大白法

平成23年6月1日号


主な記事

<1〜3面>

<4〜8面>


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常智院日浄上人 遷化される
元布教師会会長・法霑寺第10代住職


元布教師会会長で、法霑寺第十代住職の秋山日浄御尊能化には、5月15日午後8時45分、安祥として遷化された。享年86歳。常智院日浄上人。

御尊能化は、大正13年5月31日、北海道真狩村に御出生。昭和16年1月28日、総本山第63世日満上人を御師範として得度された。昭和30年2月に兵庫県西宮市・堅持院住職として赴任、同39年9月に大牟田市・法恵寺住職、平成2年12月24日に法霑寺第十代住職となられた。法臘70年余の御生涯を折伏弘教・謗法厳誡に捧げられ、宗門の興隆発展に尽くされ、平成2年3月に能化に補任された。

特に、折伏弘教にかける率先垂範のお姿は特筆されるところであり、九州広布の要として布教区内・九州全体にも哲願達成への陣頭指揮を執られた。また聞く者を惹きつける布教講演は宗内でも特に知られ、全国布教師を33年間にわたり務められ、布教師会会長も約20年歴任された。さらに、福岡布教区宗務支院長、九州大布教区宗務大支院長、宗会議員、宗会副議長、参議、富士学林教授、監正会会長、宗祖日蓮大聖人第七百遠忌局委員、宗旨建立七百五十年慶祝記念局委員、立正安国論正義顕揚七百五十年記念局委員、同地涌倍増大結集推進委員会委員等の要職を多数歴任された、長年にわたるこれらの御功績により、御法主上人猊下より特に上人号が追諡された。

5月15日、直ちに全国へ計報が伝えられ、福岡東布教区内外の有縁の御尊師方、檀信徒らが続々と法霑寺に弔問された。午後11時、福岡東布教区支院長・近藤謙導御尊師の導師のもと、枕経が執り行われた。また、翌16日に納棺・仮通夜が、午後7時より、近藤支院長の導師のもと奉修された。

17日午後7時よりは本通夜が、明くる18日午前10時よりは本葬儀が、御法主日如上人猊下の大導師のもと、法霑寺本堂において、厳粛に執り行われた。この本通夜・本葬儀には、重役・藤本日潤御尊能化をはじめ、宗会議長山・土居崎慈成御尊師、大石寺主任理事で寺族同心会常任理事の佐藤慈暢御尊師、宗務院の各部長・副部長、近藤支院長ほか、全国より御尊師方が多数御列席。また遺弟・遺族・親族の方々、永井委員長・大草一男氏・関野洋夫氏の法華講各大講頭をはじめ、支部・地方部・連合会及び近隣寺院の法華講代表、寺族が多数列席した。

18日は、午前9時半に御法主上人猊下が法霑寺に御到着あそばされると、御僧侶・信徒代表・寺族・親族が御目通りを許された後、10時より本葬儀が開始された。方便品・寿量品と読経が進められ、御法主上人猊下の御焼香に続いて順次、御焼香を行った。読経は「而説偈言」で馨が入り、はじめに佐藤寺族同心会常任理事、続いて近藤支院長、白石一裕法霑寺総代より弔辞が述べられた。

その中で、昭和30年代の堅持院においては、身を粉にして折伏に打ち込んだ結果、8年余で1千世帯を超える講中を作り上げられたこと、初めて九州に赴任された法恵寺では、信念と熱い情熱をもって法華講を一から築かれたこと、創価学会問題が再び露わとなった平成2年暮れに法霑寺住職となられてからの20年余は、学会破折と宗門外護に全霊を注がれ、全国に「折伏の法霑寺」と称賛されてきたことが披露された。

さらに、寺域の整備・荘厳を積み重ねられ、特に平成21年・立正安国論正義顕揚七百五十年には、法霑寺法華講の折伏魂を後世に伝えるため「正義顕揚七百五十年記念顕彰碑」を建立。昨年は顕彰碑建立満1周年記念法要を奉修、本年3月15日には法霑寺創立125周年記念事業として法霑寺会館を建立され法要を奉修されたことが紹介され、法華講に対しては法霑寺伝統の折伏戦を通して僧俗一体の信心を示され、少年部・青年部に託す思いを強く持たれると共に、殊の外地方部鼓笛隊の育成に心を砕かれたこと等、多くの御功績が讃えられた。

次いで弔電が披露され、再び自我偶の読経・引き題目・御回向と進められた。ここで、遺族・親族を代表して法恵寺住職・秋山堅栄御尊師より、御法主上人猊下をはじめ、参列者各位に対し、丁重な謝辞並びに追憶の一端が述べうれ、常智院日浄上人の本葬儀は終了した。御法主上人猊下御退座の後、11時過ぎより、藤本重役の御導師のもと、納めの御経が執り行われた。

再び御法主上人猊下がお出ましになり、故上人と最後のお別れをあそばされ、続いて遺族・親族・参列者一同もこれに連なり最後のお別れを行った。その後、参列した僧俗がお見送り申し上げる中、午前11時45分、静かに出棺され、斎場にて荼毘に付された。

御遺骨が法霑寺に帰着し、午後3時より、御法主日如上人猊下が再び本堂にお出ましになられ、初七日忌法要が厳粛に執り行われた。これには多くの御僧侶、信徒、寺族方が参列された。読経・唱題・御回向と厳粛に進められ、最後に秋山堅栄御尊師より丁重な謝辞があり、常智院日浄上人の御葬儀の一切がとどこおりなく終了した。



体験発表
東日本大震災を乗り越えて


■『家ごと津波に流されても護られる』 妙応院支部 N・S

皆さんこんにちは。私は、数年前から更年期障害で体調を崩しておりました。3月11日午後2時46分に突然大きな地震が起き、その後何やら遠くからゴォーゴォーという音が聞こえてまいりました。私は、更年期障害で耳鳴りがしたものだと呑気に構えて、茶碗など洗い物をしておりました。

実はそのゴォーゴォーという音は、高さ30m以上、速さが時速100km超の勢いて押し迫ってきた津波の音だったのです。私は、洗い物をしながら耳鳴りではないことに気がつきました。窓の外を見ようと思ったその時、急に地面がドドドォーと揺れたので、とっさに仏壇の扉を閉め、揺れが収まるのを待とうと思いました。

その途端、2階の窓を突き破って私の横をザァーとものすごい勢いで津波が通っていったのです。もう私はだめかと思い、御本尊様を仏壇ごと抱きかかえ、御題目を必死に唱えておりました。御題目を唱えながら、今年「実践行動の年」に当たって、新年より一週間に2人ずつ、一カ月で10人下種し、3月11日の津波が来る前日も下種活動をさせていただいたことを思い出し、その活動をさせていただいたことのご報告と御礼を御本尊様に申し上げておりました。

その報告を終えた瞬間、私に津波が襲ってきました、必死に「南無妙法蓮華経」と叫んでいたことは覚えておりますが、その後どのようになったか全く判りません。ハッと気がついたとき、自分が一命を取り留め、生きているということが判りました。

そして玄関に濡れていない長靴があったので、その長靴を履きました。なぜかすぐそばに山があったので、御本尊様を抱いたまま何も考えずに山を歩いて避難していくことができました。途中、山の中のプレハブ小屋で作業員らしい人が暖を取っていたので、一緒にそこでしばらく暖まりました。そこにいた作業員の方は、後で御主管・稲用正福御尊師からお聞きしたのですが、つい先日お寺の物置を修理に来た大工さんだったそうです、そして私は、避難所のほうに向かって歩いていきました。

その後落ち着いてからいろいろなことが判ってきました。住まいの1階部分の姑夫婦の住居は津波で全壊しました。私の住んでいた2階部分は、津波によってかなり離れた所まで流され、山の中腹から出ている大木に、2階部分が丸ごと乗っかっているではありませんか。その光景は、まるで御書の中に出てくる一眼の亀の浮木に値うかのようで、周辺の家は全壊して跡形もない状態の中、本当に御本尊様がら護って戴いたとしか言いようがありませんでした。

そして家の中は、御書や折伏資料等が床に落ちてはいたものの、ほとんど濡れておらず使える状態でした。家の中を見たとき、私は「今こそ折伏に立ち上がらなければ」と身震いを感じ、強い決意で胸がいっぱいになりました。

4月度の広布唱題会の砌、御法主日如上人猊下は、「今、大震災の復興へ向けて、各機関の方々、ボランティアの方々、国内のみならず、国外からも支援の手が差し伸べられていることは大いに評価すべきであり、賞賛に値する行為であることは間違いありません。しかしまた、さらに根本のところから、仏法の視点に立って、今、我々がなすべきことは何かといえば、私ども一人ひとりが『立正安国論』の御理想実現へ向けて、一人でも多くの人に、また一日でも早く、一人ひとりの心田に妙法の仏種を植え、折伏を行じていくことが、今、なすべき最も大切なことであります」(大白法812号)と御指南あそばされ、『立正安国論』に示された大聖人様の御正意を体して、仏国土実現をめざして一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、私たち本宗僧俗の大事な使命であると御教示されました。

私たちは、ともすれば今回の震災という大きな魔に負けて愚癡が多く出てしまいかねません。でも、愚癡は一切の功徳善根を消します。真剣な御題日は一切の迷い、愚癡を打ち払い、罪障消滅の道を切り開いてくださいます。そして折伏をすることで罪障消滅できるものと私は思っております。御主管様の御指導のもと、必ずや折伏を成就することを、ここ得道寺の御宝前で固く決意し、私の震災体験発表とさせていただきます。


■『子孫に伝えたい護法の功徳』 法明寺支部 H・T

私は姉と兄、弟の4人兄弟てす。皆それぞれ所帯を持って、宮城県の気仙沼に住んでいます。私は縁あって富士宮市の方と結婚して富士宮に住んで40年になります。3人の子供も結婚して、皆御本尊様を持ち、幸せな家庭を築いています。兄は永らく外国航路の船長をしていましたが、今は退職して気仙沼で悠々自適の生活をしています。

しかし、このたびの3月11日の大地震と津波には本当に驚かされました。本日の話は、兄と弟のことです。弟は船に乗っていますが、ちょうど漁を終えて、入港するときに大地震が発生したそうです。とっさに「このままでは他の船や岸壁にぶつかって壊れてしまう。不安な面もあるけれど、船を守るには沖に出るしかない」と判断したとのことです。

以下は弟の語ったことです。「そうこうしている間にも、津波の前兆が感じられ、運を天に任せて沖に出ることになりました。思った通り天にも迫る勢いで津波が迫ってきて、もうだめかと思われるほど船は激しく揺さぶられ、何度も何度も彼を被りました、ようやく沖に出ることができると、沖のほうは大きなうねりは続きましたが、どうにか船は安定しました、乗組員は皆、身心共に疲れて、助かったという安心感で、しばらくは放心状態でした。一休みしてから、港へ帰ろうということになりました。

港へ近づいてみると、津波で防波堤は壊れていました。さらに、沈んだ船や壊れたカキの養殖の筏などの残骸が重なっていて、とても入港できるような状態ではなかったので、石巻へ向かいました。石巻の港もたいへんな状態でしたが、自宅の家屋や家族が心配で早く帰りたい一心で、多くの残骸を避けながら、何とか港の端の方に船を着けて上陸しました。家へ帰るにも、汽車も走っていなければ車もないので、歩いて帰ることにしました。地崩れや地割れがひどく、地獄のような光景の中を歩き通しに歩いた空腹と疲れで、どこをどう通ったかも覚えていない状態でした。

翌日、トラックが通りかかったので、大きく手を振って止め、乗せてもらうことにしました。乗せてもらえたときは『天の助け』だと思い、運転手を見ると何と隣の家の人でした。お陰で無事に家に帰り着くことができました」ということでした。

そして兄の方は地震が来た時は、これは津波が来るぞと直感したそうです。ただ御本薄様を御護りすることだけを考えてお仏壇からむしり取るようにして御本尊様をつかみ、波にさらわれないよう自分の体にしばりつけて逃げたそうです。

周りの家は流されてしまいましたが、兄の家は流されずに助かりました。二、三日後、避難所から戻って家を見ると、畳の上に湯呑みが一つ落ちているだけだったそうです。電話の向こうの兄は、「御本尊様の御力って、本当にすごいぞ」と、御本尊様の不思議な御力に対する驚きと感謝で、ただただ興奮して話し続けるだけでした。

私はそれを聞いていて、逃げるだけでもたいへんな中を、御本尊様をお護りしたその功徳で、家族も家も守られたのだと確信しました。テレビで皆さんもご覧になったように、大きな被害が出ている中で、このように無事で済んだ事は不思議としか言いようがありません。私たち兄弟一同、子供の時から日蓮正宗の信心をすることができたからこそ、この大震災の中でも御本尊様に守っていただけたのだと思いました。これからも、家族・兄弟・親戚一同が、このたびの教訓を胸に、まじめに信心に励んでまいります。

さて、5月15日は支部総登山です。家庭を持っている私の3人の子とその連れ合い、2人の孫も一緒です。まもなく3人目の孫が誕生しますので、11月6日の支部総登山には10人で三代揃って登山いたします。そして子供・孫にしっかりと法統相続し、信心の大切さを教えてまいります。

私が子供に残してあげる財産も名誉もありませんが、子供・孫の一人ひとりが、それぞれの信心によって、御本尊様より身の福運を戴けるように導くことが、私の使命と思って、がんばってまいります。



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