lettre d'amour - 続・アイリスの手紙 - 


(1) 桜の花びらが舞う‥‥ 満開の桜。 薄紅色に染まる上野公園。 雪のように舞う桜。 花吹雪にも見える‥‥桜の散る様を模した舞台のフィナーレ。 そこにたたずむ二人の少女にとっては、逆に今目の前に広がる風景がさながら舞台の上での出来事のように思えた。 そう、今自分たちが立っている場所は‥‥夢の世界なんだと。 夢であってほしい‥‥と。 「今年は宴会はなし、か‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥帰ろっか」 「‥‥‥‥」 一際大きな桜の木。 その下にたたずむ二人の少女。 桜の花びらに溶け込むようにたたずむ桜色の少女。 そして若草色の‥‥まだ蕾のあやめの花。 金色に輝く髪が柔らかな風に靡いて‥‥ その幼い少女はあやめの花のように見えた。 さくらはゆっくりと歩き出した。 長い黒髪が桜色に染まり、再び散る‥‥ まぶたに触れた桜の花弁に一瞬目を閉じる。 再び開ける‥‥同じ風景。 桜花乱舞。 子供たちの声が聞こえる。 雪のように降る桜の花びらを縫って駆け抜ける少年たち‥‥ 笑い声が聞こえる。 家族の声。 友達の声。 恋人たちの声。 「‥‥アイリス?」 「先に帰ってて」 「え‥‥」 「もう少しここにいる」 「‥‥‥‥」 「‥‥大丈夫だから‥‥心配しないで」 「‥‥向こうのベンチに座ってるわ」 「‥‥うん」 じっと桜の木の下にたたずむアイリス。 雪のように舞う桜の花びら‥‥ その清らかな雪華の洗礼を浴びて花開くあやめの蕾。 「あ‥‥」 『心配しないで‥‥』 一瞬さくらの目には白装束の女性が写ったような気がした。 その白い翼がアイリスの若草色を包むように‥‥ 雪のように舞う桜の花びら。 桜の木の下で‥‥ アイリスはただじっと桜の散る様を見つめていた。 いや‥‥桜の花の向こう側‥‥桜が散る光景から始まる、全ての記憶を。 (2) 「お兄ちゃん、約束してくれたよね‥‥」 「‥‥‥‥」 「もうアイリスのこと、一人ぼっちにしないって‥‥ずっと一緒だって‥‥」 「アイリス‥‥」 「アイリス知らないっ!‥‥そんな話、アイリス知らないもん‥‥」 「‥‥‥‥」 パタパタパタパタ‥‥ 「アイリス‥‥」 バタンッ‥‥ 「グスッ‥‥グスッ‥‥」 小春日和の陽の光が部屋に差し込む。 ぬいぐるみ‥‥ピエールと大神が名付けた、そのぬいぐるみがベッドの上に置かれている。 ピエールは光に溶けていた。 逆光に消えて‥‥光と共に消えてしまったかのように。 ジャンポールはいつもと同じ‥‥アイリスの腕の中。 「お兄ちゃんの嘘つき‥‥‥お兄ちゃんなんか‥‥だいっきらいっ」 アイリスはベッドに顔をうずめて泣いた。 戦いが終わって平和が訪れた。 ずっと待ち望んでいた安らぎの時。 もう邪魔するものなんてない。 何時でも、好きな時に‥‥好きなだけ、何時までも、一緒にいられる‥‥ 大神のフランスへの渡航。 寝耳に水、だった。 冷水を浴びせられたような感じがした。 春がいきなり冬に戻ったような気が‥‥アイリスにはした。 いや、一年前もそうだった。 戦いが終わって‥‥大好きなお兄ちゃんと一緒に、フランスに行って、ママとパパと一緒に‥‥ 至福の時だった。 時間が止まればいいのに‥‥と、何度も願った。 でもその後、帝劇に戻ったアイリスと大神を待っていたのは‥‥やはり別離だった。 平和の訪れは必ずしもアイリスには平穏を齎さなかった。 「‥‥お兄ちゃん、なんか‥‥きらい‥‥」 顔はあげない。 じっとベッドに顔を埋めて‥‥シーツを握りしめて‥‥ 傍らにピエールがいた。 そしてジャンポール。 少なくとも二人は再び出会った。 アイリスは泣いた。 楽しいことなんて、もうなかった。 うれしいことも。 ‥‥みんな大好き。 アイリスはひとりぼっちじゃない。みんながいるから。 でも、それは‥‥お兄ちゃんがいるから。 お兄ちゃんがいるから‥‥アイリスはアイリスでいられる。 楽しいことなんて‥‥もうない。 もうドキドキすることも‥‥ない。 アイリスは泣いた。 涙はシーツに染み込んで、アイリスの顔には跡を残さなかった。 嗚咽もシーツに染み込んで‥‥花組の少女たちには聞こえなかった。 「‥‥きらい‥‥好き‥‥きらい‥‥好き‥‥大好き‥‥一番、大好き‥‥」 夜になっても、朝日がのぼっても‥‥ アイリスは殆ど部屋に閉じ篭ってばかりいた。 朝食はだれよりも早く。 昼食は食べない。 夕食は夕食ではなく、もう夜食になっていた。 みんなが寝静まった後‥‥そして大神の見回りが終わった後に食堂に向かった。 大神の見回り‥‥それも‥‥ 大神がフランスに渡航する日が明日に迫った。 その日の夕方、大神の送迎会が開かれた。 楽屋で円卓を囲む花組の面々‥‥いつもは必ず大神の横に陣取るアイリスも、この日ばかりは違った。 大神と目を合わないようにカンナの横に座る。 複雑そうな顔をするカンナだったが、あえて何も言わなかった。 そんな表情のアイリスを見たことなど、勿論始めてだったからだ。 泣き笑い‥‥無表情‥‥ アイリスにとっては目に写る風景‥‥食卓も、花組の少女たちも‥‥全てが記憶には残らなかった。 大神の声も‥‥遠くに聞こえる。 笑い声で終わった送迎会‥‥ ほんとはそうではなかった。 その夜。 大神の最後の見回り‥‥花組の少女たち部屋の前までその足音が近づいて来たとき、 アイリスは扉に張り付くように立っていた。 その扉の向こう側には‥‥大好きなお兄ちゃんがいる。 足音はアイリスの部屋の前で止まった。 『‥‥アイリス?』 「!」 『‥‥もう寝ちゃった?』 「‥‥‥‥」 扉の向こうから声が聞こえる。 それは大好きなお兄ちゃんの声‥‥いつか聞いたような‥‥あの時と同じ声だった。 二年前の‥‥浅草で暴れた後に聞いた声。 そして半年前‥‥織姫と喧嘩して屋根裏に一人たたずんでいた時に‥‥自分を探しに来てくれた、あの時のお兄ちゃんと同じ声。 「‥‥‥‥」 ただじっと扉に耳をあて、身体をあずけて‥‥ 『‥‥アイリスの生まれた国に行く‥‥なんだか、不思議な縁だよね‥‥』 「‥‥‥‥」 『アイリスの生まれた街はどんなところ?‥‥きっと草原に囲まれてて‥‥小鳥が泣いてて‥‥』 「‥‥‥‥」 そこにアイリスがいる。 まるで最初からわかっているかのように話しかける大神。 アイリスはじっと扉越しにその声を‥‥そのぬくもりを感じていた。 『俺、フランスに行く。アイリスの生まれた国に行く。そしたら‥‥きっとアイリスのこと、もっとよくわかる気がする‥‥』 「‥‥‥‥」 『アイリスのこと、もっと知りたい。だからアイリスも‥‥俺のこと、忘れないでくれないか‥‥きらいにならないでくれないか‥‥』 「‥‥ぐひっ」 『‥‥おやすみ、アイリス‥‥』 パタパタ‥‥ 足音が遠ざかる。 「ぐひっ‥‥ひーん‥‥」 アイリスはついに声をあげて泣いた。 扉に背中を預けて‥‥流れる涙を拭いもせずに。 真珠のような涙の粒は枯れることなく、アイリスの頬を、若草色の服を、そしてその胸に抱くジャンポールをも濡らした。 愛しのジャンポール‥‥ 明日は晴れるのだろうか‥‥ 明日は‥‥大好きなお兄ちゃんが‥‥船出する‥‥ アイリスの国へ‥‥ ‥‥アイリスの‥‥恋人です‥‥ ‥‥お、お兄ちゃん、随分大胆だね‥‥ ‥‥そ、そっかな‥‥ アイリスは大神の部屋で両親に書いた手紙のことを思い出した。 ‥‥アイリスは自分が守ります。 ‥‥お兄ちゃん‥‥ 明日は晴れる‥‥ 晴れたらいいな‥‥ 涙は見せない。 あの時に誓った。 アイリスは涙を拭った。 (3) 桜の花びらが舞う‥‥ 桜の木に預けていた背中を放し、ゆっくりと歩き始める。 子供たちの声が聞こえた。 家族に囲まれて‥‥友達と一緒にはしゃぐ子供たち。 アイリスはちらっと見つめて、そして駆け出した。 「‥‥さくらっ」 「え‥‥」 ベンチに座り、ぼうっと桜の花びらを眺めていたさくらは、その声で現実に戻された。 いつの間にかアイリスが目の前に立っていた。 「うちへ帰ろう。みんなで‥‥宴会の準備をしようよっ」 「‥‥え?」 「こんなにきれいな桜‥‥勿体ないよ。米田のおじちゃんや、かえでお姉ちゃんも連れて‥‥みんなで花見をしようよ」 「アイリス‥‥」 「お兄ちゃんはいないけど‥‥また来年、きっと会える。その時のために」 「‥‥そうね。よしっ、重箱いっぱいに料理つくっちゃおう‥‥行きましょう、アイリス」 「うんっ」 二人の少女は桜の舞う並木道を走りぬけた。 全てがそこから始まるかのように。 (4) 白い月明りが照らす薄暗い部屋。 その部屋に灯りが灯った。 涙で潤むアイリスの瞳‥‥その涙は頬に雫れることはなかった。 机に向かう。 あの時は大神の部屋。 今は自分の部屋。 大神の机のように大きくはない。アイリスに合わせた小さめの机。 横には大神はいない。 あの時とは違う。 だから‥‥もう一度手紙を書こう。 あの時とは違う‥‥ 大好きなお兄ちゃんへの手紙。 コンコン‥‥ 「はい‥‥」 カチャ‥‥ ‥‥大好きな‥‥お兄ちゃん、だ。 「‥‥アイリス」 「お手紙書いたの‥‥船の上で読んで」 「‥‥うん」 うつむいていたアイリスは暫しじっと大神の手に移った手紙を見つめ‥‥そして顔をふりあげた。 慢心の笑顔‥‥それはいつか天使の笑顔。 クリスマス公演では出来なかった天使の微笑みがあった。 クリスマス公演では出来なかった‥‥何故なら、アイリスは聖母様になったから。 パタパタ‥‥ アイリスは恥ずかしそうに駆け出して行った。 パタン‥‥ ドアを閉める。 暗い部屋。 月明りに照らされて‥‥ベッドにたたずむジャンポールとピエール。 アイリスの帰りを待っていたようだ。   ‥‥アイリスいっぱい泣いちゃった。   でも、ジャンポールと約束したんだ。   お兄ちゃんの前では涙は見せないって‥‥ ドアに背を預けて自分が書いた手紙を反芻するアイリス。 目を閉じて、一緒に過ごした、この一年の記憶とともに。   米田のおじちゃんはお兄ちゃんが成長するためだと言いました。   でも‥‥アイリスにはわかりません。   おにいちゃんはアイリスの傍にいたほうがいいと思います。   ‥‥でもそれはアイリスのわがままなんだね。   悲しいときに悲しい顔をしないのが‥‥大人なんだね。 アイリスはドアから離れて、そしてベッドに腰を下ろした。 腕の中にはジャンポール。 照明の消えた部屋に、再び月明りが差し込む。   ‥‥お手紙ください。   待ってます。   大好きなお兄ちゃんへ‥‥ 月明りがアイリスを照らす。 アイリスはいつしか深い眠りに入っていった。 夢の中ではいつも一緒だった。 (5) 「‥‥あ、アイリス」 「やっほーっ、椿っ、この後みんなで花見に行くんだよ。椿も一緒に来るんだよ」 「え‥‥う、うん」 「ふふっ‥‥じゃ、アイリス、みんなに声かけてきてね。わたしは厨房にいるから」 「うんっ」 売店で整理をしていた椿に声をかけた後、さくらは厨房に向かった。 そしてロビーの階段を駆け上がるアイリス‥‥ 椿が呼び止めた。 「あ、待って、アイリス」 「え?」 椿は売店裏でごそごそと捜し物をした後、階段にたたずむアイリスの傍まで歩み寄った。 手には‥‥何か封筒のようなもの。 「ファンレターを預かってたの」 「え‥‥アイリスに?」 「うん。差出人は書いてないんだけど‥‥白いスーツ着て、ギター持った変なお兄さんが届けてくれたのよ」 「へえ‥‥」 「海はいいなあ‥‥とか、お客さんが居る前でギター鳴らして、ロビーうろうろされて‥‥もうっ、あの変な人、今度来たら、カンナさんに懲らしめてもらうわっ」 「いひひ、椿ったら‥‥」 アイリスは階段を駆け上がり、そして二階のベランダに出た。 銀座の街は今日も賑やかだ。 人の雑踏は何故か優しくアイリスの心に染み込んだ。 手すりに背中を預けて、手に持った封筒を見る。 <愛しのイリス・シャトーブリアン様> 封筒の宛先にはそれだけが書かれていた。 裏には‥‥何も書かれていない。 確かにこれでは差出人はわからない。 白いスーツの人‥‥ギター持って‥‥だれだろ? アイリスは首をかしげて、暫しその封筒を見つめた。 「愛しのイリス・シャトーブリアン様‥‥か‥‥ん?‥‥あれ?‥‥アイリスってフルネームは使ったことが‥‥」 舞台では必ず“アイリス”と表示される。 ストーカーに近い熱狂的なファンもいたが、さすがにアイリスの経歴を調べることなど出来るはずもなかった。 何しろ帝劇は影で月組がガードしていたし、副司令のかえで、そして帝劇三人娘がそんなことを黙って見逃すはずもなかった。 とすると‥‥ 「‥‥アイリスのこと‥‥昔から知ってる人かな?」 封筒を開ける。 パラ‥‥ 「あ‥‥」 封筒には手紙以外のものも封入されていた。 それはアイリスの押し花。 ‥‥あやめの花だった。 「きれいだなあ‥‥アイリスのおうちに咲いてたのと同じだ‥‥」 じっとその押し花を見て‥‥そして手紙を読んだ。   アイリスへ   押し花は気に入ってもらえたかな?   今、パリからこの手紙を書いています。   何を書けばいいかわからないから‥‥   アイリスがくれた手紙を参考にすることにしました。 「お、おにい、ちゃん‥‥」 大神からの手紙。 白い青年が預かってきた白い封筒は、やはり白い青年からの伝言だった。   着いて早々、フランス語がわからなくて‥‥大変だったよ。   こんなことならアイリスに教えてもらっとけばよかった。 「えへへ‥‥えへへ‥‥」 じっと手紙を見つめて、そしてその手紙を胸に押しあてる。 アイリスは視線を銀座の街に移した。 変わらない街。 いつもと同じ風景だった。 再び手紙を読む。   パリはなんとなく銀座に似ているような気がします。   好きになれそうです。   アイリスの生まれたところ‥‥シャンパーニュだったかな?   そこには来週行く予定です。   連れて行ってくれる人がやたら酒好きで、シャンパーニュの   ワインは素晴しいっていう話を聞きました。   その人は‥‥なんだか米田支配人を思い出させて‥‥   帝劇にいた時と変わってないような、そんな感じがします。 「うふふ‥‥そっかあ‥‥そっかあ‥‥」   アイリスの手紙、とっても感動しました。   ‥‥ほんとはね、ほんとは俺も‥‥フランスに行くの、   ためらったんだ。断わろうと思ったんだ。   二年前もそうだったけど‥‥   みんなと別れるのは‥‥やっぱり辛いから‥‥ 「‥‥‥‥」   でも‥‥   きっとこれでよかったんだね。   離れているからこそ、みんなのことを想うようになった。   勿論一緒にいた頃もそうだったよ。   けど今は‥‥どこか違う。   もっと、もっと‥‥大事なものがあるような、そんな気がしてます。   もしかしたら、米田支配人が言ってた‥‥成長するっていうのは、   そんなことかもしれないね。   アイリスがお母さんやお父さんと離れて暮らすのと同じように。   少しだけ‥‥アイリスのこと、わかった気がする。   少しずつ‥‥アイリスのこと、わかっていける‥‥そう、願っています。 「‥‥‥‥」   ここは優しい街です。   銀座と同じ。   アイリスと同じように。   今度会う時には、もっと大人のお兄ちゃんになってるからね。   アイリスも‥‥負けないように大人になっていてください。   そして‥‥元気なアイリスでいてください。   また手紙書きます。   アイリスの手紙も‥‥大切にしまってるから‥‥返事ください。                          帝国華撃団・花組隊長                       大神一郎 「‥‥‥‥」 アイリスは暫くじっと手紙の最後の一文‥‥大神一郎、という、その名前を見つめていた。 間違いなく、大好きなお兄ちゃんからの手紙。 きれいにたたんで元の封筒に入れる。 押し花も封筒に。 その全てを包んだ封筒を‥‥胸に押し当て、再び目を閉じる。 「‥‥アイリスは待ってる」 そしてアイリスは目を開けた。 決して涙は見せない。 強い光が宿る瞳だった。 「お兄ちゃんが帰ってくるのを‥‥アイリスは待っているから」 アイリスは駆け出した。 そうだ‥‥ じっとなんかしてられない。 桜が待っている。 あの桜の花が‥‥アイリスを待っている。 みんなを待っている。 大神を待つアイリス、そしてそのアイリスを迎かえ入れるのは‥‥桜の精霊だった。 白い翼を広げてアイリスを待っていた。
< fin >


ふみちゃんさんへのご意見、ご感想はこちらまで
(注:スパム対策のため、メールアドレスの@を▲にしています)



櫻大戦諸説話へ戻る
サクラ大戦HPへ戻る