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五月度広布唱題会の砌
さて、法華経神力品を拝しますと、「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定(けつじょう)して疑(うたがい)有ること無けん」(法華経517ページ)とあります。「斯の経」とは法華経のことでありますが、末法に約して申せば、文上の法華経ではなく、法華経文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。すなわち、滅後末法において、文底下種の南無妙法蓮華経を受持する者は、必ず成仏できると仰せられているのであります。
そもそも、この神力品の御文の前を拝しますと、「日月の光明の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(同516ページ)と説かれております。
この御文について、大聖人様は『寂日房御書』に、「経に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』と、此の文の心よくよく案じさせ給へ。 『斯人行世間(しにんぎょうせけん)』の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明を指しい出して、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経を受け持てと勧めしは是なり」(御書1393ページ)と仰せであります。
すなわち、先程の神力品の「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」との御文は、末法に上行菩薩が出現され、南無妙法蓮華経の五字をもって一切衆生の無明煩悩の闇を照らすと仰せられているのであります。
このことは『観心本尊抄』にも、「今末法の初め、小を以て大を打ち、権(ごん)を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」(御書660ページ)と仰せられ、
また『右衛門大夫殿御返事』には、「日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品に云はく『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云。此の経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とと思(おぼ)し食(め)す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。経に云はく『我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云(同1435ページ)と仰せられています。
すなわち、大聖人様は上行菩薩の再誕として末法に御出現あそばされましたが、しかし上行菩薩としてのお立場はあくまでも外用のお姿であって、内証深秘(じんぴ)の辺から拝するならば、久遠元初自受用報身如来の御本仏にましますのであります。
故に、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の
深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄49ページ)と仰せられているのであります。
すなわち、末法は、釈尊が予証せられたとおり、外用上行菩薩、内証久遠元初の御本仏宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、三大秘法の妙法をもって、本未有善の荒凡夫たる末法濁悪の衆生の心田に仏種を下し、もって救済あそばされるのであります。
されば『高橋入道御返事』には、「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書887ページ)と仰せられているのであります。
つまり、末法においては、御本仏大聖人の妙法蓮華経のみが成仏得道の要法にして、爾前の厳仏・権経の教えをはじめ、他のいかなる教えでも成仏することはできず、かえって無間大城に堕ちることになってしまうのであります。故に、今、我々末法の衆生は、宗祖日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人が御建立あそばされた三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊を帰命依止の御本尊と崇め奉り、至心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところに、初めて即身成仏の本懐を遂げることができるのであります。
ただし『三大秘法抄』に、「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計(ばか)りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是、理行の題目なり、末法に入って今、日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同1594ページ)と仰せの如く、末法の修行は自行化他にわたる題目が肝要であります。したがって、唱題行にしても、唱題が唱題だけで終わらず、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出るとが肝要なのであります。
要は「実践行動の年」にふさわしく、一人ひとりが、理屈ではなく、折伏実践の行動をおこすことであります。「座して食らえば山も空し」という言葉がありますが、たしかに、働かないでいれば、豊富な財産もやがてはなくなってしまいます。同じように、信心も折伏を行じなければ、今まで積んできた功徳もいつの間にか、なくなってしまいます。
我々一人ひとりが一生成仏を果たし、仏国土を実現するためには、地涌の菩薩としての振る舞い、すなわち「上求菩提、下化衆生」の誓願のもと、唱題を重ね、折伏を行じていくことが最善の方途であることを知らなければなりません。特に、今回の東日本大震災の惨状を目の当たりにする時、その感を深くするものであります。
『法華初心成仏抄』には、「元より末法の世には、無智の人に機に叶(かな)ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ毀られ、或は打れ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しも懲りもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり」(同1315ページ)と仰せであります。
この御金言の如く、今、末法における折伏は、不軽菩薩がそうであったように、「機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たす」ことが肝要であります。されば、同じく『法華初心成仏抄』には、「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となつて仏になるべきなり」(同1316ページ)と仰せられているのであります。慈悲の心をもって、心の底から相手を救いたいと思うならば、この御金言を実践に移し、一人でも多くの人に下種し、折伏を行ずべきであります。
信心とは理屈でなく、 実践行動であります。 なかでも我々は、折伏という実践行動を起こしてこそ、過去遠々劫の罪障を消滅し、一生成仏を遂げることができるのであります。まさしく、神力品の「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑有ること無けん」 との御文を拝し、 己れ一人だけではなく、 不幸にあえぐ多くの人に妙法の偉大なる功徳を説き、折伏を行じていくことが肝要となるのであります。
どうぞ皆様には、このことを忘れずに、本門戒壇の大御本尊様への絶対の確信をもって、来たる平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、講中が異体同心・一致団結して折伏を行じ、すべての支部が必ず誓願を達成されますよう、心から願うものであります。
「時は得難くして失い易(やす)し」とも「時人(ひと)を待たず」とも言います。まだ年末までには時間があると思ったら負けます。「時は金なり」とも言います。時は貴重であるからこそ、無駄に過ごしてはならないのであります。されば、 今の一時(いっとき)を無駄にすることなく折伏を行じ、 本年度は全支部が必ず折伏誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。
平成23年5月1日 於 総本山客殿
本日は、 五月度の広布唱題会に当たり、 皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。本年も既に三分の一を過ぎ、いよいよ中盤に入りましたが、皆様には日夜、折伏誓願の達成へ向けて御精進のことと存じます。