無上の喜び・楽しみであると明かされます。

仏界ばかりは示されませんが、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(同647)と、私たちに仏性があって、ただ南無妙法蓮華経と唱えて、これを磨くならば、必ず日蓮大聖人をお手本とした成仏が叶うと教えられます。

日蓮正宗で仏として崇(あが)め奉るのは、日蓮大聖人を措いて他にはこざいません。日蓮大聖人様こそ、久遠において真実をお覚りあそばされた「本地難思境地冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体」にあらせられます。この報身如来を天台大師は、「法如々の智、如々真実の道に乗じて、来たって妙覚を成ず。智は如の理に称(かな)ふ、理に従って如と名つけ、智に従って来と名づく。即ち報身如来なり云云」(同103)と釈されます。

難しくて即座に理解できませんが、要するに善悪・苦楽・仏と凡夫といった相対する事柄を不二と覚られ、一つであるという如々の智慧、如とは「ごとく」で、「ありのまま」・「その通り」ということであります。ですから、この世の中の一切をありのままに覚られた境智一如の世界、あらゆる煩悩をそのまま清浄にして、万戒万徳を具(そな)えた果報の身として、真実真如の世界から、この世に智慧の身として来られた方が報身如来であると明かされました。

この御本仏を、「一心欲見仏 不自借身命」(法華経439)の強盛な信心で崇め奉り、自行他行をやり遂げて、即身成仏の大利益を成就するのが、日蓮正宗の正しい信心であります。

この『自我偈』を『御義口伝』には、最初の「自我得仏来」(同)の「自」と、最後の「速成就仏身」(443)の「身」を続けて読みますと「自身」となりますが、その中間は「受用」、すなわち『自我偈』は、仏の御身を「自受用身」であると明かされたお経で、この自受用身を「ほしいままにうけもちいるみ」と読むのであります。

正像二千年の金ピカの尊いお姿の仏様を開いて、末法の仏様はありのままの飾らない、凡夫のお姿そのままの仏であると教えられます。「ありのまま」というのは、このままで仏というのではありません。生死一如・仏凡一如と、正直に唱題・折伏に励み、如が如として如々として来る、生と死・仏と凡夫が一つであるとして、今を精一杯に生きることが如でありますから、如々として来るということが大事なことであります。

今日の生があって、明日の死が来るのではなくて、今日の生の中に死があると覚って、今を精一杯精進する。その一瞬一瞬の連続が永遠の久遠につながって、一念三千即自受用身、無始無終、過去・現在・未来にわたる三世常住の仏身を現世に成就するのであります。

「法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり」(御書1755)。一人ひとりが仏の使いとして仏の振る舞い、人を折伏して幸せにしていく。その使命に立って精進する。そこを妙法と言い、仏と言うのであります。

「妙法蓮華経と唱ふる時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時即身成仏す」(同109)。一念信解・初随喜とは、仏様の教えを一心に、ただ素直に信じて逆らわない位。その位は一切の覚りの篭められた宝の箱であり、三世諸仏が成仏された原点であり、私たちが幸せになる基本であると教えられます。それは、どんなに水の性が冷たいと言っても、それを飲まなければ喉の渇きも癒されないし、実感として理解できないように、「成仏、成仏」と言っても南無妙法蓮華経を身・口・意の三業に持たなければ絶対に幸せになれないからであります。

ですから、御法主上人猊下は、このことを踏まえて、「一年に一人が一人以上の折伏を」と諭され、立宗750年に向かって強くこの実践を促されるのであります。御法主上人猊下のこの御教導は、単に平成14年の大慶事を奉祝あそばされるためのみのそれではありません。末法万年広宣流布の確固たる体制を整えられるため、すなわち僧俗の一人ひとりが一同に地涌の菩薩の使命も新たに、自立独立して勇往邁進できるよう、心より願われて御教導であると拝されます。

人は楽しみに浸(ひた)れる時に喜びを感じ、苦しみに沈むときに悲しむのであります。この世は、たくさんの苦しみと少しの喜びを抱えて生きる忍土、娑婆世界であります。生老病死等の肉体的苦痛、怨憎会苦等の精神的苦悩、求不得苦等の物心両面の不安等々、ただ耐えるはかりの人生が三悪道による凡夫の人生であります。

この煩悩業苦の人生を、日蓮大聖人は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(同九991)と、大御本尊の御利益を信じ、南無妙法蓮華経と唱えて一切を乗り越え、苦を楽にしていくよう励まされます。

今の今もある国の人は、今晩食べる物にも不自由して、お腹を空かせております。動乱の諸国等では、内乱の犠牲となって大勢の人が殺し合い、悲しい別れの中に涙を流しております。それらを思う時、食べる物も着る物もどうにかなり、とにかく一つ屋根の下に一家が団欒(だんらん)して暮らし、それ以上に伝教大師が恋い慕われた妙法流布の末法に生を受けて、しかも立宗750年を心より奉祝できるその時に巡り合わせて生きているのであります。

御題目を唱えてこれから良くなろうというのではなくて、今の人生がそのままこの上ない、すばらしい境界であると覚り、御報恩謝徳の道、折伏弘教に精進すべきであります。朝起きて御本尊様に御題目を唱えて一日を始め、夜分おやすみなさいと一日の安全を感謝し、その間の日中を自受用身として自由自在に活動する。唱題し、折伏し、仕事に精を出す、全くもって大歓喜の中の大歓喜の人生、即身成仏の大果報であります。御報恩の誠をもって「誓願貫徹の年」の船出を元気に出発いたしましょう。



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