創価学会版『謗法経本』を破す



 はじめに

最近、創価学会では、『勤行要典』(経本)を勝手に作成し、会員に配布しているようである。この経本の観念文は、驚くことに、本宗の仏法の本義も解せず、破門となった者たちが勝手に改変した、謗法の観念文とすり替えられているのである。信心の基本である朝夕の勤行で、日蓮正宗の信徒(※この文章が書かれた時点)にこの謗法の観念をさせるなどは、絶対に許されるべきものではない。学会員のほとんどが、今でも日蓮正宗の信徒である以上、学会の犯したこの謗法行為を黙って見過ごすわけにはいかず、ここに信心の基本を忘れた謗法者たちの邪を破し、真に広宣流布大願成就を願う勤行の基本とその精神を教え諭すものである。




 一、 謗法の法華経は読むべからず

破門以後、独立路線を歩みはじめ、ますます新興宗教の色を濃くしている創価学会は、今度は、独自の観念文を掲載した『勤行要典』すなわち経本を発行した。何も知らない学会員は、言われるままに朝夕の勤行にこの経本を使用し、御経を読誦しているのであろう。しかし、日蓮正宗においては、古来より本宗で認めた経本以外は、一切、その使用を許しておらず、それゆえ、今日でも大石寺蔵版の経本の使用が定められているのである。

このことは、第九世日有上人の『化儀抄』の、「非情は有情に随ふ故に他宗他門の法華経をば正法の人には之れを読ますべからず、謗法の経なる故に、(中略)現世後世の為に仏法の方には之れを読むべからず。」との御指南にも明らかである。

すなわち、日有上人は、本宗以外の他宗、つまり邪宗が作成した法華経は、それ自体は非情のものであっても、それを作成した側の人、すなわち有情が謗法であるため、非情は有情に随うということから、謗法の経本となる。ゆえに正法を受持する人が、「現世安穏、後生善処」を願う大切な勤行の時に、その謗法の経本を読誦してはいけないと、このように仰せられているのである。

これによると、日蓮正宗から破門になった創価学会が作成した経本も、また謗法となることは明白である。日蓮正宗の信徒たる者は、謗法厳戒の本宗の宗旨を全うする上からも、この『化儀抄』の条目に従って、謗法の団体たる創価学会によって作成された邪悪な経本の使用を即刻やめるべきである。




 二、 謗法経本の作成は“再犯”

創価学会版の経本は、かつて昭和五十二年路線の時にも作成、発行されたことがある。この時の経本は、本宗の経本の表紙に「日蓮正宗勤行要典」とあるのを、「創価学会」の四文字を新たに加えて、「日蓮正宗創価学会勤行要典」と変え、観念文の四座の中に“創価学会興隆”の祈念文、五座のはじめに“牧口・戸田両会長の回向文”を挿入したものであった。

すなわち、四座の観念文の間に、「祈念し奉る創價學會興隆、慈折廣布、大願成就の御爲に」と入れ、五座の観念文のはじめに、「創價學會初代會長・牧口常三郎先生、二代会長・戸田城聖先生、死身弘法、御報恩謝徳の御爲に」と入れていたのである。

この学会版の謗法経本について、池田大作氏(当時会長)は、昭和53年2月28日の各部代表の懇親会で、次のように指導している。

『聖教新聞』 昭和53年3月1日付

一、経本について一言申し上げたい。10年、20年にわたって、初代会長並びに2代会長の追善回向をどこですべきかとか、学会の興隆を願ってはいけないのかという質問が枚挙に暇ないほど寄せられた。(中略)創価学会としても、なんらかの回答をする必要に迫られ、やむをえず御宗門に相談申し上げた。

一、昨年の2月24日の宗門との連絡会議で、この御祈念の草案をつくって相談申し上げ、修正を加えるなどして、その基本的な方向が了承された。その後、総本山の御認可を賜った次第である。

一、そして昨年の3月、日達上人猊下の御認可を賜った御観念文、すなわち創価学会の興隆祈念と、歴代会長の報恩回向を含めた新観念文を、数度にわたって聖教新聞紙上に紹介させていただいたことはご存じの通りである。

一、しかし、聖教新聞に発表したものの、是非とも経本にしてもらいたいという要望があまりにも多く、やむにやまれず(※総本山には無断で)創価学会版の新経本を作成し、それを全広布部員に贈呈したものである。

一、残った一部を主要会館にて販売をしているというのが現状である。ただし、大石寺版の経本が原典であるし、そのまま使用することも当然、結構なのである。また先の御観念文も、よく覚えておけば、いちいち学会版の経本によらなくてもよいわけである。

※編者註

この時、池田氏は、「日達上人猊下の御認可を賜った御観念文」ということを挙げた上で、会員からの「是非とも経本にしてもらいたいという要望があまりにも多く、やむにやまれず創価学会版の新経本を作成し」たなどと、日達上人に認可していただいた観念文を、会員からの要望で仕方なく経本にしたかのような“言い方”をしている。

昭和52年路線の謗法経本 しかし、ここで忘れてならないのは、日達上人から御認可いただいたのは観念文についてだけであって、経本の作成についてではないことである。

ここで「日達上人猊下の御認可を賜った御観念文」ということについて少々つけ加えれば、日達上人が認可されたのは、個々の学会員が、創価学会興隆の祈念や、初代・2代会長の追善回向を、不適当な所で祈念したり、回向したりしないように、各人が諸祈念をする4座において創価学会興隆の祈念をし、また先祖回向の5座の観念文の中に初代・2代会長の追善回向を含めるように、その「位置」と「文」を学会側の案に基づいて御認可されたものなのである。

学会が無許可で経本を作成していた事実が発覚したため、この学会版経本は、日達上人や宗門僧侶の糾弾によって“使用禁止”となり、学会としても、この自版の謗法経本を廃止せざるをえなくなったのである。

上記の池田氏の各部代表の懇親会での指導から、わずか2カ月半後の昭和53年5月12日、全国県長会議で学会は、「創価学会版の経本は宗門と話し合い、今後は、作成しないことになった。したがって各地の寺院で大石寺蔵版の経本を求めるようにしていただきたい。」(昭和53年5月13日付『聖教新聞』)と発表し、これを徹底するよう指導したのである。




 三、 連絡会議での池田発言 (52・2・24)

また、「昨年の2月24日の宗門との連絡会議で、この御祈念の草案をつくって相談申し上げ、修正を加えるなどして、その基本的な方向が了承された」との池田氏の言についても、その時の池田氏の実際の発言からは、この連絡会議が「御祈念の草案をつくって相談」したというようなものでなかったことが証明される。池田氏は会議中、次のように発言している。

    宗門―創価学会連絡会議 (昭和52年2月24日)

  • やっちゃいけないという事ならば、それじゃどういう風にしたらよいか、学会の幹部級ぐらいには五座でよいんじゃないか。四座の場合は、学会の興隆だけでよいじゃないか、という意見もあった。学会の経本は別に作らなくてもよい、出来れば幹部級には経本を作らして貰えばよい。

  • 一般に売っている本宗用のものにそのまま。但し幹部用として作らして頂ければ教えるのは早い。秋谷は、法華経は一般のものだから専売特許でないので、作ってもよいんじゃないかと、なんとか通りますようにお願い、こちらで作り始めては大変な事になる。そういう暴言は言いません。御本山で作って頂ければ一番よいが、お金がかかりすぎる。

  • 日蓮正宗創価学会版として、地区部長にあげたことがあり、今はない。2・3000作った。一冊しか残っていない。一時、大石寺の御経本に直してしまっていた。

  • 御経本まで手を打って間違えて、平仮名のつけ方。若干間違いがある。完璧なのを専門家に作らせた。アメリカの御経本、こっちで作ってよいかと言ったら、猊下は、イヤ御経本はこっちで作るとおっしゃった。

観念文の修正どころか、経本を作る、作らないの話に終始しており、とても『相談申し上げた』などというようなものでないことがわかる。



 四、 日達上人御指南 学会版経本は謗法

日達上人は、学会版経本の使用を禁止されたが、その禁止に当たっては、深い御慈悲の上から、大石寺版の正しい経本十万冊を御用意され、その経本を本宗寺院において無料で交換できるよう御配慮くださったのである。

日達上人は、後日、宗内に出回った怪文書(※正信会?)に「謗法の経文を回収する代わりに十万冊の経文を学会に贈呈するはこれも謗法行為に非ずや」と、この時の日達上人の御振る舞いに対して非難・中傷がなされていたことを取り上げられ、

日達上人御指南

これはおかしなことですね。向こう(※創価学会)が謗法だからそれをやめさせて、正しいものを渡してなにが謗法なんですか。学会が正宗の要品でないものを使っておりました。だからそれをやめさせて、それを回収して正しい正宗の経本を与えて、どこが謗法なんだろう。正しいじゃないですか。

と仰せられ、学会版の経本が謗法であったことをはっきりと示されたのである。そして、その上でこの非難に対し、謗法の経本を回収し、正しい経本を与えたのであるから、何も謗法ではない、まったく正しいことをしたのであると御指南されたのである。




 五、 虚構と化した以前の謝罪

かつて学会は一般会員に対し、昭和52年路線における逸脱をよく認識させ、六・三〇、十一・七等において是正された各種事項を徹底させるため、『特別学習会テキスト』なるものを作成した。そこには、

『特別学習会テキスト』

日蓮正宗に伝わる厳粛な化儀は、日蓮大聖人の仏法を令法久住せしめるための信心のうえの化儀であります。しかし、過去において、我々の考え方のなかに、そうした基本精神を理解せず、単なる形式として安易に受けとめ、これを軽視する風潮がありました。宗門行事及び末寺諸行事、また御僧侶の三衣に対する厳しい考え方、経本・念珠に対する考え方等をはじめ、正宗伝統の化儀について十分認識を改め、疎略であった点を反省するとともに、信徒としての基本を誤たぬよう留意してまいります。

と、今後は経本などの正宗伝統の化儀についての認識を改め、疎略であった点を反省することを記している。

この時の殊勝な態度はどこへ行ってしまったのであろうか。これもまた宗門を欺くための悪質な嘘、すなわち妄語であったのであろうか。いや、そうではなかったはずである。再び頭をもたげた池田氏の慢心は、この猛反省をも忘れ去り、すべてを虚構と化してしまったのである。学会は仏法上、どれほどの罪を犯せば、それに気づくのであろうか。彼らの行く末を思うと不憫でならない。




 六、 学会改変の観念文は大謗法

今回、創価学会が勝手に改変発行した経本には、驚くことに、これまでの本宗の観念文とはまるで違った、異質の観念文が記載されている。ここにその観念文の全文を挙げると、

創価学会の新らしい謗法経本にみる観念文
初座 諸天供養 諸天善神の昼夜にわたる守護に感謝し、威光勢力・法味倍増のために。
二座 本尊供養 一閻浮提総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
三座 三師供養 末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。本門弘通の大導師・日興上人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。一閻浮提の御座主・日目上人に報恩感謝申し上げます。
四座 広宣流布祈念 広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。
五座 歴代会長への報恩感謝
および先祖回向
創価学会初代会長牧口常三郎先生、二代会長戸田城聖先生の死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。
○○家先祖代々ならびに会員・友人の先祖代々諸精霊追善供養のために。

である。

この観念文を見ると、いかにも「民衆仏法」を掲げる池田創価学会らしく、これまでの本宗の観念文とは打って変わり、すべて平易で簡単な表現でまとめた、いわゆる「民衆」受けのするものとなっている。が、しかし、これもまた学会自らが言うように、大聖人の仏法の「基本精神を理解せず、単なる形式として安易に受けとめ、これを軽視する」癖による、軽率な行動であると言うほかない。彼ら学会首脳には、ここに大きな落とし穴のあることがいまだに理解できないのである。

もっとも、本宗の化儀を改悪し、その罪の重さも知らず、涼しい顔をしているような者たちに、信心の基本である朝夕の勤行の大切さや、その観念の意義などわかるはずがない。



イ、法華守護の諸天善神にのみ法味を捧ぐべし (初座)

まず、初座についてみると、学会では、本来、「大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王等惣じて法華守護の諸天善神」と祈念しなければならないところを、「諸天善神」の一言で済ませてしまっている。ここに学会の大きな誤りがある。諸天供養で一番大事なのは「法華守護」ということである。法華守護の諸天善神でなければ、「常に法の為の故に之れを衛護」することはないのである。

学会は、「大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王」という、法華守護の諸天善神の名を省略したばかりか、この大事な「法華守護」の言葉をも省略してしまったために、どの天神に向かっての祈念かが全く判らなくなっているのである。これは、とても恐ろしいことである。一般に『善神』といわれていても、法華を守護しないものは鬼神である。鬼神にまで法味を捧げるとは、何と恐ろしいことをしているのであろうか。もっとも、悪鬼入其身の池田大作氏以下、学会幹部にとっては、そのほうが都合がよいのであろう。

しかしこれでは、「法華の持者参詣せば諸神もまた彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべし」と、波木井実長に神社参詣を勧めた、あの師敵対の民部日向とそれ程変わらない。むしろ、多くの会員に強制させている分、罪も重いことであろう。

ここで、以前に時局協議会で作成した『外護について』『葬儀について』の二文書にも述べた、「略」について、再度引用しておく。略には、化儀は略式でも、意義は欠けることなく存する『存略』と、意義において欠けるところのある『闕略』がある(闕とはケツと読み、欠けること)。当家の方便・寿量の二品読誦などは存略であり、法華経一部二十八品を読む意義を存する。このことは、日寛上人の『題目抄文段』に、『"略"は闕略にあらず即ちこれ存略なり。故に大覚抄に云く"余の二十六品は身に影の随い玉に財の備はるが如し、方便品と寿量品とを読み候えば自然に余の品は読み候はねども備はり候なり"』と御指南されている。このように、正しい筋道と信心の上から、略式の化儀が行なわれることを、『存略』というのである。

この存略と闕略ということからいえば、観念文とは、宗祖の甚深の御意を要略した文言である。それは歴代上人への御相承によってのみ表明される深意であって、内証境界に未到の者が、たやすく変更できる文ではないのである。この意味において学会の行なった改変は、明らかに闕略であり、下種仏法の深意に欠けるどころか、本旨を失うものである。これは大謗法と言うべきであろう。



ロ、不敬極まりない本尊供養の観念文 (二座)

<大間違いの簡略化>

次に、二座の本尊供養の観念文についてみると、「一閻浮提総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り」と、本尊供養の観念文でありながら、御本尊に対しての讃文のほとんどが削られてしまっていることがわかる。五座にある歴代会長の回向文には「死身弘法」などと『讃文』を忘れず入れながら、本尊供養の観念文からはそれを省くとは、何たることであろうか。信徒として、これほどの不敬はないであろう。

学会が削除した、「本門寿量品の肝心」「文底秘沈の大法」「本地難思」「境智冥合」「久遠元初」「自受用報身如来の御当体」「十界本有常住」「事の一念三千」「人法一箇」「独一本門戒壇」等の語は、本宗の教義上、重要な意義をもつゆえに、確かに難しい語である。しかし、これらの語は、創価学会二代会長・戸田城聖氏が、『方便品寿量品講義』に、

戸田城聖 『方便品寿量品講義』

これは仏の十号と申しまして、御本尊に向かって左の方に、『福十号に過ぐ』とある、あの十号と、この十号とは違います。あの十号は、釈迦仏法の仏の十号なのであります。ゆえに『福十号に過ぐ』とは、御本尊を信ずる功徳は、釈迦仏法の仏の福運にすぎるぞとおおせであります。これは、末法の御本尊の十号になるのであります。御本尊の十の御徳を申しあげて讃嘆しているのであります。御本尊の別名といいますか、十のお位といいますか、十の御資格といいますか。

と講述しているように、大御本尊様の十の御徳を挙げたもので、本尊供養の二座では欠かすことのできない語なのである。

もし、学会が、現代人には難しい、または馴染みにくいなどという理由で、これらの語を削ったとしたら、それは大変な間違いである。「法華経は最も為れ難信難解なり」と処々に示されるように、仏の随自意の経は難解であるのが当然である。

我々末法の凡夫の立場としては、大聖人が『新池御書』に、「有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」とお示しのごとく、その表わすところの深い意義を解することができなくても、信心をもって臨むべきであり、『譬喩品』に、「大智舎利弗すら猶信を以て入ることを得たり」と説かれるごとく、むしろ、信をもって慧に代え、成仏することが肝要である。

我々は、大聖人が化儀について『一生成仏抄』に、「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」とお示しのように、仏前で行なう所作のすべてが、功徳善根となって我が身に具わることを知るべきである。正しい信心をもって御本尊に向かい、難しい語であっても、それを観念することによって、そこに具わるすべての義が御本尊を讃嘆、供養していることを知るべきである。


<「本門戒壇」の語の削除は、大御本尊の否定>

次に、学会は、この観念文中、「本門戒壇」の語の代わりに、「三大秘法」の語を使用している。一見すると、三大秘法は、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目ということであるから、これでもよいように思える。しかし、学会が今何をしようとしているのか考えたとき、ここに重要な意味が含まれていることに気がつくのである。現在、創価学会では、会員に強大な圧力をかけて、総本山への登山参詣ができないよう妨害をしている。つまりこれは、本門戒壇の大御本尊へのお目通りを阻止するものである。(※この時点では、学会員も末寺より御開扉添書の発行を受けることができた)

池田氏をはじめ、無信心な学会の職業幹部は、平成二年の暮れから、長い者ですでに一年半以上もの間、御開扉を受けていない。彼らにとっては、御開扉を受ることなど、どうでもよいことなのである。しかし、一般会員にとっては、大変重要なことである。純真な信徒にとって本門戒壇の大御本尊は、片時も忘れることのできない、信仰の根本なのである。

そのことが、最近になって、長い間創価学会の頂点に君臨し、民衆から遥かに懸け離れた生活を送っている池田氏にもようやく判ってきたのであろう、朝夕の勤行における観念文を通して、会員の心から、大御本尊への渇仰恋慕の思いを徐々に取り除こうとしたのである。まさしく創価学会独立の画策である。

ゆえに、観念文からは「本門戒壇」の語を削り、大聖人が弘安2年10月12日に御建立遊ばされた、大御本尊を示す語をなくしたのである。このような大御本尊をも否定する行為は、まさに第六天の魔王の所業といえよう。


<学会が「一閻浮提総与」の語を使用する真意>

更に、ここで、もう一つ注意しなければならないことがある。それは、学会が数々の重要な意義を含む語を削り、新たに「一閻浮提総与」の語を、この本尊供養の観念文のはじめに冠していることである。

本宗においては、『日蓮一期弘法付嘱書』に、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」とお示しのように、大聖人の仏法は、すべて唯授一人の血脈相承をもって、日興上人へ御相承遊ばされたのである。そして、さらにその仏法は、日興上人より日目上人へと余すところなく御相承され、以下、嫡々代々、一器の水を一器に移すがごとく、今日に寸分違わず伝えられているのである。

このことを本宗信仰の根本として拝するとき、本門戒壇の大御本尊は、総じていえば、一閻浮提総与であり、一切衆生に与えられたものであるが、別していえば唯授一人の血脈御所持の御法主上人に御相承遊ばされていることを知らなければならない。(※日興上人も『日目に之(=弘安2年の大御本尊)を授与す』と“別”の御相承を明確に述べられている)

学会は、「一閻浮提総与」とすることにより、本門戒壇の大御本尊が、唯授一人の血脈相承によって代々の御法主上人に御相承遊ばされてきたことを、会員に忘れさせようとしているのである。『曽谷殿御返事』に、「総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもといたらん」とあるが、正しい仏法の筋目を違え、総別の二義を履き違えて己義を構えたならば、それは大謗法である。



ハ、歴代上人を削った三宝破壊の観念文 (三座)


<「本因妙の教主」を削り、「釈尊の時代に帰れ」とは学会はどこの宗派か>

三師供養(三座)の観念文においても、大聖人、日興上人を讃歎する語はことごとく削られ、二座で指摘したのと同じような間違いだらけの簡略化がなされている。

これについて少々述べると、まず、大聖人に対する讃文で、「本因妙の教主」の語を勝手になくすのは、本果妙の教主である釈尊と、本因妙の教主である宗祖日蓮大聖人とを混同するものと言わざるをえない。学会では常日頃から、「釈尊の時代に帰れ」などと言っているが、それはこの本因・本果の区別、立て分けができていないからに外ならないのである。

これでは、本宗以外の他の日蓮宗各派が、久成の釈尊を本尊と立てるのと同じであり、学会にはそれらを批判する資格などない。自分の胸に手を当てて、よく考えてみれば、わかるはずである。


<「法水瀉瓶・唯我与我」の削除は血脈相承の否定>

次に、日興上人に対する讃文であるが、学会は自分たちにとって都合の悪い、「血脈相承」を否定するため、「法水瀉瓶・唯我与我」の語を削ったのである。これを削ることにより、学会の主張する三宝論は、一応その体をなすことになる。すなわち、仏宝を宗祖日蓮大聖人とし、法宝を本門戒壇の大御本尊とし、僧宝を二祖日興上人ただお一人とする(※法水瀉瓶は相承されないとする創価学会の主張)、本宗の本義より外れた誤った三宝論である。(学会の三宝論については、以前、時局協議会において作成した、『創価学会の三宝論の自語相違を破す』に詳しいので、それを参照されたい。)

しかし、現在、学会が主張するこの三宝論は、かつての池田氏の発言とは大いに食い違い、また矛盾していることを、学会員は知っているのであろうか。

『聖教新聞』 昭和53年2月26日付

『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる。


『聖教新聞』 昭和54年5月4日付

本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人の御内証を、大聖人と拝すべきなのであります

このように、池田氏は、過去においては正しく本宗の三宝義を述べていたのである。自分の都合次第で、これほどまでに改悪する、氏の節操のなさには、今さらながら驚かされる。

今の学会、は第三祖日目上人以下、御歴代上人を僧宝から完全に除外し、そこに具わる血脈相承を否定することによって、新たな教義、すなわち「大聖人直結」「御書根本」などを打ち立てているのが現状である。悲しいかな、かつて栄華を誇った学会も、現在ではその存在意義さえ危ぶまれる、まるで浮き草のような団体になり下がってしまったのである。


<御歴代上人については、その存在さえも認めず>

学会は、自らが立てる誤った三宝論により、日目上人に対し奉る観念では、あろうことか、そこで「南無」することさえ許していない。さらに、第四世日道上人以下の御歴代上人に至っては、なんとその存在さえも認めないという、前代未聞の三宝破戒の大謗法を犯しているのである。かつて、池田氏は、

『聖教新聞』 昭和61年5月13日付

日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、我々と同じである。外見から見れば我々と同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水瀉瓶の『血脈』がない。法水瀉瓶の血脈にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである。

と、唯授一人・法水瀉瓶の血脈にのっとった信心でなければならないことを力説していたが、今となっては、どこ吹く風である。本門戒壇の大御本尊を捨て、御歴代上人をも葬り去った池田創価学会は、これからどこへ飛んで行ってしまうのであろう。逃げるなら今である。個々の会員においては、いまでも日蓮正宗の信徒であることを思い出してもらいたい。(※現時点においても、日蓮正宗信徒の誇りが残っているのであるならば、早急に正宗寺院の門を叩くべきである)



ニ、学会の興隆を広宣流布と考えるのは誤り (四座)


謗法経本の四座では、広宣流布と「創価学会万代の興隆」の祈念を一緒にしている。しかし、これは明らかに誤りである。広宣流布とは日蓮大聖人の正しい仏法が、一閻浮提に流布することである。以前、日達上人は創価学会の教義逸脱路線に対して、「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」と諌められたが、まさにそのとおりである。広宣流布とは、ある特定の団体の興隆を指して、そう言うのではない。まして、大聖人の仏法の本義に背き、本宗から破門された創価学会の教えが広まることなどではないのである。

学会は、本当に、自らの団体がこれ以上興隆すると思っているのであろうか。いくら「会友」なるものを増やしても、そこには、御本尊下附もなければ、御授戒もないのである。もし、それでも興隆するというのであれば、それは新興宗教としてであろう。新興宗教であれば、教義も本尊も自由である(※その後『ニセ本尊』が頒布された)。池田氏率いる学会首脳は皆、それを望んでいるのである。学会員は、その時になって、新たな本尊の出現に驚かぬよう、今から心の準備をしておいたほうがよかろう。

この四座で、いくら罪障消滅を願い、現当二世を願ったとしても、それは罪障を倍増するだけである。即身堕地獄とならないよう気をつけるべきである。



ホ、折伏の精神を忘却した空虚な観念文 (五座)


<歴代会長の回向文から北条氏を外す理由>

五座の観念文をみて、まず気がつくのは、歴代会長の回向文でありながら、4代会長の北条氏の名が見当たらないことである。池田氏としては、3代会長の自分を飛び越えて、北条氏の名が勤行の回向文に載るのは許せないのであろう。池田氏の理論では、会長は3代で終わりなのである。ゆえに、今、いくら秋谷氏が池田創価学会に貢献しようとも、五代会長である氏が回向文の中に入ることはない。

歴代上人を観念文から削っても、学会の会長は入れる。すべてにわたって学会が主であると考える池田氏、その大慢心は、やがて大聖人をも見下すようになるであろう。自らが「本仏」となることが、氏の最終目的であるとしたら、それは恐ろしいことである。まさに天魔の所為である。


<はた迷惑な「友人の先祖」への回向>

この五座でもう一つ気になるのは、「会員・友人の先祖代々」と、ここに「友人」を入れていることである。「友人葬」「会友」「友好」「友情」などと、学会は「友人」が、よほどお好きとみえる。会員の先祖を回向するならまだわかるが、「友人」の先祖まで回向するとは大したものである。

さて、ここで回向について少々説明をしておくと、回向とは、回転(えてん)趣向という言葉を縮めた語であり、梵語の「パリマーナ」という言葉の訳で、元来は「転変」、あるいは「発展」を意味する言葉である。回転趣向とは、すなわち、己の一切の善行の功徳を転じて他に施し、向かしわめるということである。この回転趣向(回向)には、自分の功徳を回らして、菩提(悟りの道)に趣向する菩提回向と、法華経の『化城喩品』に、「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」とあるように、自分の修行した功徳を一切の人に施して成仏の大業を成ぜしめようとする衆生回向、さらに『提婆達多品』に「勤求して此の法を獲て、遂に成仏を得ることを致せり」と説かれるように、自分の法華経修行の功徳をもって、直ちに仏身を成ずる実際回向の三種がある。

今、学会が行なっている「友人」の先祖への回向は、この三種のうちの衆生回向であることがわかる。しかし、悲しいかな、いくら回向をしてあげたとしても、正しい信心に基づく回向でないために、学会は「友人」の先祖どころか、自分の成仏もかなわないのである。

回向は精霊の苦しみを取り除き、成仏へ導くための行為であるが、それを邪宗邪義によって行なえば、逆に苦しみを招き、地獄へ堕とすための行為となることは周知のとおりである。もし、学会員が、正法に縁することができずに苦しんでいる「友人」の先祖を、回向しているとしたら、それは火に油を注ぐようなものである。「友人」の先祖としては、さぞ迷惑なことであろう。


<一切衆生が正法に帰一してこそ世界平和>

折伏もせず、大聖人の仏法を信じているわけでもない「会友」を増やして、友好の輪を広げ、「友人」にはその先祖回向までしてあげる学会、彼らには、本宗の観念文の「乃至法界平等利益(ないしほうかいびょうどうりやく)自他倶安同帰寂光(じたぐあんどうきじゃっこう)」の意味が、まるでわからないとみえる。

この観念文の意味は、『化城喩品』に、「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」と説かれるごとく、我々が勤行・唱題して得た功徳を法界すべてに平等にめぐらし、自らも、そして他人をもその利益に浴して、共に寂光、すなわち本門戒壇の大御本尊のもとに帰することができるよう祈念するものである。ゆえに、単に「世界の平和と一切衆生の幸福」を祈るものではないのである。

謗法を責めることも忘れ、「平和・文化」に名を借りて邪宗邪義の者たちと手をつなぎ、見せかけだけの世界平和に喜び浸っていても、それは明らかに大聖人の仏法ではない。もし、真に世界の平和を祈るのであれば、大聖人が『如説修行抄』に、「法華折伏・破権門理の金言なれば、終には権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤(つちくれ)を砕かず、代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」とお示しのごとく、大聖人の仏法を正しく受持し、ひたすら折伏弘教に邁進することである。

創価学会員よ、誤った世界平和を夢見て、一生空しゅうするなかれである。





お わ り に

以上、学会の謗法経本について破折を加えたが、本宗の化儀をことごとく改悪し、大聖人の仏法を破壊し続ける学会の悪行は止まるところを知らない。ゆえに、今は何をしても焼け石に水であろう。しかし、我々、大聖人の仏法を正しく受持信行する者は、『開目抄』の、「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」との御金言を身に体し、邪悪な魔の手から富士の清流を守るため、それに敢然と立ち向かっていかなければならないのである。

学会においては、すでに過去帳や塔婆までも謗法のものとすり替えている。これらから推し計るとき、創価学会の中から日蓮正宗の化儀が消えるのも間近であろう。もし、学会員に日蓮正宗の信徒としての自覚が、まだ残っているならば、池田教の邪義に染まりきる前に、学会を脱会し、本宗の正しい信心につくべきである。学会員の賢明なる判断に期待するものである。


以上



※この文章は、石田さんをはじめとする、蓮成坊實修講支部の皆さんの御協力で転載いたしました。