「……お待たせっ!!」
「――ああ、由里。よかったわ。心配したのよ?」
建物の影から由里が姿を見せたのを見て、ほっと、かすみは安堵の
吐息をついた。内部通信で連絡があったものの、見つかったときいて
気が気ではなかったのである。よほどレーダーをパッシブからアクテ
ィブに切り替えて様子を探ろうかと考えたのだが、年少の椿を任され
た以上、危険な行為に走ることはできなかった。
「てへ。ごめんなさい」由里は小さく肩をすくめて笑った。
「ちょっとうかつだったわね。今度からはレーダーレンジを広げてお
くわ」
「私のレーダーも作動させておくわ」かすみは微笑んで、告げた。
「あなただけに任せておけないし、ね」
「きついなぁ。もうポカはしませんって!」
明るく笑った由里だったが、ふと眉をひそめて周りを見回した。
「ところで、椿ちゃんは?」
「え?」
かすみも慌てて周囲を見回した。ついさっき、確かにすぐそばにい
た椿の姿が、消えている。
「どこに行ったのかしら、あの子」
「………あ、由里さん! ご無事だったんですねっ!!」
思わず呟いたかすみの耳に、元気な声が届く。由里の出てきた路地
とは別の路地から、椿がとててて、と駆け寄ってきた。大事そうに何
かを小脇に抱えている。
「椿ちゃん、だめじゃないの。かすみさんから離れないでと言ったで
しょう?」
「あれ? そうでしたっけ?」
可愛らしく小首をかしげた椿だったが、悪びれた様子もなく嬉しそ
うな笑顔で、小脇に抱えたものを差し出した。
「それより、かすみさん! 由里さん! おせんべ、買ってきたんで
す。食べませんかぁ?」
「…………あのね、椿ちゃん。今がどういう時か………」
あきれて声を出しかけた由里のそばで、のほほん、とした声が椿の
言葉に答えた。
「あら。そういえば、もうすぐ三時ね。お茶にしましょうか?」
「………かすみさぁん」
思わず突っ伏しそうになって、由里はうらめしそうな声を上げた。
その鼻先に、香ばしい匂いと共に、煎餅の袋が突き出される。視線を
上げれば、にこやかな顔がそこにあった。
「はいっ、由里さん!」
「あ、ありがと………」
促されるままに、一枚煎餅をつまみあげる。ぱりん、と軽い音をた
てて噛った由里に、絶妙のタイミングで、ふくよかな緑茶の芳香をく
ゆらせる湯飲みが出された。
「はい、由里」
「あ、ありがと、かすみさん」
いったいどこから取り出したのか、コンクリートの地面に敷き布を
敷いて正座し、急須からとくとくとく、とお茶をついでいるかすみ。
その横にちょこんと座りこみ、とても幸せそうな笑顔で煎餅をほおば
る椿。
それを眺めて、由里もまたつられるように座り込み、一口、お茶を
すすった。
「………あら、おいしい、このお茶!」
「でしょう? さっき銀座の町中で見つけたのよ。分析したらとても
いい葉だったので、買っておいたの」
「さぁすが、かすみさん。お茶に関しては一流よね!」
「ねぇ、由里さん。私のおせんべ、どうです?」
「これもとってもおいしいわよ、椿ちゃん」
「ああ、よかった! これ、結構高かったんですよ!」
ほのぼのとしたお茶会が、倉庫街の一角で催される。
(………確かあたしたちって、逃亡中のはずよね?)
ふと、疑問が脳裏をかすめ、ようやく由里は我に返った。
「………ああっ、こんなことしてる場合じゃなかったわ!!
さ、かすみさん! 椿ちゃん! 早いとこ適当な蒸気飛行船でも見
つけて、逃げなくちゃ!!」
「あら、でもせっかくお茶っぱがお湯になじんできたのに………」
「おせんべ、しけちゃいますよ?」
「………とにかく。まごまごしてると追っ手が―――」
いいかけた由里のレーダーに、その時、不穏な影が揺らめいた。
「ちょっと待って。方位2−5に敵性反応確認。全センサーを固定。
解析開始―――戦闘用人型蒸気、”脇侍”八機、”大筒”四機!?」
「あら。意外と多いわね」
のんびりとまた新しくお茶を注ぎながら、かすみがまるで人ごとの
ように答えた。その脇で、椿もおせんべをくわえたまま頷いた。
「わふぁひひゃひ三ふぃんふぉおふふぉにふぁ、おふぉふひふひゃす
へひゅひょへ?(私たち三人を追うのには、多すぎる数ですよね?)」
「………口の中のものを全部食べてからしゃべってよ、椿ちゃん」
こめかみを押さえる由里に、優雅な仕種でお茶を一口すすり、かす
みも同意した。
「とにかく、のんびりしていられないわね、由里」
思わず「のんびりしてるのは、あんたでしょ!?」と突っ込みたく
なった由里だったが、レーダーの範囲内に群がる人型蒸気がさらに接
近してくることに気づいて立ち上がった。
「200mまで接近してきたわ。行くわよ、かすみさん。椿ちゃん!」
「わかったわ」
「はいっ!」
答えて立ち上がった二人とともに、由里は走り出した。だが、やや
遅かったようだった。前方へと向けたセンサーに反応を認めて、由里
の美貌が強ばった。
「まずいわっ! 前方にも人型蒸気確認! 脇侍が五、大筒が三!
包囲陣を敷いてるわ」
「後方との距離はかわらないわ、由里」
一番後ろで殿(しんがり)をつとめているかすみが、穏やかな声で
報告してきた。その言葉に、由里は即座に対応を決めた。
「椿ちゃん。前に出て! 前方の敵を突破するわよ!!」
「はい! おまかせです!」
速度をゆるめた由里に代わって、椿が前に出る。無邪気な笑顔がそ
の幼い顔に浮かんだ。
「戦闘モードに移行しまぁす!」
紅赤色の半纏の袖をまくり上げていた襷(たすき)が、自動的にほ
どけて巻き上がる。垂れ下がった袖口が、椿の両腕を包み込んだ。ガ
チャ、と重い金属音がすると同時に、袖口が再び上に移動する。椿の
両腕には、そのとき、鈍く黒銀色に光る大口径の迫撃砲と、四門の連
射砲が装備されていた。
「遠距離戦準備完了。派手に行きまぁす!」
言葉通りに、派手な咆哮をあげて、迫撃砲が弾を吐き出した。ちょ
うど路地から顔をのぞかせた脇侍が、先制の攻撃に頭部を吹き飛ばさ
れる。どう、と倒れ込むのを合図としたかのように、次々と人型蒸気
がわらわらと由里達の前方に姿を現し始めた。
「オールレンジ、戦闘モードにシフト。椿ちゃん、レーダーをリンク
させるわよ」
「はぁい!」
情報収集能力については、由里は他の二人に追随を許さない。その
広範囲レーダーは、精度とレンジの長さ、広さにおいて、現在の所最
高水準を示している。その高性能レーダーとリンクした椿には、敵の
位置や動きが、まるですぐそばでのろのろと動いているかのようには
っきりと見分けることができた。
敵の攻撃が、襲いかかってくる。強力な破壊力を秘めた砲弾が、う
なりをあげて襲いかかってくる。
だが、あとほんの少しで届く、というところで、いきなりその砲弾
が爆発した。
「お〜当たりぃ!」
嬉しそうな声を上げる椿。迫り来る砲弾を、左腕の連射砲で撃ち落
としたのである。こんな芸当ができるのは、由里の高性能レーダーと
リンクしているからでもあるが、何より、椿の戦闘能力、特に照準の
素早さと正確さが、驚異的なものであるからだった。
「敵陣まで距離100を切ったわ!」
「りょぉかい! 中距離戦の用意! および近接戦闘準備しまぁす!」
椿の右袖が、迫撃砲を包み込む。ガチャ、と音を立てて瞬時に右腕
が換装される。武骨な装甲を見せる手甲に包まれた小さな手が、何か
筒のようなものを握りしめていた。と、見る間にその筒が伸びる。た
ちまちのうちにそれは、巨大な長刀へと変わった。
「え〜い、や〜ぁ、とぉ〜!」
実に愛らしい声を上げて、椿は脇侍の群れの中に飛び込んだ。だが、
飛び込まれたほうはたまったものではなかった。小さな手が翻ると同
時に、強力無比な長刀の暴風が吹き荒れる。なぎ倒す、という形容を
実に見事に現して、椿が進むごとに脇侍が倒れ込んでいった。
「はぁ………さすがに椿ちゃんよね。敵にしたくはないわ」
思わず栗色の瞳を丸くして、由里はその光景を見つめていた。三人
の中で最もか弱そうに見え、庇護欲をそそられる椿は、実は最も戦闘
能力にたけている。一対一はもちろん、一対多であっても、現在目の
前に広がる光景の通り、脇侍や大筒のような量産型の人型蒸気では相
手にならない。かすり傷ひとつ負うことなく、文字通りばったばった
と敵をなぎ倒して行く。
「由里! 後方の敵が進撃速度を早めたわ。あと三分で会敵するわ」
「え!?」
いつの間にか由里と並ぶ位置に来ていたかすみが報告してきた。戦
闘モードにレーダーのレンジをショートに移行していた由里には、後
方からの敵の接近状態が見えてこなかったのである。椿と現在リンク
している以上、メインのレーダーをとっさには切り替えられず、由里
は補助レーダーを稼働させた。
「距離150まで接近!? まずいわ。あっちのほうが敵が多いし」
「どうする、由里? 私が相手しましょうか?」
「いいえ。さすがにかすみさんだけじゃあ………」
言いかけた由里はそのとき、ふと、敵とは別の何かがレーダーに反
応したことに気づいた。センサーを向ける。栗色の瞳がしばしひそめ
られ、やがて由里は晴れやかな笑顔を浮かべた。
「これなら行けるわ! かすみさん。椿ちゃん。方位8−20へ転進
するわよ。かすみさん、先行して。行き先は今送るから」
「わかったわ」
頷いたのはかすみだけで、不満そうな声を上げたのは椿だった。
「えー? もう終わりですかぁ? あと二機だけなのにぃ!」
いつの間にか椿は、脇侍と大筒を全滅寸前にまで追い込んでいたの
である。思わず顔を見合わせた由里とかすみは、同時にため息をつい
た。
「………もしかしたら、椿ちゃんだけで追っ手を全部、撃退できるか
もしれないわね?」
「できるかもしれないけど、見たくはないわ………」
「ねー、この子も倒しちゃっていいですかぁ?」
呟き合っている年長組へと、椿が声をかけてくる。いつの間にか、
さらに一機を倒し、残り一機の脇侍の攻撃を長刀で防いでいた。
「ねぇ。倒しちゃっていいですかぁ?」
さらに催促してくる椿へと、由里は首を振って答えた。
「ごめんね。もうじき後方の敵が来るのよ。それはほうっておいて、
逃げましょ!」
「………はぁい」
実に残念そうな声で、椿は長刀を振り回した。足元をすくわれ、脇
侍が三人の後方で道をふさぐように倒れ込む。後方からの追撃を阻む
ための障害物にしたてあげて、椿はとててて、と二人に駆け寄った。
「じゃあ、行きましょか?」
「ええ!」
三人は走り出した。その行く手には、その大半を地下にもつ巨大倉
庫、第拾弐番倉庫があったのだった。
「………ん? 何の音だ?」
ズズン、という地響きのような音が聞こえて、山崎はふと中空を見
上げた。大またで天狼丸の窓に歩み寄り、そこから作業員へと声をか
ける。
「今、何か音がしたようだが? 何だ?」
「は? 何かおっしゃいましたか?」
ごぅんごぅん、と機械の作動音が満ち満ちている倉庫内で作業を続
けていた作業員は、何事か?とばかりに顔を上げて尋ねてきた。さす
がに彼らに聞こえることはないか、と思って、山崎は首を振った。
「いや。何でもない。作業を続けてくれ」
「はい」
不審がることもなくすぐに作業を再開した作業員をちらりと見て、
山崎は天狼丸のブリッジ内へと視線をもどした。
「大神少尉。どうかな? 天狼丸のすごさがわかってくれたかな?」
「はあ………ある意味では………」
疲れ果てたような声が、ブリッジ中央、船長席から聞こえてきた。
だが、その姿は見えない。何しろ、その中央部には、ほとんど暴力的
とでも言いたいほどに分厚いマニュアルが山となって積まれていたの
である。
山崎が大神に教えたのは、確かに天狼丸の基本的な特徴と操作方法
だった。すなわち、
「操作は簡単だから、マニュアルを読めばわかる」
の一言だったのである。どこからか運びこまれたマニュアルの山が積
み上げられ、「この天狼丸は、これらのマニュアルを一通り目を通す
だけで操縦できるという、非常に優れた船なんだ。すごいだろう?」
と自慢げに言い放つ山崎に、「違うだろう、それは………」と思わず
呟いた大神だった。
マニュアルの山に完全包囲された大神が、それでも真面目にマニュ
アルを読み進めている間、山崎は、非常になごり惜しそうな目つきで
天狼丸のブリッジの機器類をなで回していた。もしも大神がいなかっ
たら、ほほずりでもしていそうな雰囲気で別れを惜しんでいた山崎は、
ふと、天狼丸の汎用レーダーに何かが映っていることに気づいた。
「ん? 何だ、これは?」
所属不明の機体が十数体、何やらめまぐるしく動き回りながら近づ
いてくる。反応からすると全て蒸気機関を搭載したものらしいが、蒸
気自動車なのか、それとも別の蒸気機関を搭載した作業機械なのか、
判断がつかない。
「大神少尉。メインシステムは立ち上がっているのだな?」
「………はあ。マニュアル通りにしています」
疲れた声がマニュアルの山ごしに答える。
「まだ蒸気機関は起動していません。全システムのエラーチェックが
もう少しで終わりますので、それが終わったら火が入ると思われます
が」
「そうか。急いでくれたまえ」
「何かあったのですか?」
問いかける大神の声に、山崎は端正な顔をしかめ、呟くように答え
た。
「何やら嫌な予感がする。俺の大事な大事な天狼丸に危機が訪れよう
としているかのような………」
「………」
勝手にやっててください、とばかりに大神は無言でマニュアル読み
を再開した。だが、その切れ長の瞳が、ふと船長席の計器に止まった。
眉をひそめ、食い入るように大神は周囲の計器類を見回し、そして、
鋭い声を上げた。
「山崎少佐! 人型蒸気の群れが、近づいているようです! 何やら
交戦中のようですが!?」
「何だとぉ!?」
ざばぁ、とマニュアルが掻き分けられ、山崎が、ぬっと顔を突き出
してきた。
「ああっ………読みかけのマニュアルが………」
「んなことはいいっ! で、天狼丸を無事に発進出来るんだろうな?」
山崎の思考は、天狼丸が中心にある。ほんの数分一緒にいただけで
も分かることだったが、あまり分かりたいものではなかった。
大神は取り合えず精神的に立ち直るために大きく深呼吸して、告げ
た。
「最終チェック完了しました。蒸気機関は先ほど起動。圧力上昇中。
発進可能な状態になるまで、あと五分といったところです」
「うむ。さすがは天狼丸、素晴らしい!」
「………一方、レーダーに先ほどから、所属不明の蒸気機関が数十体
こちらへ向かって接近中です。感知した熱量、蒸気圧、移動速度など
から、戦闘用人型蒸気と推測。また、砲撃音、爆発音なども感知して
おりますので、おそらく交戦中と思われます。
あと三分少々で、この天狼丸の頭上付近に到達しそうですが」
「三分だと?」
「はい。故意かどうかはわかりませんが、まっすぐにこちらへと向か
ってきています」
「………」
不愉快そうに顔をしかめ、山崎は天狼丸の通信機へと向かった。回
線を外部へとつなぐ。
『全警備兵に連絡! 第一級戦闘準備! 本船に対して所属不明の人
型蒸気が接近中! 迎撃体勢をとれっ!!』
ざわり、と倉庫内の空気が揺らいだ。だが、すぐさま警備兵、およ
び整備兵が動き出す。たちまちのうちに、倉庫に通じる各扉の前に兵
士が整列し、迎撃体制をとる。そのうちの幾隊かは、扉を開けて外へ
と迎撃に向かった。
「山崎少佐。我らも迎撃に加わったほうがよろしいでしょうか?」
大神や山崎とともに天狼丸に乗り込んでいた兵隊の隊長が、ブリッ
ジへと姿を現して訊ねてきた。彼らは軍の重要機密である天狼丸を内
部から警備している兵隊であり、天狼丸の発進準備が完了しだい山崎
とともに通常任務に戻ることになっていた。
山崎はしばし考えるように沈黙した後、頷いた。
「発進準備はほぼ完了している。諸君らは天狼丸の直衛として、ボー
ディングデッキで迎撃体制をとれ」
「了解しました」
カツッと踵を鳴らして敬礼し、隊長がブリッジを走り出ていく。そ
れを見送って、山崎はあいかわらずマニュアルの山にこもる大神へと
視線を向けた。
「大神少尉。発進準備完了まであとどのくらいだ?」
「約三分です。蒸気漕の圧力正常。機関部が稼働開始。出力安定まで
約二分です」
「敵は?」
「移動速度が若干落ちていますが、100mまで接近しています」
大神が告げたとたんだった。
どぉん、という爆撃音が、倉庫内に響き渡った。遅れて、天狼丸が
ぐらりと大きく揺れた。繋留綱を伝わって大地の振動が届いたのであ
る。
「!!」
足元をすくわれてよろめき、山崎は思わず手近のコンソールにつか
まった。端正な顔に怒りの形相が浮かび上がる。
「どこのどいつだっ! この倉庫に攻撃をしかけた馬鹿はっ!?」
吐き捨てるように呟き、山崎はマイクをつかんだ。
『全戦闘員に通達! 攻撃を許可する! 独自の判断で武器を使用し
てよし! ただし、決して天狼丸の近くから離れず、攻撃は天狼丸を
中心として放射状に行うこと! いいか、絶対に天狼丸に敵を近づけ
るなよ!?』
要は天狼丸に銃口を向けずに攻撃しろ、ということである。無茶な
要求とは言い難いが、難しい注文ではあった。拠点防衛のための命令
であるから本質的には間違ってないが、積極的な攻撃がしづらくなる。
遠距離戦闘を主としなければならず、敵の戦闘力をそぐ有効な手を砲
撃に頼らざるをえない。
そして、厳重な警備をしているとはいえ、ここは単なる倉庫である。
軍事拠点にはつきものの防壁や土嚢、堀などの、敵の接近を食い止め
被害を減らすための準備は全くされていないのだ。いわば、何もさえ
ぎるもののない場所で敵の攻撃を受けることに等しい。
唯一、勝機があるとすれば、この倉庫が半地下であり、天狼丸へ通
じる通路を防御すればよい、という点である。だがそれも、敵の目的
が天狼丸の奪取といったものにあれば、の話である。天狼丸の破壊が
目的であったとしたら、脱出口ともなるそれらを率先して攻撃し、破
壊することも可能なのだ。
敵の目的、味方の目的を明らかにし、そのための戦略を考え、戦術
を行使する。
それは当たり前のことなのだが、この場合、味方の目的はともかく
敵の目的が全く分かっていない。これが、彼らの戦術の選択を惑わせ
ることになった。
『………前方の小さな建物が、倉庫の入り口よ』
「わかったわ」
由里からの誘導にしたがって、かすみは静かに第拾弐番倉庫に接近
した。全く音を立てることもなく、まるで空気そのものであるかのよ
うに自然に近づく。
その時、いきなり倉庫の入り口が開かれ、銃火器を携えた兵士が数
人、とびだしてきた。
「………どうする?」
『やっちゃって』
短い会話が交わされる。由里の声と同時に、かすみが動いた。藤紫
色の着物が流れる。
「!?」
何が起こったか、彼らには全く分からなかっただろう。周囲を見回
そうとした兵士は、次の瞬間には白目をむいて地面に転がった。その
首筋、ぼんのくぼに、数本の針が突き刺さっていた。
「大丈夫ですよ、急所ははずしてありますから。しばらくしたら意識
も取り戻せますからね?」
穏やかな声が流れるが、誰一人として聞くことはできなかった。そ
っと優雅な仕種で、かすみは、彼らの首筋から針を抜き取り、もとの
通り袂へと戻した。
「由里、誘導をお願いね?」
『はいはい』
苦笑じみた声が聞こえる。だがそれに全く構わず、かすみは再び風
のように静かに走り出し、地下へと続く階段を駆け降りていった。
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