『第一班、敵と思われる人型蒸気を確認! 脇侍が六、大筒が四!』 『第四班、敵の脇侍二機と接触、援護をお願いします!』 『第弐班、人型蒸気部隊を編成し終わりました! 第四班の援護に向 かいます!』 地上に出た戦闘部隊からの報告は、人型蒸気との戦闘に入ったこと を告げていた。これは大方予想通りである。 だが、一方の通信機から流れる報告は、山崎の顔を不審の彩りで染 め上げていった。 『第二階層守備隊、女性を包囲にかかり………ぐわぁっ!!』 『第三階層守備隊、敵と思われる美女を………ぐふっ!』 『第四階層守備隊、みめ麗しい女性が………へげっ!』 「………おんな、だと?」 惚けた様子で、山崎は大神と顔を見合わせた。大神も、通信機から 聞こえてくる、恐怖だか歓喜だかつかない意味不明の叫びに首をかし げる。 「何かの暗号ですか、少佐?」 「いや、俺も聞いたことがないが………」 天狼丸のブリッジでは、外の様子も全く分からない。ただ、回線を 開きっぱなしにしている通信機から流れる報告が、ちょっとばかり異 常であることを示していた。 「大神、天狼丸の発進準備は、あとどのくらいで完了する?」 「全機関とも正常に稼働中です。あとはシステムコントロールが最終 チェックを終えるのを待つだけですから、一分もかからないでしょう」 「そうか………」 安堵と、そして別れのときが来たことを悲しむような表情を浮かべ て、山崎は再びブリッジを見回した。そして、山崎は大神へと再び顔 を向けた。心なしかその瞳が潤んでいた。 「………もう、お別れか。短い間だったな。航海の無事を祈っている ぞ?」 「はい、少佐もお元気で」 「………俺は天狼丸に言ったのだが?」 「………」 どうせそうだろうと思った、と考えたのか、大神は首を振り振りた め息をついた。 「とにかく、少佐。発進準備はほどなく終わります。少佐は天狼丸を お降りになったほうがよいかと」 「……………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………… ………………………………………………………………………………… ……………………………………………………………………ああ」 ものすごく長い苦しそうなため息をついて、山崎は頷いた。そして、 未練げにもう一度、天狼丸のブリッジを見回した。均整の取れた身体 を丸め、肩を落としてブリッジを出ていこうとする。その時だった。 ぷしゅう、と音を立てて、山崎の目の前の扉が開いた。 「あ!?」「え!?」 藤紫色の着物。鳶色の髪の先をリボンで束ねた女性。黒目がちの瞳 の優雅な美貌が、山崎の視界を覆う。 反射的に、山崎は横に避けようとした。右足を踏み出し、女性の左 脇をすり抜けようとする。 だが、その瞬間、山崎の視界が逆転した。ぐるり、と景色が流れた あと、ドスン、という音とともに背中に衝撃を感じる。何が起こった のか全く分からないままに、山崎の視界にブリッジの天井が揺れてい た。着物姿の女性に投げ飛ばされたのだ、と気づいたのは、しばらく たってからのことだった。 「………だ、大丈夫ですか、山崎少佐!?」 船長席から、慌てた様子で大神が駆け寄った。切れ長の瞳が、不審 そうに女性に向けられたが、とりあえず上官を助け起こす。 「俺はただ、よけようとしただけなのに………」 「ご、ごめんなさい。つい………」 つい愚痴をこぼした山崎へと、女性は申し訳なさそうに美貌を曇ら せて謝った。藤紫の着物をしっとりと着こなした、絶世と言っても過 言ではない美女の言葉に、逆らえる男はそうそういない。山崎も、つ いつい頬を緩めて立ち上がる。 正面から見ると、山崎の目の前に立つ女性は、本当に美しい。機械 に対して異常なくらい愛着を持つ山崎とても、女性には興味があるし、 これだけの美女を目の前にして平静ではいられなかった。 へらへらとだらしない笑いを浮かべながら、頭をかく。 「いや、まあ、お互い、不注意だったということで………」 「それはともかく、何故、君はここにいるんだ!?」 脇から割り込んで、大神が問いただす。実に不愉快そうに山崎が顔 をしかめたが、それでも大神の言葉に、自分の立場と言うものを思い 出したらしい。端正な顔をひきしめて、さらに問いただした。 「民間人は、この倉庫にはいないはずだが、あなたは?」 「あ、それは、その………困ったわ」 心底困った様子で頬に手を当てて、小首をかしげる。その仕種が実 に優美であり、女性らしいしとやかさに溢れている。潤んだ瞳が熱を 帯びて向けられ、思わず山崎と大神はごくり、とつばを呑み込んだ。 しとやかな仕種で襟元を直す。小さな唇から、悩ましげなため息が漏 れる。美貌が翳り、黒目がちの瞳を覆う長い睫毛が伏せられる。 ただよう尋常ならざるあでやかな色香と艶。 くらくら、と目まいを覚えて、大神はよろけるように扉へと寄りか かった。山崎はというと、へらへらとだらしない笑みを浮かべたまま 硬直していた。よく見ると涎が垂れていたりする。 「………と、とにかく、この船は軍事用ですから………早急に下船し て頂かないと………」 頭を押さえながら大神が言いかけた、その時だった。 ぷしゅう、と音を立てて、寄りかかっていた大神の背後の扉が開い た。 「おわっ!?」「きゃっ!?」 反射的に腕を振り回してバランスを取ろうとしたが、無理だった。 床へと手をつくために、上体をひねる。大神の目の前に、扉のところ で立ちすくむ女性の姿が映った。 栗色の、毛先をカールさせた女性。優美な曲線を描く眉と、栗色の 大きな瞳。モデル顔負けの、整った顔だち。驚きに丸く開いた唇には 薄くルージュが引かれ、小さな白い歯が見えた。 つと、大神のつま先が滑った。バランスが崩れ、大神はその女性へ 向かって倒れ込んでいく。反射的に腕を回し、女性の身体を胸の中へ と抱き込むのが精一杯で、受け身を取ることはできなかった。ドスン という音ともに、左肩から大神は床へと転がった。鈍痛が、左半身を 駆け抜ける。ぐっと唇をかみしめて、大神は痛みに耐えた。 「………だ、大丈夫ですかっ!?」 耳元で、誰かが叫ぶ。瞳を開くと、すぐ目の前に、心配そうに表情 を曇らせた、美しい女性の顔があった。栗色の瞳が、正面から大神を のぞき込んでくる。小さな口元から、かすかな息づかいが漏れる。 (………あれ? 確か、見覚えがあるような………) 記憶の中にひっかかりを感じて、大神は思わずしげしげと女性の顔 を見つめた。切れ長の黒い瞳と、栗色の澄んだ瞳が交錯する。 「………あ、あの、あたしの顔に、何か?」 戸惑ったように女性が呟くのを聞いて、大神は、はっと我に返った。 同時に、その腕の中に抱きとめた女性の、柔らかな感触に気づいた。 小さな背中と、まろやかな曲線を描くくびれた腰の稜線。ほのかに薫 る、花のような芳香。蒸気をまとっているかのように温かな潤いを見 せる、柔らかく滑らかな肌。 「あ、ご、ごごごごごめん! 怪我は、ないかい!?」 慌てて、大神は女性を抱きしめていた腕を離し、立ち上がった。 「え、ええ。大丈夫です」 足を折りたたみ、床に座り込んで、女性はこくり、と頷いた。小造 りの顔には、相変わらず戸惑った表情が浮かんでいる。 「本当に大丈夫かい? 立てるかい?」 気遣わしげに眉をひそめて、大神はそっと腕を伸ばし、女性の手を 取った。優しくひっぱって立ち上がらせる。わずかに含羞んだ微笑を 浮かべて、女性は軽く会釈した。 「……あ、ありがとう、ございます。……大神、さん」 「え?」 訝しげに、大神は眉をひそめた。だが、その時、ほんの数十分前に 出会った女性の姿が脳裏に浮かび上がり、思わず大神は頷いた。 「そうか、君だったのか! ………えーと、確か、由里くん、だった よね?」 「は、はい!」 由里の顔にぱぁっと微笑が広がった。嬉しそうに口元を綻ばせて、 由里は言った。 「覚えていて、くれたんですね!?」 「ああ。君のおかげで、無事にこの倉庫にたどりつけたんだからね」 ほのぼの、とした雰囲気が、ブリッジに流れた。 「………何で、俺のときとシチュエーションが全然違うんだ………?」 ぶつぶつとうらめしそうに呟く山崎の声に、大神ははっと我に返っ た。 「そういえば、由里くん。いったい、どういうことだ? 君たちはな ぜ、ここにいるんだ?」 「あ、あの、その………」 ほんのわずか、由里は考え込むように口をつぐんだ。だが、すぐに 顔を上げて、まっすぐに大神へと視線を向けた。栗色の瞳が、真摯な 光を帯びる。せっぱ詰まったような口調で、由里は答えた。 「あ、あの、あたしたち、悪い人に追われているんです!」 「え?」 かすかに、大神は眉をしかめた。由里の答えは、ある意味で陳腐過 ぎるものだったからだ。たとえばここが、東京の町中であったとした ら、大神もたいして驚きはしなかっただろう。か弱い婦女子を町のチ ンピラなどが襲うことは、残念なことではあったが、日常的なことだ ったからだ。一も二もなく大神は、由里の言葉を信じただろう。 だが、ここは飛行船の中。その言葉を信じられるシチュエーション ではない。 にもかかわらず、大神が戸惑ったのは、由里の言葉の中に、なぜか 真実の匂いが感じられたからだった。そしてそれは、背後でおこった 叱咤によって裏づけられた。 「由里!」 「かすみさん………」 わずかに、由里は大神の背後に立つかすみへと視線を向けた。無言 の会話がかわされたかのように、しばしかすみは黙り、そして頷いた。 「どういうことだ? 君たち」 ようやく精神的に立ち直った山崎が、不信感をあらわに問いかけて くる。それへ、由里は真剣な表情で答えた。 「あの、あたしたち、悪辣な人身売買組織に追われているんです。あ やういところで、隙を見つけて逃げ出してきたのですが、彼らが追っ 手を差し向けて来て………ようやく、ここへ、逃げてきたんです」 「追っ手?」 「はい。人型蒸気が、たくさん、やってきましたよね? あれです」 「あいつらか!!」 山崎が唸り声を上げた。切れ長の瞳が煮えたぎるような憎悪を浮か べる。 「あいつらが、俺の大事な天狼丸を傷つけようとしたんだなっ!?」 「………はい?」 不思議そうな表情を浮かべる由里へ、大神は嘆息して首を振って見 せた。 「あの人のことは、気にしないほうがいい。………それで、どうして 君たちのような婦女子を相手に、あれだけの数の人型蒸気が差し向け られるんだい?」 「あ………」 (やっばーい! そこまで考えてなかった!) 内心で、由里は舌打ちした。いかに悪辣とはいえ、たった三人の娘 を捕らえるのに、あれだけの数の人型蒸気を用意しようと考える組織 があるだろうか? いや、そもそも、あれだけの数の人型蒸気を有す るほどの組織が、人身売買などというセコい真似をするだろうか? 「あれだけの数の人型蒸気が、君たちを探している」大神は容赦なく 追及した。「つまり、それだけの価値が、君たちにはある、というこ とだ。いったい、それは何なのだい?」 言葉は丁寧だが、有無を言わさない迫力に、由里は思わず首をすく めて後ずさろうとした。 確かに、それだけの価値が、由里達にはあるのだ。だが、それをこ の少尉に告げたところで、何ら改善されることはない。むしろ、彼を 自分たちを巡る争いに巻き込むことになってしまう。 無関係な人を巻き込みたくない。 その思いが、由里に真実を告げさせることをためらわせていた。 だが、その配慮も、すぐに覆されることになった。 「由里さ〜ん。飛行船、まだ発進出来ないんですかぁ?」 明るく愛らしい声が、飛行船の通路内に響き渡った。同時に、左右 の腕に連鎖式機銃を装備した椿が、ブリッジにぱたぱたと駆け込んで きた。さらに追い打ちをかけるかのように、ぷしゅーっと音を立てて、 背中から伸びる排気筒から、盛大な蒸気を吐き出したのである。 「あ、あ、つ、椿ちゃん………!」 なんで内部通信で知らせてくれないのっ!? と由里は頭を抱えた。 それになんで、このとき、この状況で、戦闘モードを解除せずにこの ブリッジに来るのよっ!? と内心で嘆く。 どこをどう見ても、両腕に機銃を装備した椿の姿は、普通の少女の ものではない。しかも、身体の各部の機関の冷却のために、排気筒だ けでなく、むき出しの両手両足にある放熱フィンまでも展開している。 椿が人間ではないことは、一目瞭然だった。 大神も山崎も、瞳を丸く見開いて、絶句している。特に山崎の視線 は、ぱっくりと口を開いて放熱用のフィンを広げている椿の柔肌(に 見える弾性衝撃吸収素材を使用した表面装甲)に固定されたままだ。 こうなっては、しかたがない。由里は、強攻策をとることにした。 『かすみさん。今のうちにこの蒸気船の全システムを掌握します。こ の軍人さんたちを押さえておいて!』 『わかったわ』 内部通信でかすみに告げ、由里は身を翻らせた。航法管制用の制御 卓へとかけよる。ほっそりとした指が、コンソールを踊った。 「あ、お、おい! 何をするんだっ!?」 我に返って由里を引き留めようとする山崎の前で、かすみはすまな さそうな微笑を浮かべた。その優美な腕が舞った。 とたんに、山崎は、へなへなと崩れるように腰を落とした。その首 筋に一本の針が突き立っていた。 「山崎少佐!」 血相を変えて、大神はかすみへと鋭い視線を向けた。それへ、かす みは穏やかな声で答えた。 「筋肉を弛緩させただけです。心配いりませんわ」 「だが、このまま見過ごすことはできない」 静かに、大神は言った。その全身が、ゆらり、と揺らめくように動 いた。はっ、とかすみが緊張した瞬間、大神の身体がかき消えた。 「そ、そんな!?」 驚きに、かすみは身体を強ばらせた。高度に機械化されたかすみの 光学式スコープが、大神の行動を捕らえ損ねた。同時に、全方位をく まなくサーチしているはずのレーダーにさえも、反応がない。慌てて 周囲を見回すかすみの背後で、由里の悲鳴が聞こえた。 「由里!」 振り向いたかすみの視界に、大神と、彼に両腕を後ろにまわされて 身動きを封じられた由里が映った。 「手荒な真似をしてごめん」かすみの動きに注意を払いつつ、大神は、 由里へと声をかけた。「だが、この船を無事に目的地へと届けるのが、 俺の任務だ。それを邪魔する以上、君たちをほうってはおけない」 「でも、あたしたちも飛行船が必要なんです! 自由を得るために!」 答えた由里の身体が、動いた。関節を決めたはずの腕がぐるりと回 転し、人間にはありえない動きで、大神の腕からすり抜けた。驚きに 目をみはり、大神は反射的に腕を伸ばした。小さな肩に、手がかかる。 さすがに関節でない場所が自由に動くことはなかった。由里の動き が止まった。 ぐい、と肩をつかんで振り向かせ、大神は訝しげに問いかけた。 「いったい、君たちは!?」 「あ、あたしたちは………」 狼狽した由里が、脱出口を求めて視線を巡らせた、その時だった。 ドォン、という巨大な爆発音が、轟いた。同時に、天狼丸が激しく 揺れ動いた。ビィーっという警報音がブリッジに鳴り響いた。 「ま、まさか、俺の可愛い天狼丸が攻撃されたのかっ!?」 いきなり立ち上がって、山崎がわめいた。首筋につき立っていた 針を無意識の動作で引き抜いて捨てる。 「そ、そんなばかな………あと十分は、動けないはずなのに………」 人間じゃないわ、とでもいいたげな目つきでかすみが見つめること にも気づくことなく、山崎は大またで天狼丸の制御卓へと歩み寄った。 「おい、大神少尉! 何をいちゃいちゃしてる! 早く天狼丸を発進 させんかっ!!」 「………」 大神は答えなかった。いや、正確に言うと、山崎の声すらも届いて いなかった。 天狼丸のブリッジの床、大神は、何か柔らかなものの上に覆いかぶ さっていた。 床についた腕の中に、すっぽりとおさまる柔らかなくびれ。長く伸 びた脚が、なよやかな膝と膝の間に割ってはいっている。そして、胸 にあたる、柔らかな双丘。 だが、それらにも増して、大神を前後不覚の状態にしていたのは、 その唇に当てられた感触だった。 ふっくらとした、温かな感触。柔らかく瑞々しいそれが、腕の中に 抱き込んだ女性の唇であることを、大神は本能的に察知した。 「………う、うわっ!」 思わず、大神はとびはなれた。顔が真っ赤に染まる。慌てて、大神 は頭を下げた。 「ご、ごめん!」 「………」 ゆっくりと上体を起こし、戸惑ったように、由里は口元に手を当て た。その栗色の瞳が、大神へと向けられる。つぶらな瞳にさらされて、 大神は混乱の極致に達した。 「ご、ごめん! 転んだ拍子だったんだ! 悪気はなかったし、そん な、そんな気も、なかったんだっ! 信じてくれ!!」 「………」 ゆっくりと、由里は瞳を閉じた。その口元に当てられた手が、なめ らかな動作で床に落ちる。そして、うつろな、機械的なほどに感情の ない声が、小さな唇から流れ出した。 「………識別用データ………デオキシリボ核酸、登録。網膜パターン、 登録。声紋パターン登録。光学測定による個体識別、完了。 マスター登録を開始します」 「え?」 惚けたように見つめる大神の前で、由里は再び瞳を開き、真正面か ら大神を見つめた。 「あなたの正式名称と、呼称を登録してください」 「………正式名称と呼称?」 「少尉さんのお名前と、由里にどう呼んでほしいか、です」 目を白黒させた大神のもとへ近づいてきたかすみが、補足した。訳 がわからないものの、大神は正直に答えた。 「正式名称は大神一郎。大神、と呼んでくれ」 「了解しました。正式名称を『大神一郎』、呼称を『大神』で登録し ます」 「………でも、いったい登録って、なんだ?」 不思議そうに大神が首をかしげる。だが、かすみが答える前に、再 び由里がうつろな声を出した。 「TXSA−020520−Rの名称を再登録してください」 「………へ?」 「由里を何と呼ぶか、です」 「何と呼ぶかって………由里くんは、由里くんじゃないか?」 「………『由里』とは、愛称に過ぎません」かすみが静かに答える。 「今後、由里は、あなたのつけられた名称で呼ばれることになります」 「??」 「あなたの好きなように、名前をつけられる、ということです」 かすみの声は、静かだったが、とても悲しげであった。大神は眉を 寄せつつも、由里へと向かって答えた。 「由里くんは、『由里』だろう? 別に、他の名前にすることはない と思うんだが」 「了解しました。名称を『由里』で登録します。 マスター登録システム、終了。全システムファイルをリライト…… TXSA−020520−R、再起動します」 「由里………」 痛々しそうに、かすみが呟いた。そして、真摯な瞳で、大神を見つ めた。 「少尉………いえ、大神さん。由里を、よろしくお願いしますね。こ の子を幸せにしてあげてください」 「………へ?」 まだよく分かってない顔で、大神はかすみと由里を交互に見た。そ して、おそるおそる、かすみへと問いかけた。 「ど………どういうこと、だい?」 「大神さんは、由里のマスターとなった、ということです」静かな声 でかすみは告げた。「あなたは、由里をどのように扱うことも許され る権利を得ました。たとえいかなる命令でも、由里が拒否することは ありません」 「なんだ、それは!?」 大神の顔が、険しくなった。鋭い瞳が、かすみへと向けられた。 「君たちは………いや、そもそも人間は持ち物じゃない! 俺はそん な権利など、欲しくはない! そんなことが許されてたまるかっ!」 「申し訳ありませんが、私たちは、人間ではありません」 「いったい、君たちは………!」 言いかけた大神だったが、その時再び、爆発音が轟いた。ぐらり、 と再び天狼丸が揺れ動く。 事態の思わぬ成り行きにぽかんとしていた山崎は、それによってよ うやくはっと我に返った。 「おい、大神少尉! 早く天狼丸をこの危険な場所から離したまえ!」 「あ、は、はい!」 大神は慌てて立ち上がった。中央部の船長席へと駆け寄り、天狼丸 の状況を確認する。その切れ長の瞳が見開かれた。 「少佐! 天狼丸の中央制御システムのある区画が被弾、制御が一部、 機能を停止しています! このままでは、発進できません!」 「何だとぉ!?」 噛み付きそうな勢いで、山崎は大神の元へと飛んできた。胸ぐらを つかみ上げる。 「俺の、俺の可愛い天狼丸を、傷つけたのか、貴様!?」 「俺じゃないですよぉ」 「黙れこの無能ものが!」 血走った瞳で大神をにらみつける山崎のからだが、ふいに、ぐい、 と持ち上げられた。まるでごみを捨てるかのように、ぽい、と放り出 される。 「大丈夫ですか、大神さん?」 「………え、由里くん?」 ぽかん、と口を開けた大神の目の前で、心配そうな顔で立っていた のは由里だった。その視線が、ブリッジの床に転がっている山崎に向 けられる。優美な眉がきつくなった。 「敵性体と確認。排除します」 由里の右腕が、カチャと音を立てて開かれた。しゃきん、と音を立 てて長さ一尺ほどの短刀がせりだす。山崎の顔が恐怖にゆがんだ。 「お、おおおおおおい、大神ぃ!!」 「あ、由里くん、待った! その人は敵じゃない!」 「わかりました」 素直に由里は短刀を納めた。山崎がかすかに安堵の吐息をつく。そ して、大神へと鋭い視線を投げつけた。 「おい、大神! 早くこの天狼丸を発進させろ! 俺の天狼丸が傷つ くじゃないかっ!?」 「………わかりました。ですが少佐、中央制御システムを何とかしな いと、発進できないのですが」 「それは、あたしに任せて下さい」 「え?」 目を丸くする大神の前で、由里はかすみと椿へと視線を向けた。小 さな顔が、かすかに曇る。 「かすみさん、椿ちゃん………」 「―――しかたないわね」 軽く吐息をついて、かすみが頷いた。同時に、椿も明るい表情で頷 いた。 「私、由里さんについていくって決めてますからっ!」 「ごめんね」 ふう、と息をついて、由里は航法制御卓へと歩み寄った。そして、 無造作とも思える仕種で、両腕を制御卓へと突き入れた。同様に、か すみが操舵制御卓へ、椿が火器管制制御卓と歩み寄り、制御卓へと両 腕を突き入れる。 破壊的な金属音と、それにも勝るほどの絶叫がブリッジに響き渡っ た。 「な、なんてことを、なんてことをするんだ、お前らぁぁぁぁっ!! すぐに修理を………」 しろ、と言いかけた山崎は、目の前に広がる光景に絶句した。 由里の身体から、まるで生き物のようにコードが飛び出し、かすみ と椿の身体につながったのである。さらに、一部が制御卓の内部へと 潜り込み、火花を散らせて何かに巻きついていったのだ。 「左右の五十ミリ回転銃座式砲の制御を掌握、八十ミリ主砲の制御を 掌握、対地対空爆雷の制御を掌握。………全火器管制、掌握を終了。 コントロールをTXSA−020520−Rへ渡しまぁす!」 「姿勢制御、操舵制御機関、掌握。蒸気機関制御を掌握。コントロー ル、TXSA−020520−Rへ!」 「中央制御システム掌握。全コントロール、リンク完了」 天狼丸の機体が、振動をし始めた。ブリッジにある全ての計器が、 命を吹き込まれたかのように点灯する。 「天狼丸が動き出した?」かすかに目を見開いて、山崎が呟く。 「そんな、ばかな。発進までの手順が早すぎる………」 「全システム、オールグリーン。離陸準備、完了しました。 大神さん、発進しますか?」 「………あ、ああ。」 山崎と同様、あっけにとられた様子で目の前の光景を見つめていた 大神が、頷いた。 「了解。開発コードMPSS−5124−02、天狼丸発進します」 「な、なぜ天狼丸の開発コードを………?」 山崎の疑問には、誰も答えなかった。船首を傲然とあげ、天狼丸が 離陸を始めたのだ。天狼丸を地上につなぎ止めておいた繋留綱がちぎ れ飛ぶ。うなりを上げて稼働する蒸気機関から吐き出された水蒸気が、 広大な倉庫内に立ちこめる。 そこで、はっと、山崎が何かに気づいたように大神へと顔を向けた。 「大神少尉! この倉庫の上部ハッチは、開いているのかっ!?」 「え!?」 さぁ、と、大神は顔を青ざめさせた。ふるふると首を振って、大神 は答えた。 「ま、まだ、倉庫の管制室には連絡を取っていません!」 「おい! それじゃあ、どこから天狼丸を発進させるんだ!?」 「それは………」 戸惑う大神をよそに、由里はとんでもない命令を発していた。 「TXSA−000414−G。右舷を下へ。機体制御実行。主砲射 線軸を上部に開放」 「了解」 天狼丸の床がいきなり右側に傾いた。ガラガラ、と、固定されてい ないものが転がり落ちる。慌てて大神は座席にしがみついた。その横 を、悲鳴を上げて山崎が転がっていく。 「TXSA−071224−M。上部ハッチへ向けて主砲斉射三連」 「りょ〜おかい!」 「な、なにぃ!?」 驚く暇もなく、どぉん、どぉん、どぉんという音とともに、天狼丸 が揺らぐ。同時に爆発音が倉庫内の空気を揺り動かした。倉庫の天井 を構成していた建材が轟音とともに天狼丸へと降り注いでくる。その うちのひとつが左側の窓から猛烈な勢いで迫ってくるのを、大神は見 た。 「ぶ、ぶつかる!」 「TXSA−000414−G、回避行動」 「了解」 ひらり、と、まるで蝶のような軽やかさで、天狼丸が動いた。右舷 を下に向けたままというとんでもない体勢にもかかわらず、難なく建 材を避けてみせる。 「信じられん………」 呆然と大神が呟く。そのうちに、再度天狼丸が動いた。水平に体勢 を立て直し、ゆっくりと上昇する。 その時、かろうじて何かのコンソールにしがみついて転落を免れて いた山崎が、鋭い声を発した。 「おい! 倉庫の天井を破壊したといっても、この天狼丸が出られる ほど大きく開いているのか!? この天狼丸は、全長が100.32m、全幅が………」 「全幅、88.45m、全高52.995m。天井に開いた穴は、長 径92.61m、短径65.13m。通過可能範囲内」 「な………!?」 絶句した山崎である。確かに、長径と短径は天狼丸の幅と高さより も大きいが、垂直に上昇できるように天狼丸は設計されていない。上 昇角を考慮すると、どうしても長径方向に上昇していくしかないのだ。 だが、短径の幅は、天狼丸の幅よりも小さい。 どうするつもりだ、といいたげな視線で見守る山崎の目の前で、先 ほどよりもさらにとんでもない命令を由里は発していた。 「TXSA−000414−G、クロックを同期。20秒後から上昇、 22.25秒に主翼を格納、5.25秒まで加速。7.18秒で脱出 後、8.84秒で主翼を展開」 「了解」 「お、おいっ!!」 山崎の声は、もはや悲鳴に近かった。主翼を畳めば、確かに天狼丸 の幅は60m程度になり、短径よりも小さくなる。 だが、通過できるかどうか、というと、それでもまだ幅は広い。し かも、主翼を畳めば、それだけ機体の安定性は低下し、最悪失速する こともあるのだ。 「や、やめろ!」 「状況報告以外はマスター以外の命令には従えません」 「おおい、大神ぃ!」 情けない顔で山崎は大神へと視線を移動した。船長席に座り直した 大神が、口を開く。 「由里くん。本当に通過可能なのか?」 「確率82.18%」 「うそだ………なぜ80%以上もある?」 呆然と呟く山崎をちらり、と見て、大神は即断した。 「わかった。脱出完了まで、君たちに任せる」 「了解しました………ありがとうございます、大神さん」 小さく呟くと、由里は改めて天狼丸の内部を駆け巡る情報の波を制 御し始めた。天狼丸を操るかすみへと、必要な情報を全て送信する。 「主翼、格納します」 かすみの穏やかな声とともに、天狼丸がわずかに揺れ動いた。だが、 たったそれだけで、ほとんど差異も感じられずに、天狼丸は上昇を続 ける。まるで、主翼があるかのように。 「加速開始」 天狼丸の前方が持ち上がる。そのまま、爆音とともに急上昇を開始 した天狼丸の中で、山崎が再度悲鳴を上げた。 「うわわわっ、す、滑るっ!」 ごろごろと音を立てて、山崎のからだがブリッジの後方に転がって いく。大神は見なかったことにした。 「天井部を通過します」 「あわわわっ!」 さらに山崎が悲鳴を上げる。ほとんどすれすれに、天狼丸の機体が 天井部に開いた穴を通過したのだ。 天狼丸は垂直上昇はできない。必然的に、穴の長径の端から、天狼 丸は穴を通過することになる。 穴の短径、65m。主翼を畳んだ状態の天狼丸の横幅が約62m。 たった3mしか余裕はないにもかかわらず、かすみは安定した操作で 天狼丸を地上へと舞い上がらせたのだった。 かすみの能力は、その優雅な肢体からは想像もつかないハイスピー ドと、それに優る精密無比なコントロール技術にある。人間の目に止 まることなく動きつつ、人体のほんの小さな点にすぎない急所に針を 打ち込む。それだけの精密かつ正確な動きができることが、かすみの 最大の能力なのである。 そしてその彼女の能力が最大に発揮されるのは、このような精密な 操作を必要とする場合であった。天井に開いた穴から天狼丸を脱出さ せることなど、かすみにしてみれば針の穴に糸を通すよりも簡単なこ とだった。もちろん、由里のハイレベルのレーダーによる測定が必要 不可欠ではあったのだが。 「主翼展開。ヘリウム圧力正常。全機関出力正常。オールグリーン」 「高度100mまで上昇後、出力を巡航速度へ」 「地上に大筒2機。対空砲を向けてま〜す!」 「対地攻撃。戦闘用レンジをTXSA−071224−Mへ移行」 「は〜い。いっきま〜す!!」 明るい声とともに、ガガガッと音を立てて、天狼丸の両翼の脇につ いている回転銃座式機銃が弾丸を吐き出した。たった1発もはずれる ことなく、地上から上空へ向けて砲弾を放とうとした大筒に着弾する。 派手な音を立てて大筒が四散し、そのあおりを受けたのか、脇侍がひ っくり返る。 「高度100m。姿勢を水平に戻します。機関出力を巡航速度に合わ せ。全機関、異常なし」 「大筒の射程距離から離脱。地上からの追撃はありませ〜ん」 「全システム正常。天狼丸、離陸完了しました」 「………ごくろうさま」 大神が言えたのは、たったそれだけの言葉だった。 かすかに茜色になりかけた空を、悠然と飛行船は航行していた。夜 の訪れを告げる星明かりが、水平線上にちらちらと見えかくれする。 黄金色の照り返しを受けて輝きながら、飛行船は小さくなっていった。 「―――くそっ、取り逃がしちまった!」 三体ほどの脇侍に囲まれるように立っていた男は、口惜しげに双眼 鏡を地面に叩き付けた。派手な音を立てて、レンズが割れ飛ぶ。その かけらの一つが、紅の太陽の光を一片、投げつける。忌々しげに目を 細め、男は靴底で硝子を踏みつぶした。 静かな声がかけられたのは、その時だった。 「………してやられたようだな」 「な、なにっ!?」 慌てて、男は周囲をきょろきょろと見回した。その視線の先に、一 人の男の姿が映る。長身の、長剣を携えた、男。 「なんだ、てめぇはっ!?」 「………おそらく、お前と同じ目的を持つものだ」 長髪の影に隠れるようにして、鋭い瞳が男をにらみ据える。その異 様なほどの迫力に気圧されて、男は思わず後ずさった。 「な、ななななにを言ってやがる! てめえ、何者だ!?」 「あの人も、粋なことをしてくれる………」 男の問いかけなどまるきり無視して、長身の男は静かに呟いた。 「このような素人に追撃を命じているとは。俺に全て任せればよいも のを―――いや、別口か?」 「おい、人の話を聞けっ!」 あせった様子で怒鳴る男を、長身の男は不気味なほど静かな瞳で睨 みすえた。 「ひとつ、聞きたい。お前の依頼人は、だれだ?」 「なに言ってやがる!」男の眦が上がる。かすかに上ずった声で、男 は怒鳴るように言った。 「てめえ、何者だ? 答えによっちゃ、てめえの命はねぇぞ!」 「………お前の依頼人は、誰だ?」 長身の男が繰り返す。完全に切れたように、男は叫ぶように言った。 「けっ、依頼人の名をしゃべるほど、落ちぶれちゃあいねえよっ!」 「それは残念だ。命を散らすのが望みか」 「なんだとっ!? ええい、くそっ! 脇侍、こいつをぶっ殺せ!」 男の周囲に立っていた脇侍が、蒸気音とともに動き出す。男を守る ように壁となった後、長身の男へ向けて、その手に握る巨大な剣を振 りおろした。空気が悲鳴を上げる。鈍い輝きの刃が長身の男をまっぷ たつにしようとした瞬間、男の姿が失せた。 「なにっ!?」 ガシュ、と音を立てて、脇侍の巨大な剣が地面に突き刺さる。その 剣の上に、ひらり、と長身の男が降り立った。その手には、いつのま にか鞘から抜かれた長剣が、黄昏の太陽の光をまとって輝いていた。 「破邪剣征………桜花放神」 「ぐわぁぁぁっ!!」 静かに唱えられた言葉とともに、長剣から霊光が放たれる。剣を振 りおろした脇侍を真っ二つに切り裂き、その霊光は、後ろに立ってい た男をも切り裂いた。男の身体が正中線に沿って左右に分かたれる。 一瞬おいて、動脈から吹き上がる血液が、あるじを失って凍りついた 脇侍の体を染め上げた。 「………報告を入れておいたほうがいいだろうな」 シャ、と衣擦れのようなかすかな音を立てて剣を鞘に落とし込み、 長身の男は軽く首をかしげてひとりごちた。 「蒸気天使を狙っているものが、他にもいるとなると………やっかい なことだ。俺だけですめばよいが………あの子を巻き込むことにもな りかねない………」 静かに、男は天空を見上げた。落日の光は、次第に夜の闇に取って 代わられようとしている。すでに銀色に輝いていた飛行船の姿はない。 「………蒸気天使よ」 風に乗って、かすかな呟きが流れる。海風に乱れる長髪をそのまま に、男は視線を飛行船の消えた辺りへ向けたまま呟いた。 「早く俺の―――真宮寺一馬の手に捕まるのだな。 でなければ…… お前たちは、最大の敵を迎えることになるのだぞ?」 答えるものは、ない。 男の呟きを聞いていたのは、あるじを失い機能を停止した数体の脇 侍だけだった。 <第一話「三人の天使」・終>
次回予告 天狼丸の損傷を修理するため、大神達は川崎の神崎重工へと
天狼丸を向かわせることになった。
だがそこに、思わぬ”敵”の襲来が起こる。第二話「紫の天使」
「お〜〜〜っほほほほほほほ、いよいよ主役の登場ですわっ!!」