Page - Mr Hajime Haruka does not have a family. 5 days after.
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5 days after.


 朝、寮悠朔の部屋。
 風呂上がりのさっぱりした体に制服を羽織り。ズズズっとコーヒーを啜る、心なしか苦い。
 今朝気付くと、土足のままで寮の自分の部屋にいた。
 正確には倒れていた、九鬼神社に向かったままの格好で。
 さらに不可解なことに、側には九鬼神社の安産と交通安全のお守りが落ちていた。
 それが気がついたときの自身の様子だった。今は椅子に座ってコーヒーを啜っている。
 ゆっくりと落ち着いて記憶をたどるが、森の中へと跳ばされ、隕石に襲われた後の記憶が曖昧であり、しかも帰ってきたという記憶は微塵もなかった。
 思い出せる最後の記憶は、何か石を奉ってあったのを見た、と言う物だった。
「あれは何だったのだ」
 ある限りの記憶を総動員しても、こぼれるのはそんな呟きだけだった。


 朝、校門前。
 昨日の事を芹香先輩に聞く時間をとろうと思い。少し早めに出た悠朔は、校門で彼女らが乗ってくるであろうリムジンを待っていた。
 その間にも、色々と昨日の出来事について考えてはみた。
 だが、あの場所で体験した出来事、記憶に残るあの石で造られた小さな祠のような物、気がついたら寮に戻っていた事と、九鬼神社の交通安全と安産のお守り が側にあった事。
 それら四つの出来事全てを結びつけるような、決定的な仮定が浮かぶ事は無かっただけに、悠朔は途方に暮れるしかなかった。
 答えにつながるヒントを探しに行って、さらなる難問を押しつけられた。そういうのがもっとも適切な今の彼の様子だろうか。
「あれを一体どう読みとれと…」
 昨日の事にそう途方に暮れる。同時にこれからの事を思うと、思わずため息が出た。


 校門前で待つこと数分、通りの向こうから目当てのリムジンがやってくる。
 黒塗りの重厚な姿とは裏腹に、それは滑らかに校門の前で止まる。
 セバスチャンが運転席から降り。そのまま彼は急ぐでもなく後部座席のドアを開けた。
「あら悠朔、おはよ」
「ああ、お早う」
 一番先に降りてきた綾香の、いつもと変わらない挨拶。それにややぎこちなく返事をした朔は、リムジンの中から芹香が降りてくるのを待つ。
「で、昨日は何か見えたの?」
 唐突に、少なくとも朔はそう感じた綾香の問いかけ。
 芹香の妹であるとはいえ、情報がだだ漏れだなと。内心でそう愚痴りつつも、綾香の問いかけに対して朔の表情がどんよりと曇る。
「先輩から、聞いたのか?」
「そうよ。綾芽の彼もいろいろ調べているみたいだけど、実際の所帰れそうなの?」
「それは俺が聞きたいよ」
「弱気ねぇー」
「パパ、大丈夫?」
「多分なぁ」
 続いて降りてきた綾芽に、朔は覇気のない声を返していた。
「それにしても悠朔、昨日どうして九鬼神社に行ったの? 姉さんからは一応止められていたんじゃないの?」
「止められていたのは一昨日の事だろ、昨日は昨日で確かめる事があったから行った」
「で、行って何か分かったの?」
「…それを相談する為に先輩を待っていたんだ」
「前途多難ねぇ」
「言うなよ、分かっているんだからさぁ」
 どよーんと堕ちて行く朔の前に、芹香もリムジンから降りてきていた。
 辺りに陰鬱な雰囲気を漂わせている朔を見て、思わず惑った芹香は綾香に言葉を伝える。
「悠朔、放課後にオカ研で待っているって」
「分かった」
 そう返事は返す物の、途方に暮れている朔は陰鬱なオーラの中にあった。。
 綾芽はそんな朔を見て、以前希亜に感じた物よりは穏やかではあったが、怒りに似た行き場のない感情が、沸々とわき上がるのを感じていた。
 今までどれほどの人が彼を心配しただろうか、それを思った直後。視線の先の朔が、前途多難な事を思い、本日何度目かのため息をつく。
「パパっ!! 情けないと思わないの!?」
 あまりにもあからさまにため息をつき続ける朔に対し、綾芽は感情にかあっと火が着いたのを自覚するよりも早く声を上げていた。
「芹香さんだって、希亜だって、ママだって、はじめさんだって、みんな心配してそれぞれに出来る事しているのに。一人で解決できる気になって、何もできて いないじゃない!!」
 元気ではあれ、比較的おとなしい方の部類に入る綾芽の言葉に、一同は驚き、登校している生徒達の目を引く。
 もっとも事情を知らない大多数にとっては、驚きはすれ良くある事なのか、視線だけを向けて素通りしていく。
「みんな心配しているんだよ。誰だってパパの助けになると思って色々しているのに、気付こうともしないなんて変だよ!」
 綾芽の言葉が一度途切れるが、朔が何かを言う前になおも綾芽の言葉は続けられる。
「力だって見えても感じてもいないのに、上手く使えるわけ無いじゃない。一人で努力するのは悪い事じゃない、けど盲進的に一人で突き進むのは、そんなの努 力じゃない!」
「綾芽」
「出来ない事があるのは、恥ずかしい事じゃないのに、どうして誰も頼ろうとしないの!?」
「……」
「心配してくれる相手の心が煩わしいから!? そんなのならパパの周りは道具だけで十分だよ!!」
「綾芽!!」
 綾香の鋭い声に、綾芽ははっとして我に返る。恐る恐る見上げた朔の表情は、能面のように変わることもなく、冷徹に綾芽を見下ろしていた。
「誰が頼んだ? 頼んでもいないのに勝手に調べ回る奴など知るか!」
 二人の視線の先、朔は怒気をはらんだ静かな声でそう答えると、そのまま校門の中へと入って行く。
「……パパ」
 綾芽には朔の姿がひどくゆっくりと遠ざかっていくように見えた。
 その綾芽の肩にポンと手か置かれる、思わずビクリと身を固めてしまう綾芽だが、「綾芽、後は任せて」
 そう言った綾香の声は優しかった。
「ママ?」
「伊達にあんな変わり者とつき合ってないわよ」
 綾香は自信満々にそう言った。
 綾芽は安心すると同時に、変わり者と言う言葉に一抹の不安を抱かずにはいられなかったが、綾芽自身の言葉が届かなかった無力感に、
「お願い、ママ」
 そう力無く答えるのが精一杯だった。


 二時限目終了間際、某教室。
「今日は、気分が優れないんですねぇ」
 この日希亜はようやく綾芽に声をかけていた。
 やや早めに終わった授業に、教科書やノートを片づけながら綾芽からの返事を待つ。
「ねぇ、希亜には触れてほしくない事ってある?」
「一応はありますよ。でも、いきなりずいぶんなことを聞くんですね〜」
「うん。今朝ね、パパに酷いこと言っちゃった」
「聞きますよぉ」
「えっとね。パパがみんなが心配しているのに、一人で何とかしようとしているのが許せなくて…」
「それで、その思いの丈をぶつけてしまったと言う感じですか?」
「どうしよう希亜、わたしパパに嫌われちゃうのかな? そんなの嫌だよ」
「大丈夫ですよぉ、あの人も今はただ余裕が無いだけなんですから。落ち着けば元のように戻りますよ」
 希亜が鞄に授業の用意を納めたところで、チャイムが鳴り響く。
 講義室を移動するのを思い出して、綾芽も慌てて鞄に詰め込む。
「行きますか」
「うん」
 廊下に出て、二人は次の講義室へと歩く。
「ねぇ、本当に元のように戻るかな?」
「だって、余裕を無くす事に拍車をかけているのは私ですから」
「って、希亜!?」
「そうやって私から芹香さんへと、乗り換えてくれると助かるんですけどねぇ〜」
 驚く綾芽に、希亜はいつものようにのほほんと、そう言葉を続けた。
「パパをどうするつもりなの?」
「どうもしませんよぉ。私の手には負えないので、自身の力で元へ戻ってもらうだけです」
「…本当に?」
「そですね。その際には、自身が何なのか、知ってもらった方がいいんですけどねぇ」
「やっぱり何かたくらんでいるじゃないの」
「このたくらみが成功しても、私にはそんなに利益はないんですけどね」
「だからって」
「考えてみて下さい。このまま、見えるにも関わらずそれを見ようともしない事。それを見て自身を少しでも理解すること。そしてそれ以外の選択をすること。 悠朔さんには今、大きく分けて三通りの選択があるんです」
「でも、それはパパが選ぶ事でしょう?」
「そですよ。でもあの人の昨日の行動から言えば、もう一つ何かある気がするんですけどねぇ」
「もう一つ?」
「あの人が、何を見極めるために昨日神社に向かったのか。私は知りませんし、あの人も教えてはくれないでしょうからねぇ」
「一人で出来る事なんて、あんまり多くないと思うんだけど。パパはそれを分かっているのかな?」
「それは、分かってはいると思いますよ。そうでなければ情報特捜部なんて立ち上げる事はしていないでしょう」
「じゃあどうして?」
「孤独だからじゃないですか?」
「孤独?」
「はい。あの人の魂の形、心の姿でもいいですけどね。言葉にすれば劣化しますが、金剛の体を持つ牙の長い古い獣です。前にも似たようなことを言ったような 気がするんですが、こちらの方が私から見えるあの人の今の姿ですから」
「金剛って何?」
「えーとぉ。元素記号C、八面体の単結晶で一般にはダイヤモンドと呼ばれる物です。意味は高貴とか、何者も寄せ付けない、とかですね」
「金剛峰寺とは関係ないんだ、お寺かと思ってた」
「そっちの金剛は、どう名付けられたか経緯を知らないのでなんとも」
「じゃあ牙の長いは、アザラシとか?」
「イメージとしては、サーベルタイガーですかねぇ」
「なにそれ?」
「かなり前に絶滅した古い虎の一種で、犬歯が非常に長かった大型の獣です」
「そうなんだ。だったらパパは、置換化石?」
「…えーとぉ、多分ダイヤには置換しませんよ。それに、そこまでは古くない様な気がするんですけどね」
「希亜が言いたいのは、孤高の獣。っていう事なの?」
「大筋において、間違っていませんよ。でもこれは私が見た悠朔さんの姿ですから、芹香さんや、綾香さん、ましてやあなたの感じる悠朔さんは、また別の像を 結ぶかもしれませんね」
「そうなんだ」
「こと表現に関しては、唯一や絶対なんて無いんですよ。思ったら最後、表現の死である固定観念と思考停止に陥りますからね」
「そっかぁ。で、希亜はこの後パパとはどうするつもりなの?」
「そですねぇ、まだ決めかねてます」
「じゃあ、芹香さんの助手になるってどう?」
 思いもしなかった綾芽の言葉に希亜の思考が止まった。考えつかなかった事項を検討するために再び思考が動き出す。結果、少なくとも今よりは、希亜にとっ て良い方向に向くのではないかと漠然と仮定した。彼女の動向が気になるが、現在の所傍観者であるのでそれに関しては思考から除外する。
「なるほど、助手ですか」
「ダメ?」
「考えも及びませんでしたよぉ、その場合の利点は多分悪くないでしょうが、芹香さん次第ですねぇ」
「お昼にでも話してみるね」
「分かりました」


 四時限目終了間際、某教室。
 綾香は授業が終わると、素早く鞄に教科書やノートを詰め込み、朔の前に立ちはだかる。
 今日五回目の行為に、朔も半ばうんざりしていた。
「悠朔、綾芽の所に行く前にちょっと良い?」
「説教なら聞くつもりはない」
「そう? ここのところずっと実家の事にかかりきりで、部活にも出て無いじゃない」
「俺がいなくても、部活に支障はない」
「やれやれ、本当に余裕無いわね」
 ため息混じりの綾香の言葉を聞き流して、朔は鞄を片手に席を立ち上がる。
「少し、放っておいてくれないか?」
「綾芽に謝っておきなさいよ、いい?」
「善処する」
 それだけ言い残して朔はこの場から離れて行く。
 朔にしてみれば、授業の合間に昨日の出来事について考えようとしたところを、毎回毎回邪魔されていたので、いい加減我慢の限界でもあった。
 今回も耐えきったところを見ると、一応少しの余裕は残っているようだ。
「それにしても、余裕がないのはどっちだよ」
 先程までの綾香の様子を思い出して一人愚痴る。
 適当に食糧を確保して、一人になれるところでゆっくりと昼食を取ろうと思った朔は、とりあえず校舎から出ようと階段を下りて行くのだった。


 昼休み、某校舎屋上。
 お昼休みを告げるチャイムも鳴り。場所取りに上がってきた希亜と綾芽は、その場に自分たちの荷物を置いて一息ついたところだった。
 ふと綾芽が下を見下ろすと、校舎から出て行く朔の姿が見えた。
「あれ、パパだ」
「もう上がって来ますか?」
「ううん、離れて行ってる」
「そですか」
 希亜も立ち上がって、校舎の下を見下ろす。ここからは遠い向こう側の出入り口付近に朔の姿を見つけた。
「どうしたんでしょうね」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
 突然後ろからかけられた綾香の声に、二人は振り返る。
「ママ?」
「ちょっと聞いてよ綾芽。悠朔ったらあたしが相談に乗ってあげようとしたのに、ことごとく断るのよ」
「えっと『ことごとく』っていう事は、ずっと追いかけ回したの?」
「そうよ、休み時間の間はね」
「それは、ちょっとやりすぎですねぇ」
「そうだよ。ただでさえ今のパパには余裕がないのに、これ以上追いつめたらダメだよ」
「だからって見てられないわよ。今朝の綾芽じゃないけど、あたしは授業中に悩んでいる悠朔をこの数日間ずっと見てきたんだから」
「よかった…」
 唐突に、綾芽は心からこぼれるように呟いていた。
「ちょっと、心配していることが何で良いのよ?」
「だって。ママったらパパのことあんまり興味なさそうにしてたから、ごめんなさい!」
 そう言って、勢い良く頭を下げる綾芽。
「か、勘違いしないでよ。あれだけ良く顔を合わせる間柄だから心配しているだけよ」
 驚いてそう取り繕う綾香だが、
「よかったですね、綾芽」
「うん、後はみんなでパパを追いつめていけばいいのかな」
「追いつめてって… まぁ似たような物ですけどね」
「何よ二人とも、私は別に悠朔の事なんて何とも思ってないんだからね」
 そう言った綾香に、希亜と綾芽の視線が注がれる。
「どう思います?」
「…ママ可愛い」
「もー、綾芽まで!」
 綾香が二人にそう声を上げたところで、希亜はふわりと宙にその身を浮かせた。
「さて、ではそろそろお茶取ってきますね」
「うん」
 そのまま彼は、ふよふよとこの場から離れていくのだった。
 残された綾香は、また綾芽にからかわれるのだろうかと、思っていた。
「ごめんねママ…」
「なぁに突然?」
 かけられた謝罪の言葉に、綾芽の顔を覗き込む。
「ううん、わたしも不安だから」
 その言葉に何か言葉を返そうと思った綾香だが。綾芽の何が不安なのか、それが分かるような気がしたため、綾香はただ「うん」と返していた。


 学園内、森のはずれ。
「こうしていると、のどかなんだが」
 購買で適当に買ってきたパンとドリンクでお昼をすませた朔は、草の上に寝転がって空を見上げていた。
 五時限目には、移動時間を含めてもだいぶあるのを確認して、色々と考えてみる。
「少し分けて考えてみるか」
 昨日の一連の事象を、いくつか分けて考えることにした。ひとまとめに考えても何もまとまらなかった為に、発想を逆転させたのだ。
 視線の先のどこまでも晴れ渡った空に、一つ一つ案件を浮かべるようにして、彼は考え事を始めた。
 まず神社に近づこうとして遭遇した羽音から考えてみる。
 あれに気を取られ上を見上げた直後、あの原生林の中にいた。 …と考えるのが普通だろうか。あの時も詳しいことは何も分からなかった。あの時、目の前に あった自然は全てが本物だった。ならば多分、あの瞬間に跳ばされたのだろうと考えるべきなのだろう。
 そういえば山の地形は、神社の周辺によく似ていた。
 あの跳ばされたろう場所が、同一地点であり別の時間と仮定すれば、位置的には神社を右手に見ながら奥の森林の方へと上って行くはずだ。
 同じ地形だったとして。どの辺りまで行ったのか考えてみる。
 ずいぶんと長く歩いたはずだが、実際には数時間歩いた程度だろうか。
 以前調べた九鬼神社の敷地は、無駄に広大な印象を受けたのを覚えている。記憶では自然保護森林にもなっていたはずだ。
 地形的には丘陵地を経て山麓へと到達するのだが、記憶の中の地図が確かならば、数時間歩いた程度では丘陵地の中程までしかいけないだろうか。
 だとすると、その中程であの山々の稜線を見ることが出来るはず。
「そこまで行ければ。の話しだな」
 無理な思考に失笑しつつ、朔は別のことについて考え始める。
 思い出す度に、あの瞬間の感覚がよみがえる。
 あの時に術を使おうとして心の奥底から感じた膨大な力。今思えば、いつも術式の最中で感じる力と同種の物ではなかったかと思えた。膨大なと言う程度の物 ではなく、まるで枷が外れたほどに大きな物だった。
 あの時は、本能が危険を感じていたのだろうか。いつもよりも大きな力程度では、驚きこそすれ恐怖を感じる様な事は無いはずだ。だがそれこそ火を付けるの に太陽を持ってくるような、桁違いの場違いなほどの大きな力に、驚きを飛び越して恐怖したとも考えられる。
 他にあるとすれば。例えば知らないと言う恐怖を感じたのだろうか……
 思考が堂々巡りを始めたのに気付き、腕時計を見る。そろそろ教室へ向かわなければならない時刻になっていた。
 起きあがり、手で白衣に付いた芝生を払いのけ。鞄を持ってこの場から離れる。
 彼が見上げていた空はどこまでも青く、良く晴れ渡っていた。


 某教室前。
「どこ行ってたのよ?」
「一人で考え事をしていた」
 教室の手前で綾香の質問にさらりと答えて、朔は教室に入る。
 授業が始まるにしては、生徒数が少ない。
 振り返って綾香に訪ねると、
「休講になったわよ、先生が急に救急車で運ばれたんだって」
 呆れたように返事が返ってきた。
「そうか」
「で? どうするの? 暇なんでしょ?」
 降って沸いた空き時間に、どうしようかと考えるよりも早く、綾香に訪ねられた。
「とりあえず、考え事の続きをしようと思う」
 それ以外に考えつくこともなく、そう口にする。
「カフェテリアにでも行かない? あそこならゆっくり考えられると思うけど?」
「そうだな」
 時間はあるだけに朔は綾香の提案に賛成した。もっとも、あまり考え事の邪魔になるようなら、また場所を変えればいいと考えたからでもあるが…

「明日は休みだけどどうするの?」
「がんばって実家に帰ってみる」
「どうやって?」
「それを考えている所だ」
「そうね」
 授業時間に入って静かになった廊下を歩きながら、そんな会話が続く。
 綾香にしてみれば、相談を投げかけてほしいと思うのだが、あの後に綾芽と希亜に芹香も含めた三人から、無理強いしないようにと強く釘を刺されていたの で、朔が相談を持ちかけてくれるのを待つことにしたのだが。
 内心では「話してはくれないわよね」と確信し、ため息をついていた。

「それにしても、そんなに心配になる物なのか?」
 丁度渡り廊下の真ん中を歩いている時に、朔は呟くように尋ねた。
 急に立ち止まった綾香に気付き、朔も足を止めて振り返る。
「あなたねー」
と、怒るを通り越して、あきれかえった綾香の言葉が朔に返された。
「自分で力になれない事に対して心配するのはおかしくないかと、そう思ったんだが?」
「自分で力になれないから、なおさら心配するんじゃない!」
 そんな事も分からないの? とでも言うような綾香の言葉に、朔は頷き。
「で、心配してくれた訳か」
「そうねえ。どちらかと言えば、今、怒った所かな?」
 ほぼ無意識に指を鳴らしながら、綾香は笑顔で言い切った。
 朔にもひしひしと怒気が伝わってくる。
「悪かった」
 確かに、それは朔の本心だった。
 直後、渡り廊下に乾ききった音が響く。
 ゆっくりと、朔の頬に赤い手形が浮かび上がろうとしていた。
 強い意志で睨み続ける綾香と、まるで現を抜かした空白のような表情の朔。
「悪い、不器用で」
 ややあって、そう言葉を返した朔に、綾香は拍子抜けしたのか。
「まったくだわ。行くわよカフェテリア」
 そうさらりと言って、再び歩き始めた。
「ああ」

 何事もなかったかのように、と言うわけでもないが。二人が渡り廊下から見えなくなった。
「今のデータ取れた?」
「ばっちり音声までクリアー、倉庫に入ってたとは思えないような良い品ね」
 声の主は情報特捜部の部員達だ、別に物陰で隠れていた訳ではない。ただ屋外用機材のチェック中、たまたま離れた渡り廊下に二人の姿を見つけたので、その まま機材のテストをさせてもらった格好になったのだ。
「ここのところの部長の無断欠勤の理由が見えるかな?」
「痴話喧嘩していたみたいだが?」
「どっちにしても、これだけじゃあ部長のネタをあげるには弱いですよ」
「まぁ、情緒不安定っぽかったからねー」


 放課後、オカ研奥の小部屋。
「昨日の事について、お話ししますね」
 いつもと変わらないのほほんとした言葉が、向かい合うように座る芹香と、隣に座る綾芽に広がる。
 綾芽の発案で芹香の助手になる事を、お昼休みに綾香の賛同を得て芹香の了承をもらって現在に至っている。
 そんな訳で希亜は知っている限りのデータを、芹香に提供している所だった。
 彼の説明は、昨日の九鬼神社付近で朔と分かれた後から始まった。
 途中模型店によって時間をつぶしたことも含めて、希亜は記憶にある限り正確に芹香に伝えて行く。
 神社との境界線辺りでは何も感じなかったこと、落胆の度合いも含めたはじめの様相、お守りを買ってきたこと、そして朔が再び姿を現してそれを連れ帰った 事。
 途中芹香からいくつかの質問に答えながら、それらの出来事は語られた。
「…で、お守りのことなんですけど。私はあんまり神道は詳しくないので、直接渡してもよかったんでしょうか?」
「大丈夫だと思う。御神体がパパにあれこれしているのは、何か理由があるんじゃないかなって思うから」
 希亜の質問に綾芽は即答していた。確認を取るように希亜の視線が芹香の方へ移る。
「……多分大丈夫でしょう?」
「そですか、では特に隠す事はないですね」
「うん、芹香さんもそう言っているんだから大丈夫だね」
「ではお守りの件はそれで。そろそろ悠朔さんが来る頃だと思うんですけど、来ませんね」
「授業長引いているのかな?」
「どうでしょう」
「……もしかしたら、朔さんが穢れている事と、神社に入れない事は関係ないかもしれません?」
「本当に!?」
 芹香の言葉を反芻した綾芽は思わず聞き返していた。
「……今まで何度かは、今のように穢れた状態で帰省していたはずです。それを考えると今回の事が、それだけの理由で帰れなくなるとは、考えづらい点もある のです?」
「とすると、御神体の方のみが問題だと考えることもできる訳ですかぁ」
 コクコク。
「でもでも、それだと関係ないとは言い切れないんだよね?」
「そですね」
 希亜の肯定を聞き、ため息を一つついて綾芽は、
「上手く行かないなぁー」
と、目の前のテーブルにうつぶせになる。
 そんな綾芽の様子を見て、希亜は立ち上がると、
「お茶を入れて来ますね、何かリクエストはありますか?」
 そう言って芹香の方へと視線を向ける。
「…ダージリンの熱いのを?」
 コクコク。
「分かりました、ダージリンの熱いのですね。ではまた後程」
 そう言って、希亜はふわりと漂うように部屋から出て行った。
 静かになった部屋の中、綾芽はゆっくりと身を起こす。
「わたし、役に立っているのかな」
 そう呟いた彼女の視線は、閉じられた窓の方へ向けられていた。
 芹香も同じように、その方へと視線を移す。二人の視線の先には、閉じられた窓以外の何かが見えるわけでもない。
「大丈夫です」
 とても静かな部屋の中、そんなほんのわずかの空気振動が綾芽の耳に届く。
 綾芽が振り返ると、芹香は静かにうなずいて返すのだった。


 同放課後。情報特捜部、部室。
 朔は定例の会議が始まるのを、部室の隅で紅茶を飲みながらぼんやりと待っていた。
 今回に限り、何となく部員のよそよそしさを感じていたが、実質名目だけの部長に大した未練もないのか、そんな部員の様子もどこ吹く風で、早く会議が始ま らないかと考えながら、ぼんやりと時間をつぶしていた。
 カップを手にし口の中へと含んだ所で、シッポが話しかける。
「ところで部長、渡り廊下でまた綾香さんと痴話喧嘩したって本当ですか?」
「!? ゲホッ! ゴホッ!」
 そんなシッポの質問に、飲み込む最中の紅茶が気管に入り、盛大にむせ返る朔。
「どっ、どっからそう言う話しになる!?」
「部員が機材の動作チェックをしていたんですけどね、その最中に部長の映像があった物ですから」
「ちょっとした意見の相違があっただけだ」
「だと良いんですが。あと、最近実家に帰れていないんですよね?」
「ああ、どこでそれを?」
「先程の件と併せてです。昨日飛行をしていたら、飛行物体が学園の方へ向かうのを確認した物ですから」
 彼、シッポはYF−19改と呼ばれる全領域戦闘機を所有しており、その機体と合わせてその高度な情報収集能力を持つ。
「どんな飛行物体だった?」
「当初は未確認飛行物体でしたので、好奇心で見つからないように追っていたんですが、学園寮でようやく部長を乗せていると確認しました。音速を超える魔法 使いがいましたよね? 部長の知り合いだと思うんですが」
「ああ、一人いるが?」
「最初は来栖川芹香さんかと思ったんですがね」
「そうか、昨日帰ってきたのはあいつのせいか」
「新入部員が機材に慣れるために練習しているんですから、どこで聞き耳たてられているか分かりませんよ」
「そうだな、気をつけておく」
「まぁ、今回出した機材はかなり特殊でしたけどね」
「昔のが倉庫の中にでも残っていたんだろう?」
「当たりです。それと、今日の会議は荒れると思うのでそのつもりで」
「ああ、逃げても良いか?」
「止めておいた方が」
「むう」
 力無く唸る朔は、内心オカ研へ行きたかった。
 だが、お飾りでも一応部長なのだからという責務と、高々痴話喧嘩と取られたとは言え、話しに尾鰭が付く前にその話題を処分したかった。その二つが彼をこ こにとどめている理由だった。
 もっとも、現在の物であっても情報特捜部にかかれば、話しに尾鰭が付くどころか、陸上に進出して大繁殖しかねないと言う危険が多分にあるというのを、 しっかりと自覚しているというのもあるからだ。


 オカ研、奥の小部屋。
「お待たせしました」
 バスケットを片手に、希亜は小部屋に戻ってきた。
 部屋の中には本を読んでいる芹香と綾芽の姿だけがあり、まだ朔が来たような感じはなかった。
「朔さんはまだなんですね」
「うん」
 バスケットの中からテーブルの上に、保温効果の高い二重構造18-8ステンレススチールのポットと、ティーカップを四つ並べて行く。
「市販のファーストフラッシュは切れていたので、以前ロンドン近郊で購入したセカンドフラッシュです」
 そう言いながら、ポットから紅茶を注ぐ。
 湯気が立ち上るそれに、自然と視線が集まる。
「希亜君ってもしかしてお金持ち?」
「次代へ残す資産はありますが、私自身が使う資産は殆ど無いですよ」
「だって、世界中のいろんな所から買い物してくるし」
「それは、箒があるからですよ。それに色々と相談もしなければなりませんからね。
 …とはいえ今のところ相談する方が多いのですよぉ、なかなか未熟者ですから」
「ふうん、大変なんだね」
「でもまぁ、しかたないですよ。それにこの歳で私が一族の長になった理由は、単にRising Arrowの後継者になる人物が私しかいなかったからでもありますから」
「えっと… 一族の長って?」
 綾芽がキョトンとした様子で、先程の希亜の言葉を反芻する。
「ですから、Rising Arrowの後継者になった事で、私が一族の長になったんです」
「それってすごい事じゃないの?」
「それが、そうでもないですよ。長としての主な仕事は、一族の者が作り出す魔術書を次代へと残す事ですから。実際誰もやりたがりませんですし」
「そうなの?」
「はい。一応出版権を始めとした権利はこっちに貰えるようになりましたので、時間があればデータを直して出版しようかと思ってます。翻訳が辛いんで、原文 版を先行して出そうかと思ってますけどね」
「わたしの周りって、結構すごい人多いよね。気落ちしちゃうよホントに」
 綾芽はため息混じりにそう言って頬杖をつき。さらに「はぁーーー…」と、深くため息をつく。
「凄いんですか? 私」
 希亜は芹香に向かってそう問いかけるが、芹香はただコクコクと首を縦に振る。
「そですか。 …でも、実感無いんですよねぇ」
 そう言って希亜は、湯気の立ち上る紅茶に手を着けようかと思ったが、ふと隣からの視線を感じて振り向く。
「少しは自覚しないとダメだよ」
「出来る事はしますよ」
 ただ自然に言葉を返す希亜に、綾芽は再びため息をつく。
「希亜って、怖い事とか物怖じする事ってなさそう…」
「私だって怖い事はありますよぉ」
「なら、どうしてあの時長刀の刃なんて掴めたの?」
「今にして思えば、それは単純ですよ。あの時は殺される事より、もっと怖い事があっただけですから」
 そうあっさりと言った希亜は、自然な笑みを浮かべていた。
「…希亜君が、理解できないところにいるよぉ〜」
 そう言って、綾芽は再びテーブルにうつぶせになった。
「まぁ、諦める事を諦めてしまえば、怖い事なんてないんですよ」
「って、そんな後ろ向きじゃダメだよぉ」
 うつぶせのまま頭を希亜の方に向けて答える綾芽に、希亜は「そですね」と短く答える。
 家でもあまり見かけない綾芽の無防備な様子を、芹香はただ微笑ましく思って見つめている。
 思わず何のためにここに集まっているのか、それを忘れそうになる。
 そんな現を抜かした時間が、ノックの響きによって破られた。
「おまたせー、連れて来たわよ」
「済まない、部活で遅れた」
 すぐに開かれた戸から、綾香と朔二の人が、それぞれに挨拶を述べて部屋に入ってくる。
「全員いるわね」
 綾香は部屋の中に綾芽と希亜がいる事を見取り、満足そうにそう言った。
「…なぜだ?」
 対照的に不満そうに朔は訪ねる。
「当たり前じゃない、みんな協力しているんだから、当然の権利よね」
「俺の問題だぞ?」
 朔の言葉に、綾香はやれやれとばかりに、両手で大きくジェスチャーをしたかと思うと、おもむろに指先を朔の鼻先に突きつけた。
 朔の方もぼうっとしていた訳ではないが、風圧を感じてようやく綾香の指先が自分に向けられていると認識する程に、その動作は簡潔で速かった。
 そして、思わず視線を綾香へと移した瞬間、目の前の彼女の口が開かれた。
「姉さんは既にこの件の関係者、希亜と綾芽はその補佐として協力してくれるわ。それで文句はないでしょ?」
 さも当然のように言い切った綾香に、朔は芹香へと振り向く。
「先輩、本当なのか?」
 問いかけにほぼ即答するように、コクコクと首を縦に振る芹香を見て納得したのか、再び綾香へと視線を戻した。
「問題ないと思うけど?」
「ならお前は?」
「友達なら、心配して力になるのが当たり前だと思うけど」
 そう柔らかい口調で言いながら、綾香は利き足を半歩踏み出し半身に構える。
「皆まで言わせるつもり?」
 やはりとても柔らかい口調で朔に問い返していた。だがその仕草はどう見ても「断るようなら実力行使に出る」と言っているような物だった。
 朔にしても、これ以上事をややこしくするつもりもなかった。加えて先程の部活で、尾鰭どころか手足が生えて陸上に進出しそうになっていたネタを潰して疲 れていた、というのも理由の一端だった。
 結局、両手をあげて降参のポーズを取りながら、
「あー… 昼間の続きをするつもりは無い、ご厚意に甘えるよ」
と、半ば諦めるように言い捨てた朔だった。
「そう、じゃあ始めましょう。座ってゆーさく」
 満足して席を用意する綾香に促され、朔は「やれやれ」とばかりに席に着いく。
 カップに紅茶をそそぎ入れられ、それが朔の前に差し出される。その差し出した相手を見て、朔は口を開いた。
「昨日は余計な事をしてくれたな」
「ん〜、送迎はしましたよ。お守りの件なら余計でしたでしょうが」
「頼んだのは向こうまで飛んでいく事だったはずだが?」
「そう思うのは自由ですよ。でもお前さんは始めに『九鬼神社まで送迎してくれ』と言っていましたから」
「そんな事… 言ったか?」
「はい」
「覚えいていないが?」
「どちらが正しいかは、その時居合わせた人に聞けばいいのです。でも、今回はこの件は良いでしょう? 話が進みませんから」
「ふん。昨日こいつと別れてからの事だ…」
 希亜との問答が時間の無駄だと判断した朔は、昨日体験したことを順番に話して行く。
 神社への道を歩いていて、鳥の羽音に驚いて気を取られた瞬間に、原生林の中へ跳ばされていた事。
 そこの地形が今にして思えば、九鬼神社の敷地にそっくりだった事。
 術を使おうとして感じた、恐怖を呼び起こした程の膨大な力の事。
 木に登って、隕石の衝突に襲われた事。
 夢か幻を見た事。
「…で、今朝気付いたら部屋に倒れていたのはこいつのせいだと言うわけだな?」
 コクコク。
「ですね」
 芹香と希亜は当然とばかりにそう答えた。
「起こしてくれてもいい物を」
「そですか」
 愚痴をこぼす朔と、それに答える希亜。
 そんな二人を視界の中に捉えたまま、芹香は考えていた。九鬼神社のご神体が、朔に対して何を求めているのかを…
 希亜はその思考を排除していた。神の考えることなど、人間には到底理解できないと考えているからだ。もっとも、思考より行動の方が理解しやすいという観 点から、何をしたいのかを希亜は考えていた。
 見せたい物があるのか、と…
 芹香の思考が深くなる。
「……文献には九鬼神社の起源は書かれていましたか?」
「ありましたよ」
「……それを覚えていますか?」
「ん〜、だいたいは覚えています。話しましょうか?」
 コクコク。
「そですね、時系列順に話した方が分かり易いでしょうから。そうしますね…」
 いつもののんびりした口調で、希亜は話しを始めた。

 その集落には一つの言い伝えがありました。曰く、森はこの地の王の墓であると。
 集落はそれを代々伝えて、森と共生して生きてきました。
 ある時、戦によって集落は焼かれ、人々もちりぢりになり、集落は消えてしまいました。

 それから時を経て、集落の跡が森の中に飲み込まれ、人々の記憶から集落の存在を忘れかけた頃。戦を逃れてこの地にやってきた人々が集落を作りました。
 森を切り開き、田畑を開墾し、人々は村を開き営んで行きました。

 ある時、村の畑を広げるために森を切り開き始めました。そこは昔の村の時代に言い伝えのあった森でした。
 その年、村では全ての農作物が不作になり、次いで疫病が流行して壊滅的な打撃を受けました。

 その年の暮れに一人の人物が村を訪れました。
 その人物はその森の中の何かが呼んでいる夢を見た、と森へと分け入りました。
 数日して森から下りてきたその人物は村人にいいました。
 山を奉れと。曰く「この森ははるか昔の王の墓である、墓を荒らす者に王は怒っている」と。
 村人はそれを真摯に受け止め、その森の入り口に社を建て、遙か昔の王を奉りました。
 森の中へ切り開いた田畑も木を植え、元の森へと返してやると、農作物も元のように実り、疫病も消え去った。
 と、それ以来、村は一度も不作を迎えることも、疫病を迎えることもなかった。

「…とまあ、かいつまんで説明するとこんな感じですね」
「そんな謂われがあったんだな」
 感心して呟く朔に一同が呆気にとられる。
「ちょっとゆーさく、あなたの実家でしょう!?」
「そう言われても、半年前までは実家の存在すら一切知らなかった事だからな」
「はい? …良いお姉さんを持ちましたね?」
 コクコク。
「ん、それはどうも」
「こう言うとなんですが、あれは直接では、こうは読めないと思いますよぉ。私は書いた人物が伝えようとしている事を感じただけですから」
「でも、神社が奉っているのは天津甕星(あまつみかぼし)だよね希亜?」
「そですね。でも文献にそれが出てくるのはもっと後でした」
「少し強引に解釈すれば、俺が見たのはその墓なのではないか? 我ながら多少強引だとは思うが」
「え? …もしそうならば、神社について知ってほしい。そう言う意志でメッセージを送っていることになりますね?」
 コクコク。
「そうだな。迷惑ではあるが…」
 朔の言葉が途切れる。
 多分ご神体であろう相手が、一体何を求めているのか分からないし、何をしているのかも今一つ掴みきれない。
 仮定が仮定の域を出ない、あれから5日が経とうとしているのにである。
 口にしたダージリンがいつもより苦く感じる。
 話題が途切れ、それぞれに紅茶をすする中で、希亜はぼんやりと口を開いた。
「複数の要因があると、原因の分析は難しくなるんですよね」
「それはそうだな」
「そう言うわけで、要因を減らしてみればいいのでは?」
「どう言う訳だ?」
「……そうですね、それも良いと思いますが。根本的な解決にはならないかもしれません?」
「そうなんだ」
「一つ聞くが、根本的な解決とはどういう事を言うのだ?」
「……朔さんが自己の状態を管理できる様になる事と、朔さんが無事に神社に帰れるようになることです?」
 コクコク。
「やっぱりそうなるのか… だが前者は一朝一夕に出来るものだとは到底思えないが?」
「それもそうよね。姉さんならそう言った方法知っててそうだけど」
 フルフル。
「ならそっちの方は宿題という事で、後回しに出来ないか?」
「え? …ではまず、朔さんの穢れを取り除きましょう?」
 コクコク。
「穢れ? 禊ぎでもするの?」
「…キリスト教なら聖水につけ込むという方法もありますが、朔さんは神道でしょうから禊ぎが一番良いと思います?」
 コクコク。
「まあ、先輩がそう言うなら依存はない」
「……ではそうですね。希亜君、隆雨神社までお願いします。連絡は付けておきますから」
「分かりました。とりあえず地図で位置を確認させて下さい、だいたいの位置が分かれば飛んで行けますから」
「……禊ぎが終わり次第、九鬼神社に向かって下さい。私たちは先にそちらに向かいます?」
「分かった。隆雨神社の位置は一応記憶している、案内するからその通り飛べばいい」
「空から見た地形は地図とは違いますがぁ、その辺りは大丈夫ですか〜?」
「問題ない、慣れている」
「分かりました。では私たちは準備が出来次第、隆雨神社に向かいます、連絡のほうよろしくお願いしますね〜」
 コクコク。
 芹香の返事を見取り、朔と希亜は席を立つ。
「では、後程。ティーセットはまた取りに来ますので、そのままでお願いします」
 そう綾芽に向かって言いながら、希亜は手を振る。
「行くぞ」
「はーい」
 そんな希亜の手を引っ張って、朔はそそくさと部屋を出ていった。
「行っちゃったね」
「じゃあ私たちも行きましょうか」
 コクコク。




 夕刻、九鬼神社。
「突然申し訳ありません、はじめ様」
「え? 何?」
 玄関を開けるといきなりセバスチャンの声が飛び込んできた。
 戸惑ったはじめがの前には、来栖川姉妹に綾芽とセバスチャンの四人が、玄関先にたたずんでいる。
「急にゴメンなさい、パパの事で協力してもらってるの」
「あ、うん。とりあえず上がって、お茶でも出すから」
 そう言ってはじめは一同を招き入れる。
「でもびっくりしたわよ、急に来るんだもん」
「…え? 申し訳ありません、急いでいたもので?」
「ううん、朔ちゃんの事で力になってもらっているんだもん。気にしないで」
 居間に入った来栖川姉妹と綾芽がちゃぶ台に向かい合うように座り、セバスチャンがその後ろに控え、はじめが台所でやかんに火をかけた所で、電話が鳴り始 めた。
「はい、はーい」
 はじめが忙しそうに電話機に駆け寄るなり受話器を取る。
「はいもしもし九鬼神… ひづきちゃん? お久しぶりー …うん、そうだよ来栖川さんの姉妹と綾芽ちゃん来ているよ。伝言? …うん、後二時間ぐらいかか るから、終わったらまた連絡するの? うん分かった」
「隆雨神社からよね?」
「……そのはずです?」
「念入りにしているのかな。確か、ひづきさんだったよね?」
 コクコク。


 その隆雨神社、敷地内。
 先程ひづきに連絡を頼んだ希亜は、神社の中のベンチに腰掛け、所在なく空を見上げた。
「暇ですねぇ」
「なー」
 由緒正しい神社に、その方向性から比較的穢れの者と考えがちな魔法使いが入るべきではないと。希亜はそう考えていた
 とはいえ、別段九鬼神社を蔑ろにしているつもりはない。
 ともかくそう言った希亜に、ひづきは「穢れていると思うなら、祓えばいいのに」
と言われて、お祓いだけは受けつつも、結局伝言を頼んで禊ぎからは逃げて来ていた。
 ひづきと希亜、二人はあまり面識があるわけではない。
 出発前に偶然見かけた朔が、話しを通すのに便利だからと連れてきたに過ぎない。
 彼女は朔を一目見るなり「相変わらず、いろんな物を憑けているわね」と言って、ほとんど二つ返事で了承していた。
 そうして、二人を乗せて空を飛んで来た訳で。
 朔が禊ぎの最中である現在、希亜自身はとても暇なのであった。
「上手く行きますように」
「……」
 ぼんやりと希亜は空に向かってそう呟く。
 元々は、間接的に綾芽が困るのが嫌だから始めた事だった。
 物事はずっと希亜の手のひらの外で推移している。それを願ったとも、相手が悪すぎたとも言えるが、自分の無力さを痛感する。
「なぁ〜ぉ」
「…うまくいきますように」
 思考が上手く形をなさないまま、希亜は再び空に向かって呟いていた。


 夕刻、九鬼神社。
「すいません手伝ってもらって」
「いえ、これもお嬢様達のためですので」
 セバスチャンとはじめはキッチンで料理の最中だった。
 綾芽が手伝いを申し出たが、キッチンのスペースにそこまでの余裕がないのを理由に断られ、今は綾香や芹香と一緒に道場の方に行っている。
「少し込み入った事を聞きますが、弟君の事をどう思われていますか?」
 その手を止めることなく、セバスチャンがはじめに訪ねた。
「朔ちゃんの事ですよね?」
 はじめも火加減を確認しながらに答える。
「はい」
「最初は、ちょっと戸惑いましたけど。私が男の子に生まれていたら、あんな感じに育ったのかなって思えて」
「そうでございますか」
「どうしてそんな事を?」
「まだまだ青いですが、見所のある若者ですからな。おっと、これは本人には内密に願います」
「はい」


 道場。
 九鬼神社の社務所兼母屋から、渡り廊下で繋がっている道場。広い空間なので、町内会の会合に利用されることもある。
 その中で綾香と綾芽が向かい合っていた。両者の実力は、こと素手では圧倒的に綾香に分があるが、別段試合をしているわけではない。
「前に合宿で使わせてもらったけど、ここも改装したのね」
「うん」
 綾芽が何気なく綾香との距離をあけると、綾香は追う様にその距離を一定まで詰める。
 先程から、何気なく続けられたその行為。
 綾芽は途中から気付いた物の、綾香はほぼ無意識に向かい合っていた綾芽との間に、自らの間合いを保っていた。それもごく自然に。
「え? やっぱり体を動かしたくなりますか?」
「そうね、でも控えておくわ」
 芹香に指摘されて初めて気づいた綾香は、表面上は落ち着いてそう答える。
「そう言ってもママ、自分の間合いを崩さないのは説得力無いよ?」
「えっと… つい、ね?」
 三人の間に笑いがこぼれる。
「それにしても、悠朔もついてないわね」
 そう言って綾香は座り込んだ。
「そうかな」
 答えながら綾芽もつられて座り込む。
「だって考えても見なさいよ。色々と穢れていたり実家に帰れないなんて、ついてない以外の何者でもないわよ」
「……そうでもありません?」
「どうしてよ姉さん?」
「……個人のプライバシーに深く関わることなので、ここでは言う事は出来ません?」
「本当に? ここまで関わっておいて、何も教えないというのはずるいんじゃないの?」
「……落ち着いたら、本人の前で言います?」
「ああ、そう言うこと」


 隆雨神社。
 水垢離。一般には神仏に祈願する前に、水を浴びて身を清め、穢れをとり除いて心身を清浄にすることを指す。みそぎまたは水行とも言う。
 で…
「全く、どうして自己管理も出来ないのよ!」
 滝に打たれている朔に、ひづきは少し離れた場所で呆れながらに放水用のホースを持ってきていた。
「そう言われてもな」
「『言われても』じゃなーい!」
 足下に置いてあった放水銃にホースの先端を取り付け、しっかりと腰を下ろして構える。
「まて、その放水銃はなんだ!?」
「見ての通りタダの放水銃よ。水源は上の池だけどね」
 そう言ってひづきは、朔からは見えない相手に合図をする。
 見る見るうちにホースを踊らせながら、水が出口である放水銃をめがけて邁進する。もちろん彼女が構える放水銃のターゲットは朔である。
 珍しく響きわたる朔の悲鳴は、離れた場所にいる希亜にも届いていた。
 その一人と一匹は、
「平和ですねぇ〜」
「なー」
 と、韜晦していたという。


 夜、九鬼神社付近の模型店前。
 少し前に降り立った朔達は、その広い駐車場で芹香達がやってくるのを待っていた。
 出発前に連絡するつもりだったが、そのまま飛んできてしまい、連絡を付けたのは模型店前の電話ボックスからだった。
 夜の帳が降り、月がその空を我が物顔で照らす。対照的に模型店は蛍光灯の明かりで駐車場に自分の存在を誇示しているように見えた。
「なー」
「何? クラム」
 希亜が自分の右肩にへばりつくように寝そべっている子猫の視線を追った。
 朔もその方向へと視線を向ける。
「来たな」
 暗がりの中、やってくる一行が、自分の見知った顔ばかりだと気付いた朔がそう言った。
 向こうもこちらに気付いたのか、その中の一人がこちらに駆け出してくる。
「姉さん」
 はじめは朔の前まで駆け寄ると、ほぼ一歩の距離を開けて立ち止まった。
「朔、ちゃん?」
 朔を頭から足の先まで見ながら、おそるおそる問いかける。
「他に誰がいる」
 朔が半ばあきれたような返事を返した直後、はじめは朔に抱きついていた。
「よかった、本当に朔ちゃんだ…」
 朔がそこにいる、その現実を確かめるように何度も抱きしめなおす。
 だが涙声で朔の名を何度も呼ぶはじめとは対照的に、朔はあまり喜ぶ気にはなれなかった。彼はまだ実家である九鬼神社には入れないだろう事が、現在確認で きる唯一の肉親であるはじめとの再開の喜びに水を差していた。
「感動の再開ね」
「うん」
 追いついた綾香と綾芽が、姉弟の抱擁から目を離せないのとは対照的に、芹香は少し戸惑いを浮かべ、希亜はその場から離れて神社の方を見つめていた。
 朔ははじめの肩を持ち、そっと身を離す。
「とりあえず、涙を拭いて」
 そう言いながらハンカチを渡す。
「うん」
 涙を拭ったところではじめの動作が止まった、まわりに来栖川姉妹と綾芽に希亜がいた事に気付いたからだ。
「えっと、みんな見てた?」
 ぎこちなくはじめは四人に問いかける。
「ばっちり」
「恥ずかしがる事なんてないです」
 コクコク。
「…………」
 それぞれにはじめに返事を返すなかで、見る見るうちにはじめの顔が赤くなっていった。
 戸惑うはじめに背を向け、神社の方を見つめている希亜の隣に芹香が歩み寄る。
「……二人が会う事は、今のところ問題はないようですね?」
「そですね。自宅が神社の敷地外にあれば、少し事態が変わっていたかもしれませんねぇ」
 芹香は希亜の言葉に軽く頷いて離れ、今度ははじめの側へと歩み寄る。
「え? ……これから、朔さんは神社に向かいます。また跳ばされると思いますが、信じて待っててあげて下さい?」
 コクコク。
 芹香の言葉にはじめは思わず朔を見つめる。
「行って来ることになると思う」
 朔はそう答えた。
「ちゃんと、帰ってくるよね?」
「そのために… そのための友人だ」
「うん。 …そう言えばひづきちゃんは?」
「要因が増えるのを懸念して、彼女の家の方で泊まるようにお願いしてきました」
「あ、そうなんだ」
「…え?そろそろ行きたいと思います?」
 コクコク。
「うん。じゃあ先に帰って、晩御飯用意して待っているから」
「分かった」
「……夜道なので、一緒に行ってあげて下さい?」
「分かりました」
 希亜は芹香に促されてはじめの隣へと行くと、
「ご一緒しますね」
 そう言って、はじめが歩き出すのを待った。
「綾芽はどうするの?」
「え?」
 綾香の問いかけに綾芽が生返事を返す。
「わたしはパパと一緒にいたいから」
「いいの? 希亜が寂しがるわよ」
「「え?」」
 希亜と綾芽の戸惑いの言葉が重なって答えた。
「どうしてそんなところは二人揃うのよー」
 そう、ため息混じりに答える綾香に綾芽が答える。
「だって、希亜は一人になった位じゃ寂しいなんて気付かないし、わたしがパパとママと一緒にいたいことを分かっていると思うから」
「はい」
 何気なく答える綾芽と、自然に肯定する希亜。
「ふーん」
 そう言って綾香がはじめの側にいる希亜の方に視線を向けると、彼は少し困ったような表情を見せている。
 はじめはそんな希亜の様子を見て、苦笑しながら希亜に呼びかけた。
「希亜君、行きましょうか」
「あー、はい」
 はじめに返事を返し、
「では、神社で」
 そう朔に言って、希亜ははじめと二人で歩き出した。

 街灯も無く、星明かりだけがアスファルトを照らす神社への道を、はじめと希亜の二人は隣り合って歩く。
 風が木々を優しくなでる音と、足音だけが二人を包み込む。
 会話はなかった。
 はじめがふと隣を見ると、希亜がのほほんとした表情で全く気にしたふうもなく歩いているのが見える。
(どうしよう、空気が重いよー)
 会話がないことに、はじめがそんな事を思い始めた矢先、希亜がぽつりと呟く。
「また、心配をさせてしまいました」
「希亜君?」
「前に来たときも、心配をさせてしまいました」
「…そうだね」
「私は未熟ですね」
「うん。 …でも良いんじゃないかな。希亜君ががんばっているのは分かっているから」
「結果が全てとは言いませんが、良い結果が出なければいけません」
「でも、まだ結果が出ているわけじゃあ無いんでしょう?」
「それはそうですが…」
「なら、取りあえずでもいいから、結果が出るまではがんばってみようよ」
「…そですね。でも、また心配をさせてしまうかもしれません」
「大丈夫。信じているから」
 はじめがそう言った直後、彼女の耳に希亜が息をのむ音が聞こえた。不思議に思って立ち止まった希亜へと振り向くと、彼は左手で胸の上を押さえ、必死に息 を整えようとしている。
「大丈夫?希亜君」
「……、大丈夫ですよ」
 やや時間をあけて、顔を上げてそう言った希亜の表情は、コロコロと変わるいつもの物ではなく、全ての表情を押し殺したように無彩色な顔をしていた。
「本当に大丈夫?」
「はい」
 返事を返した希亜は再び歩き出する。
 はじめも追いついた希亜の隣を歩く。
 時折はじめが希亜の方へと視線を向けるが、先ほどの事が無かったかのように、希亜はのほほんとした表情のまま歩いている。
「そうそう。あそこの模型店の店長のご主人ね、梯子が昇れないのよ」
 はじめは気を取り直して会話を持ちかけた。
「珍しい人もいるもんですねぇ」
 いつもののほほんとした返事を返す希亜。その希亜の様子は、さっきの事がまるで無かったかのように、いつも通りの物だった。
 とりとめのない日常会話が交わされ、二人はゆっくりと神社へと近づいて行く。星明かりだけに照らされた道は、神社のある山沿いの緩いカーブへとさしか かっていた。
 ようやく鳥居が見えたところで、それまで続いていた会話の、はじめの言葉が途切れた。
 不意に途切れた言葉を不思議に思った希亜は、はじめの方へと振り向く。
「希亜君は、強いね」
「そですか?」
「本当はね。私、朔ちゃんが跳ばされるところを見たくなかったの。見てしまったら二度と戻って来ない気がして」
 それは、懺悔するようなはじめの言葉だった。
「私は… 人を信じることが出来ないんですよ」
 内容とは裏腹にのほほんとした希亜の言葉が返ってきた。
「…えっと?」
 希亜の意見を待っていただけに、はじめが戸惑った言葉をこぼすが、希亜は言葉を続ける。
「人に信じられる事を感じると、さっきみたいに拒絶反応を起こしてしまうんです。えっと医者の話では精神外傷らしいんです」
「希亜君?」
「それでも、表面上はなんとか普通に話せるようになりました。小学校の頃は酷かったんですよ、いろいろと」
「どうしてそんな事を?」
「本当は綾芽さんに言わないといけない事なんです、自信が無くて予行演習させていただきました」
 ようやくたどり着いた神社前。街灯に照らされた希亜の顔は、恥ずかしいのだろうか真っ赤になっている。
 少なくとも希亜が言った事は嘘ではないと思ったと同時に、はじめは自分の弱音を覆い隠されたような気がした。
 境内へと続く階段を二人は登る。
 はじめも希亜が空を飛ぶことを知っている。二人分の足音が聞こえ続けるのを聞いて、ようやく希亜が歩いている事に気付いた。その事をなんとなくではあっ たが不思議に思い、隣を歩く希亜の方へと視線を向けた。
「はじめさん」
「何?」
「私の口から言えた事ではないかもしれませんが、朔君の事を信じてあげて下さい」
「うん」
「それと、さっきの事は秘密ですよ。高校に入ってからはずっと隠してきましたから」
「じゃあ、どうして私に?」
「どうして、でしょう… 多分尊敬しているからだと思います」
「ええっ!?」
「そんなに驚かなくても。私が見ている切片とは全く別の見方をしても、あなたは十分尊敬に値しますよぉ」 
「おだてても何も出ないよ?」
「そですね。では着いたらお茶にしますか、番茶と羊羹を待ってきましたから」
 希亜は大切な事をはぐらかしているのだろう。とはじめめは思ったが、いつもと違うペースの希亜に、はじめは「そうね」と返事を返し、これ以上追求するこ とはしなかった。
 少なくとも希亜は、自分が吐いた弱音を咎めることはしなかったのだから。


 希亜から遅れることおよそ十分後。
 来栖川姉妹と綾芽、そして朔の四人が、神社の敷地である山の麓の緩い右カーブへと差し掛かっていた。
 朔はそのカーブに差し掛かる直前で立ち止まった、つられるように三人も立ち止まる。
「先輩、俺は多分このまま行くと跳ばされる」
 コクコク。
「何か指示があるなら、今の内だ」
「……こちらは悠朔さんの行動を追ってみます? …信じて下さい? 必ず帰ってくることを?」
 コクコク。
「パパ、これ」
 そう言って綾芽はベルトに固定できるサバイバル用に作られた水筒を朔に渡した。
「そう言えば、サバイバルの道具はあまり用意してなかったな」
 受け取り自分のベルトにつけながら、自嘲気味にこぼす。
「ねえ姉さん、どうやって跳ばされるの?」
 綾香が芹香の方へ振り向き不思議そうにそう訪ねた直後、彼女の感覚から一人分の気配が消えた。
 瞬間を目の当たりにしたのだろうか、耳に届く綾芽の悲鳴がそれに追い打ちをかける。
 綾香が振り返って見ると、その場にへたり込む綾芽に、芹香が駆け寄っていた。
「帰って来るわよ、絶対」
 耳に残る綾芽の悲鳴に、そう自分にも言い聞かすように綾香は言い切る。
 芹香はそれが綾香自身を鼓舞する為の物だと気付いていたが、彼女にはすぐにでも落ち着いた場所で朔の行動をトレースしなければならず、早く神社へと向か おうと焦っていた。
 ふと、神社の方から人が駆けてくる音が聞こえる。
「お嬢様!」
 息を切らせた様子もなく、セバスチャンはすぐさま芹香の側に駆けつけて来た。
「二人をお願いします? はっ、かしこまりました」
 忽然と消えた悠朔に戸惑っている二人に、セバスチャンが今何をするべきかを告げる。その間に芹香はどこからともなく取り出したマントを羽織り、箒に跨る と風を伴って飛び立って行った。
「さあ綾香様も、綾芽様も。まずは神社に戻りましょう」
「うん」
「分かったわよ」
 神社に戻ったところで、自分達にどれほどのことが出来るのか。そんな無力感を感じつつも二人は歩き出すのだった。


 フクロウの鳴き声が聞こえていた。
 周りの景色が一転して約五分と言うところだろうか、朔は深い夜の森の中にいた。
「先輩がこちらの座標を確認できるまで、十五分あれば十分だろう」
 先程まとめた考えを独り呟く。十五分という時間は朔の考え出した時間で、芹香ならばこのぐらいかかるのだろうと大まかに予測したものに余裕率を加えただ けの物であり、何ら確証がある物ではなかった。
 気を紛らわすために持ち物をもう一度確認する。ポケットの中のハンカチ、ティッシュ。綾芽にもらったお茶が入っているのだろう水筒。他色々… と九鬼神 社の安産と交通安全のお守り。
「まるでハイキングだな」
 呟く言葉はあっと言う間に夜の闇の中にかき消され、あとには風に枝葉がそよぐ音だけが広がっていた。
 時間を確認する。まだ予定とする時刻まで五分近くある。
 人間は待つと言う事には不慣れな生き物だと、どこかで聞いたような話しが頭をよぎる。そうは言っても、時間が急に早く流れるわけではない。
 暗順応。闇に目が慣れることを言うが、夜間行動する訓練をしていれば知らないはずはない。ただ今回は元々暗い夜道から、暗い森の中へと跳ばされたのでそ れについて考えることはなかった。
 それでも、跳ばされた当初からしてみれば確実に目は闇夜に慣れていた。
 原生林だろう森に、一本の獣道が見えるほどに…
「前回の道より、通りにくそうだな」
 中央がややくぼんだ、踏み固められただけの道幅は30センチぐらいだろうか。灌木や草で覆われた、ともすれば見失いそうなその道は、大きくてもせいぜい イノシシが通るのがやっとに見える。
 改めて辺りを見渡すが、ここからはその獣道だけが延びているようにしか見えなかった。
「ここが道の終着点か」
 思考とは逆の言葉を発していた。同時にやはり少し混乱しているらしいと分析する。
「少しは不可思議なことにも慣れたと思ったんだがな」
 誰に聞かれるでもなく独り愚痴をこぼす。
 やはり人間、待つと言うことには不向きらしい。
 取りあえず時計を見る、14分は経過していた。
「さて、見せてもらおうか」
 待ちくたびれた自分を言い捨てるようにそう言うと、気を取り直して悠朔は獣道へと足を進めるのだった。


 九鬼神社内。
 セバスチャンに付き添われた綾芽と綾香が神社に帰ってくると。芹香は居間で、水晶玉を使って朔のトレースをしていた。かなりの集中が必要だと言うこと で、魔法使いの端くれであるはずの希亜すら部屋から追い出されている。
 しばらくはダイニングで、希亜の持ってきていた羊羹で時間をつぶしていたのだが、やがてそれも無くなった所ではじめが提案したのだった。
 カラカラと小気味良い音をたてて、入り口の戸が開かれる。
 はじめに続いて綾芽と綾香の二人が脱衣所に入ってくる。
「ここの温泉って源泉ですか?」
「ううん、近くの温泉宿からのご厚意でひいてもらっているの」
「近くに温泉があるんだ」
「小さな所なんだけど、良い所よ。ここも朔ちゃんが改装してから、本当に温泉宿みたいなお風呂になっちゃったけどね」
「合宿の時よりも、使いやすそうに変わったんですね」
「うん、おかげで掃除もしやすくなって助かってるわ」
「そっか、普段は一人なんですよね」
「でも近所の方や、最近は希亜君も来るから」
「希亜が!?」
「うん。あの子って行動範囲広いし、ここは落ち着けるんだって」
「いいなー」
「うらやましそうね? 綾芽」
「だって、私だってここお気に入りだもん」
「じゃあ、希亜に乗せて来てもらえばいいじゃない」
「そうじゃなくて、勝手にそんな事したら来栖川のお家に迷惑じゃないかな」
「そう言う事、ふーん」
「な、何?」
「希亜と二人っきりになるのはいいんだ」
「うん」
「襲われても知らないわよ?」
「希亜君に? わたしの方が強いから大丈夫」
「そうじゃなくてね綾芽ちゃん。年頃の女の子が男の子に隙を見せちゃダメだよ」
「そっかな」
「そうそう、いくら好きな人でも、自分を安売りしちゃダメよ」
 はじめは苦笑しながら答え、風呂場の引き戸を開ける。
 星々が彩る夜空、それを縁取る暗影のように、山間の谷間が夜の景観を引き立てる。そんな露天風呂があった。
「うわぁ」
 感嘆の声を上げる綾芽。
「合宿で来たときより、景色が良くなったんですね」
「うん、朔ちゃん拘ってくれたから」
 湯気が立ち上り、赤茶けた温泉で満たされた湯船。
 はじめは湯船に手を入れて、少しかき混ぜ温度を見る。
「うん大丈夫みたい」
 その声を合図に、それぞれにかけ湯をして湯船に浸かった。
「かけ流しじゃあないんですね?」
「うん。ご厚意で分けてもらっているのに、出しっぱなしっていうのも悪いと思って」
「それにしても、悠朔にこういう一面があるとは思わなかったわ」
 綾香は露天風呂をくるりと見渡して、そう感想をこぼす。
「朔ちゃんが帰ってくるときは、いつも用意しているの。いつも入ってくれるから、気に入っているんだと思うわ」
「本当に悠朔がねー」
「ところで、はじめさんは好きな人とかいないんですか?」
「今のところは…、それより綾香ちゃんと綾芽ちゃんにはいるんじゃないかな?」
「綾芽は、分かりやすいわね」
「うー、そう言うママだって」
「思える人がいるって言うのは、幸せなことだよ」
「はじめさんみたいに達観できないですよー」


 九鬼神社内、社務所兼住居の台所。
 台所のテーブルに希亜は座ってお茶を飲んでいた。セバスチャンは薬缶の湯が沸くのを待っている。
 現在綾香と綾芽とはじめは風呂場へ、芹香は居間で悠朔の動向を水晶玉を通して探っている。
 希亜自身も魔女の系譜の者なのだから、サポートが出来るのではないかと思われがちだが。彼は能力的にも向いていない。
 もっとも、希亜がサポートできたとしても芹香は断るつもりだった。希亜の考えていることが今一つ不明な点もあるが、それよりも今回の事の顛末をしっかり と見届ける責任があると考えているからだ。
 薬缶のお湯が沸き、セバスチャンが慣れた手つきでお茶をいれる。
「少しよろしいかな?」
「? なんでしょ」
 のほほんと返事を返した希亜。その前と向かい合う位置に湯飲みを置いてセバスチャンはその席に着いた。
「朔… 弟の方だが。どうしたいと考えているのか聞きたい」
「結論だけ述べれば、自分を正しく知ってもらって、元のさやに収めたい。たったそれだけです、芹香さんは私とは違うようですから、あの人とは基本的に別行 動ですね」
 そうか、とセバスチャンはお茶を一口ほど啜る。
「綾芽さんは実際の所、来栖川の血を引いているんですよね?」
「それについては、お答えできませんな」
「そですか」
 希亜は特に気にしたふうもなく、セバスチャンが入れたお茶を啜る。口の中に広がる芳醇な味わいが心地よい。 同時に簡単には真似はできないだろうと思 い、希亜は素直にその腕前をほめる。
「すばらしいお手前ですね」
「これはどうも。さて、一つ教えてもらうとしますかな」
 柔らかい口調のままセバスチャンは、その真剣な眼光を希亜に向ける。
「確証を持って答えられることでしたら」
 希亜は、ただそう答えた。
「では、綾芽様の事についてだ。どうしたい?」
「ずいぶんとあからさまに聞くのですねぇ」
「こんな事は回りくどく聞いても仕方あるまい」
「答えを言えば。死か時か世界か、いずれかが二人を分かつまで、添い遂げたいと思ってます。ただ、普通はこんな世間知らずな事、言えませんよね」
「それで、その代償が左手の傷か?」
「代償というのは、何かを失う代わりに何かを得ることですよぉ。こんなもの代償にもなりませんし、代償にするつもりもありません」
 それは淡々とした会話だった。すぐ隣の居間にいる芹香は、集中しているとは言え会話が少々耳に入っていた。 そして、さも当然とばかりに問答は続けられ る。
「芹香様が言うには、綾芽様はとても気を許しておられる。だがお前は本当に愛しているのか? 本当に綾芽様を求めているのか?」
「母の言葉ですが。いつの時代でも愛する事を知らない者は、他者から見て不幸に見えることが多いもの。私はそれを真理だと思ってます。ですから綾芽さんに も愛情を知ってもらいたいと、そう考えています」
「綾芽様には愛情が足りないとでも言うのか?」
「少なくとも親から、またはその代わりの者から受ける分に関しては、そう思います」
「全ての子供が、親からの愛情を受けられるわけではあるまい」
「それもまた正しいですね。結論としては、私は綾芽さんからの返事を待ちます。少なくとも恋い破れるまではあの人を愛し続けます」
「仮にそうだとして、それまで思い続けるのか? 長い時を思い続けるのは、とても酷だぞ?」
「それでも、私は綾芽さんが好きなんです」
「そうか…」
 セバスチャンがお茶を啜る。
「あなたには、どう見えますか?」
「綾芽様の事だな?」
「はい」
「聞いてどうする?」
「そですね」
「若造なら、若造らしくした方がいい。老婆心からの忠告だ」
「行動は、十分青いと思うんですけどねぇ私は」
 ため息のように呟かれた希亜の言葉の後、玄関が開く音が聞こえた。風呂へ行っていたはじめ達が帰ってきたのだろう。
「さて」
 希亜はふわりと立ち上がると、セバスチャンに向き合った。
「私は一度自宅に帰ってきます」
 そう言って返事も待たずに、玄関へと向かって行った。
 玄関の方から、希亜と綾芽達の会話が聞こえてくる。どうやら彼は戻ってきて温泉入るらしい。
 セバスチャンは自分のお茶を一啜りして、風呂上がりの彼女らへのお茶を用意し始めるのだった。



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Ende