Page - Mr Hajime Haruka does not have a family. 3 days after.
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3 days after.


 早朝、寮。
 隙間からファイバースコープを入れ、室内の様子を観察する。希亜がいつも寝ているだろうベッドの上には、誰もいない布団がしかれたままになっている。
(まだ帰っていないな)
 その下の段には軍畑が静かに寝息をたてているのが見えた。
(では待つか)
 ようやく空が白み始めた薄暮の十分に暗い中で、朔は荷物の多い希亜と軍畑の部屋の前のベランダで、他の荷物に紛れるようにして身を隠した。


 同刻、学校掲示板前。
「特に休講はないようですね」
 まだ日は上がっていないこの時間帯に、希亜は学園の生徒宛のお知らせを掲げる掲示板の前に来ていた。
 その掲示板の前を部活関連のお知らせはないかと、ふよふよと漂うように見ていたが、やがて関係のある物はなかったのか、そのまま寮へと飛び去っていっ た。


 寮。
 軍畑の朝は早い、今日一日の仕入れをしなければならないからだ。
 自然と目が覚めるとムクリとベッドから起きあがる。
 窓の外から入ってくるのは、まだ暗い白み始めた朝の始まりの光。
 ふと、希亜のベッドに目をやる。
「まだ、帰っていないんスね」
 そう呟いて、ベランダの戸を開く。
 ゆっくりと腹の底、腹、胸、喉と空気を吸い込み、雄叫びをあげ始めた。
「ウラァーーーー…」
 それは吸い込んだ空気を、力強く腹の底からの雄叫びに変えて、信じられないような声量をもって吐き出す行為。
「…ーァアアアアアアァァ…」
 至近距離で聞く事になった朔は思わず両耳を押さえていた。
(早朝の雄叫びはこいつだったのかぁーーーーーー)
「…ァァァァァァァーー…」
 ふと全身が震えているのに気付いた、雄叫びによる音で服が、髪が、内蔵が震えているのが、ようやく知覚できた。
「…ーーーーーーーーーーーーーー…」
 ゆっくりと音量が下がる雄叫びだが、それでもなお朔の両耳をふさがせるには十分だった。
「…ーーーーーーーーーーーー、あれ?」
 何か見つけたのだろうか、軍畑の雄叫びは突然途切れた。
 同時に朔も、内蔵をも振るわせた軍畑の雄叫びから解放される。
「朝帰りっスねー」
 軍畑は空の向こうに、こっちに真っ直ぐ向かってくる点を見つけていた。
 それが軍畑の目に希亜だとはっきりと分かるのには、まだ少々時間をおいたが、それは間違いなく箒に乗った希亜の姿だった。
 物陰の中、そっと視線を動かした朔の狭い視界に、ベランダに降り立つ希亜の姿が入る。
「お早うございます、軍畑さん」
「お帰りッス弥雨那ちゃん」
 そんな挨拶を交わして、まだ薄暗い中希亜はベランダの中に入った。
 そのままベランダで希亜はRising Arrowをペンダントに戻す。
「……Riw……Fexi……Sin……」
 呪文の詠唱を終え、ペンダントへと変わったRising Arrowを確認する朔。
(チャンス)
 内心呟きながら朔は一気に飛び出す。
 隠れ蓑にしていた段ボールやシートが弾け飛び、同時にその中から白い何かが希亜に迫る。
 希亜の悲鳴が耳に入るが、気にすることなく朔は一瞬で間合いを詰めつつ手を伸ばした、首を絞めるつもりで希亜の首のやや前に手を伸ばしたはずだった。
 それは一瞬の出来事だった。
 希亜の胸元辺りから二つの光が飛び出し、希亜が息をのむ音がハッキリと聞こえた。
 そして刹那と言える程の次の一瞬。真昼の陽光が朔の目に入り、同時に自らが焼かれるような感覚を受けた。
 直後入れ替わるようにして、粘り着いた何かがその伸ばした手にまとわりつく。そしてそのまま腕を、体を押し返すように朔へと襲いかかる。
 突然のことに声をあげる間もなく、全身を水よりも粘りのある、何かの流れに押し流されるような感覚を受け、そのままベランダに積まれた荷物の中に叩きつ けられた。
「弥雨那ちゃん!」
 希亜のこの力を知っている軍畑は、慌てて声をかける。
「すみません、大丈夫ですか?」
 青い顔をした希亜の声が広がる。
「オイラより悠朔ッスよ」
 軍畑は慌ててベランダを覗き込む。
「悠朔、生きてるっすかー!?」
 軍畑の呼びかけに答えるようにして朔が起きあがる。積み上げられていた物がクッションになったのか、朔はダメージらしいダメージも、大した痛みも感じて いなかった。
「…驚かさないで下さい、もう少しでフィールドを発動させてしまう所だったんですよ」
 青い顔をしてはいるが、希亜は見据えるような瞳を悠朔に向けて言った。
「大丈夫ッスか?」
「ああ」
 そう返事を返した朔は、希亜の周りをふよふよと回る、二つの光の固まりを視界に納めていた。
「なんだそれは」
「魔法ですよ」
 希亜はたったそれだけ言葉を述べた。詳しい事を述べる必要性があったのかもしれないが、彼が自分の力を伝える必要性を感じなかったからだ。
「弥雨那ちゃんの周りを回っているのは、くるるんとぐるるんって言う魔法の防御機能ッスよ」
「軍畑せんぱぁ〜い!」
「あれ? 言っちゃまずかったッスか?」
「まずいです! 出来るだけ学園で平穏に過ごしたいから、大きな力の事に関しては出来るだけ黙っていたのにぃ〜」
「ゴメンッス弥雨那ちゃん、次からは気を付けるッスから」
「はうぅ〜〜…」
 二人が漫才を演じている前で、朔は彼が超音速で空を飛べる魔法使いである事を失念していることを後悔した。
「う〜っ。あんまり酷いと魔法の実験台にしますよ?」
 走る車から窓を開けて身を乗り出せば、それ相応の風を受ける。それが音速だったらそれは強固な壁として立ちはだかる。
「ちっちっち、弥雨那ちゃんにモルモットにされるオイラじゃ無いッスよ」
 たとえ箒の力であろうと、そんな物を意に介さずに超音速巡航出来るのが、目の前の希亜だという事を朔は念頭に置いていなかった。
「「勝負」」
 朔の思考などお構いなく。希亜と軍畑、二人はお互いにハリセンを構え、お互いに利き手を前に出す。
「お前らな…」
 抗議か質問か、両方が入り交じった言葉を述べて、朔はゆっくりと立ち上がる。
「聞きたいことがある」
 そう言った朔の前で、希亜は呆れ顔になった。
「何だよ」
「いえ、朝も早くから質問とは… よっぽどせっぱ詰まっているんですねぇ」
 呆れるままにそう返した希亜は、何事もなかったかのようにベランダから部屋へと入っていった。
「弥雨那ちゃん? もー」
 行ってしまった希亜の背中にあきれながら、軍畑は白衣に付いた埃りをはたく朔にも呼びかける。
「ああ、悠も部屋に入ると良いっスよ」
「ああ、そうさせてもらう。 …にしてもさっきの雄叫び、凄かったな」
「あれッスか? 指向性があるんで正面にいちゃダメっすよ」
 軍畑は笑顔でそう言って部屋へと入っていった。
(真横で内蔵まで震えるって、どんな音出してるんだよ)
 内心そう愚痴をこぼしながら、ゴツイ安全靴を脱いで部屋に入る朔だった。


 寮、早朝の食堂。
 そこで朔と希亜は向かい合って座った。二人の間には何も置かれていないテーブルのみが存在していた。
 いつものようにのほほんとした表情のまま座っている希亜。彼は悠朔の様子、とりわけ力の澱みと言える物にも変化がない事を確認すると「どうぞ」とばかり に軽く頷いた。
 朔はそんな希亜をあまり見ることもなく口を開く。
「…質問は二つだ、そこから派生した質問はあってもな」
 朔のその言葉に希亜は、制服の内ポケットから一枚のタローカードを取り出し、お互いに表を見せることなくテーブルに伏せ、ゆっくりと一呼吸おいて「どう ぞ」と質問の続きを促した。
「一つ目は、魔女の礼儀とやらでの俺とお前の関係だ。はっきりと答えてもらう」
「…良いんですね?」
「ああ、早くしろ」
 やや間を空けて返された希亜の質問に、即答した朔。
「魔女の礼儀は、何処までご存じですか?」
「芹香先輩とその猫から通り一遍の説明を受けただけだ」
「なるほど。ならお前さんが私の庇護下にあるという事は?」
「聞いてはいる」
「なら、そう言うことですよ。現在はね」
「前は、芹香先輩の庇護下にあったそうだな」
「そうですよ、私は人に憑く魔女ではありませんから」
「だったらどうしてだ?」
「それはまぁ、お前さんが喋りすぎたからですよ。記憶にあるでしょう? 校舎の屋上での事でしたよね…」
 前にルミラに対して言った言葉と、その時の情景が、朔の脳裏に鮮やかによみがえる。
「ああ、覚えている。 …だが何故お前が知っている」
「そりゃあ、まぁ。本人から聞きましたから」
「本人?」
「ほら。えーと、仮眠室の主の、えーと管理人じゃない方の…」
「ルミラ・ディ・デュラルか…」
 ルミラ・ディ・デュラル。学園の人物から魔女と分類できる人物の中で、最大の力を持つと言われる者。
 朔は名前を呟きながら、そんなデータを反芻していた。そして、あの時彼女が何を狙っていたのか、それは朔には計りかねるものだった。
「はい、その人です。深く楽しそうに話してくれましたよぉ」
 のほほんとそう言う希亜の意図も、朔には計りかねる所があった。
「それで、一つ目の質問は終わりですか?」
 希亜の言葉に、朔は頷く。
 今聞き逃したことがあったにせよ、今日また芹香と会うのだから、その時に欠落は補えるだろうと考えたからだ。
「では最後に、あなたは誰の庇護下にありたいですか? これが一つ目の質問の返答です。 …では、次の質問を受け付けましょう」
「なんだそれは?」
 要領を得ないと感じ質問で返した朔だが、希亜からの返答は「次の質問をどうぞ」と、言う物だった。
 朔はやや悪態をつきながらではあるが、聞きたい部分は聞いてしまったので次の質問へと移ることにした。
「九鬼神社へ行って調べ物をしているそうだな」
「ええ、色々と調べていますよ」
「何が目的だ?」
「事象の確認と、多項要因による原因の追究。と、言ったところですね」
「何が分かった」
「私が確認したのは、御神体の力でお前さんが神社に入れないという事象ぐらいです」
「御神体!?」
「はい。 …他は、推測の域なので答えられませんよぉ」
「じゃなにか? 俺は御神体から嫌われて実家に帰れないと言うのか?」
 頭を抱えながらそうこぼすように訪ねる朔に、希亜は何も答えない。
 神社の情景が広がる朔の脳裏に、一人の人物が浮かぶ。
「…そういえば、姉は無事なのか?」
「ええ、無事ではないのはお前さんだけですから」
「そうか…」
「他に無ければ、質問の受付はここまでにしたいですが。他に何かありますか?」
「そうだな、最後に一ついいか?」
「どうぞ」
「何故俺の質問に答えた? そもそも答は本当のことなのか?」
「二つになりましたか、まぁいいでしょ。まず前者の質問ですが、私はカウンセリングは受け持ったとしても、基本的に人に憑く魔女ではありません。後者の質 問ですが、推測の域を出なくて答えなかった物について以外は、確証を持っています」
 そう答えて希亜はゆっくりと二人の間に伏せられていたタローカードを捲る。
 何も印刷されていない真っ白のカードが二人の視線にさらされた。
「あう…」
「おい…」
 気まずい沈黙が二人の間に広がる。
「あらぁ〜、これ紛失用のですねぇ」
「普通は、何かを暗示するようなカードが出るよな?」
 あきれ果てた朔がそう言って立ち上がる。
「まぁ、これからまたスタートだと思えば新鮮ではないですか?」
 誤魔化すようにそう言葉を紡ぐ希亜。
「スタートか」
 朔は興味なさそうにそう言って、ひらひらと後ろ手に手を振りこの場から離れて行った。
 やがて食堂に一人きりになると、希亜はカードを戻し立ち上がる。
「さて。幽世にお前さんが足を踏み入れるかどうか、これで決まりますね」
 朔がこの件をどう処理するか、希亜の中では好奇心という芽がすくすくと順調に育っていた。


 朝、登校時刻、校門前。
 リムジンのドアが開けられ、それぞれに車内から出てくる。
「お早うパパー」
「あら、珍しいわね」
「ああ、お早う」
 あっさりと答えて朔は芹香の前に来ると。
「今日の放課後にでも昨日の話の続きをしたいんだが」
 そう申し出た。
「え? お昼休みにオカ研でお待ちしています?」
 コクコク。
「分かった、では昼休みに」
「なぁに? 昨日オカ研でキレたとか聞いたけど、何があったの?」
「もうそんな事が伝わっているのか?」
「昨日の内に格闘部に伝わってたわよ」
「そうか」
 話が一段落したのか、四人は校舎へ向かって歩き出していた。
「姉さんの話だと、まだ実家に帰れてないのよね?」
「ああ」
「じゃあ今日の放課後、姉さんと一緒に行って来たら? 綾芽も同行するし」
「そうだな… それも手か」
 と朔が思案していると、その隣を歩いている綾香の袖が芹香によってクイクイと引かれる。
「なぁに? 姉さん」
「え? まだ悠さんが来るには早すぎます?」
 コクコク。
「でも、まだ進展はないんでしょ? だったら良いんじゃない」
 フルフル。
「そう、ならやめておいた方がいいか。そう言うわけでゆーさく、今日のあなたの神社行きはなしね」
「む、専門家がそう言うならそうするか」
「それにしてもじれったいわね、学校休んだらもっと楽に調べられると思うんだけど」
「そう行かないだろう、所詮俺達は学生だからな」
「まぁね、でも無断欠席ができるのも学生の特権じゃない?」
「必要ならな」
 そんな具合に綾香と朔が話している中、綾芽は黙って歩いていた。
 昨日、希亜に注意を受けたにも関わらず、朔に対して秘密にしておくべき事を簡単に喋ってしまった為、朔に質問されたらまた無条件で話してしまうのではな いかと思い、黙っていることにしたのだ。
 同時に綾芽の足取りは重かった、希亜に「私が調べている事は秘密ですよ」と言われた手前、合わす顔がないからだ。
「は〜ぁ」
 思わずため息が漏れる。
「どうした綾芽、大きなため息なぞついて」
「え!? ううん、何でもない。何でもないよ」
と、本人は誤魔化すのだが、そのまま綾芽はため息をつく。
「希亜と何かあったの? 綾芽」
 そんな綾香の質問に綾芽は、ふるふると頭を左右に振り、
「何もないよ、希亜に秘密にって言われたこと喋ったなんて事ないんだから」
 慌ててそう言う綾芽に、綾香と朔は思わず顔を見合わせ、芹香は苦笑していた。
「あ、綾芽?」
「あー、悪かったよ。それにお前から聞いたことなら、今朝希亜から聞き出したから、心配することはないだろ」
「違うよ。わたし希亜との約束守れなかったんだもん」
 クイクイと綾芽の袖が引かれる、振り向くと綾芽の隣に芹香が回ってきていた。
「なぁに? 芹香さん」
「え? 逃げたりせず真っ直ぐに向き合っていけば大丈夫です?」
 コクコク。
「う、うん。がんばる」


 某講義室。
「参ったなぁ…」
 ちらほらと入って来ている生徒達をぼんやりと眺めつつ、希亜は綾芽にどう言うべきか悩んでいた。
 今朝朔に受け答えする形で喋った訳だが、それが取りあえず蕗の葉の下にいるつもりだった事と、綾芽に自分の事を話さないようにと頼んだ事の両方に矛盾し ていた。
「黙ってたり、隠したりしたら怒るよなぁ〜」
 昨日の保健室の件が、希亜の脳裏にありありと浮かび上がる。
 深くため息をついた希亜が、ふと講義室の入り口に顔を向けると、丁度入って来たばかりの綾芽と視線があった。
 綾芽は何かを誤魔化すように希亜に会釈をし、そのまま一度も視線を合わせることなく、希亜の隣の席に着いた。
「えっと、お早う希亜」
「あっ。はい、お早うございますぅ」
 ややぎこちなく交わされた挨拶に綾芽は違和感を覚えた、少なくとも希亜にはぎこちなくなる理由は無いはずだ。
「あのね、希亜」
「…はい」
 一瞬の間の後、戸惑うように答えた希亜に、綾芽の違和感は確信に変わった。
「希亜に謝らないといけない事があるんだけど… また何か隠してない?」
「はい、私も綾芽さんに謝らないといけないんです」
 観念した、少なくとも綾芽にとって希亜の言葉はそう感じさせる物があった。
「そうなんだ。でも何を謝るの?」
「昨日綾芽さんに、私のことは悠朔さんに言わないように頼みましたよね?」
「う、うん」
「今朝方、悠朔さんに質問されまして…」
「答えたんだ」
「…はい」
「それって多分、わたしがパパに喋っちゃったのが原因だと思う」
「え?」
「ごっ、ごめんね希亜。昨日本当は喋るつもり無かったんだけど、気がついたら喋っちゃってて…」
「え〜と?」
「多分今朝パパが希亜に質問したのって、わたしが喋ったのが原因だと思うの。だからゴメン!」
 そう言って頭を下げた綾芽が視線を希亜に戻すと、彼は視線を逸らしていた。
「なるほど」
 再び視線を戻した希亜はそう言って言葉を続ける。
「一つだけ良いですか?」
「うん…」
「綾芽さんは自発的に朔さんに話したのですか?」
「ううん、違うよ。パパが意地悪く質問するから…」
「答えてしまったんですね」
「うん。 …ごめん」
「なら問題はないですよ」
「どうして?」
「あの人が自発的に行動を起こす。この場合はあなたに質問する行為がそうなりますが、そういった場合に答える分には、問題ではないんです」
「どう言うこと?」
「朔さんが求める事に答えるのは構わないですが、こっちから一方的に与えるのはだめなんです」
「そうなの?」
「はい」
「そっか。でもこれですっきりしたかな」
「そですか」
「…でもない。昨日の電話で話した事、話してもらってない」
「それは…」
 途端に希亜の表情が沈む。
「話しづらい事なの?」
「はい、できればもう少し待って下さい」
「うん。 …でも。ちゃんと話して、くれるよね?」
「はい」
 うつむいた希亜の返事を聞き取った直後、始業のチャイムが鳴り響いた。


 2年某教室。
(結局何も出来ずか…)
 朔は授業に集中できずに、ぼんやりと今朝方の事を考えていた。
(今更この件について無力なのを思い知らされるとはな。だからといってルミラに直接問いつめても、答えないだろう。あの時の事が原因で、俺は今希亜の管理 下にいる。 …事になっている。だが、どうしてもそれと神社に入れない事が結びつかない)
 そうやっていろいろと思案をまとめてはいたものの、有効な結論に達することなく授業時間は過ぎていった。


 お昼休み、オカ研部室。
「失礼する」
 そう言って部室に入ると、希亜と綾芽の姿があった。
「…おまえら何の用だ?」
 芹香と二人きりで話すものだと思っていた朔は、希亜にそう問いつめる。
「酷いよパパ、お弁当いらないの?」
 よく見ると希亜はお茶をティーポットに、綾芽は重箱から弁当を小分けにしている。
「あー、はいはい。 …すまなかった、弁当を分けていたのだな」
「もー」
 ややふくれっ面の綾芽と、その様子を見て微笑んでいる希亜。
 朔はとりあえずとばかりに振り返って芹香を待つことにした。
「あ〜、芹香さんならもう奥の部屋にいますよぉ」
 のんびりとかけられる希亜の言葉に「そういう事は、もっと早く言ってくれ!」と再び希亜の方に振り返るが、すぐに綾芽からティーポットと詰め替えられた 重箱が差し出された。
「はいパパ。ポットはパパの分と芹香さんの追加分ね、カップは奥の部屋に用意してあるから」
「あ、ああ…」
 朔は戸惑いながら受け取ると「後でな」と、それだけを残して奥の部屋へと入って行った。
「パパって案外押しに弱いのかな」
 閉められた小部屋のドアに向かい、綾芽がそう呟く。
「ペースを乱されると弱いのは仕方ありませんよ」
「そっか…」
「はい。そろそろ屋上に上がりましょうか」
「そうだね、ママが待ってる」

 朔がオカ研の奥の部屋に入ると、芹香が小分けされたお重をしずしずと食べていた。
「少し遅れたな」
 フルフル。
「え? 時間がなくなるといけないので食べなから話します?」
「いいのか?」
 コクコク。
「とりあえずは、昨日の続きなんだが」
「え? 今朝希亜から何を聞いたか、ですか?」
 コクコク。
「奴が神社で何をしているか、それと何を知っているかだが。それが何か?」
「…あの子はどう答えましたか?」
 コクコク。
「どうと言われても、いつもどうりにはぐらかされただけだ。魔女の礼儀でのあいつと俺の関係について聞けば『あなたは誰の庇護下にありたいですか』と答え るし。神社で何をしているのか聞けば『御神体の力でお前さんが神社に入れない』等と言いやがる。結局、肝心のどうしてそうなったのかという事は知らないん だろう」
「…そうですか? …残念です?」
 朔がそう芹香の言葉を反芻する。若干イントネーションの低い芹香の言葉の意味が今一つ理解できないでいた、なぜ「残念」なのかが。
 それを考えている朔の視線の先の芹香は静かにお茶をすすり、カップをテーブルに戻した。
「え? 本当に届いていないのですね?」
「何がだ? 先輩」
「…こちらの都合です? それより俺が目を開けば自ずから分かります?」
 コクコク。
「目を開くって言われてもな」
 そう言って、彼は芹香の言葉が指すだろう、目を開いた自分という物を連想してみた。
 朔は幽世の者達を知覚できる、普段はそう言った方向への感覚を閉じてある。それは彼が日常を送る上でそれらを見る事は、主に精神衛生上良くないので、と いう理由からだが… それを開いた状態を想像してみる。
「…それって俺に幽霊を見ろと言うことか!?」
「え? 当たらずとも遠からず、ですか?」
 コクコク。
「そう言われても、いきなり昼間にぐちゃぐちゃの死体の幽霊を見たりとかするような物で… できれば遠慮したいんだが」
「…えっ? ちょっと違いますが、そういう物はそのうち慣れます?」
「うーむ…」
「…ちなみに私も、あの子も慣れています?」
「…本当かそれは?」
 コクコクと、ただ当たり前の様に芹香は頷く。
「しかし、それだと霊に取り付かれたりしないのか?」
「……魔女ですから? って先輩?」
 自信満々にブイサインを出す芹香に、
(そう言う問題かよ)
と、心の中でツッコミを入れる朔だった。


 5時限目、二年某教室。
(どうした事か…)
 思案に暮れる朔。
 本人はそのつもりだが、他人の目にはぼんやりしているように見える物である。
 朔自身、この世ならざる物たちの存在は結構昔から感づいてはいた。ただ精神衛生上、半ば無意識にその存在を感じなくしているのである。
 実のところは、それ以上に自己防衛の意味合いがあった。
 現行の一般人格である朔はいわゆる格が高い方ではない、それ故に低俗な霊にも簡単に取り付かれてしまう。視界からこの世ならざる者達を排除しているの は、それらに対する有効な対策でもあったりする。
 それでも、ひづきに会う度にお祓いを受けているのだから、ある意味大人気と言えるだろう。
(もっとも第四人格が出てきてくれれば、そう言うのは解決するんだがなー)
 途方に暮れて、ぼんやりと天井を見上げる。
(そういえば、あいつにはどういう風に見えているんだろうな、世界は…)
 ふと、幽霊などが普通に見える様子を想像してみる。…普通にスプラッタな世界が朔の脳裏に浮かんだ。
(戦場よりたちが悪いな)
 実のところ、朔は一つ大きな勘違いをしていた。
 芹香が伝えたかったのは、朔が自身の力を制御するために、感じ取れるようになることであり。今の朔の思考のように幽世の物達を見ることではない。
 実際の所、希亜に関して言えば。彼は魔力等に関してはかなり正確に感じ、見る事ができる。反面、幽世の物達については普通は集中していないと感じない し、意志疎通には魔法を必要とするのである。


 放課後、正門前に芹香と綾芽と綾香の姿があった。
「セバスチャン、遅いわね」
「そう言えば、あの人が遅れて来るのは珍しいねー」
「そう言えばって、綾芽。希亜と一緒に行ったんじゃなかったの?」
「その方が早いんだけど、ちょっと体調がよくなくて。それに、希亜は車に酔うから」
「そう、じゃあ仕方ないわね」
 それから少しして、セバスチャンの運転するリムジンは三人の前にやって来た。
 芹香と綾芽がリムジンに乗り込んだ所で、
「じゃあ、私は部活の方に用があるから。姉さん、綾芽がんばってね」
と、そう言って綾香が後部座席のドアを閉めた。
「私はバスで帰るから、二人をよろしくね」
「かしこまりました、お嬢様」
 セバスチャンが運転席に座り、リムジンが走り出す。
 手を振って送り出す綾香に、綾芽が手を振り返すが、その姿は心なしか寂しそうに見えた。


 高速道路を通って小一時間程経った頃、景色はようやく九鬼神社の近くの山々を映し出していた。
「お嬢様、そろそろ到着いたします。綾芽様をお願いできますか?」
 芹香は静かに頷き、寝息をたてている綾芽の肩をゆする。
「…もう着くの?」
 眠そうにそう聞く綾芽に、芹香は頷いて返し、前を指さす。
 綾芽がその指先、道の先を見る。
「ほんとだ、もう着くね」
 窓の外には、記憶にある九鬼神社の側の道を走っていることが見て取れた。

 三人が神社の境内に上がったが、そこには人気はなかった。
「中にいるのでしょう」
 コクコク。
 そのままセバスチャンは社務所兼住居の玄関へと赴く。
 呼び鈴を押してしばらく待つが、人が出てくるような気配はなかった。
「おかしいですな」
「あ、調べ物しているって言ってたから、奥の方にいると思うんだけど」
「なるほど、道理ですな。もう一度押して少し待ってみましょう」
 そう言って、もう一度呼び鈴を押し、誰かいないかとあたりを見渡すが、セバスチャンの視界にはただ境内が入って来るのみだった。
「どうしよう」
「…とりあえずお参りします?」
 コクコク。
「分かりました、では私はここではじめ様をお待ちしております」
「わたしも行って来ます」
「はい、行ってらっしゃいませ綾芽様」
 綾芽と芹香の二人は再び境内に戻り、拝殿へと歩く。
「…いい所ですね?」
 コクコク。
「うん、わたしのお気に入りなんだ」
 どこからかカッコウの鳴き声が耳に入る。
 次いでくしゃみをする声が聞こえた、それは綾芽の耳にとても良くなじんだ声だった。
「希亜?」
「…あっちの方から聞こえてきました?」
 コクコク。
「あっちには倉があるんだけど、いるのかな」
 そう言いながら綾芽は、先ほどくしゃみが聞こえてきた方へと歩き出す。
 ちょうど住居の裏側から倉の方へと回る感じになっていた。
「延長コード?」
 見えてきたのは、学校などで見かけることのある野外用の延長コードだった。その両端はそれぞれ倉と住居へと入っている。
「え? 倉の中から気配がします?」
 コクコク。
「あんな所にいたら、呼び鈴なんて聞こえないよね」
 コクコク。
 二人は延長コードをたどるように倉へと近づく。
「あれ? ご近所の方かな?」
 倉の中から声が聞こえ、はじめがいそいそとサンダルを履きながら出てきた。
「あ、綾芽ちゃんに芹香ちゃん。もう着いたの?」
「うん、さっき着いたんだけど。家の方にも社務所の方にもいないんだもん」
「ゴメンね」
「希亜、君は… 中にいるの?」
「集中しているみたいだったから、声をかけずに出てきたんだけど」
「じゃあ、わたしは希亜君の手伝いしてるね」
 そう言って綾芽は倉の中へと入っていった。
「えっと、どうしようか」
 芹香と二人っきりになったので、先日の成り立ちづらい会話を思い出し、思わず口ごもった。とは言えはじめにしても芹香の事を嫌いという感情を持っている わけではなく、芹香の伝えたい言葉がちゃんと受け取れるかどうかが不安なだけであった。
 ふと、はじめの視界の芹香の視線が動き、視線の先の何かに手招きをしている。
 振り返ったはじめの目に、先日の運転手であるセバスチャンが早足で歩いてくるのが入った。
「お嬢様、はじめ様こちらでしたか」
 そう言いながらはじめの前に来ると丁寧に一礼し。
「今日は少し長くご厄介になります、つきましては夕飯のご用意を手伝わせていただきたく思いますが、よろしいでしょうか」
「えっと…」
 セバスチャンの申し出に、戸惑いながら芹香の方を見ると、彼女はお願いしますとでも言うように、ぺこりと頭を垂れた。
「あ、はい。お願いします」
「ありがとうございます、ではお台所を拝見してもよろしいですか?」
「あ、こっちです」
 セバスチャンの持つ雰囲気に流されるままに、はじめは勝手口から中へとセバスチャンを案内して行く。
(残されてしまいました…)
 倉からは希亜が綾芽に何かを説明している声が漏れ聞こえ、勝手口からははじめとセバスチャンの声が聞こえている。
 それ以外には春の鳥のさえずりと、木々が風に揺れ葉が擦れあう音だけが辺りを染めていた。
(…そうですね)
 何か思うところがあったのか、芹香は境内へと向かった。

「…で、こっちの方は読破しましたから、そっちの方からお願いしますね」
 そういって彼、希亜が示したのは、後数冊の冊子だった。
 倉の中では、希亜が今までの経緯と、現在の状況について説明したところだった。
 ただ希亜の背後にビルのように整然と積まれた読破済みの綴り、ほとんど古文書と呼べるような綴りと比べると、綾芽の目には、その数冊の冊子はかなり少な いように思えた。
「最近の物だよね、これって」
「そですね、ここ一世紀以内の物だと思いますよ」
「だったら、もう出てこないかもしれないよ」
「ならば出てこない事を証明する必要があるんですよ」
「あっ、そうなんだ」
「はい」
 希亜の快い返事を聞いて、ふと綾芽は疑問に思ったことを口にした。
「文献に書かれてなかったら、どうするの?」
「そですね…」
 短く返された希亜の言葉は、特に戸惑いを感じる物ではなかったが、それでもそれ以上言葉が続かなかったところを見ると、あまり深く考えていないように綾 芽には見えた。
 希亜にしても、外堀を埋めるつもりで作業しているので、文献から何か有用な情報が出てこなくても問題はなかった。

 境内に出ていた芹香は、手水で手を洗い口を濯ぎ、参道をまっすぐに本道へと向かう。
 ふと正式な作法がどうだったかと思い、足を止め少し考えるが、うまく思い出せなかった。教えてくれた綾芽には少し申し訳ないと思いつつ、仕方なく適当に 覚えている限りの作法で参拝をする。
 ガランガラン。
 そんな音が境内に広がる。

 台所でその音を聞いていたはじめは、芹香ちゃんかなと思いつつ今晩の夕飯の献立を考えていた。
 せっかく来て食べてくれると言うのだから、彼女の喜ぶような料理にしようと思っているところだ。セバスチャンの話しでは、普通の家庭料理の方が喜ぶので はないかという事なのだが、とりあえず鍋という選択肢は排除した。理由は大勢で一つの鍋を箸でつつきあうのを敬遠する者がいるかもしれないという物だっ た。
 杞憂であれ、もっと深く相手を知ってからにしようと思い、また思考の中をぐるぐると巡るはじめだった。

 お参りを済ませた芹香は、境内から敷地の奥の方へと足を進めていた。綾芽の話では、この先には小川と滝があるらしい。
 幾分か歩いただけで、深い森の中を歩むような感覚を受ける。日本の森には珍しい、いくつもの原生の大木が生い茂る広大な木陰達の中を道は続いていた。
 芳醇な森の香りに包まれたまま、曲がりくねった道に沿って歩き続けると、いつの間にかせせらぎが織りなす音色が耳に入ってきていた。
 右手に小川のせせらぎの音色を感じながら、道は小川の上流へと続いている。
 この先に滝があるのだろうと思う芹香だが、ここからでは滝の落ちる音は聞こえてこなかった。
 ふと空を見上げる。ゆっくりと空が夕焼けの朱に染まりつつあるのを見て、芹香は引き返すことにした。
 来た道を戻りながら彼女は考える、悠朔がこの神社に入れない訳を。
 この神社自体は清浄、そういえる場所だった。
 深い森の畔にもうけられた、古より神を奉る場所。広大な森と山そのものがその領域であり、先程お参りした拝殿、その奥の本殿すら、玄関口でしかないよう な印象を受けた。
 その本殿の中にあるだろうご神体は、芹香にも何も答えなかったが、それを考慮しないとしても、この神社という領域は静かに深く、だが力強くこの世界に存 在している。
 とは言え、今のところ彼女の感覚には比較的普通の神社である事以外には何も入ってきていない。それがかえって悠朔、もしくはその内包する要因によって、 悠朔がこの神社ではない場所へと跳ばされている、少なくともその原因になっているのではないかと、彼女は考えていた。
(だとすれば、原因はあの澱みとも濁りとも言えるものと考えるのが普通でしょうね。 …でも届くのでしょうか)
 芹香も希亜の言葉が原因で、希亜の言葉が朔に届いていない事を知っている、だから同じように魔女とも称される自分の言葉が朔に届くか、それが不安だっ た。


「結局文献には何も載っていなかったの?」
「はい、今回の怪異に関することは何一つ載っていませんでした」
 台所で今晩の夕飯を作り始めていたはじめに、倉庫から延長コードと蛍光スタンドを持って戻ってきた希亜は、文献からは何も出てこなかったことを告げてい た。
「少し考えたいので縁側にいますね」
「うん」
 はじめに背を向けて縁側へと歩いて行く希亜だが、その背中には落胆の様相はなかった。それを見届けると同時に安心したはじめは、次の食材を取りに冷蔵庫 の中を確認するのだった。

 休息にと、縁側でぼんやりと暮れゆく夕焼けを眺めていた希亜を見つけて、綾芽がその隣に座り込む。
「他に調べる手段はあるの?」
「ありますよ」
「じゃあ、教えて?」
「一つには、悠朔さんを持ってきて実地検証するんです。いささか危険ではありますよ」
「ダ、ダメだよ!」
「そですね。別の方法は… 少し考えてみます」
 希亜は、悠朔側の考えられる限りの要因を排除するという選択を敢えて口にしなかった。
 可能ならば悠朔自身に感じ取ってほしいという願望があったからだ。
 希亜が遠回しに思考をしているのが表情に出たのか、綾芽には希亜が何か隠し事をしながら考え事をしているのだろうと思えた。
「希亜、何か隠しているでしょ」
「えっ? あー。 はい、隠してますよ。魔女としての願望をね」
「話してくれないの?」
「願い事は、他人に話さない方が効果があるんですよ」
「嫌」
「『嫌』って…」
「だって… え? もっといい方法があるのに我慢しているような顔してます…」
「…してます? 芹香さんみたいな言葉ですねぇ」
「そうだよ」
「はい?」
 そう言って振り向いた希亜の視線先、綾芽の隣にブイサインを出してこちらを見ている芹香の姿があった。
「いつの間に…」
「…『実地検証するんです』のあたりからです。って」
 綾芽が芹香の言葉を直接希亜に述べると、希亜は「そですか」と言って口を閉じた。
 しばらく一言も口を開くことなく、ずっと夜空を見上げたままの希亜に綾芽は、
「怒ってる?」
「…そうじゃないです?」
 コクコク。
 芹香にそう言われて、希亜が怒っているのではないのだろうと安心した綾芽は、もう一度希亜に声をかけようと口を開く。
 その矢先、
 ぐぅ〜〜〜〜〜〜っ。っと、そんな希亜の腹の虫が盛大に鳴るのだった。
「…あぅ、お腹空きましたぁ」
「あ… あはははは」
 がっくりとうなだれる希亜に、綾芽は苦笑するしかなく。その様子を見て芹香も笑みを浮かべるのだった。


 同刻、寮食堂。
「隣エエか?」
「構わない」
 素っ気ない答えを聞いて、由宇は朔の隣に座り、今日のメニューであるカレーライスを食べ始める。
「あれからなんか進展あったか?」
「いや」
「希亜はなんか言うとったか? あいつは九鬼神社に結構出入りしとうやろ」
 芹香ではなく、希亜の名が出てきたところに自然と苛立ちを覚えたが、悠朔は一呼吸おくでもなく返答を返す。
「そいつと、芹香先輩が今、九鬼神社に調べに行っている」
「ほうか、ならなんかは分かるやろ」
「ああ」
「しかし。そもそも何が原因やったんや? 前までは普通に帰れたんやろ?」
「ああ、どよコンの前までは…」
 急に押し黙った朔に、由宇は彼の考え込む様子に注意を向けながら、カレーを食べ続ける。
(原因が俺にあると仮定した場合。どよコンの後と前で、俺に何があった?)
 そう前提条件を出したところで、考える必要もなくあの事が記憶から呼び出された。
 それはどよコンの最中、屋上でのルミラとの一件である。何度と無く思い出すことになったそれ以外に、原因となる出来事は朔には考えつかなかった。
(俺は、いったいルミラに何をされたと言うんだ?)
 悠朔の言う凶の呪いを解いてもらった事、それ自体は事実だろう。
(あのあとしばらく全人格が出てきていたが、今は第一人格が残っているだけだしな…)
 当時の朔はルミラからそれ以上聞くこともなく、ルミラとの接触を断った。その判断自体は間違いではなかったと朔は思う。
「魔女に連なる者は天敵だから、耳を貸してはいけない」と…
「信じたら最後、骨の髄まで破滅に沈められる」と… 
(耳を貸すな、か…)
 結果的に希亜の言葉に従ったが、それは朔がその判断は正しいとして受け入れていたからだ。
 芹香は朔にとって信じるに値する人物である、と同時に魔女の系譜に連なる者と取ることが出来る。この問いに対して朔はにべもなく後者を切り捨て、前者を 選択した、これは朔にとって当然の事と言えた。
 だが芹香は何か重要なことを隠しているように朔には見えていた。彼女の言う「あの子」は希亜だと分かっている。魔女の礼儀の事もある程度は理解した。
 それでも朔には芹香が何かを隠している様に思えた。
 勘と言えばそれまでだが、そう思えて仕方なかったのだった。それが的をえているとしても、本人には知る由もないのである。
「不思議に思っていたんだが」
「なんや?」
「なんで由宇が希亜の事まで知っているんだ?」
「昨日電話したやろ? 一昨日はじめさんから電話があってなぁ、はじめさん心配しとったで。でまぁちょっと調べて見たんや」
「そうか…」

 食事を終え部屋に戻った悠朔は、九鬼神社へもう一度行く事を考えていた。
「俺の方が何も変わっていないとすれば、もう一度同じ事に遭遇する… と思うんだがなぁー」
 なにせ、自分から避けられない状態で迎える怪異はこれが初めてであるし、大抵の場合は自分が取り付かれていたりするのだから、実質初めての経験にどこか ら手を着けていけばいいのか分からなくなっていた。
「八方塞がり… というより何でも出来るがその結果が全く予測できない以上は、下手に動くわけにも行かないか」
 口にした紅茶の味がいつもより苦く感じる。
「明日になれば、先輩の結果が分かる。ならそれを待ってから動くしかないか」
 どうのしようも無い時は動かない。朔はそう自分に言い聞かせるのだった。


 夜、九鬼神社敷地内。
 せせらぎの旋律を右手に聞き、月明かりに照らされながら、綾芽は希亜を連れて小道を二人っきりで歩いていた。
 希亜の使い魔の子猫クラムが、希亜の右肩にへばりつくように掴まっているのを除けば、ではあるが。
「パパの事なんだけど」
「なんですか?」
「パパの事なんだけど。 …希亜君一生懸命に考えてくれてる?」
「こんな所まで引っ張ってきて、そのことを聞くんですね?」
 問いつめるでもなく、希亜はごく柔和に綾芽に聞き返していた。
「だって、希亜君まるで他人事みたいにパパの事言うんだもん…」
「ちゃんとした理由が、あるんですよぉ」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、お姉さんに教えて?」
「そですね…」
 そう短く答えて、希亜は何を言うでもなく少し足を早める。
 ゆっくりと綾芽から離れていく希亜に気付いたが、振り切ろうとするような物ではなかったため、綾芽も少し足を早めて希亜の後ろをついて行く。
 同時に、希亜が良く前置きとしてそう言うのを知っている綾芽には、今彼が説明することがらを組み立てているのだろうと思い、その口が開くのを待ってい た。
「結論から言えば、自分ではないと言う意味で他人なんですよね」
「えっと?」
 唐突に紡ぎ出された言葉に、綾芽はそんな生返事を返していた。前を行く希亜はいつの間にか背を向けたままふよふよと浮いている。
「だから、どんな言葉もあの人があの人なりに考えて、あの人の中で処理されます。だから、自分ではない他人の思考と言う意味でも、私とあの人は全く別の個 体なんですよね」
「…でも、それは当たり前のことだよね?」
「はい」
「そうじゃなくて! 親しい間柄なのに、どうしてパパにもっと優しくしないの?」
 ふわりと向きをかえ、綾芽に向き直った希亜は、真っ直ぐに綾芽の瞳の奥をのぞき込むようにして答える。
「優しくしているつもりですよ。ただ、甘やかしていないだけです。 …答えを与えてはいけないんですよ、答えは本人が導き出さなければ、何の意味もないで すから」
「だから… だからあの時『こっちから一方的に与えるのはだめなんです』って言ったんだ」
「もどかしいかもしれませんが、我慢して下さい」
「うん」
 再び隣り合って小道を進む二人、せせらぎの音色と、明るいまでの月光が二人が進む道を包んでいた。
「一つだけ教えて」
「なんでしょう」
「希亜は、パパがまた元のように、この九鬼神社に帰ってくることが出来るようになる方法を知っているの?」
「あの人で試していないので完璧ではありませんし、絶対でもありませんが、方法だけならありますよ」
「そっか、なら大丈夫だね」
 全く安心したその綾芽の声に、希亜の心の奥底が大きく軋んだ。
 彼の選択肢には完璧ではないが有効だと確証できる手段がある、だがそれを選ぶ事は今回はあってはならないと考えていたからだ。同時に綾芽に信頼されると 言う事について、希亜はその心の奥底で絶対否定をしていた。
 それが表情に出ていたのだろう。
 暗がりの中とは言え、月明かりに照らされた希亜のその表情を、綾芽は見ていた。
 それは昨夜の電話での、会話が途切れた件を話した時の希亜の表情。いつもののほほんとした表情ではなく、壊れそうな程に弱々しい表情。
 そして、今綾芽の前にいる希亜の表情も、月明かりの下とは言え、それと同じ物だった。
(こんな時だから、少しはお姉さんとして、守ってあげないと…)
 綾芽は思わずそう考える。
 一人分の綾芽の足音が、せせらぎの音色にリズムを刻む。そのまま何を言うでもなく綾芽は希亜の隣に来ると、黙り込んでいる希亜の手を取り力強く引っ張っ た。
 一瞬希亜の体がこわばるのも構うことなく、そのまま希亜を引っ張って行く。
「…聞かないんですね」
「うん、待ってあげる。聞いたら無理に話しちゃうかもしれないから」
「そですね」
 再び会話が途切れた。
 綾芽が引く希亜の手はとても軽く、伝わってくるその温もりが、鼓動が、自分の心音と重なってトクトクと伝わってくるのが少し恥ずかしかった。
 せせらぎの音色を刻む足音は、やや足早になり。それはやがで前方からの滝の奏でる荒々しい水音に、ゆっくりと溶け込む。やがてかき消される頃には、二人 の目には池の畔に落ちる滝の全景が入っていた。
「ゴメンね」
「い〜え、巻き込んでしまったのはこっちですから」
「うん」
 畔に立ち止まっている二人の前に、月光に蒼白映える滝が尽きることなく落ち続けていた。


 それから数十分後、リムジンは夜の高速道路を来栖川邸へと走っていた。
 後部シートに座る芹香の膝を枕に、綾芽が寝息をたてている。芹香が前に目を移すと、いつもと変わらぬ様子でセバスチャンが運転している姿がうかがえた。
(明日…)
 芹香は今日得た事をもとに、明日悠朔に選択肢を提示するつもりでいる。
 多分、朔が神社には入れない原因自体は、汚れと言える澱んだ力のなれの果てであろう。様々な方法でその汚れを落とせば、少なくとも今回は神社には入れる だろう。
 だがそれを行う前に、朔自身が力を制御できれば事は、もっと簡単にすむだろうし、これから先同様のことが起こっても、彼自身で管理できる。
 少なくとも芹香にとっては、朔に彼自身を知ってもらいたいし、その方が対処療法的な事を繰り返すよりは安全だと思えた。
 それに悠朔が陰陽師として道を進むのであれば、少しは芹香も力になれるかもしれない。そう思わないでもないが、そんな希望的観測は、ただ望むだけ無駄か もしれない。
 芹香とて彼を知りつくしている訳ではない。
 現時点では、まだ希亜の言葉よりは、自分の言葉はまだ届いていると信じるしかなかった。実際には芹香のそれは杞憂でしかないのだが、それを知る由もな く、不安という物は常に膨らむのだった。



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Ende