「………個体番号TXSA−000414−G」

 冷ややかな、感情の起伏が全く見られない声が、静謐に満ちた
その部屋の空気を震わせた。壁にかけられた燭台に立つ蝋燭の炎
が、その部屋の内部をかすかに照らし出す。部屋の四方にわだか
まる闇よりもなお黒い洋装をした男は、その部屋の中央に据えら
れたデスクに軽く肘をあずけて、まるで呟くように淡々と言葉を
続けた。

「個体番号TXSA−020520−R。
 個体番号TXSA−071224−M。
 ………以上が、捕獲対象だ。」
「同時に3体ですか」

 答える声もまた、感情がうかがえない。しかし、その部屋の主
とおぼしき男よりは、その声にはまだ、人間的な響きがあった。
 光源の乏しい部屋の、四隅の一角。ほとんど闇と同化している
かのようにひっそりとたたずむ、長身の男。切れ長の瞳が、何か
を探るような光を帯びて、中央に座る男へと向けられた。

「報酬のほうは、先に示したとおりだ。不服はなかろう? 優に
拾年は遊んで暮らせる額だからな」
「………人員を頂けますか? 1体ならともかく、3体を全て無
傷、というのは、いくら報酬をあげてもらっても、保証できかね
ます」
「………」

 わずかに、男は沈黙した。ややあって、先ほど以上に感情の見
られない声が、告げた。

「………個体番号TXSA−020520−R。これ以外の天使
は、頭部のみ無傷であれば、殺してもかまわん。そのかわり、で
きるだけ人目にたたぬよう、残りの部分は完全に消去しろ。
 いいか。TXSA−020520−Rだけは、何としても、無
傷で捕らえろ。他の2体は、最悪頭部のデータユニットが残って
いれば良いのだ。
 機密保持を優先し、誰にも知られることがないよう、隠密裏に
事を運べ」
「………承知いたしました」

 長身の男は頷いた。そのまま、ふい、と、男の姿がかき消えた。
 再び沈黙が、その部屋に訪れる。残された男は、デスクに肘を
つけたまま、しばらく、中空を眺めていた。やがて、かすかな呟
きが、その口元から紡がれた。

「――私たち賢人機関の手から、逃れられると思っているのか?
 TXSA−020520−R……
 由里よ………」



蒸気天使

〜 Steam Angels 〜

第一話「三人の天使」


 皇紀2584年。  広く世界に門戸を開いた日本は、蒸気機関という名の力を得て、急 速に発展していった。あちこちに蒸気機関による工場が立ち並び、近 代的な建築作業に従事する蒸気機械が日常に見られるようになり、整 備された道路には蒸気自動車が列をなして走る。天高くそびえ立つ排 気用の煙突が、ひっきりなしに熱い水蒸気や燃えかすを吐き出し、熱 く燃え盛る炎を封じ込めたボイラーが、周囲の空気を熱し、騒々しい 音をまきちらす。  蒸気都市、東京。  万能の力、蒸気の力に支えられた、日本の帝都の一角。路地を行き 交う人々の流れからややはずれた場所に、彼女はようやくたどりつい ていた。  モデル顔負けの美しいプロポーションを、目の覚めるようなモダン な赤い洋装で包んでいる。赤い帽子の裾から、毛先がカールした栗色 の髪が見える。好奇心にきらめく、明るい栗色の瞳。闊達な足取りで 路地裏の通りから一歩を踏み出した彼女は、軽く視線を巡らせた。  わずかに小首をかしげ、探るように沈黙する。一度まばたくように 綺麗な瞳を閉じた後、小作りの整った美貌に晴れやかな微笑を浮かべ て、彼女は後ろを振り向いた。 「――大丈夫。追っ手はまいたみたいよ、かすみさん」 「……それならばいいのだけれど」  落ち着いた声が、彼女が出てきた通りの影から流れた。やがて、し っとりとした仕種で、かすみと呼ばれた声の主が姿を現した。  つややかな鳶色の髪を束ねた、大人びた女性。先の女性より二、三 歳年上だろうか。藤色の着物を身にまとい、優雅な足取りで赤い洋装 の女性に近づく。黒目がちの瞳がさりげなく周囲に向けられ、そして、 ふっと小さな微笑を浮かべた。 「そうね、由里。これだけ人がいれば、私たちを見つけることも難し いわね」 「ええ」由里と呼ばれた赤い洋装の女性は、頷いて周囲を見まわした。 「人の流れにまぎれて東京空港まで出れば、蒸気飛行船の一隻ぐらい すぐに調達できるから、そうすれば……」 「……あ、もう出てってもいいんですかぁ?」  かすみの後ろから、やや幼い少女の声が聞こえた。二人が頷くより も早く、とととっと小走りに、建物の陰から少女が姿を現した。  大きな茶色の瞳。濃茶色の髪を肩のところで短くそろえた愛くるし い顔だちは、二人よりも数歳年下と見えた。鮮やかな菜の花色の小袖 に紅赤色の半纏(はんてん)、白い紐をたすき掛けにして両袖をまく りあげた、いかにも下町の看板娘のような姿の少女は、明るい笑顔を 浮かべ、二人のところへと駆け寄っていった。 「……ちょっと、椿ちゃん。いいと言うまで出てきちゃ駄目って言っ たでしょ?」 「えー? そうでしたっけ?」  椿と呼ばれた少女は不思議そうに小首をかしげた。愛らしい仕種で はあったが、かすかに眉をひそめて、由里は答えた。 「あたしのメモリには、3分22秒前に、確かにそう言ったと記録さ れているわ。検索してみなさい」 「……あら、ほんとだ」てへ、と椿は舌を出した。「私の記録にもあ りましたぁ」 「……まあ、椿の度忘れ(メモリエラー)は、いつものことだから」  とりなすように、かすみが穏やかに口を添える。どう考えてもフォ ローとは思えない言葉だったが、やれやれ、というように肩をすくめ て、由里はそれ以上追及しなかった。 「とにかく、行きましょう、かすみさん、椿ちゃん。それほど余裕が あるわけじゃないんだし」 「ええ、そうね」 「はいっ!」  三人は頷き合うと、歩き出した。たちまちのうちに人の流れの中に まぎれこむ。  道行く人々の格好は、三人とそれほど変わらない。洋装、和装、織 り交ぜとなって、雑多な人々が道を行き交う。  だが、三人とすれ違った人々のうちの幾人かは、不審そうな顔で、 三人を見送ることになった。その視線は、共通して三人の背中へと向 けられていた。  背中と腰の真ん中あたり。そこから、肩甲骨の外周をなぞるように して上部へと、奇妙なものが二本、突き出ていた。細長い、パイプの ようなもの。そしてその先端からは、薄く水蒸気のようなものが立ち 上っていた。  そう。  まるで、蒸気機関の排気筒のようなものが、彼女たちの背中から生 えていたのだった。  完全自律人型蒸気・巳型シリーズ−戦闘用特殊機能強化型。  開発コードネームは、<蒸気天使>。  由里たちは、そう、呼ばれていた。  独自の判断によって行動できる、汎用人型蒸気機械。その外見は、 普通の人間とほとんど異ならない。ただ一点、その背中に設置された、 排気筒以外は。  蒸気テクノロジーの進化は、ついに人間以外の知的生命体をも生み 出すことに成功した。スチームオーガニゼーション。人工生命体。自 動人形。様々な呼び名があるが、この時代、そのようなものが必要と される目的は、ただ一つだった。  すなわち、軍事目的。  その、普通の人間と異ならない容姿を利用して敵地に潜入し、諜報、 暗殺、破壊活動を行う、戦闘用特殊人型蒸気機械。  むろん、一般の人々には、その存在すら知らされていない、最重要 機密である。  その最重要機密が、今自分達の目の前を歩いていることを、行き交 う人々は全く知ることがなかったのだった。 「………いったい、拾弐番倉庫って、どこだ?」  地図を片手に、呆然とした口調で、大神一郎は呟いていた。逆立っ た黒髪。切れ長の、鋭さを含んだ黒い瞳、細く、ややとがりぎみの顎。 端正な、男らしい容貌が、当惑の表情を浮かべて周囲を見回す。  均整の取れた肢体にまとうのは、純白色の帝国海軍の尉官の軍服。 肩章を見ると、少尉、それも物腰からして、まだ任官したばかりとい った感じであった。  大神の立っているのは、東京空港の一角。様々な倉庫が立ち並ぶ、 人気のない倉庫街であった。  飾り気のない、見上げるほど大きな倉庫が、視界に数十と並んでい る。どれも似たり寄ったりの形である上に、番号もかすれて読めない。 「弱ったなぁ。もうすぐ時間だよ………」  情けなさそうに呟いて、大神は手元の地図へと目を落とした。適当、 という言葉を絵にすればこうなるのでは、といった感じの落書きめい た地図の上、大きく『ここに来いっ!』と書かれた文字 だけがやけに目につく。そのおかげで、文字から延びる矢印の差し示 す先が、ほとんど判然としない。小さく『拾弐番倉庫』と書かれてい るのを頼りに、もう一時間近く大神は倉庫街を歩き回っていたのだっ た。 「道を聞こうにも、誰もいないしなあ………」  これほど広いにもかかわらず、あるいはそれだからか、倉庫街に足 を踏み入れてから、大神は誰にも会うことができなかった。 「大体、こんなところで、何を受け取ればいいんだろう?」  大神の脳裏に、陸軍省に呼ばれたときの光景が思い起こされた。海 軍の軍人である大神が陸軍に呼ばれる。そのことに不審を抱きつつ出 頭した大神を待っていたのは、陸海軍に多大な影響力を持つと噂され ている花小路伯爵だった。驚き慌て、敬礼する大神に、伯爵は『ここ へ、あるものを取りに行ってもらいたい』と告げたのである。  まだ駆け出しの少尉とはいえ、大神も帝国士官学校を首席で卒業し た優秀な士官である。伯爵の言葉の裏に、ただのお使いではない、軍 事機密の匂いを感じ取り、それほどの信頼を受けられたのならと勇躍 この倉庫街へとやってはきたのだが………  ものの見事に、迷ってしまったのだった。 「えーと、ここが第拾九番倉庫で、あっちが第参拾弐番倉庫だから… …こっちにいけば、第拾八番倉庫が……いいっ? 第弐拾四番!?」  順番に並べられていると思われた倉庫だったが、細い路地と縦横に 繋がれた配管で細かく区切られたうえに、あちらこちらがでっぱった りひっこんだりしているおかげで、ほとんど迷宮になりかけている。 「弱ったなあ……」  途方に暮れて呟いた大神の目に、その時、人の姿が飛び込んできた。 目の覚めるような赤い洋装。栗色の毛先をカールさせた髪にちょこん と赤い帽子をのせた、女性の姿。  間違ってもこんな殺風景な倉庫街にいるはずのない女性だったが、 とことんまで弱り切っていた大神は、全く不審を抱くこともなく、助 かった、とばかりに駆け寄った。 「おおい、君! ちょっと聞きたいことがあるんだが………!!」 「えっ!?」  栗色の瞳を丸く見開き、由里は、自分へと駆け寄ってくる青年を見 つめた。 (ま、まずい! 見つかっちゃった!?)  うっかりしていた。あまりにも障害物が多いために索敵システムが 警報を鳴らしっぱなしだったので、先ほど切ったばかりだったのだ。 <天使の瞳>との回線も切断している現在、由里のレーダーはかすみ や椿とほとんど異ならない。倉庫街に由里が入ってから、全く人の気 配といったものを感じ取っていなかったのが、油断を生んだ。  舌打ちしたくなるのをこらえ、由里は内部通信でかすみと椿に告げ た。 『かすみさん、椿ちゃん! あたし、見つかっちゃった!!  今すぐポイントL−57からB−22方面へ逃げてっ!!』 『ええっ!?』 『そんな……あなたを置いて逃げろなんて………』  返事が返ってくる。だが、表情を消して、由里は冷静に告げた。 『心配しないで。相手は一人だから、何とか逃げ出して見せるわ。ポ イントD−11で待っていて。十五分たってもあたしが来なかったら、 そのときはかすみさん、椿ちゃんをお願いしますね?』 『由里――!!』 『通信切るわ。後はよろしく』  そう告げて、由里は通話回線を切断した。同時に、体内の各部を再 チェックする。 (全センサー、異常なし。動力炉、異常なし。蒸気圧、温度チェック。 燃焼炭も、残量は大丈夫ね。――各関節部、起動チェック。潤滑油チ ェック。冷却ファン正常。神経伝達速度、正常。  ――よし!) 「あの、ちょっと聞きたいんだけど」 「……あ、あわわわわっ!!」  いきなりかけられた声に、由里は思わず飛び上がった。ぷしゅうー っと間の抜けた音とともに、水蒸気が由里の背後から突き出した排気 筒から噴き上げた。 (あああっ! しまったぁぁぁっ!!)  内心、ほぞをかむ。逃走用に高めておいた蒸気圧が、今の一瞬で無 駄に開放されてしまったのである。もう一度蒸気圧を高めるまで、目 の前の男が待っていると考えるほど、由里とて楽観的ではなかった。 (ど、どーしよー!?) 「………あのさ、君。ちょっとここの場所を、教えて欲しいんだけど」  おろおろする由里の目の前に落書きのような地図を広げて、目の前 に立った男――大神は、困り果てた顔で告げた。 「――え?」 「いや、どうも迷ってしまったようでね」  苦笑を浮かべて、大神は由里を見た。鈍感なのかただの馬鹿なのか、 先ほどの由里の出した水蒸気にも、明らかに怪しい由里の素振りにも 全く気づいた様子はない。 「………」 「あの、ちょっと、君? 聞いてる?」  呆然とした様子で硬直したままの由里に、大神は心配そうに声をか けた。  その声に、ようやくはっと由里は我に返った。 「……あ、ご、ごめんなさい。……え、えーと……何でしたっけ?」 「この、第拾弐番倉庫がどこにあるか、教えてほしいんだ」  全く不審を抱いた様子もなく、大神は繰り返して由里に尋ねた。 (……よ、よかった! この人、あたしのことに気づいてないわ)  その大神の様子にほっと胸をなで下ろして、由里はようやく落ち着 いて、指し示された地図を見つめた。 「えーと。現在いるのが、ここです。それで、こっちの通路をこうい った時に、右手に見えるのが第拾弐番倉庫、のはずです」  事前に内部メモリにダウンロードしておいた倉庫街の地図と照らし 合わせて、そう告げる。明らかにほっとした様子で、由里の目の前に 立っていた青年は爽やかな微笑を浮かべた。 「ありがとう、助かったよ」 「あ、ど、どういたしまして」  思わず、由里はどもった。端正な顔に広がった、暖かな微笑。切れ 長の瞳に宿る、明るい光。すらりとした長身を見上げると、まるでそ こに太陽があるかのような思いがする。 (あ………素敵な笑顔………) 「それじゃあ、行ってみるよ」軽く手をあげて、眩しいような微笑で 大神は由里を見つめた。「本当にありがとう。………えーと?」 「あ、ゆ、由里です」  思わず、由里は自分の名前を告げていた。大神の笑顔が、さらに深 く明るくなった。 「由里くんだね? 俺は大神。大神一郎。本当にありがとう!」  そう言って、大神は由里に背を向けた。そして彼女に示されたよう に、地図を片手に倉庫街の細い路地を抜けていった。  由里は、呆然としてその後ろ姿を見送っていた。何か暖かなものが 由里の体内に残った気がした。 (あ、あれれ? これ、何だろう?)  反射的に自己診断プログラムを走らせる。だが、動力炉、蒸気漕と もに、熱量や圧力に異常は認められない。  だが、身体のどこかに微妙な熱が発生している気がしてならなかっ た。 (ど、どうしたのかしら? センサーの故障?)  混乱して、由里は頭を抱えた。その時、ぴっ、と音を立てて、内部 通信の回線が開いた。 『由里!? 大丈夫!? 由里!?』 『………あ、かすみさん』 『今、捕まっているの? それとも、無事に逃げられたの?』  気がかりそうな声に、はっと由里は我に返った。 (そうだった。あたし、こんなとこで停止している場合じゃなかった んだわ) 『大丈夫よ、かすみさん。今からそちら、ポイントD−11に行くか ら、待ってて』 『そう、無事なの。よかったわ』ほっとした声でかすみは答えてきた。 『じゃあ、D−11で待ち合わせしましょう。何分で来れる?』 『2分15秒後』  そう告げて、由里は軽やかに走り出した。すでに、胸の中にうずい たものへの関心は薄れていた。 「―――帝国海軍少尉、大神一郎、ただいま到着いたしました!」  さっと陸軍式に敬礼を施した大神の前に、その男は立っていた。帝 国陸軍の将校の軍服を隙なく着こなし、きらびやかな勲章を多数飾る、 いかにも歴戦の将官、といった感じの男である。鋭く切れ上がった瞳 が、抜き身の刃のような光を帯びて、大神へと切りつけられた。  普通のものならば、その眼光の鋭さに、思わず腰がひけてしまうだ ろう。だが、大神は全く異なっていた。無礼にならない程度に相手の 視線を受け止め、揺るぎない。  そのような大神を見て、やや男は視線を和らげた。 「………帝国陸軍技術少佐、山崎 真之介だ」  短く、男――山崎は告げた。 「花小路伯爵からはうかがっている。ついてきたまえ」 「はっ!」  軽くあごをしゃくり、山崎は大神の返答を待たずに部屋を出ていっ た。かすかに眉を寄せたものの、大神も質問をすることなく、その後 ろに続く。  第拾弐番倉庫は、かなり大きな倉庫であった。広さからすると、倉 庫街の四分の一ほどを占めている。それほどの大きさにもかかわらず 大神が迷ってしまったのは、その巨大な空間のほとんどが地下、東京 港湾の埋め立て地の中に没していたからであった。いうなれば大神は、 拾弐番倉庫の屋根の上を彷徨っていたことになる。  地上部分の倉庫の入り口、山崎と会見した警備室とおぼしき部屋か ら、地下へと続く階段を降りていく二人の耳に、やがて、蒸気機械の 作動音らしきものが響いてきた。巨大な唸り声のようなボイラーの音。 圧縮された水蒸気が吹き出す音。駆動する機械の擦過音。ごぅんごぅ んという、蒸気エンジンの駆動音らしきものも聞こえる。  そんな音を聞きながら階段をさらに降りていった二人は、やがて、 一枚の扉の前に立った。研究施設にあるような、分厚い鋼鉄製の、ハ ンドルつきの扉。そしてその両側に立つ、数人の警備兵が、この先に あるものの重要性を如実に示していた。  ザッと音を立てて、警備兵が敬礼する。 「開けたまえ」  短くうながす山崎の言葉に、警備兵が錠をはずす。重たい音を立て て、扉が開かれた。  とたんに、扉のすき間から、轟音のような蒸気音と機械の動作音が 溢れ出てきた。ごぅぅん、ごぅぅん、と重たく低い、轟音。高熱と湿 気を伴った空気が、吹き荒れる。 「来たまえ、大神少尉」 「はい」  うながされるままに、大神は山崎と共にその中へと足を踏み入れた。 熱風が満ちる部屋は、ここにいたるまでと数度は気温が違うだろう。 どっと汗が流れ出すが、蒸気機関の稼働する空間にふさわしく、湿気 もものすごい。蒸発することなく軍服を湿らせ、不快感を増大させる。  だが、大神はそのようなことには構っていられなかった。山崎がい るせいもあったが、何より、目の前に広がった情景に、瞳を丸くして 絶句していた。 「………こ、これは―――!!」  大神が声を出すまでに、数秒の間があった。  入り口を入ったすぐの場所から倉庫の内周をぐるりとめぐっている 作業用通路の手すりをつかみ、思わず大神は身を乗り出して、そこに あるものを見つめていた。  それは、飛行船だった。それもただの飛行船ではない。その巨体を 浮かべるためのヘリウムガスの詰まった気球部分は分厚い装甲に包ま れ、両側に四本突き出た可動翼の付け根の下には対空対地兼用の回転 銃座式の機関砲が左右にそれぞれ二門設置されている。大神のいる場 所からは見えないが、気球にぶらさげられた本体部には大口径の主砲 が据えられているのだ。  完全武装された、飛行船。明らかに軍事用の飛行船だった。 「―――武装機動飛行船、天狼丸(てんろうまる)。帝国陸軍最新鋭 の武装飛行船だ」 「………武装飛行船、ですか」  言葉少なに飛行船を見つめる大神の様子に、山崎はにんまりとした 笑みを浮かべた。だが、すぐに瞳を鋭く細め、大神へと声をかけた。 「大神少尉。貴官への特殊任務を伝える」 「………はっ!!」  瞬時に我に返り、大神は直立して敬礼した。 「この天狼丸を浅草へ輸送せよ。なお、大神海軍少尉は、天狼丸輸送 後、帝国華撃團への配属を命じる。現地司令部にて着任手続きを行う こと」 「はっ、了解しました。……ところで、山崎少佐。帝国華撃團とは?」  かすかに眉をひそめて大神が問いかけてくるのに、山崎はそっけな く、答えた。 「現地にて詳細な説明があるだろう。私からは以上だ」 「………はい」  納得したわけではなかったが、大神は頷いた。いずれ、説明がなさ れるというのであれば、それ以上追及しても無意味である。頭を切り 替えて、大神は再び天狼丸と呼ばれた武装飛行船を見た。 「………気に入ってくれたかな?」 「――は?」  ややくだけた口調の声が背後からして、大神は振り向いた。山崎で あった。先ほどの鋭い眼光を潜め、端正な顔に誇らしげな表情を浮か べて、大神の背後の天狼丸を見つめる。 「この天狼丸は、武装輸送飛行船、翔鯨丸(しょうげいまる)ととも に私の自慢の作なのだ」 「少佐が、この飛行船をお作りになったのですか?」  問いかける大神の声に、得たり、とばかりに山崎は頷いた。ある意 味少年のような熱をこめて、とうとうと語り始める。 「翔鯨丸のように物資の高速輸送を目的としていないために乗務定員 は十名足らず、空挺人型蒸気も二機しか載せられないが、かわりに武 装は五十ミリの回転銃座式砲が四門、八十ミリ主砲一門。その他対地 爆雷二十門を搭載している。しかも、最高速度は60ノット、限界飛 行時間は通常航行で80時間。さらに、圧搾蒸気噴出機構(スチー ムジェット)を全方位に設置することによって戦闘機並みの高機動を 実現している。おそらく帝国海軍の誇る巡洋艦レベルの高射砲では、 この子に当てることさえできはすまい!」 「………」 「全長100.32m、全幅88.45m、全高52.995m。天 を駆ける狼の牙。それがこの天狼丸なのだっ!!」  得意げに胸をそらして言い放つ山崎を、呆然とした表情で大神は見 つめた。技術少佐、という肩書からして、彼がこの蒸気飛行船の制作 に関わっていることは薄々承知していたが、彼の飛行船にかける熱意 については全く予想外だったのである。 「………どうだ、素晴らしいだろう!?」 「は、はあ………」  同意を求めてくる山崎に、とりあえず大神は頷いた。 「………というわけで、だ、大神少尉」 「――はっ!」  いきなり真顔になり、山崎は大神に鋭い視線を向けた。その表情に 先ほどの感情をあらわにした男の面影はない。冷徹な軍人としての顔 と雰囲気をともなって、山崎は大神に鋭い視線を投げつけた。 「くれぐれも―――いいか、くれぐれも、だぞ?  この天狼丸を、絶対に傷つけるなよっ!?」 「………はぁ?」  直立不動で山崎の言葉を待っていた大神は、思わずぽかん、と口を 開けた。だが、そんな大神に構わず、山崎は真剣な顔で詰め寄った。 「これはな。この天狼丸はな! 俺が心血を注いで作り上げた、大事 な大事な、大事な子なんだからなっ!?  お前、ちょっとでも傷つけてみろ、俺が許さんぞっ!!」 「………」  形相も凄じく詰め寄る山崎にやや気圧された形で大神はのけぞった。 切れ長の瞳を丸くして、思わず答える。 「で、ですが、少佐。軍事兵器である以上、いずれ敵の攻撃を受ける のですから、傷はもちろん、壊れることも………」 「じゃかぁしいっ!!」  一喝して、山崎は大神を睨みつけた。 「俺の愛しい天狼丸を、そんじょそこらのガラクタ兵器と一緒にする なっ! 俺の天狼丸は無敵だっ!! したがって、攻撃を受けるのは、 使う者の腕が未熟だからだっ!!  ――いいか、大神少尉! 心しておけ!!  もし一発でも天狼丸に当たったら、そのときは貴様の命はないと思 えっ!!」 「そ、そんな、無茶な………」 「無茶もへったくれもあるかっ!」  そう叫んで、山崎は、愛しそうに天狼丸へと視線を向けた。恍惚と した表情が端正な顔を彩る。 「この子は俺の最高傑作だ。  武装輸送飛行船、翔鯨丸。超重爆撃飛行船、招雷丸。―――そして、 高機動飛行船、天狼丸。  この子たちは、俺の可愛い娘たちなのだ!  純粋無垢な乙女、清楚で可憐で、純真な、俺の、俺の………」 「………」  感極まったように声を詰まらせ、山崎はしばしうつむいた。そして、 いきなりがばっと顔をあげるや、大神の襟首をつかみ上げた。山崎の 瞳からは、滝のように涙が滂沱と流れ落ちていた。 「それをなんだ、貴様のような青二才に渡すことになるなんてっ!! いいか、絶対に大事にしろよっ! 大事にしなかったら、俺が許さな いぞっ!!」 「は、はいっ!!」  あまりの迫力に、大神は思わず頷いていた。  なんのことはない。大事な箱入り娘を嫁にやる父親のような心境に なっているだけである。こういった時には、下手に逆らわないほうが いい。理屈や常識を越えたところに理性がある状態の山崎を前に、大 神はただされるがままになっていた。  やがて、ようやく遊びに行っていた理性が戻ってきたらしい。ふっ、 と憑きものが落ちたような顔で、自分がつかみあげている大神の顔を 眺める。 「………何顔を近づけている、大神少尉?」 「………しょ、少佐が自分をつかみあげているのですが………」 「………」 「………」 「………ま、それはともかく」  ぱっと手を離し、山崎はさっさと大神から離れて背を向け、天狼丸 を眺めるふりをした。 「この天狼丸を無事に届けること。それが貴官の任務である。貴官の 任務達成に期待する」 「………」 「………返事はどうした?」 「は、失礼しました」敬礼をしながら、大神は答えた。「任務、拝命 いたしました。山崎少佐」 「うむ」  背中を向けたまま、山崎は頷いた。そして、気づいたようにふりか えると、大神に一つの鍵を渡した。 「天狼丸のメインシステム起動キーだ」おそろしく真剣な眼差しで、 山崎は囁くように言った。「いいか、くれぐれも、大事に扱えよ?」 「………了解しました」  逆らわないほうが得策、と大神は判断した。殊勝げに頷くと、よう やく安心したように山崎の口元がゆるんだ。 「あと約5分で全ての準備が整う。大神少尉は私と共にすぐに天狼丸 へ乗り込むことになるが、構わないだろうな?」 「はい! もちろんであります」即答した大神だったが、不審そうに 山崎へと視線を向けた。「………ですが、少佐は、自分とご同行なさ るのでしょうか?」 「………いや、残念ながら、私はここに残らねばならない」本当に残 念そうに、山崎は答えた。「私が貴官とともに天狼丸へ乗るのは、貴 官に天狼丸の基本的な特徴、および操作方法を教えるためだ。あまり 時間はないが、天狼丸は半自動航行も可能な優れた船だからな。貴官 は安心してくれていい」 「………了解しました」  答える声の前に半瞬の間があったのは『はやくこの変な少佐と別れ たい』という思いがあったからだろうか。少なくとも表面的には真面 目そうな表情で、大神は山崎と共に天狼丸の搭乗口へと向かったのだ った。



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