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この御親修には、布教部長・阿部信彰御尊師、海外部長・漆畑行雄御尊師、内事部より大石寺理事・小川只道御尊師、同・山崎慈昭御尊師が随行し、来賓として、妙華寺住職・戸高提剣御尊師、
法忍寺住職・水谷慈浄御尊師をはじめ有縁の御僧侶・寺族が日本及びアジア各国から多数出席された。
7千以上の島々からなる同国内には信徒の約9割が法開寺のあるルソン島のマニラ首都圏とその近郊州に集中しているが、セブ島などの島々にも多数の信徒がいる。このたびの慶事を迎えた法開寺は、約180坪の敷地に鉄筋コンクリート2階建てで、1階に300名収容の本堂と受付、1階には事務所・会議室・庫裏が設けられた機能的な建物で、昨年7月布教所として開所された。また、首都圏のほぼ中央に位置し、幹線道路や高架鉄道の駅から近く、参詣する多くの信徒にとって便が良い。
○広宣山法開寺寺号公称 並びに板御本尊入仏法要
御法主上人猊下御一行は、22日に成田国際空港を御出発され、同日、マニラのニノイ・アキノ
国際空港に御到着あそばされた。
翌23日午前中、ケソン市ニューマニラにおいて、広宣山法開寺の寺号公称並びに板御本尊入仏法要が、御法主上人猊下大導師のもと、厳粛かつ盛大に奉修された。この法要には、法開寺のあるルソン島を中心にフィリピン全土から代表信徒が多数参集し、さらに台湾・シンガポール・香港からも代表信徒が参加して本堂は埋めつくされた。
午前11時半、この日を待ちわびた現地僧俗一同がお待ち申し上げる中、御法主上人猊下は法開寺に御到着。降車後、花束の贈呈を受けられた。次いで山号額・寺号額の除幕式に臨まれ、続いて初代住職に任ぜられた山澄信玉御尊師、僧侶・信徒代表・寺族の順に親しく御目通りを許された。
午後1時半より、御法主上人猊下大導師のもと、法要が開始された。山崎理事による御本尊御開扉、阿部布教部長による献膳の儀に続き、読経・焼香・慶讃文奉読・唱題と如法に奉修された。この後、御法主上人猊下より甚深の御言葉を賜った。引き続き式の部に移り、現地信徒を代表してY氏より同日の慶事に至る経過報告、次いで阿部布教部長、漆畑海外部長、S氏よりそれぞれ祝辞、最後に山澄住職より丁重な謝辞が述べられ、法要はとどこおりなく終了した。
法要終了後、御法主上人猊下は、「奄羅(マンゴー)」の御手植えに臨まれた。最後に、本堂で代表者による記念撮影が行われ、午後4時半、御法主上人猊下は僧俗一同がお見送り申し上げる中、法開寺を後にされた。
同日、午後6時より、マカティ市内のホテルで記念祝賀会が、御法主上人猊下御臨席のもと開催された。初めに御法主上人猊下より御言葉を賜った後、漆畑海外部長、戸高御尊師より祝辞が述べられた。その後、水谷御尊師の発声により乾杯が行われた。
会食も中ほどを過ぎ、信徒代表より、フィリピン僧俗からの記念品が御法主上人猊下に対し贈呈された。続いて青年部・少年部等による民族舞踊・合唱などが披露された。
最後にフィリピン僧俗を代表して山澄住職が舞台に上がり、丁重な謝辞と今後の決意が披歴され、祝賀会は盛況のうちに終了した。
翌24日、御法主上人猊下下には、太平洋戦争日比戦没者慰霊法要を奉修あそばされるため、ラグナ州力リラヤ慰霊園に赴かれた。
この慰霊園には、日本政府によって「比島戦没者乃碑」が昭和48年に建立されており、以来、両国の戦没者を悼み、両国の平和と友好を祈念するため、在比日本国大使館の主催により「日本人戦没者慰霊祭」が毎年8月15日に執り行われている。また、平成13年には、現地法人の「日蓮正宗フィリピン仏教会」の主催により太平洋戦争戦没者慰霊法要が行われた。
御法主上人猊下御一行は、マニラの宿泊ホテルを出発され、約3時間後の午前10時40分に法要会場に到着あそばされた。11時20分、法要開始が告げられると参列僧俗の起立合掌の中、御法主上人猊下が御出仕あそばされた。
テント会場内に特設された祭壇に御本尊が奉掲され、御法主上人猊下大導師による読経・唱題が厳粛に進められた。御法主上人猊下の御焼香に続いて、参列の僧侶と代表信徒による焼香が行われ、戦没者諸精霊の冥福を祈る追善の回向が懇ろに修せられた。
この後、御法主上人猊下よりの御言葉、漆畑海外部長(宗務院代表)、R・T氏(信徒代表)の挨拶があり、最後に山澄御尊師から謝辞が述べられ、題目三唱をもって慰霊法要は滞りなく終了した。
法要の終わりにさしかかった頃に慰霊園を潤した驟雨(しゅうう、にわかあめ)、この地で命を落とした全ての人々が、御尊体を運ばれた御法主上人の御慈悲を感じ、妙法の功徳に浴して成仏に導かれたことに対する感謝の心が表れたものであろうと参詣僧俗一同、思いを深くするものであった。また、悲惨な戦争を招かないために、立正安国の精神を高く掲げ、折伏行に邁進することこそ、私たち日蓮正宗の使命であると深く肝に銘じ、実践行動の決意をより強く促される出来事であった。
御法主日如上人猊下御言葉
広宣山法開寺 寺号公称 板御本尊入仏法要の砌
この広宣山法開寺は1997年(平成9年)5月14日に「日蓮正宗フィリピン仏教会」の法人が認可されたのち、活動拠点として、2002年(平成14年)4月21日にモンテンルパ市に「フィリピン事務所」を開設、爾来5年間、法城として活動してきましたが、同ビレッジオーナーから立ち退きの要請があり、2007年(平成19年)1月21日、東京・妙光寺信徒T氏所有のラスピニャス市の建て売り住宅を一時、お借りして活動をしておりました。
その後、活動拠点としてふさわしい物件が、ここケソン市に見つかり、寺院建設委員会からの援助によって土地を購入し、建物を新築して、2010年(平成22年)7月25日に現在地に移転するとともに事務所から布教所に昇格し、さらに、このたび板御本尊をお迎えするに当たり寺院に昇格して、広宣山法開寺と寺号を公称し、本日ここに厳粛裡に法開寺寺号公称ならびに板御本尊入仏法要が、このように盛大に執り行われるに至りましたことは、宗門といたしましても、また皆様方現地の御信徒にとりましても、この上ない喜びであろうと、心からお祝い申し上げるものであります。まことにおめでとうございます。
特に、本日の盛儀を迎えるに至るまでには、T氏、東京・妙光寺信徒T氏・Y氏をはじめ現地御信徒代表幹部の方々および多くの御信徒の方々の多大なる御尽力・御協力をいただきましたことを、心から厚く御礼申し上げる次第であります。まことに有り難うございました。
また、住職・山澄信玉師には赴任以来、為宗為法、御奉公に励まれ、たいへん御苦労さまでした。なかでも、出入国管理事務所のブラックリストに記載されるなど、様々な妨害がありましたが、これらを強盛なる信心と関係各位の尽力によって排除し、今日を迎えられたことは、その喜びもひとしおのものがあると思います。どうぞ、これからも僧俗一致・異体同心して、誠心誠意、御奉公に励んでいただきたいと思います。
大聖人様は『立正安国論』に、「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是安全にして、心は定禅定ならん。此の詞、此の言、信ずべく崇むべし」(御書250ページ)と仰せであります。
「実乗の一善」の「実乗」とは、一往は法華経のことでありますが、再往、大聖人の御正意は文上の法華経ではなく、法華経文底独一本門の妙法蓮華経にして、三大秘法の随一・本門の本尊のことであります。したがって、本門の大御本尊に帰命することが「実乗の一善に帰する」ことであります。すなわち、今、末法は内証久遠元初の御本仏日蓮大聖人が御出現あそばされ、その御本仏がお説きあそばされる妙法蓮華経によって、末法本末有善の衆生は初めて成仏得道がかなえられるのであります。さらに、依正不二の原理により、その妙法信受の偉大なる功徳によって、自然の力はその国土に繁栄をもたらして仏国士と化し、衰微することなく栄えていくのであります。
どうぞ、皆様にはこの『立正安国論』の御教示を心から拝し奉り、全人類の幸せと真の世界平和を目指して、今日の喜びをもって、これからも僧俗一致の磐石なる体制のもと、ますます妙法広布に御精進くだされますよう衷心よりお祈り申し上げます。
最後に、法開寺の寺檀和合と寺運興隆、ならびに住職・山澄信玉師をはじめ御信徒各位の信心倍増と御隆昌を心からお祈り申し上げ、一言もって挨拶といたします。本日は、まことにおめでとうございました。
妙法広布の躍進めざましいフィリピンに、1月22日より25日までの4日間にわたり御法主日如上人猊下が御下向あそばされた。このたびの御親修は、フィリピンマニラ首都圏ケソン市内のフィリピン布教所が寺号を公称し、板御本尊入仏法要奉修の大導師を賜るためのものである。
記念祝賀会
太平洋戦争日比戦没者慰霊法要
こうして、フィリピンでの一切の行事をつつがなく終えられた御法主上人猊下御一行は、25日、マニラのニノイ・アキノ国際空港を出発し、日本時間午後1時43分、成田国際空港に御機嫌麗しく御到着あそばされた。
平成23年1月23日 於 フィリピン共和国ケソン市
本日は、フィリピン広宣山法開寺寺号公称ならびに板御本尊入仏法要、まことにおめでとうございます。
そもそも、本宗における寺院とは、それぞれの地域における大法弘通の法域として、その意義と目的のもとに建立されるものであります。したがって、寺院が建立されることは、それだけ、その国、その地域における正法弘通が進み、確実に広宣流布に向かって前進している証しであります。それは同時に、その国の御信徒各位の強盛なる信心の結晶であり、広布へかける限りなさ情熱の結果であります。皆様には、今日の喜びをいつまでも忘れることなく、広布への歩みを続けていっていただきたいと思います。