天英院について (大石寺三門は謗法の供養か)



日蓮正宗の信仰を持った人、もしくは有縁の人として、歴史上で著名な方々が何人かおられます。その名前と関係寺院の一例をあげてみますと、

があります。今回御紹介申し上げる天英院は、前の関白・太政大臣近衛基煕(このえもとひろ)公を父とし、第109代天皇・後水尾帝の、第一皇女・常子内親王を母として寛文6年(1666年)3月26日誕生しました。ちょうど2ヵ月ほど前の1月4日、大檀那敬台院が75歳を一期として逝去しております。天英院も76年の生涯を送っています。江戸期の二人の女性の大檀那がどちらも同じ程度の長寿を保ち、総本山の外護をされたことに不思議な因縁を感じます。

天英院は、両親の血筋をみるだけでも日本第一の貴顕の人であり、しかも長じては日本の最高権力者徳川幕府第6代将軍家宣公の正夫人となったのですから、前世以来の福徳は想像を絶するものがあります。しかも日蓮大聖人の仏法に篤く帰依し、総本山第25世日宥上人の養母になっているのですから、天英院ほど果報に満ちた方はいないように思われます。



さて天英院は幼名を煕子(ひろこ)、また照姫とも称していました。乳母(めのと)は近衛家家司下村頼母介某の娘と言われています。この乳母は正保元年(1644)に後の常泉寺第7世日顕贈上人を生んでいます。それから22年も経過していますから、実際天英院に母乳をあげる乳母だったかどうかはわかりません。

この乳母は西山本門寺の熱心な信者で、京都にあった本門寺末寺の上行院の檀那となっていました。西山本門寺とは日興上人の高弟日代師の開いた寺院です。静岡県富士郡芝川町西山に現存しています。承応2年(1653年)2月、上行院の住職であった日順師が、西山本門寺第18世の貫主として晋山(しんざん)しています。その直後、この乳母の子であった日顕贈上人は、上行院にて出家し名を日衆と改めました。11歳のときです。そして日衆23歳のとき、天英院が誕生したわけです。よって日衆は天英院と乳兄弟の間柄ということになります。

幼い頃の天英院の記録は何も残っていませんが、五摂家筆頭の近衛家の姫として何不自由ない生活をしていたことと思われます。もっとも五摂家(関白・太政大臣になりうる最高の家格)筆頭・公家中の公家と称された近衛家も家禄はわずか2860石。幕末には徳川・島津・前田などの大大名と姻戚関係を持ち大きな政治力を発揮しますが、この頃は徳川幕府の監視下でおとなしく毎日を過ごしていました。

しかし近衛家には公家としての長い伝統があり、伝統には尊敬を強要する力があります。当時の徳川幕府体制の中にあって、家柄を誇り得る大名など一割もありませんでした。徳川家の遠祖ですら、名もなき遊行僧が三河松平の地に定住したことから始まっていることを、かの有名な大久保彦左衛門が『三河物語』の中で暴露しています。このような具合だったものですから、徳川家以下各大名たちは京都の公家の持つ伝統というものに熱い視線を送っていたわけです。よって機会があれば高い家格の家から正夫人を迎えようとしていました。公家もまた大名と縁組みすることによって、経済的に潤うことを期待したのです。

政略結婚はこの時代も当然のこととして行なわれていました。今の我々からみると、人権無視とか、不幸な時代と思われがちですが、必ずしもそう断定はできません。こんな時代でも心豊かな人は幸福な一生を送ったろうと思われます。敬台院は29歳、天英院は47歳で夫と死別していますが、深い信仰に支えられたその一生は充実しきったものと思われるからです。


この中務卿という方と天英院の乳母が同一人物かどうかはよくわかりません。ある本には「中務卿事は京都滋野井家御姫にて品宮様之御みや遣ひ侯而京都上行院檀那に而御座侯」とあります。文中の滋野井家とは、藤原北家公季流三条家の分家で、平安時代の末期三条公教二男実国が創立した家です。代々神楽(かぐら)を家業としており、明治17年には伯爵を授けられています。そのような家柄から大聖人の熱心な信者が生まれたのも不思議な因縁です。

入信後の品宮は素直で熱心な信者でした。やがて延宝8年(1680年)8月19日、父帝後水尾天皇が崩御しました。この父君は、有名な紫衣事件等で幕府に抵抗した天皇です。孝心厚い品宮は、弟君の尊証法親王と計り、両親の位牌と下馬の別札を認(したた)めて、滋野井中務卿・今大路出雲守・馬瓜監物の三人を使者として西山本門寺に遣し、その位牌等を納めました。今も西山本門寺の総門とも言うべき黒門の前に「下馬」の高札が掲げられているのはそのためです。

また翌天保元年(1681年)後水尾帝の一周忌の折、時あたかも大聖人第四百御遠忌にあたっていましたので、品宮は仏恩報謝のため、弟である霊元天皇に「日蓮大聖人」の五文字の書を請い、これを八尺余の墓石に刻み、西山本門寺にその墓を建立奉納したと伝えられています。このように天英院の母君品宮常子内親王は熱心な西山本門寺の信者でした。よって天英院もその感化を受け、自然と大聖人の信仰を持(たも)ったものと思われます。



そして天英院14歳のとき、延宝7年(1679年)12月18日、従三位左近衛権中将甲府25万石徳川網豊卿に嫁ぎました。綱豊は、第4代将軍家綱の弟綱重の子息で、このとき17歳の青年でした。これからちょうど30年後、綱豊は第6代将軍に就任するのですが、この結婚のときには、将軍になるとは思いもよらなかったことでしょう。

「続家中抄』の日宥伝によれば、天英院の結婚のとき、先に出家していた天英院の乳母の子息・日衆師が、天英院の護持僧として下向したとあります。一方西山文書によれば、日衆師は5年前の延宝2年9月、京都の上行院を退出して江戸上行寺の住職になったとあります。よってどちらにせよ、日衆師が西山本門寺18世日順師の命を受け、宿縁篤き天英院の指導僧になったことは間違いありません。

結婚後の天英院は大変幸福でした。というのは当時将軍や大名は、世継ぎの男子を得るために幾人もの側室を置くのが通例でしたが、綱豊は長い間側室を置かなかったからです。綱豊は、将軍になってからの治世のあり方が、後年『正徳の治』として賞賛されたように、相当な識見を持った人格者でした。徳川15代将軍のうち8代吉宗が『中興の英主』として有名ですが、ある学者は6代家宣(綱豊)こそ5代網吉の悪政を止め、後の善政の改革の総ての基盤を作った『真の中興英明の賢主』と絶賛しています。

現在徳川家に遺っている家宣の肖像画をみると、気品あふれた風貌と、いかにも悠揚(ゆうよう)迫らざる長者的印象を受けます。実際その性格は寛容で慈悲の心の深い、度量の大きい人物だったようです。綱吉の悪政後、仁政を実現するにふさわしい人物でした。天英院はそのような人を夫に持ったわけですから本当に幸せな日々を送っていたことでしょう。また夫綱豊は、日蓮大聖人の信仰の篤い妻・天英院から、立正安国の政治理念を教えられ、その影響もあって、まれにみる英明な将軍になったことも推察されます。

天英院は、大聖人の御真筆の御本尊を一幅奉持しており、朝夕この御本尊に祈りをささげることを怠りませんでした。母君の常子内親王も、上行院の参詣を怠らず信心に励んでおりました。



このように信仰篤い天英院でしたが、残念なことに健康な子宝には恵まれませんでした。天英院16歳のとき、天保元年(1681年)8月26日、二人の間に最初の子供が生まれました。女の子で、豊姫と名づけられました。二人とも深い愛情をそそぎ大切に育てましたが、翌年10月21日亡くなりました。1年2ヵ月の短い生涯でした。遺体ははじめ芝上行寺に葬られましたが、住職の日衆師が3年後に改宗し、常泉寺住職となったので、後常泉寺に改葬されました。法号を妙敬日信大童女とつけられました。それから実に18年後の元禄12年(1699年)9月18日、天英院は男子を出産しましたが即日死去となりました。このときすでに常泉寺住職となっていた日衆こと日顕師によって葬儀が営まれ、遺体は常泉寺に葬られました。法号を夢月院幻光大童子と申します。

二人の子供が天折(ようせつ)したとき天英院は深い悲しみに沈みました。特に長男を失ったとき、自分が夫綱豊の嗣子(しし)を生むことは、年齢からいって、ほぼ不可能でしたから、天英院も無念だったろうと推察されます。しかし天英院は深い信仰を持っていました。夫綱豊も暖かく励ましてくれました。また、常泉寺住職日顕師から、大聖人が子供を亡くした母親に与えられた御書を聞かされ心を慰められました。天英院は亡くなった二人の我が子の菩提のため、夫のため、徳川家のため両親のため唱題に励むのでした。

その後、元禄16年(1703年)11月4日、妹政姫を養女として桜田邸に迎えました。妹といっても天英院とは33歳も年が離れていました。この養女も翌宝永元年(1704年)7月1日、わずか6歳にして亡くなり常泉寺に葬られました。法号を本乗院妙融日耀大童女と申します。残念ながら宿世の業因か自分が子供というものには縁がないことをしみじみと思い、天英院は一層唱題に励むのでした。



話は少し前に遡りますが、天英院が最初の女子豊姫を亡くした翌年、天保3年9月14日祖母にあたる常子内親王は法華経一部を書写して西山本門寺に奉納しています。これは現在も西山本門寺に秘蔵されています。孫の菩提を願う祖母の慈愛と深い信仰がしのばれます。 またこの年は日寛上人が常在寺の日永上人の弟子になられた年でもあります。上人19歳のときでした。そしてその翌年貞亨元年(1684年)5月24日、芝上行寺住職日衆師は改宗して常泉寺住職日顕師となりました。同年天英院の猶子(ゆうし・一種の養子)となっていた栄存(後の大石寺25世日宥上人)が出家して日顕師の弟子となりました。

「続家中抄』によれば日宥上人の生国姓氏未詳とありますが、京都の公家の子弟であったことは容易に想像されます。天英院も日顕師の教導に従い直ちに常泉寺の檀那となり養女の墓も上行寺から常泉寺に移したのでした。

4年後の元禄元年(1688年)10月20日、近衛家を大聖人の信仰に導いた西山本門寺18代日順師が87歳の高齢をもって遷化(せんげ)しました。旧師の逝去にも追善の祈りをささげる天英院でした。

我が子の夭折の悲しみ以外、平和な日々を送っていた天英院に最大の悲しみがふりかかってきました。母常子内親王の逝去です。御歳61歳でした。元禄15年(1702年)8月26日天英院37歳のときでした。しかも翌元禄16年12月39日には常泉寺第7代住職日顕師が60歳で遷化しています。天英院の生涯の教導の師でありました。

母の死、師匠の死と続いた上、翌年宝永元年には養女政姫が亡くなっています。3年にわたり毎年近親の者が亡くなっていきました。天英院にとって一生の内で最も悲しく辛い時期でした。



しかしこの宝永元年(1704年)12月5日、大きな幸運が飛びこんできました。25年前結婚したとき想像もできなかったことです。それは5代将軍網吉に結局嗣子が育たなかったため、甥にあたる夫綱豊が綱吉の養嗣子となり6代将軍の地位を約束されたからです。

この日綱豊、天英院夫妻は江戸城西の丸に入りました。網豊はこの日より家宣(いえのぶ)と称しました。家宣42歳でした。天英院の父近衛基煕はまだ存命中でした。娘の幸運に基煕もさぞかし喜んだことと思われます。これから28年間にわたって、天英院は終身たった一人のファーストレディの一生を送ったのでした。まだ存命中の綱吉にも、また家宣の後の将軍7代家継、8代吉宗にも正室がいなかったからです。日本女性史上、天英院は比類なき尊貴の一生を送った婦人でした。



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宝永元年(1704)12月5日、天英院の夫網豊は徳川幕府第5代将軍綱吉の養嗣子(ようしし)として江戸城西の丸に入り、名を家宣(いえのぶ)と改めました。西の丸は次代の将軍が住むところです。5代綱吉も実子の世子を持つことは遂にあきらめ、甥にあたる綱豊を次期将軍に決定したわけです。綱豊歳、天英院39歳のときでした。二人は素直にこの幸運を喜び、政権を手にしたときどのような治世にするか思いを巡らすのでした。大器は晩成すと言われますが、家宣は徳川家歴代将軍の中では、家康を別にすれば最高年齢で将軍職に就くことになります。これから5年後のことです。

家宣はこの年まで新井白石に師事し白石の教える帝王学を身につけました。白石は木下順庵の推薦を受け、元禄6年より家宣の没する正徳2年(1712)までの19年間、進講を続けました。家宣の白石に対する信頼は絶大でした。白石の建議は十中七、八が家宣によって実施されました。考証学者として有名な大田錦城は、わが国の儒者で昇進して天下の大政に参与したのは、古代では吉備真備(きびのまきび)・菅原道真、武家の時代に入ってからは大江広元・新井君美(あらいきんみ)、近世では新井白石の五人であるとしています。まさに二人は君臣水魚の交わりだったのです。天英院も二人の間柄を好ましく思っていました。

そして西の丸に入って2年後の宝永3年10月4日、4年前に亡くなった護持僧・常泉寺7代住職日顕師の母・妙印が亡くなりました、子息の日顕師が60歳で遷化していますから相当な高齢と思われます。天英院は、長年仕えてくれた乳母・妙印との死別に心痛みながらも、今や母も旧師も乳母も我が子も皆霊鷲山において大聖人のお膝下で自受法楽されていようと、追善供養の唱題に励むのでした。



そんな中、翌宝永四年(1707年)11月23日、富士山が大噴火を起こし多大の被害をもたらしました。このときの名残りが今の宝永山です。一般にはこの噴火を天譴(てんけん・天の怒り)として受けとめました。よってこの噴火から1年2ヵ月後宝永6年1月10日、5代将軍綱吉が、64歳を一期として逝去したとき、国民は圧政の終りが来たと欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したと伝えられています。

綱吉の死と同時に家宣は六代将軍の地位につきました。彼の最初の布告は悪名高い『生類憐(しょうるいあわれ)みの令』を廃止されたことでした。それも綱吉の枢(ひっぎ)の前でやったものですから、この布告は綱吉の遺言と理解した人もいたようです。

家宣の将軍就任と共に、妻である天英院に朝廷より従三位の高位が授けられました。このような特別待遇は前例がなく、甥にあたる東山天皇と父・近衛基煕の配慮と思われます。

さて、家宣は次々と仁政の改革に着手してゆきました。大聖人の正法を信仰する天英院にとって、夫家宣の「民の父母」という自覚にたっての仁政を嬉しく思うばかりでした。

後年比叡山と八瀬村との間に結界問題が起き、八瀬村民が比叡山の緒界内に入って薪(たきぎ)を取ることを拒否されたとき、家宣は代地を与えて村民を救っています。この処置は天英院の父近衛基煕を非常に感激させました。基煕は娘がこのように心やさしい将軍に嫁いだことが本当に嬉しかったのです。



この年天英院にとってもう一つ大きな喜びがありました。それは猶子である日宥(にちゆう)上人が宝永6年の春に、総本山大石寺第24世日永上人から唯授一人の血脈相承を受け、総本山第25世の法主に登座されたからでした。実子、養子(女)のすべてに先立たれていた天英院にとって、猶子の日宥上人だけが立派に成人し、しかも学徳兼備の聖僧になられたわけですから感激一入(ひとしお)のものがありました。

天英院の日宥上人に対する敬愛、慈愛は大きなものがありました。天英院は家宣に言上し、日宥上人に独礼席(どくれいせき)の免許を与えて戴きました。独礼席とは、正月などに将軍に単独謁見(えっけん)して新年の挨拶を述べたりすることができる、即ち将軍と一対一で会うことができるという特別待遇です。当時僧侶の独礼席は途絶えており、寺社奉行も一切取り上げることができなかったことなのに、天英院の特別な配慮で独礼席が許されたということを、堀山城守正勝が日宥上人にあてた手紙の中で明らかにしています。

かくして日宥上人は宝永7年1月6日、独礼席にて将軍と謁見し御礼を言上しています。70年程前の大石寺は朱印すら与えられていなかったことを思うと、隔世の感があります。天英院の外護により、大石寺は身延派の者が嫉妬するほどの繁栄を得たのでした。登座以前の大石寺26世日寛上人が、細草檀林で講学し数々の著作をされたのも同じ時代です。

そしてこの年の11月26日、常泉寺に幕府から朱印地30石、境内地3,400余坪が与えられました。それは常泉寺に家宣・天英院夫妻の養女政姫こと本乗院妙融日耀大童女や、家宣側室斉宮局(つぼね)こと本乗院妙秋日円大姉等が葬られているためでした。つまり常泉寺はこの頃天英院の深縁により将軍家の菩提寺の一つになっていたのです。すべて天英院の篤い信心から生じたことでした。常泉寺第九代日儀師の代であります。

日儀師は享保元年3月、日宥上人より上人号を免許されています。現在常泉寺(東京都墨田区)は日蓮正宗の末寺の筆頭格に位置していますが、その淵源(えんげん)はこの時代の隆盛にあります。しかも天英院の御供養はこれにとどまらず翌正徳元年(1711年)6月、江戸城本丸の客殿を常泉寺に寄進しました。常泉寺はこの建物を書院として建立しました。江戸時代の江戸の古地図をみると、必ずといってよいくらい常泉寺はハッキリ示されています。当時の常泉寺は周囲を圧する大寺院であったのです。

もちろん常泉寺のことだけではありません。翌正徳2年の夏、天英院は日宥上人の三門造営の構想を聞き幕府より黄金2,100粒、富士山の大木70本を大石寺に提供させています。形式は幕府からであっても、その発意は天英院の御供養であることは間違いありません。創価学会が言うように決して単なる謗法の供養などと言えるものではないのです。当時幕府の財政状況は次第に厳しくなってきていましたから、幕府が自分の意志で寺社に莫大な寄進をすることなどほとんどなかったからです。天英院は時の御法主第25世日宥上人の養母なのですから、我が子のためにあらゆる援助を惜しみなく与えられたのは信心の上から当然のことだったのです。

かくして壮麗なる現在の三門が誕生しました。先に敬台院によって建立された御影堂と、天英院によって建立された三門が総本山大石寺の威容を一層厳かなものにしたのでした。天英院も大石寺が着々と整備されていく様子を日宥上人から聞き、さぞかし満足だったと思われます。



このように天英院は充実しきった信心生活を送っていましたが、夫家宣との悲しい別離の日が来ました。この年の9月23日家宣は病に臥し、わずか3週間後の10月14日51歳を一期に亡くなってしまったのです。天英院とは33年間の夫婦でした。

家宣は天英院にとって良き夫でした。悲しみの極限に立たされた天英院でしたが、深い信仰を持っていたため夫への菩提の唱題に励むのでした。家宣の仁政は新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)の二人によって献言され実行されたものです。この政策は家宣の子、家継に継承され、家継没後は8代将軍吉宗が継承し発展せしめました。一部の政策は明治維新まで続いています。

家宣の治世はわずか4年足らずでしたが、その政策が後世に与えた影響は計り知れないものがあります。英明な賢主でしたが、妻天英院の影響も相当あったであろうことは想像に難くありません。



さて第7代将軍家継は家宣の側室月光院を母として誕生しました。宝永6年7月3日のことです。よって正徳2年父家宣の逝去により将軍になったときは、わずか4歳という史上最年少の将軍でした。父家宣が最年長で将軍になったことを思うと面白い対比です。豊臣秀吉が亡くなったときその子秀頼は6歳でした。その秀頼は23歳のとき豊臣家と共に滅亡しました。豊臣政権は秀吉の独裁で運営されており、組織体としての強い拘束力はできあがっていませんでした。しかし、徳川政権は異なっていました。その行政組織は強い拘束力を持ち、相当な中央集権国家に成長していました。よって四歳の幼将軍が出現しても、幕府の屋台骨がゆらぐことはなかったのです。

家継という名称は天英院の弟、霊元法皇から贈られたものです。白石と詮房は家宣在世中に練られた数々の政策を、新将軍家継のもとでも継続して実行していました。しかし徐々に二人は譜代門閥の反感の中に孤立してゆきました。そんな政治状勢の中でも、天英院は前将軍家宣の正夫人として重きをなしておりました。月光院は新将軍家継の実母ではありますが、家継が幼少であり病弱だったためその地位は不安定でした。

ともかく家継が将軍に就任してから、天英院は従一位、月光院は従三位という朝廷における高い位を授けられました。これ以後天英院は「一位の御方」とも尊称されました。翌正徳4年(1714年)天英院は、常泉寺の本堂建立のため1,500両という莫大な額の御供養をしております。夫家宣の菩提のためと思われ、その篤い信心に頭が下がります。御供養は裕福だからできるのではなく、信心がないとできないものなのです。



さて朝夕静かに夫家宣の追善供養の唱題に励みたかった天英院ですが、政治情勢はそれを許しませんでした。家継は霊元法皇の皇女八十宮(やそのみや・天英院の姪)と婚約しましたが実現せず、享保元年4月30日わずか8歳で亡くなりました。

第八代将軍は、天英院の鶴の一声で紀州藩主徳川吉宗に決定しました。吉宗はこのことを深く恩に感じ、一生天英院を厚遇しております。何事も諸事倹約節約の吉宗でしたが、天英院の年間手当は逆に増額しております。その年間手当は11,000両並びに米1,000俵という莫大なものでした。これも天英院の福徳のなせるわざでしょう。

八代将軍吉宗の厚遇のもと、天英院に静かな信仰の日が戻ってきました。翌享保2年(1717年)8月22日、天英院52歳のとき、5年の歳月をかけて現在の壮麗な大石寺の三門が落成しました。三門落慶の大法要は天英院の猶子である総本山第25世日宥上人大導師のもと盛大かつ厳粛に奉修されました。その大法要の様子を聞いた天英院はさぞかし満足したことと思います。この三門の工費は1,200両かかりましたが日永上人が700百両、日宥上人が200両、天英院が300両を負担しています。天英院の厚い護法の一念が偲(しの)ばれます。天英院にとって大石寺一門の栄えが生き甲斐だったのです。この年日宥上人は大石寺の鬼門、不開門(あかずのもん)を建立していますが天英院の資援があったことは想像に難くありません。

享保三年に入り日宥上人は大石寺26世日寛上人に法を付し、寿命坊に退かれました。その日寛上人も2年後の享保5年2月24日法を大石寺27世日養上人に付し、学寮に入られました。日寛上人が講学に全力を傾注され、後の広宣流布のため万全の準備を整えられたのも、天英院の外護が大きな力になったことと思われます。

天英院は徳川宗家(そうけ)の正夫人であるため、すべての宗旨に一応平等な態度を示さなければならず、心ならずとも他の宗旨にも寄付をしなければならない場合もあったようです。しかし個人としての信仰は大石寺門流だけであったことは間違いありません



平和で充実した信仰生活を送っていた天英院にも最後の日が参りました。臨終に先だち天英院は数々の遺言を残しました。天英院は自分の葬儀が徳川家代々の墓所である芝増上寺で行なわれることは拒否できないことが解っていましたので、近衛家より奉持してきた日蓮大聖人御真筆の御本尊は常泉寺に納め、かつ百両の御供養を残されました。自分の永代回向のためと思われます。

猶子の日宥上人はすでに12年前御遷化されています。日宥上人は最後の日、自ら御本尊をお掛けして香華燈明をつけ、手を洗い口をすすいで法衣を着、読経唱題して合掌のまま御遷化されたという聖僧です。

天英院は、近習・長寿院の唱題の中、静かに息を引取りました。寛保元年(1741年)2月28日のことです。御歳76歳(一説に80歳)でした。

臨終のとき、天英院の脳裏を横切ったのは今は亡き両親、夫家宣、長男長女、養子女の他、日宥上人の慈顔だったのでしょうか。

敬台院に続き、江戸時代の中期大石寺を外護し奉り三門等多くの御供養をし、現在の威容の基を作った天英院の功績は永遠に語り継がれてゆくことでしょう。



※この文章は、生涯にわたって日蓮大聖人の信仰を貫いた一人の女性の一生を綴ったものです。

本来、創価学会の破折の為のものではありませんが、御一読いただければ、昨今の創価学会による「江戸時代に大石寺は謗法与同の者から供養を受けた」という誹謗や、「江戸時代の日蓮正宗は幕府の有力者に懐柔されて檀家制度迎合し、葬式仏教に堕落した」などという中傷が、いかに的外れであるかおわかりいただけるのではないでしょうか。