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1999.8.14


BIOGRAPHY
ジミの軌跡

1942-1960

誕生〜ハイスクール時代
●ジミ・ヘンドリクスことジェームス・マーシャル・ヘンドリクスは1942年11月27日、ワシントン州シアトルにて生まれました。

ジミが生まれた時、父(アル・ヘンドリクス)は軍隊にいたので会うことが出来なかったそうです。
また、母(ルシール)もジミを放り出して外へ遊びに出かけていることが多かったらしく、ジミにとってはあまり恵まれていない人生のスタートだったようです。
父・アルが除隊して戻ってきてからも、両親は別居していることが多かったため、親戚で面倒をみてもらっていたそうです。

●両親が離婚。このときジミ9歳。

●母・ルシール、アルコールが原因で亡くなってしまいます。32歳の若さでした。このときジミは15歳。

このころ、ジミは初めてのギターを父に買ってもらっています。15、16歳というから、思ったより遅いスタートではなかったかと思います。

●ハイスクールに入学した後、「ロッキン・キングス」という地元のバンドに参加。最初はギターでベースのパートを弾いていました。

ロッキン・キングスでの活動は、地元ではそこそこの人気を集めていたようですが、アマチュアの領域をこえるものではなかったようです。
余談ですが、セカンド・アルバム『AXIS : BOLD AS LOVE』収録の "Spanish Castle Magic" という曲は、このころジミがよく出演していたシアトルのクラブ、「スパニッシュ・キャッスル」から作られているとのこと。

1961-1962

軍隊時代
●ジミはハイスクールを退学し、1961年、軍隊に入隊。

軍隊時代には、将来最後まで一緒に活動をすることになる、ビリー・コックスと出会っています。出会ったとき、ジミは18歳、ビリーは20歳でした。

●パラシュート部隊に配属されていたのですが、パラシュート訓練時に足を負傷し、1年ほどで除隊します。1962年7月。このときジミ19歳。
1962-1963

除隊後のバンド活動
●ジミの後を追うようにビリーも除隊し、バンド活動を続けて行くために共同生活を始めることになります。

二人はナッシュビルに行くことにし、「デル・モロッコ」というクラブに専属で雇われることになりました。このときのバンド名は「キング・カジュアルズ」。
このクラブで、ギタリストのラリー・リー(ウッドストックで一緒にステージに立つことになる)と出会っています。

●ジミは一時期、祖母が住んでいる家(カナダのバンクーバー)に滞在し、数ヶ月の間、ボビー・テイラー&ザ・バンクーバーズというバンドに加入し、クラブで演奏していました。

ジミの祖母(父方)はチェロキー・インディアンの血を受け継いでいたらしく、ジミにもその血が流れています。(1984年、100歳で死亡)

●63年になって再びナッシュビルに戻ります。

●ナッシュビルでクラブ出演中、ツアー・プロモーターに認められ、ニューヨーク行きの話が出てきます。

このころ、ジミの初レコーディングとして知られるロニー・ヤングブラッドとの録音が行われています。
『THE FIRST RECORDINGS』 『ABTONE SESSION』
1964

始めてのニューヨーク〜アイズレーズとの活動〜バックバンド時代
●64年初め、始めてニューヨークに行くことになります。このときジミ21歳。

ニューヨークでは、アイズレー・ブラザーズがギタリストを探しているということで、ジミが紹介され雇われることになりました。
アイズレーズの専属ギタリストとなったジミは、全米をツアーして回ることになります。同時にレコーディングにも参加しているようです。

●64年11月ごろ、アイズレーズのツアーでナッシュビルに来た時、ツアーを辞めてしまい、アイズレーズを離れてしまいます。

このナッシュビルにて、ツアーに来ていたゴージャズ・ジョージにスカウトされ、サム・クックやジャッキー・ウィルソンなどの有名アーティストのバックで演奏することになり、この後南部や中西部をツアーして回ることになります。
この間、ブッカー・T・アンド・ザ・MG'sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーと出会い、メンフィスのスタジオにてデモ・テープを作っているそうです。
1965-1966

リトル・リチャードとの活動〜PPXとの契約〜自己のバンド(ジミー・ジェームス・アンド・ザ・ブルー・フレームス)結成
●65年になると、リトル・リチャードと一緒に活動することになりますが、数ヶ月でクビになります。

ジミ曰く
『オレ達はユニフォームを着るのにうんざりしていて、いかしたシャツを着ていったんだ。すると、リチャードはミーティングを開いて、
 「オレ様がリトル・リチャードだ。このオレ様がリトル・リチャードなんだ。オレはロック&リズムの王様なんだ。着飾っていいのは、このオレ様だけだ。そのシャツを脱げ!」
って言う訳さ。すべてがそんな調子なんだぜ。安いギャラ、惨めな生活、酷い目に遭ってばかりさ』

●65年10月ごろニューヨークでカーティス・ナイトと出会い、そのマネジャーであるエド・シャルピンの"PPX"と3年間の契約を交わします。

この3年間の専属契約が後々問題を引き起こすことになります。

●66年になるとキング・カーティス・バンドのギタリストとして参加することになります。

66年の半ば頃まではキング・カーティスやカーティス・ナイト・アンド・ザ・スクァイアーズのギタリストとして活動をします。

●6月ごろ、ついに自分のバンド「ジミー・ジェームス・アンド・ザ・ブルー・フレームス」を結成、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで活動を始めます。

このバンドでは既に "Hey Joe" や "Wild Thing" なども演奏していたようです。そして、メンバーには後の「ドゥービー・ブラザーズ」のギタリスト、ジェス・バクスターや後の「スピリット」のギタリストになるランディ・カリフォルニアがいました。
1966

チャス・チャンドラーとの出会い〜始めてのイギリス行き〜ミッチ、ノエルとの出会い〜エクスペリエンスのデビュー
●7月頃。当時、「アニマルズ」のベーシストとしてニューヨークに来ていたチャス・チャンドラーがジミの演奏を見て、「一緒にイギリスへ行こう」と誘ったことから、すべてが始まります。このときジミ23歳。

イギリス行きを決めたジミ、まさかこの年末にイギリスでデビューするとは思ってもいなかったと思います。
チャスはこのとき既に「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」という新しいバンド名を決めていたそうです。

●9月24日、ジミとチャス、ロンドンに到着。

●ロンドンに着いてから1ヶ月も経たないうちに、オーディションにやってきたノエル、ミッチらと出会い、「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」が誕生。

●10月にはフランス・ツアーを行なうことになり、そのリハーサルやレコーディングを始めます。

●12月16日、デビュー・シングル「Hey Joe / Stone Free」がリリースされ、英国 デビュー。
1967

デビュー・アルバム・リリース〜モンタレー・ポップ・フェスティヴァル〜セカンド・アルバム・リリース
●3月17日、セカンド・シングル「Purple Haze / 51st Anniversary」が英国にて発売。

このころには、すでにイギリス中のミュージシャンの注目を集めていて、ジミのギグにはさまざまなスターがやってくるようになります。
ポール・マッカートニー、ピート・タウンゼンド、エリック・クラプトン、ミック・ジャガー…。

●5月にファースト・アルバム『ARE YOU EXPERIENCED』がリリース。

すでにテレビ・ラジオ出演の他、英国ツアー、ヨーロッパ・ツアーも行われ、後はアメリカでのデビューを待つばかりという状態になっていました。
ここらあたりの演奏は『BBC SESSIONS』にて聞くことが出来ます。(BBCラジオ、「サタデイ・クラブ」)

●6月、ジミはアメリカに戻り、「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」で衝撃のアメリカ凱旋デビューをすることになります。

『JIMI PLAYS MONTEREY』(CD) / 『LIVE AT MONTEREY』(VIDEO)

●モンタレーの後、2ヶ月ほどアメリカに滞在し、ツアー(何とモンキーズ!の前座)やレコーディングをしています。

●再びイギリスに行き、セカンド・アルバムの製作にとりかかることになります。

この時期のライヴは『STAGES』'67(ストックホルム)や『BBC SESSIONS』で聞くことが出来ます。

●この年の後半はセカンド・アルバムのレコーディングや2度目の英国ツアーなどに費やされます。

●12月1日『AXIS : BOLD AS LOVE』がリリースされ、激動の67年が終わります。
1968

アメリカでの活動〜『ELECTRIC LADYLAND』リリース
●セカンド・アルバムが発表され、ますます勢いが出てきたエクスペリエンスは、年明けすぐから、ミニ・ヨーロッパ・ツアーを行ないます。

その後、ロンドンに戻ってきたのも束の間、2月からは2度目のアメリカ・ツアーに向かいます。

●2月、ジミは7年ぶりに故郷シアトルに戻り、家族に会ったり、母校を訪ねたりしています。

●68年は、5月末のヨーロッパ・ツアーと7月の英・ウォバーン・ポップ・フェスティヴァル出演以外はほとんど活動の場をアメリカに移し、ツアーや『ELECTRIC LADYLAND』のレコーディングに明け暮れます。

●10月25日、生前のジミにとって最後のスタジオ・アルバムとなってしまう『ELECTRIC LADYLAND』がリリース。

このアルバム、11月にはついに全米チャートの第一位となる大ヒットとなっています。

●68年の主なライヴで、覚えておきたいものとして、
1月29日 パリ・オリンピア劇場→『STAGES』'68
3月13日 ニューヨーク、ザ・シーン・クラブ(ドアーズのジム・モリスン乱入)→『Red House-Live1968』他多数
5月10日 フィルモア・イーストに初出演
7月16日 イギリス、ウォバーン・ポップ・フェスティヴァル(68年唯一のイギリスでのコンサート)
8月23日 ニューヨーク・ポップ・フェスティヴァル出演
9月14日 ハリウッド・ボウルでのコンサート
10月10日〜12日 サンフランシスコ、ウィンターランドでの3日間にわたるコンサート→『LIVE AT WINTERLAND』 『THE JIMI HENDRIX CONCERTS』
などがあります。
1969

ロイヤル・アルバート・ホール公演〜エクスペリエンス解散〜ウッドストック〜バンド・オヴ・ジプシーズ
●年明け早々の1月4日、エクスペリエンスはBBCテレビの「ルル・ショー」に出演。

生放送だったにもかかわらず、2曲目"Hey Joe" の演奏を途中で止め、いきなりクリームの "Sunshine Of Your Love" を演奏しはじめます。予定外のハプニングにテレビ局は大騒ぎとなりました。
『BBC SESSIONS』

●1月はスウェーデン、デンマークなどのヨーロッパ・ツアーを行ないます。

このツアーでモニカ・ダンネマンと出会っています。ジミと最後までいっしょにいたガール・フレンドとして有名ですね。

●2月18日と24日、ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサート。

ロンドンでは15ヶ月ぶりとなる久々のコンサートとなりました。
エクスペリエンス内ではすでに不協和音が聞かれていて、バンドとしてのまとまりは以前ほどではありませんでしたが、このときのジミの演奏は素晴らしいものがあります。
『HENDRIX IN THE WEST』 『THE LAST EXPERIENCE』他多数
ノエル・レディングがエクスペリエンスと同時に活動していた、ファット・マットレスはこのコンサートでデビューしています。

●再び、アメリカに戻り、4月〜5月は全米ツアーを行ないます。

この時期のライヴは『LIFELINES』(69.4.26 ロス・アンジェルス・フォーラム)や『STAGES』'69(69.5.24 サンディエゴ)で聞くことが出来ます。

●6月、エクスペリエンス解散。(69.6.29 デンヴァー・ポップ・フェスティヴァル)

ミッチとは70年になってからも再び一緒に活動することになるのですが、ノエル・レディングとはこの日を最後に、2度と同じステージに立つことはありませんでした。

●7月、ジミ・ヘンドリクスはウッドストックのショーカンに家を借り、旧友ビリー・コックスらを迎えセッションを開始。

●8月15日から3日間行なわれたウッドストック・フェスティヴァルの大トリとして出演。

このときのバンド名は「ジプシー・サンズ・アンド・レインボウズ」。パーカッションやサイド・ギターを加えた6人編成のバンドでした。
『:WOODSTOCK』 『LIVE AT WOODSTOCK』

●この後、スタジオに入ってレはコーディングを行なったり、セッションの日々を過ごしますが、結局このバンドもうまくゆかず、解散という形となりました。

『ELECTRIC LADYLAND』に続くニュー・アルバムの製作を急がれていたりもして、ジミにとってはツラい時期だったと思います。

●11月ごろには、バディ・マイルス、ビリー・コックスらとセッション行ない、「バンド・オヴ・ジプシーズ」としての活動をスタートさせます。

●この年の大晦日と翌日、ニューヨークのフィルモア・イーストにて「バンド・オヴ・ジプシーズ」がデビューすることになります。

ジミを含めすべてアフリカン・アメリカ人のトリオとなり、エクスペリエンスとは違ったグルーヴを生み出しています。
『BAND OF GYPSYS』 『LIVE AT THE FILLMORE EAST』

1970

バンド・オヴ・ジプシーズ解散〜クライ・オヴ・ラヴ・バンド〜最後
●1月28日 ニューヨークのマジソン・スクェア・ガーデンで「バンド・オヴ・ジプシーズ」のコンサート。

ジミは2曲目の途中で演奏を止め、ステージから降りてしまいます。結局、これがバンド・オヴ・ジプシーズ最後の日となってしまいました。
しかし、ジミには自分のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオ建設の資金を稼ぐためにも、ツアーを続ける必要がありました。

●その後、ギリスからミッチ・ミッチェルを呼び、ビリー・コックスらとバンドを結成し、セッションを開始します。

このバンドは、4月から始まるアメリカ・ツアーの名前「クライ・オヴ・ラヴ・ツアー」にちなんで、「クライ・オヴ・ラヴ・バンド」と呼ばれたりします。

●4月、先のフィルモア・イーストでのライヴが『BAND OF GYPSYS』としてリリース。(英国は6月)

●4月25日 L.A.フォーラムにて全米ツアーが始まります。このツアーは8月1日ハワイ・オアフ島のホノルルでのコンサートまで続きます。

ジミはこのツアーの合間をぬうようにして、完成したばかりのエレクトリック・レディ・スタジオにてレコーディングを行なったりと、精力的に活動をしています。
この時期のヴィデオ作品としては
5月30日 バークレイ・コンサート→『JIMI PLAYS BERKLEY』
7月4日 アトランタ・ポップ・フェスティヴァル→『AT THE ATLANTA POP FESTIVAL』
7月30日 ハワイ・マウイ島で映画「レインボウ・ブリッジ」の撮影。→『RAINBOW BRIDGE』
などが発表されています。

●8月30日 ワイト島フェスティヴァル。69年2月のロイヤル・アルバート・ホール公演以来のイギリスでのステージ。

『AT THE ISLE OF WIGHT』(VIDEO) / 『ISLE OF WIGHT』(CD) 『ISLE OF WIGHT '70』(CD) 他オムニバスもあります。

●これに続いて9月に入ってからもヨーロッパ・ツアーを行ない、スウェーデン、デンマーク、西ドイツと回ることになるのですが、9月6日西ドイツ・フェーマン島でのコンサートが最後のコンサートとなってしまいました。

●その後イギリスに戻りますが、9月16日エリック・バードンとロンドンでのセッションが観客の前で演奏した生涯最後の曲となりました。

●9月18日 ロンドン、サマルカンド・ホテルにて昏睡状態になり、病院に運ばれる途中、死亡。

死因は窒息死。睡眠薬中毒による嘔吐物を喉に詰まらせたため。体内からは大量のアルコール(ワイン)も検出されたそうです。ここらへんは98年に発売されたジミヘン本、『実録ジミヘン最後の日』に詳しく書かれていますが、今のところ真相はわからないようです。

●10月1日 シアトルの教会で葬儀がおこなわれました。参列者にはマイルス・デイヴィス、ジョニー・ウィンターらの姿もありました。

●ジミのお墓はシアトルの「グリーンウッド・メモリアル・パーク」にあり、その横にはジミの祖母であるノラ・ヘンドリクスのお墓もあります。


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