Page - Mr Hajime Haruka does not have a family. 2 days after.
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2 days after.


 翌朝、一時限前。
「遅いなぁー」
 希亜からの報告が聞きたくて、比較的早くに登校した綾芽だったが、当の本人はまだ来ていなかった。
 そろそろ授業開始という頃になって、心配になり窓の外に視線を移すと、ふよふよと逆さまに浮いたまま近寄ってくる希亜の姿が見えた。
「危うく遅刻するところでしたぁ」
 のほほんとそう言って、綾芽によって開けられた窓から、何事もなかったかのように室内に入ると机の上に鞄を置いた。
「本当だよ。わたし早めに来て待ってたのに」
「それは、ごめん。夜に九鬼神社から家に戻って、朝寮によってすぐ来た物ですから」
 二人隣り合って席に着き、希亜は鞄から教科書を取り出しながら、ばつが悪そうに答えた。
「はじめさんの所から? じゃあパパに何かあったの?」
「その事については後で話しますね」
「うん」
 今すぐにでも聞きたい綾芽は、取りあえず授業に集中しようと、チャイムより先に入って来た教師を見て思うのだった。

 とは言え、今の綾芽にとってこの事が気にならない訳はなく。
「ねぇ、昨日何が分かったの?」
 授業が始まって少しした頃、教師が黒板に向かってチョークを走らせる音に紛らせるように、綾芽は小声で訪ねていた。
「詳しくはこの後で。彼にとってはともかく、少なくとも私にとっては重大なことですよ」
「? 希亜君にとっては重大な事?」
「はい。 …あの人から家族という物を、これ以上遠ざける事は避けたいですから」
 言いながら希亜の脳裏には、はじめが朔の事を嬉しそうに話す姿が、ありありと思い出されていた。
「えっと、パパはじめさんと会えないの?」
「正確には、九鬼神社に入れないんですよ、別の場所に飛ばされるらしくて…」
「ええーーーーーーーーーっ!!」
 それまでは、小声で話していたのだが、つい綾芽は声を上げていた。
 教室中の視線を浴びる綾芽は思わず教卓の方を見たが、視線の先に教師は見えなかった。
「あれ?」
 不思議に思ってそう言った直後。希亜と綾芽は丸められた何かで頭を叩かれそれぞれに声を上げた。
「何を話しているかは聞かないが、授業中は私語を慎むようにな」
 二人が振り返り見上げると、そこにはこの授業担当の山岡先生が、丸めた指導用の教科書を手に、呆れ顔で二人を見下ろしていた。
「じゃあ弥雨那、教科書26ページ読んでくれ」
「あ、はい」
 言われて希亜はその場で立ち、教科書を広げ読み始める。
「ごめんね」
 と小声で希亜に言ったのだが、当の希亜には綾芽の声は届かなかった。


「それで、詳しく聞かせて?」
 ようやく授業も終わり、綾芽は教科書を片づける事もせず、希亜に問いかけていた。
「取りあえず神社の木々と話して得たのはさっきの事が全てですよ」
「パパが九鬼神社には入れないって事?」
「はい、どうも御神体からその力が出ているんですけど、動機が分からないので対処法も探している所なんですよね」
「えっと、動機って御神体の?」
「そうですよ」
「……えっと御神体って生き物じゃないよね?」
「はい」
「なんで『動機』なの?」
「つくもがみって知ってます?」
「えっと、長生きした道具が妖怪になったっていうあれ?」
「はい。それと同じとは言いませんが、同じように意識を持っていると推測しますから」
「じゃあ、その御神体と話してみたら良いじゃない」
「あ……」
 そう唐突に声を上げたまま希亜は固まった。
「えっと、もしかして…」
 綾芽の声に希亜はジト汗をかきながらも固まっている。
「忘れてたんだ」
「あう〜〜。今日試してみます」
 がっくりとうなだれながら返事を返す希亜だった。
「ちゃんと調べてくるのが、希亜君の役目でしょ?」
「役目ではないですけどね」
「じゃあ、どうしてパパの事心配するの?」
「そですね。やっぱり身近な人ですし、なにより…」
「なにより?」
「見ていたいんですよ」
 希亜の言葉に、要領を得ないとばかりに試行錯誤する綾芽は、自分の中にある言葉で問いかける。
「…希亜君ってパパの事好き?」
「私が好きなのは綾芽さん、あなたです! どうしてあの人の事が 出て 来…」
 当然のごとく言った希亜だったが、それが爆弾的な発言だったことに気付くと、一気に顔が火照ってくるのを感じ、それ以上言葉を続けられなかった。
「えっと、その」
 赤くなって戸惑う綾芽と、真っ赤になったまま固まっている希亜。
 周囲の視線を集めて、しばらく動かないと思われた二人だが、ラウンド終了のゴングのごとく鳴った予鈴により、二人ともとりあえず気を取り直した。
「話は前後しますが、私はあなたのことが好きです。だからあの人の事であっても、あなたの笑顔を曇らせたくないんです」
 それは、いつもより小声で呟くような言葉だったが、普段から芹香の声を聞き慣れている綾芽にははっきりと聞こえていた。
「嬉しいけど、わたしだって心配してるよ。でも、だったらなおさら希亜だけに任せたくないよ」
 希亜の視界の中央にある綾芽の瞳はいつものように澄んでいた。その中に一つの真っ直ぐな意思を感じた希亜は綾芽のその姿勢を快く感じていた。
 ふっと、希亜の表情が軟らかい笑みを帯びる、決して嫌みな物ではなくむしろ暖かい物なのだが、何となく笑われたような気がした綾芽は声を上げる。
「わ、笑わないでよ。真剣なんだから」
「ええっ!? そう言うつもりはなかったんですよぉ」
「じゃあどういうつもり?」
「あなたの心の姿をその姿勢を快く思ったんです、決して嘲笑しているわけではありませんよ?」
「そ、それは分かってるよ。でも、こんな時に笑うのはおかしいよ」
「そですか?」
「そうよ、それよりパパの事はどうなるの?」
「それですけど、状況はあんまり良くないです」
「どういう事? 詳しく説明してよ」
「観測した事象は、全て話しました。 今は同じような例が無いか九鬼神社の文献を調べているところです」
「行き詰まってるの? それに文献なら私にも手伝えるよ」
「お願いしたいですが、来栖川の家の方は良いのですか?」
「あ、何とかお願いしてみるね」
「はい」
「他にわたしに何か出来る?」
「そですね、とりあえず余計な情報であの人を混乱させない必要があるくらいですか。ですから、私が調べている事は秘密ですよぉ」
「ママや芹香さんには話しちゃったけど…、良かったのかな?」
「んー、芹香さんは構いませんが、綾香さんはどうでしょう、何か言っていましたか?」
「芹香さんと希亜の、どっちが先に解決するか楽しみにしているみたいだけど」
「傍観者。 …ですか」
 実際にはどうなのだろうかと思う希亜だが、今回の件に関わる全てに介入する必要性も感じなかったため、そう呟くように言い捨てたのだった。
「でも。パパの事、心配している事はしているみたいだけど…」
 それは、そう思いたいという綾芽の願望も入った言葉だった。
 綾芽の記憶にある昨晩の綾香は、心配しているというよりは、ただ気にはとめている程度にしか見えなかった。「また面倒な事になったわね、でも姉さんがい るなら大丈夫でしょ」と、姉のことを信頼していると言えばそれまでなのだが、綾芽にしてみればもう少し心配してほしいと思うのだった。
「…でまぁ、時間さえかければ、あの人にも解決できるかもしれませんが、それでは手遅れになる。かもしれませんけどね」
「じゃあ急がないといけないんじゃないの?」
「事象の動機、あるとすればですが。その推移も結構不明ですからね、何とも言えないのが実状です」
「わたしも協力するから、がんばってね希亜」
 そう綾芽が言った直後、突然希亜の表情が凍った。
 綾芽には、希亜が何かに脅えるようにも見えたが、ゆっくりと表情が戻ってくる。
「どうしたの?」
「…あ、うん」
 歯切れ悪く戸惑ったような様相を見せながら返事を返した希亜に、疑問を感じた綾芽は、また何か隠していないかと思い、問いかける。
「まだ何かお姉さんに隠してない?」
「いえ、なかなか慣れられない物ですから」
 希亜は真っ直ぐに綾芽を見ながらに答えた。言葉からは隠し事は隠し事かもしれないが、今回の件とは関係の無い、希亜自身の事に思えた。
「…えーっと、何かあったの?」
「少し…」
 きーんこーんかーんこーん。
 会話をかき消すように鳴るチャイムが、希亜の言葉を押しとどめた。
「…先生、来るね」
「この話はいずれ後ほど」
「うん」
 とりあえず二人は他の生徒と同じように次の授業の用意を始めるのだった。


 お昼休み、校舎屋上。
 時折陽光が差し込む曇り空の下、いつもより少し少ない程度の人数が屋上でお昼の一時を過ごそうとしていた。
 重い扉を開き、いつものように弁当を持って来た綾芽は、すぐに綾香と朔の姿があるのを見つけ駆け出した。
「ママー! パパー!」
「あら、遅かったわね綾芽」
 朔はいつも通りやや不愛想に「よう」と挨拶をし、芹香を見ていないかと訪ねていた。
「芹香さん? 学校では見てないよ」
「そうか」
「昨日の事?」
「ん、ああ」
「昨日の事って?」
「えっと、パパが実家に帰れ無いって事なんだけど」
「ああ、昨日姉さんが調べに行ってたわよ」
「それで?」
「詳しくは聞いてないわ、姉さんも学校にいるはずだから直接聞いた方がいいんじゃない?」
「そうだな」


 部活棟内廊下。
 漫研でお茶のセットを入れたバスケットを手にした希亜は、何となく呼ばれたような気がして、いつもとは違い窓の外へと飛び出ずに、誰もいない廊下に出て いた。
「なぁ?」
「はて、何で廊下に出たんでしょう」
 そんなふうに使い魔の子猫クラム共々自問自答した希亜だが、とりあえずいつもの屋上に向かって歩き出す。
 不意に制服の袖が、クイクイと引っ張られた。
 誰が引っ張るのかと振り返った希亜の視界には、誰もいなかった。正確には袖を引っ張れるような距離にいる人物は誰もいなかった。
「何でしょう」
 不思議に思った希亜の袖が再びクイクイと引っ張られる。
「! 誰ですか全く」
 カチンときた希亜は、そう言って振り向くことなく、一気に魔力を爆縮させ、彼の言う精霊と語る魔法を発動させた。
 すぐに入って来たのは、芹香の驚き戸惑っている視線の情報、しかも真後ろからである。
「え〜とぉ、もしかして?」
 言いながら振り返った希亜の視界に、何故かブイサインを出してこちらを見ている芹香の姿が入った。
 カチンときたのもどこかへ飛んでしまうほどに脱力した希亜を前に、そのまま芹香は口を開く。
「このまま悠朔さんの所へ行きましょう。それと、昨日の調べ物の方はどうなりましたか?」
 魔法の効果で、芹香のこちらに向けられた意識と、その声を同時に聞き感じることで、相手の言葉を反芻せずに希亜は相手の意思を理解できていた。
「昨日の方は、質的にはあまり進んでません。文献の量が半端では無いのもあるのですが、怪異に関する文献自体が無いような感じも受けます」
 芹香の意識が、こちらに向いて語りかけているからこそ理解できるという点もあるが、いちいち反芻するよりは効率の良い有効な手段だった。
 二人は悠朔達の待つ、校舎の屋上へと歩き出す。
「それと、綾芽さんですけど。来栖川家の許可が下りれば、文献の閲覧を手伝ってもらえるそうです」
 希亜の言葉に、一瞬芹香の驚いた思考が希亜に届いたが、次の瞬間には普通に戻った。
「あの子なりに、何か出来ることをしたいのでしょう」
「そう思います」
「では、綾芽の事はよろしくお願いします」
「無論です。でも、それは来栖川家の許可が下りてからですけどね」
 そこまで言い、校舎間の渡り廊下にさしかかったところで、会話が途切れた。
 芹香から希亜に向けられた意思も無かったため、魔法を使っている希亜にも沈黙しているように感じた。
 渡り廊下を半分ほど進んだだろうか。彼女は再び口を開いた。
「今回の件ですけど、ちゃんとした対処法は取れないかもしれません」
「ん〜、要因は悠朔さんの方ですか?」
「はい」
「個人的には、あの動向も気になるんですけどね」
「…そうですね」
 再び会話が途切れた、二人は階段をゆっくりと登って行く。
 あの動向というのは、仮眠室の主ルミラの事である。
 それは魔女の礼儀の下、特に誰が主張したわけではないが、結果的に芹香の庇護下にあった朔。それをルミラは、希亜の庇護下だとも取れる言葉を朔が主張し たことを良い事に、希亜の庇護下に置かせたのだった。
 だが希亜にも原因がないわけではない。
 朔の近くにいる魔女の系譜の者であり、専門的でなくとも魔女に関係する話題においては最も多く朔と会話を持っていた。結局その事が仇となり、朔は何も知 らないまま、ルミラは希亜に朔を押しつけ、自分は高みの見物を決め込んでいる。らしい…
 実際問題この学園内に限定して、単純にその力で魔女の順位を付けたとすると。希亜とルミラでは比較する必要もないくらいに、その差は開いている。
 そこに芹香の順位を組み込んでみても、単純に事態が好転するほどの力は芹香にはないだろう。芹香と希亜は人間であり、ルミラは魔族であるが故に。
 だからこそ希亜は芹香に朔を譲渡するのではなく、朔に自分が芹香の庇護下にいる事を主張させようと、もしくは芹香に朔を奪ってもらおうと考えていた。少 なくとも芹香は希亜より上位にいるのだから、少しはルミラの目を楽しませるのではないかと、そう考えていたのだ。
「とは言え、原因を作ったのは私でもあるんですが… あの人の相手は疲れます」
「私がしっかり主張していれば、こんな事にはならなかったはずなのです」
「それは、どうでしょう。あの人は例えあなたでも信頼することはないと思いますよ、信用することはあっても…」
「それはどうでしょう」
「自信があるんですねぇ」
「はい」
 もう屋上に到達しようとした頃、希亜は足を止め芹香に向き直り。
「今回の件、あの人の前ではとりあえず蕗の葉の裏に入っておきますね」
「いいのですか?」
「届かない言葉を、言葉で無理に届けるのは危険ですから。それに本来はあなたがあの人の庇護者なんですよ、たとえ形式的であっても、私から奪い返して下さ い。あの人の言葉によって」
「せっかく、楽になったのに。 残念です」
「え? 芹香、さん?」
「冗談です。それよりも希亜さんは、早く綾芽を私から奪い取って下さいね」
「あ…… 善処します」
「もう少しなら待っててあげます、かわいい妹が二人いるみたいですから。あ、でも希亜君が綾芽と一緒になったら、かわいい妹が三人になるんですよね、楽し みにしてます」
「…え〜っと、私男ですよぉ」
 隣で微笑を浮かべている芹香に、希亜はからかわれたんだなと思いつつ、同時に芹香の微笑に綾芽の姿をだぶらせていた。
 すっかりそちらに気を取られていたからだろうか。
 次の瞬間、希亜は閉まっていた屋上への扉に頭から衝突した。どうやら開いていたものと勘違いしたらしい。


 屋上の入り口の扉が、大きく鈍い音を響かせた。まるで何か大きな物がぶつかったようなその音に、皆が反射的に視線を走らせていた。ややあってその屋上の 扉が開かれ、芹香の姿が朔の目に入った。
「来たようだな」
「あ、本当だ」
 二人の視線の先、芹香が振り返った視線の先、希亜がよろよろと頭を押さえながら屋上に出てきた。
「さっきの大きな音って…」
「…あいつだな」
「ドジねぇ」
 綾芽、朔、綾香はそれぞれにそう言うと、こちらを向いた希亜と視線が合った。
 涙目の希亜はそのまま歩いてくると、黙ってバスケットを置き。
「保健室に行って来ますね」
 そう言って、やや急いでこの場から飛び出していった。
「大丈夫かな」
「ぶつけただけだろ、すぐ戻ってくる」
「前に言ってたんだけど、浮いているときにぶつかると、全体重が乗りやすいから大けがしやすいんだって」
「言われてみると、ずいぶん大きな音がしたわね…」
「心配だなー」
「だったら行って来たら? 第二だと思うけど。今なら二人っきりになれるかもよ?」
「マ、ママッ!!」
「そ、そんなに大声で言わなくても」
「ぷーーーーーーっ!」
 ふくれっ面で綾香に講義する綾芽だったが、何となく行きそびれてそのまま昼食を取ることになった。
 それぞれに箸を付け始め、いつものように昼食が始まる。
 その中、綾香は希亜の持ってきた麦茶を飲み干してから訪ねた。
「ところで悠朔、実家には帰れそうなの?」
 綾香の視界に入ったままの朔は一瞬凍り付いたが、綾香が自身に起きたことに気付く可能性に思考を向けた直後に、質問によって返事を返していた。
「何処でそれを?」
「あのね、姉さんが調べているのに私が知らないわけ無いじゃない」
「そうか…」
 情報がだだ漏れじゃないか、と内心愚痴る朔。
「綾芽も希亜も心配しているんだからね」
「綾芽は当然としても、何故あんな奴に心配されなければならないんだ?」
 朔にとって綾芽が自分の事を心配することは想像出来るが、希亜が自分のことを心配するのは、どうしても想像できなかった。ただ、心配している振りは想像 できたが。
「あらあら、酷い言われようね」
 朔にとって希亜の存在は、足として使える寮生、自分に近寄ってくる物好き、からかって楽しい玩具、事実より誇張を好む口やかましい奴、陰湿な魔法使い等 々。並べれば切りはなかったが、少なくとも自分の事を理解できるような相手ではないと割り切っていた。
 第一、朔に対して本心を語ったと思われることが一度もない、そう朔が記憶している辺りが、朔にとって希亜の人物像を決定づけていた。
「あいつが側にいると、気のせいかいつも悪寒のような物を感じるんだ」
と、そこまで言って。ふと先程はどうだったかと思い返す。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
 何も感じなかった。
 と、記憶が告げるが、その記憶すら何かあやふやな物に感じていた。実家が廃墟になっていたというあの衝撃が大きすぎて、今の朔にはその事は些細なことで あったらしく、そんな記憶は既に頭の中には残っていなかった。




 放課後、第二保健室。
 お昼休みにここに来た希亜は、若干出血していたために頭に包帯を巻かれていた、そしてそれを良いことにベッドの上で放課後まで睡眠をとっていたのだっ た。
 カーテンが開けられ、声が掛かる。
「どうします?」
 看護師の桑島高子が、ぼんやりと天井を見上げていた希亜にそう問いかける。
「そですねぇ、そろそろ行きます」
 ふわりと上体を起こした希亜、その頭部に巻かれている包帯に手を掛けた高子は、そっとそれを取り払い傷を確認する。
「もう一度ガーゼを換えておくわね」
 そう言って素早く体液の着いたガーゼを取り、消毒をしてガーゼを乗せ包帯を巻いて行く。
「明日までには、傷口はちゃんとふさがると思うけど、髪を洗うときは注意して下さいね」
「はい」


 その頃、第二保健室前の廊下へと来た綾芽は、保健室へ戻ろうとしている保険医、石原麗子の背を見つけ声を掛けた。
「私?」
「あ、はい」
 麗子が振り返って声を掛けた相手を見る。学校でよく見かける巫女、と一瞬思考が逸れるが、すぐに持ち直した。
「何か用かしら?」
「はい、第二保健室に希亜、…弥雨那君、来てませんか?」
 慌てて言葉を続けた綾芽を気にするでもなく、麗子は昼休みに治療した相手の名前を思い出し、次いで下駄箱へと視線を移し、彼の靴があることを確認した。
「あの子ね、来てるわよ。まだ靴があるから」
 そう言って保健室前の下駄箱を指さす。そこには希亜がいつも履いているトレッキングシューズがあった。
 そのまま二人はそれぞれに履き物を脱ぎ保健室の中へと入る。
 すぐに麗子は棚に包帯を戻している高子を見つけ、声を掛ける。
「高子さん、弥雨那君の様態は?」
「今ガーゼを換えたとろです、明日までには傷口はちゃんとふさがりますね」
「そう、弥雨那君聞こえる?」
「はい」
 カーテンの向こうから返事が聞こえる。
「今日はお風呂に入っても良いけど、念のため髪は洗わない事、いいわね」
「はい」
「それと、彼女が来てるわよ」
「ええっ!? 間違っても今入ってこないでよぉ」
 カーテンの向こうで情けなく慌てる声が聞こえる。
 服装を正しているのか、幾つかの衣擦れの音の後、カーテンが開かれた。
 制服の上に、いつもの背中で大きく割れた濃紺のマントを羽織り、同じく濃紺の背の高く鍔の広い帽子をかぶった姿がそこにはあった。その帽子のせいで包帯 は上手く隠れている。
 綾芽はその希亜の姿を見てカチンと来た。
 希亜が頭を怪我しているのは、お昼のことを見ている綾芽には分かっていることで、頭に包帯が巻いてあろうと、心配こそすれ、怒ることではなかった。
 だが目の前の希亜は、その頭に巻かれているだろう包帯を、隠すように帽子をかぶっているように見えた。希亜が隠し事をしている、そんな気がして許せな かった。
 同時に、お昼から何の連絡もないまま放課後まで過ごしたことが、綾芽の不安を募らせていたのも、怒りを大きくさせた要因だった。
「では、行きましょうか」
 そう言ってこちらに向かって歩き出した希亜に、綾芽はズンズンと近寄りその帽子を素早くひっぺがした。
「あう…」
「やっぱり…」
 希亜の頭に巻かれた包帯を見た綾芽は、その帽子を握りしめ。
「希亜! どーして隠すような事するの!?」
 そう声を上げていた。
「綾芽に心配をかけたくない。それに、時間もそんなに余裕があるわけじゃないから」
「心配をかけたくないんなら、隠すような事しないで! 急いでいるからなんて言い訳しないで!」
(修羅場ね)
 麗子は目の前の出来事に、まるで昼の再放送のTVドラマでも見るような、そんな現実感のなさを感じていた。隣の高子はスッと二人の側によると、
「二人とも、その辺りでいいかしら?」
 そう言いながら二人の肩に手を置く。
「あ、…ごめんなさい」
「すみません」
「若いんだから、ぶつかるのはしょうがないけど。それで仲違いしたらつまらないわよ」
 二人はおとなしく麗子と高子に謝ると、そのまま保健室から出て行くのだった。
「いいですね、ああいうのも」
「そうね」
 一騒動終わり、静になった保健室のイスに腰掛けた麗子は、窓の外から入ってくる運動部の音をノイズに先ほどの事を思い出す。
(若いって、いいわね。 ……私は年寄りじゃないわよ!
 ただちょっと相手がいないだけで… ってそうじゃなくて、私は…)
 そんな思考の袋小路にに陥っていた。
 高子が二人分のコーヒーを作って戻ってきたときには、麗子が机に突っ伏した姿があったという。


 放課後、オカ研内の小部屋。
「やはり、オカルトだったのだな」
 コクコク。
 朔は「むう」と唸り少し考えてみる。
 現在独学中とは言え、少なくとも自分は陰陽師であり、今回のようなオカルトとも言える怪異に対する能力は、無いわけではないはずだと思うだけに、少しば かりショックだった。
 視線の先の芹香先輩は、机の上でタロートカードをくるくるとかき混ぜている。左手で何かカードとは別の何かを引き込むようなその仕草に疑問を持ちつつ朔 は問いかける。
「何を占うんだ?」
 芹香は朔の問いに気付かないのか、ずっとくるくるとカードを混ぜている。
 やがてその手が止まったかと思うと、カードはくるくると渦を巻くように集まり、きれいに彼女の手の下に一つの山を作っていた。
 その山の上からカードを一枚、伏せたまま朔の前に置いた。
「……このカードを捲るのか?」
 フルフル。
「え? …カードが迷っています?」
 コクコク。
「…一つお話ししておかなければなりません? 何をだ先輩」
「…以前ルミラさんに何かされませんでしたか?」
 そう反芻して、記憶をたどる。
「何かとは?」
「え? …話したくないのなら、お話はここまでです? 先輩?」
 朔は芹香の真意を掴みかねるどころか、全く分からなくなっていた。
「待ってくれ、話したくない訳じゃない。思い出せないんだ」
 少なくとも、先程までは昨日相談した実家の件の結論を聞きに来た訳であるし、事実それらの現象がオカルトに属することだとの結果を聞いた訳だった。
 だから突然に話題を変えられても、そう簡単には思い出せないでいた。
「…それなら仕方ありませんね?」
 コクコク。
「誤解が解けて助かる。それで、先輩は何がしたいんだ? それが分かった方が答えやすいと思うんだが」
 そう申し出た朔だが、芹香はフルフルと頭を横に振り。
「…それが分かってしまえば、答えが歪んでしまいます?」
(どうしろと言うんだ)
 そう内心毒づきながら、朔はルミラと関係するだろう記憶を思い出そうとしていた。
 思いだそうとして、そう時間が掛かることなく、弾けるように記憶は引き出された。
「いつだったか、呪詛を解いてもらったことがあった」
 それがいつの事だったか思い出せなかったが、自分にかかっていたそれを解いてくれた事を、断片的に思い出していた。
「え? その時に致命的な言葉を言っていました? 俺が!?」
 コクコク。
「…そしてその言葉がもとで、あの子があなたを庇護下に置かなければならなくなりました? 一体何の話だ?」
「魔女の礼儀ニャ」
 人の物ではない異質な声が朔の耳に届いた、見るとそれまでじっと芹香の膝の上で丸まっていたエーデルハイドが、その頭を上げ光彩のやや開かれた目を朔へ と向けていた。
「何だ、それは」
「魔法使いの間で交わされる、暗黙の取り決めのような物ニャ。これは人につく魔法使い、まぁ魔女に多いから魔女のと言われるんニャが。それらの間での約束 事ニャ」
「具体的には?」
「ある魔女がある人物についていたとするニャ、その人物は別の魔女について欲しくないと考えたニャ。そこで魔法効果的にその人物がその魔女のものであると 主張するわけニャ。それを他の魔女も守ると、それが魔女の礼儀の考え方ニャ」
「つまり所有物だと宣言し、他からの干渉を避けるのだな?」
「だいたいその通りニャ」
「待て、だとすれば俺は誰かの所有物、という訳か?」
 芹香はコクコクと首を縦に振り。エーデルハイドは興味を無くしたのか、再び芹香の膝の上で丸くなった。
 逆鱗に触れるという事がある。
 手をテーブルに叩きつけ、否定する怒号を芹香に叫びつけていた事に気付くのに、当の朔ですらしばらく掛かっていた。
 自分の行為に気付いた朔は、一度深呼吸をして席に座り直した。
「すまん、貴女に当たっても仕方がない事なのに」
 何とか落ち着いた朔は、深めに呼吸を取り再び内心の高まりを押さえつつ、再び先輩へと向き直る。
「え? もともと先輩の庇護下にあった!?」
 朔は頭の中が白くなった気がしていた。血が上った頭がそのまま吹き飛んで行くような衝撃を受け、思考自体を失っていた。
 気がつくと今まで自分と芹香と膝の上の猫しかいなかったはずの小部屋に、何人かのオカ研部員が入って来ていた、どうやらさっきの怒号を聞きつけて慌てて 入って来たらしい。
「大丈夫ですか!?」
 慌てる部員に、芹香は落ち着いた様子でコクコクと答える。
「何があったんです?」
 やや遅れて入って来た神海が改まって芹香に尋ねる。
「俺が少し取り乱しただけだ」
 芹香が答えるより早く朔が答える、僅かに言葉にこぼれ出る怒気を感じた神海は朔へと向き直り。
「芹香さんに…「それはない、恩義を感じている相手に何故そんなことをする必要がある」
 万が一危害をくわえればと、言葉を続けるつもりだった神海の言葉は遮られた。
(こうもうるさくては、続きは無理だな)
 そう思った朔は、その場に立ち上がる。
「このままいても立場が悪くなりそうだな、続きはまた明日にでも」
 そう言ってさっさとオカ研から退散して行く朔を見送り、やがて安心した部員達もそれぞれに戻って行った。
 一人になった室内で、テーブルの上に伏せられたままのカード。
 そのカードが落ち着いたのに気付いた芹香は、そっとそのカードを手に取りくるりと開くのだった。


 部室棟内の廊下を、取りあえず自分の所属する部活である、情報特捜部へと向かう朔は、芹香の言葉を考えていた。
 彼女は何かを伝えようとしていた。だが自分が、一瞬とはいえ我を失うほどに激怒したために、機会を逸する事になった。
「過ぎた事は仕方ない、また明日にでも話の続きを聞くとして」
 もう一つ考えなければならないのは、現在自分が魔女の礼儀の下に「あの子」と芹香が呼ぶ人物の所有物である事だった。「あの子」とは誰なのかと考えよう として、脳裏に希亜の姿が浮かぶ。
 朔は希亜に対し、魔女の系譜と自称する変人、取りあえずそう言う認識を持っている。
 だが朔の知る限り、希亜は人につくタイプの魔女ではない。どちらかというと飛行技術系に特化した魔法使いである。綾芽と一緒にいる事に時折気になること もあるが。少なくとも自分の近くにいる魔法使いで、会話もなきにしもあらず… いや魔法使いの中ではもっとも喋っている相手だと言える。
「待てよ…」
 思い起こせば、ルミラと話した言葉の中で、希亜の言葉を引用した物があった。
 それは「悪魔や魔女と呼ばれる者達は、貴方にとっては天敵なんですよぉ。だから、耳を貸したりしてはいけません。もし一度心を許したらなら、骨の髄まで 破滅に沈められますよぉ」というもので、省みれば魔女やそれらに類する物に対する際に、最も心がけている事項だった。
 頼んでもいないのに守られること自体、自己の自立性の否定と受け止める朔には。恩のある芹香は若干別としても、誰かに守られている事自体、既に生理的嫌 悪の領域であった。
 希亜の事を確かめるのは簡単だろう、本人に直接吐かせればいい。あの一見我を張ってはいるが気弱な性格なら、吐かせるのはたやすい。
 そうと決めた朔は希亜を探すべく、一路漫研へ向かうのだった。


「自分は守られなければならないほど弱いのか?」
 この問いに朔ならば、脊髄反射的に否決するだろう。それは自己の能力に対する高い自身と信頼、そして若さから来ている物だと言える。上には上がいるとし ても、確かに彼は強い、その事をだれも否定はしないだろう。

「自分は守られなければならないほど弱いのか?」
 この問いに希亜ならば、少し考えた上で肯定するだろう。それは彼自身、自分がこの世界でいかに小さく臆病で弱い物だと認識しているから。そして、そう思 い込むことも若さの現れであることを、彼を知る者は否定しないだろう。


 保健室を後にした二人は、そのまま校舎の外へと出ようとしていた。
 唐突に綾芽が立ち止まる。
「あ、ゴメン希亜」
「なんですか?」
「うん、わたしセバスチャンさんに許可もらわなきゃいけないの忘れてた」
「そですか。ではあちらへ行きますかぁ」
 希亜はそう答えながら、綾芽の背後を指さした。
「え? 何?」
 不思議に思った綾芽が、振り返ってその方向を見ると、ちょうどセバスチャンが廊下を向こう側へと歩いているところが見えた。
「ちょっと行ってくるね」
 そう言って、そのままぱたぱたと綾芽は駆けだして行く、希亜も「はい」と返事をして、その後をゆっくりとした足取りで追いかけるのだった。
 そうして校内の比較的保健室に近い場所で綾芽はセバスチャンを捕まえ、九鬼神社への外出許可を得ようとしていたのだが。
「なりません、綾芽様」
 やんわりと、同時に迷いのない口調でセバスチャンはそう答えていた。
「どうしてもダメ?」
「どうしてもです。第一綾芽様に何か間違いがあれば、このセバスチャン、綾香様や芹香様に顔向け出来ません」
「ごめん希亜…」
「仕方ないでしょう、こればかりは。 …そですね、では朔さんの方の対処は任せます、私は九鬼神社で調べ物の続きをしますから、何かあったら神社の方に連 絡下さい」
「うん、ごめんね」
「小僧も調べ物か?」
「希亜です」
 セバスチャンの質問に「まったくしょうがないですねぇ」とでも言うかのように、希亜はのほほんと自分の名を告げた。
「む、では希亜も九鬼神社で調べているのだな?」
「はい」
「では、綾芽様の方は良いのだな」
「仕方ないでしょう、出来れば事は急いだ方がいいのですが… ですから、よろしくお願いしますね」
 そう言って窓を開けると、ふわりとそこから飛び出し、箒に跨ると同時に空高くへと吸い込まれるように消えていった。
 飛び出していった希亜に手を振っていた綾芽は振り返り、もう一度問いかける。
「ねぇ、どうにもならないんですか?」
「即答は出来かねますので、ひとまずは断っておきました」
「そんなぁ」
「申し訳ありません。ですが、万が一間違いがあっては…」
「う、うん。ごめんなさい」
「では、これから綾香様の所へ伺いに行ってみましょう」
「はい」
 セバスチャンは綾芽を伴って、綾香のいるだろう格闘部の道場へと向かうのだった。


 校舎の外れで背を向けて歩いている朔の姿を見つけた綾芽が、朔に駆け寄る。
「パパ」
「ああ、綾芽か」、
 呼ばれて朔が振り向くと。綾芽のともう一人、セバスチャンの姿が見えた。
「どうしたのパパ?」
「いや… 希亜を見なかったか?」
「え? …ううん、見てないよ」
 一瞬綾芽が返答に戸惑ったのを見抜いた朔は、そのまま綾芽の目をじっと見据える。
「パパ?」
「何か、隠してないか?」
「な、何も隠してないよ。希亜君が放課後何処に行ったか、なんて知らないもん」
「そうか、では質問を変えよう。希亜は何をしている?」
「えっと、その… 調べ物だよ」
「調べ物か、あいつが調べるんだから、魔法とかの物なんだろうな…」
 そう言って、朔は今までじっと見据えていた視線を、何事もなかったかのように外し、やや大げさに考えているような振りをする。一度話をそらせて、誘導尋 問に切り替えようと思ったのだ。
「ううん違うよ、九鬼神社の資料だって」
 だが綾芽はそんな朔の思惑などお構いなしに、まるで反射的にそう答えていた。
 朔は拍子抜けした。一気に脱力するような気分を味わいつつ、あまりにも簡単に隠したいだろう事を暴露した綾芽に、朔はそう思わざるを得なかった。
「あ… え! あ、あう… ご、ごめん希亜ぁ〜!!」
 ようやく気付いたのか、慌てる綾芽に、朔は絶対に隠し事出来ないやつだよなと、拍子抜けしたまま半ば哀れみをもって、
「あーそうか、悪かったな…」
 そう、言うのだった。
「綾芽様、先に綾香様の所へ」
「うん。 …いいの?」
「はい、私もすぐ行きますゆえ」
「えっと… じゃあ、先に行って待っているね。じゃあねパパ」
 そう言って綾芽はやや逃げるようにではあるが道場の方へと早足で歩いて行った。
「何か用か?」
「芹香様から伺ったが、不甲斐ないな」
「何だと!?」
「不甲斐ないな、と言ったのだ。どうやら少し過大評価していたようだ、これからは少し改めるとする」
 それだけを言って、セバスチャンは綾芽の去った方へ、悠然と立ち去って行く。
「不甲斐ないって、仕方ないだろう。俺はこっちの方じゃ経験なんて無いんだからな」
 そう愚痴をこぼす。
 実際朔自身、自分が確実に関わらなければならない怪異はこれが初めてだった。
 とは言え、今まで何もしなかった訳ではない、自分なりに陰陽道に関する文献を読み、いろいろと試して来た。
 そして、今回の件に関して、自分に何が出来たろうかと思い返す。
 確認できたのは、自分が神社から隔離された事が分かった程度だ。それは現象でなく、現象の結果が分かったに過ぎない。
 方程式の答えが分かった程度では、方程式を理解したことにならいのと同様、この現象において何一つ分からないことに等しい。
「希亜は神社か…」
 そう自分に言い聞かせるようにして思考を変える。
 九鬼神社に入ることが出来ない現在、希亜とコンタクトを取るのは無理だろう。
 ならば、帰ってきたところを捕まえればいい。
 少なくとも最も自分にとって行いやすい方法で、このオカルト的な事象ついての情報を得られるなら、楽な物だと朔はそう考えるのだった。

 足早に綾芽の後を追いかけるセバスチャンにしても、本心から朔のことを不甲斐ないとは思っていない。
 彼はまだ若く、青い。
 冷めた鉄よりは熱い鉄の方が加工しやすいのに同じく、彼に対してハッパをかけたに過ぎない。
 少なくともセバスチャンの得た情報では、この事項は彼の全くの範疇外であり、その事で少々手間取るとしても、芹香も乗り出したこの事項が解決しないわけ はないと確信しているからだ。


 九鬼神社、敷地内。
 境内から少し離れた山の中に降り立っていた希亜は、そのまま歩いて境内へと向かっていた。
 傾き始めた日差しが、やんわりと差し込む森を抜け、境内へと出て辺りを見渡す。
 既に掃除は終わっているらしく、人影無いのを確認してそのまま拝殿へ向かった。
 拝殿の正面に立ち。魔法使いとしての正装を纏っている希亜は真っ直ぐに言葉を投げかける。
「何を望みますか?」
 そう呟いて魔力を爆縮させ、彼の言う精霊達と語る魔法を発動させた。
 拝殿の向こうにある本殿の中、その中にあるだろうご神体に向けてもう一度問いかける。
「悠朔君について、貴方は何をお望みですか?」
 境内に言葉が広がる。
 それから十秒、二十秒と待つが、相手は沈黙を守っている様に感じた。
 さらに一分が経ったろうか、だが希亜はそのまま動くことなく、ご神体からの返事を待つ。
 希亜に入ってくる数々の意識の中に、ご神体と思われる物自体はあった。だがそれは沈黙を守り何も語らなかった。
「そですか…」
 残念そうに希亜は呟くと、魔法使いとしての正装のまま、社務所兼住宅の玄関へと足を進めるのだった。
「なー」
「うん、とりあえずは昨日の続きだよ」
 そう肩にへばりつくように寝そべっているクラムに答え、呼び鈴を押した。
 ピンポーン、と鳴らしてから数秒後、中から足音が聞こえ、玄関の戸が開かれた。
「いらっしゃい希亜君」
「はい、またお邪魔し…」
 見上げたはじめの顔に、疲れを見つけた希亜の言葉が途切れる。
「……、えっと、どうしたのかな?」
 突然希亜の言葉が途切れたのを不思議に思ったはじめは、思い当たる節があるのか、半ば誤魔化すようにそう質問で返すが。
「もしかして、文献読んでませんでしたか?」
 さらに質問で返されてしまった。
「うん、読んでたよ。心配だから、こんな私でも朔ちゃんの力になりたいから」
「困った弟さんですね」
 そう苦笑しながら答え、希亜は玄関へ上がる。
「うん、たった一人の弟だから」
 疲れながらも笑顔でそう答えたはじめは、希亜の後に続いて家の奥へと入って行った。


 九鬼神社、書庫。
 社務所の裏手に位置する倉は年季の入った建物で、神社の歴史に恥じない重厚な作りをしていた。
 少なくとも明治以前、古ければ江戸時代くらいの建築だろうか。
 その中の電灯は申し訳程度にしか付いておらず、書物を読むには不十分だった。そのため先日はその都度本を持ったまま社務所と往復していたが、今日はその 打開策として、蛍光スタンドと野外用延長ケーブルを自宅から持ち込んで、その明かりの下で本、と言うよりは和紙の書物を捲って行く。
 和紙に筆で書かれたそれは、筆者の思いが籠もっているの為、希亜の言う精霊達と語る魔法を使用して、少々文字が読めなくとも比較的楽に意味が読みとれて いた。
 かなりある文献だが、文字数自体はそう多い訳ではない。和紙に筆で綴ってあるため、文字のサイズが大きくページ辺りの文字数は少ない、所々訂正した物も あり、イメージとしては昔のノートを読んでいるような感覚だった。
 和紙の綴りを捲る音だけが在った倉の中に、外から誰かが近づく足音が混じる。
 顔を上げ、出入り口の方を見る希亜。社務所からの明かりに朧気に照らされたはじめが、こちらに歩いてきているのが見えた。
「何かなぁ」
 読んでいるページに付箋を挟み込み、その場からふわりと浮き上がり、出入り口へふよふよと流れて行く。
「希亜君、綾芽ちゃんから電話来てるよ」
「あ、はい」
 そう返事をすると希亜はふわりとはじめの横を抜け、そのまま加速して住居へと一気に入っていった。
「いちいち履き物を履かなくて良いって、便利そう」
 倉の書庫の入り口に残された靴を見て、はじめはそんな感想をもらすのだった。


 同夜、来栖川邸、綾芽の部屋。
 余談ではあるが、この部屋は綾香が主にコーディネートした物で、古き良き日本の住まいをテーマに、色々な物を好き放題に詰め込んである。時代考証が些か 破綻しているが、それはご愛敬と言うべきか。
 受話器の向こうから、向こう側の受話器を持ち上げたろう雑音が入る。
「あ、もしもし?」
『Hello. I'm Kia's speking』
「え? …希亜君?」
『あ〜、国内電話でしたねぇ。これ』
「もう、びくっりするじゃない!」
『でも、こんな時間にどうしたのです?』
 そう言われて、綾芽は反射的に時計に目をやる、9時を少し回っているが、まだ深夜ではない。
 まだ若い二人の間では、遅い時間帯という感覚ではなかった。
「まだ9時過ぎだけど…」
『あれ? 本当だ。田舎だから時間が早く感じたのかな』
「今日はごめんね」
『ん? あ〜、構いませんよ。そちらの家の都合でしたら気にしないで下さいね』
「う、うん。でも明日からなら手伝えるから」
『それは良かった』
「芹香さんも一緒に行くから、だいぶ捗ると思うよ」
『了解です』
「それと御神体に話しかけてみた?」
『それですけどね、返事を得られませんでした。どうも沈黙を守っているようで』
「そうなんだ」
『でも、やはり今回は御神体の考えだろうと思いますよ』
「本当?」
『力の源が御神体ですし、他にそれらしいものはありませんでしたから』
「そーなんだ。あ、今日の午後の授業のノートだけど、明日授業終わってからでいいかな?」
 その綾芽の言葉の意味に思考が触れたとたん、希亜は息をのんだまま思考が飛んだ。
 電話先の希亜の声が止まった、テンポが途切れたと言うには、希亜の沈黙は長かった。
『うん… ありがとう』
 そんな返事が希亜から帰ってきたのは、間が持たない事に耐えかねた綾芽が呼びかけようとした直前だった。
 先方に何かあったのかとも考えたが、回線が切れた様子もなかったので、綾芽は問いただす。
「? どうしたの?」
『いえ、いつもすまないねぇ〜』
「おとっつぁん、それは言いっこなしだよ」
『…ノリがいいですね』
「ママに鍛えられたから」
『あー、なるほど』
「睡眠とかちゃんと取ってる?」
『はい、今日は無理しないようにしてます』
「そっか、じゃあ前に言っていた事?」
 以前にも希亜が歯切れ悪く戸惑っていた事があった、今回の事もそれに似たような気がしてそう問いかけていた。
『うん…』
「そうなんだ、話してくれる?」
『…この事は、直接話したいです』
 若干の沈黙の後、希亜はそう返してきた。
「あ…、そうだよね。じゃあ明日、学校が終わってからでいいかな」
『分かりました』
「じゃあ、お休みなさい希亜」
『お休みなさい綾芽さん』
 短くうんと答えて綾芽は受話器を置いた。
 ほぼ綾芽専属になっている、和装のセリオタイプのHMが、電話機を定位置である壁掛け時計の下へと戻す。
 電話のコードを丁寧に整理したHMが、綾芽の方へと視線を向ける。
 綾芽は先程と変わらず、既に布団などを取り払われ、火も入っていない掘り炬燵に入ったまま、何か考え事をしているように見えた。
「どうかなされましたか?」
「あ、うん。希亜のことなんだけど、話していると突然固まっちゃう事があって。さっきもびっくりして固まっちゃったんだと思うんだけど… どうしてなんだ ろう」
「何か考え事をしながら話していたのではないですか?」
「ううん、そうならもっと単純に驚くと思うの。じゃなくてびっくりって言うか、怯えるような感じかなー」
「怯えるような。ですか…」


 九鬼神社、社務所裏の倉。
「電話終わりました」
「はい。 …ってどうしたの?」
 蛍光スタンドに照らされた希亜の表情は、先程とはうって変わって沈み込んでいた。
「綾芽ちゃんと何かあったの?」
「何かはありましたけど、喧嘩したとかそう言うものではありません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ疲れているんでしょう、今日はもう寝なさい」
「でも…」
「でもじゃないよ。希亜君だって前に言っていたじゃない、睡眠はちゃんと取らないとかえって効率が下がるって」
「それはそうですが…」
「じゃないと倉の鍵閉めるよ」
 口調はとても柔らかいのだが、はじめの言葉には力があった。
「…仕方ありませんね、では今読んでいる物だけは読んでしまいます」
「約束だよ?」
「はい」
「じゃあ、客間の方にお布団敷いておくから」
「え?」
「泊まって行くんでしょ?」
「自宅に戻れば済むことですから…」
「飛んで?」
「はい」
「ダメ」
「ダメって…」
「疲れているのにそんな事しちゃダメ、ちゃんと泊まっていくこと、いいわね?」
 今の希亜に、はじめの強制的な申し出を断れる訳ほどの気力はなく。
「はい」
と、折れるようにそう返事を返すのだった。


 夜、寮悠朔の部屋。
 夕食も終え、部屋に戻ってベッドの上で横になって天井を見上げていた。
 先日と同じように実家に電話を掛けたが、やはり繋がらなかった。
 ここまでは予測の内だったので、次の行動へと移った。
 希亜の人物像を思い浮かべる、そして最も効果的な質疑方法を考える。
 正攻法では、かえって情報にダミーが混じる可能性がある、少なくとも朔に対して本心を真っ直ぐに表したことはないと記憶している。
 捕まえて、拷問をしてみる。手段と成功率には申し分ないが、その後綾芽や他の株が暴落しそうな気がする、少なくともまだ学園生活を続ける予定なので、あ まり良い手ではない。
 自白剤を盛る… 過激ではあるが、前の手段と同様のデメリットがある、反面吐かせるには最良の手段とも言える。
 と、そこまで考えて質問事項を纏める。
 問うべきは、魔女の礼儀の下での希亜と自分の関係について、ついでに神社で何をしているか、そのくらいだろうか。
 最後に希亜の行動予測をしてみる。
 現在は九鬼神社で文献を調べているらしい、明日の授業の用意があるはずなので、それまでには部屋に帰って来るだろうから、そこを捕まえればいい。
 あいつの行動パターンから考えて、明け方に帰って来ると考るのが妥当だろうか。
「作戦開始は明日朝、夜明け後位からの張り込みか… 恐らく空から直接部屋の方に帰って来るだろうから、ベランダで、隠れて張り込みだな」
 そこまで言って部屋の明かりを落とし、眠気に身を任せるように、睡眠へと落ちていった。



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Ende