神崎忠義 誕生日記念SS

幸せという名の罰

Writed by Tosho-Boy (初出:サクラBBS)1998/10/29  
(公開)1998/11/15  




「・・・・おじいさま!」

 柔らかな秋の風にも似た声が、耳元を軽やかに吹き抜けていった。はずむように、踊るように、
耳に心地よく響く、涼やかな声。
 しわ深い目を細めて、老人は、その声に聞きほれた。

 何物にも代え難いほどに愛しい、麗しい声。
 権謀術数に時を費やし、相手の腹を探り合い陥れることに明け暮れる毎日の連続に、荒み疲れ
た心を癒してくれる、聖水のような、美しい声。

「おじいさま!」

 栗色の長い髪が、光の芸術を思わせて広がり舞う。切れ長の澄んだ瞳が、溢れるばかりの敬愛
を込めて、老人に注がれる。美しい口元がほころび、健康的な白い歯が、こぼれるばかりに輝き
わたる。

「おじいさま!」

 テラスに出した籐の寝椅子にもたれた老人の膝元へと駆け寄る少女。その小さな胸元に、こぼ
れるほどに摘まれた、小さな花々。
 暖かく優しい、どこまでも純粋な視線がまぶしく感じられて、老人は瞳を細めた。しわ深い手
が、そっと、少女の頭を撫でた。

 クスクスっ、と、少女は鈴が転がるような笑声を立てた。無邪気な笑顔が幼くとも整った貌に
広がる。

「・・・はい、おじいさま」

 少女は、抱えていた花々を、老人のひざ掛けの上に広げた。幾十本もの小さな花々が、つやや
かな色と香りを周囲にまき散らす。それは、ひざ掛けに編み込まれた刺繍よりも、老人には美し
く映えて見えた。

「・・・・・・・」

 そっと、まるで壊れ物を扱うかのように、老人は、その花々をかき集めた。淡い色彩の花が、
天上の花園さえも思わせ、過ぎ去った日々さえも思い起こさせるかのようだった。

「・・・・・・・」

 問いかけるように、老人は少女を見た。不思議そうに首をかしげた老人に、少女は、はっとす
るような美しい笑顔を向けた。とても優しい瞳が、きらめいて見えた。

「おじいさま・・・・・おめでとう」
「・・・・・・・」

 真っ白い髭が、優しく揺れた。暖かく澄んだ光が、老人の瞳に宿った。それはそのまま、顔に
刻まれたしわを伝って、こぼれ落ちた。

「・・・・・・・」

 ゆっくりと、老人は、少女に手を伸ばした。震える指先が、愛しい少女の輪郭をなぞった。
 長い睫毛に縁どられた、切れ長の濃茶色の瞳。ほっそりとした、だが芯の強さをしめすような、
美しい顔だち。柔らかな微笑をたたえる、花びらのような唇。細く柔らかな髪が、まるで天使の
羽根のような軽やかさで、秋の風になびく。

 そう。それはまるで、宗教画に描かれたかのように清らかな、天使の姿だった。

「おじいさま・・・・」

 栗色の髪の少女が微笑む。吸い込まれるような、澄み渡った美しい微笑。
 未だかつて目にしたこともないような、どこまでも深く澄み渡り、輝き渡るかのような、美し
い微笑。

「・・・・・・・」

 うっとり、と、老人は少女を見つめた。いくら眺めても見飽きないかのように。それ以外は目
に入らないかのように。
 まるで、いくら望んでも手に入れることができないものを見つめる、子供のように。

 老人は、ただただじっと、その少女を見つめ続けた………


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「・・・・老いたものだな、わしも。あのような夢を見るとは」

 全身をとりまくような喪失感に肩を落として、忠義は呟いた。
 煉瓦造りの暖炉のそば、柔らかな着心地のガウンに老いた身を包み、揺り椅子に身を任せてい
るうちに、ついうとうととしてしまったらしい。サイドテーブルに置かれた蝋燭と、炉で爆ぜる
炎の照り返しが、忠義のしわ深い顔にくっきりとした陰影を刻み込む。
 思っているよりも自分が年老いていることを感じて、思わず顔を撫でる。その指先に感じるの
は、かさかさに乾ききりざらついた、ぬくもりのない肌。固く、すべてを拒絶するような、厚く
ひび割れた、肌。

 まるで、わし自身の心のようだ。

 そっと、口には出さずに忠義は呟いた。誰に聞かせるわけでもない。第一、そのようなことを
口にしても意味はない。それはあたりまえのことなのだから。
 一代で巨大な財を成した、偉大な成功者。その威光を世界に轟かせる、神崎財閥の総帥。
 その成功の影には、数多くの者どもの不幸、涙、慟哭、怨嗟が満ちあふれている。彼が巡らせ
た陰謀にかかり、命を落としたものさえも数知れない。

 老獪にして、冷徹非情。利潤のためには、家族縁者さえも切り離す、手段を惜しまぬ男。

 そのように陰口を叩かれていることを、忠義は承知している。何と言われようと、彼の心が痛
むことはない。痛みなど、もはや感じなくなっているのだから。胸が張り裂けるほどの苦しみや
悲しみなど、すでに彼のもとには訪れることもないのだから。

 そしてまた――

 同時に、心が高鳴るほどの喜び、胸を熱くさせ、思わず声を上げたくなるような至上の幸せを
感じることも、彼にはないのだ。

 だのになぜ、あのような夢を見たのか。
 見て、しまったのか………

 ボォォォン・・・・ボォォォォォン・・・・・

 重々しい音が、日付の変わる時を告げる。

 かたわらに立てかけてあった杖を取り、忠義は立ち上がった。ゆっくりとした動きで、寝室へ
と向かって歩き出す。暖炉の火も、蝋燭の火も消すことはない。そのようなことは、屋敷に住ま
う使用人が、言われなくてもしてくれる。自分では何をすることもなく、忠義は広々とした廊下
を、ゆっくりとした歩調で歩いていった。

 ボォォォォン・・・・ボォォォォン・・・・・

 彼の後をすがるかのように、柱時計の鳴らす音が遠ざかる。廊下にいくつも備え付けられた燭
台からの光を頼りに、忠義は歩いていった。
 角を曲がり、自室へと入る。ここにも掲げられた燭台が、淡い光を投げかける。

 チリリリリリ・・・・

 かすかな電話の音が、忠義の耳に届いた。訝しげに、忠義は眉をひそめた。
 彼の部屋には、蒸気電話が三種類ある。一つは、神崎財閥の会長室へのホットライン。一つは、
通常神崎家で使用される、電話。
 そしてもう一つは、彼と彼の家族だけしかその番号を知らない、プライベートな会話のための
電話であり、今鳴っているのは、その電話であった。

「このような夜更けに・・・・」

 眉をひそめて、忠義は遠慮がちに鳴り続ける電話を見つめた。息子の重樹が、明日の会議か何
かの件でかけてきたのだろうか?
 忌々しげに舌打ちをひとつし、忠義は受話器を取り上げた。不機嫌な顔そのままの不機嫌な声
で、忠義は答えた。

「わしじゃが・・・いったい、何用か?」
「・・・・あ、あの・・・・」

 忠義の耳に飛び込んできたのは、思いもかけない声だった。
 鈴を転がすような、美しい声。柔らかく、耳に心地よい響きの声。

「・・・・すみれか?」

 驚きと共に、忠義は声をあげていた。ドキン、と、心が跳ね上がる思いがした。妙に息苦しい
心地がして、思わずむっつりと忠義は訊ねた。

「何用かな、このような時間に?」
「あの、おじいさま・・・・ごめんなさい、このような時間に」

 申し訳なさそうな少女の声が響く。とても悲しげな声に、忠義の胸が、奇妙に苦しくなった。

「・・・・それで? どうしたのじゃな?」
「あの・・・・一言、言いたいことがありますの・・・・」
「・・・?」

 首をかしげた忠義の耳に、柔らかな、とても懐かしい口調の声が響いた。とても甘く、切なく、
けれどどこか爽やかな声だった。

「おじいさま・・・・お誕生日、おめでとうございます」
「・・・・・・・!!」

 身体が硬直した。
 まるで、全ての時が止まってしまったかのように、全身が石になってしまったかのように、忠
義は動けなかった。

 ただ、心臓だけが、奇妙なほどに高まった。何かを告げるかのように、耳元で鼓動が大きくう
ねった。

「・・・・・あの、おじいさま?」

 躊躇いがちな声が、忠義を我に返らせた。びくり、とひとつ身を震わせる。
 そのひょうしに、手が滑った。落としそうになった受話器を、慌ててつかみ直した。

「・・・あ、す、すみれ・・・・」

 柄にもなく、忠義は慌てていた。思ってもみなかったことに、ひどく彼は狼狽していた。普段
の威厳のある老人の姿は、そこにはなかった。

「す、すみれ・・・・」

 脳裏に、先ほど見た夢の中の情景が浮かび上がる。
 膝元に散らばる、小さな菫の花々。小さな手が丹念に摘んだ、思いのこめられた、小さな花。

 そして、輝きわたるかのような、華々しくも美しい、とても澄んだ菫の微笑み。

「すみれ・・・・」

 答える声が、ひどく出しづらかった。喉に何かがからんでいるかのように感じて、幾度か咳を
する。それが愛する孫娘の貌を曇らせることにも気づかずに。

「お、おじいさま! 大丈夫ですか!?」

 慌てたような声に、慌てて忠義は首を振った。電話の向こうに見えるはずがないことに気づい
たのは振った直後だった。

 なんとぶざまなことだろう!

 思わず笑い出したくなる衝動にかられて、忠義は口元をゆがめた。そして、何とか平静を取り
戻した声で、孫娘に語りかけた。

「いや、心配しなくてもよい。ただちょっと喉にからんだだけじゃ」
「そう・・・安心しましたわ」

 心の底からほっとしたような声。心に染み渡るような、とても優しく暖かな声。そこに込めら
れた思いが、忠義の心を包み込んだ。

「すみれ・・・・」かすかにかすれた声で、忠義は告げた。「ありがとう、すみれ・・・」
「い、いいえ・・・」

 気恥ずかしげに、受話器の向こう側の孫娘が答えた。ほんのりと薔薇色に頬を染めた顔が目に
浮かぶようだった。

「・・・そ、それでは、お休みなさい。おじいさま」

 別れを告げる声。その言葉に、何故かひどく心が痛むのを、忠義は感じた。

「あ、ああ・・・・」

 頷き、忠義は受話器を耳から離そうとした。その時だった。

「・・・・愛しておりますわ、おじいさま・・・」
「!!」

 慌てて忠義は、受話器をつかみ直した。だが、その時すでに、電話は切れていた。

「・・・・・・・」

 ゆっくりと、忠義は受話器を置いた。耳に残る優しい声が、妙に心地よかった。

 そっと、忠義は受話器を撫でた。

 かつて、孫娘にしたように。明るい秋の日差しの中で、無邪気に微笑む孫娘にしたように。

「・・・・」

 彼方に漂う蜃気楼のような、懐かしい風景。心に染み入るような、とても暖かな風景。

「・・・・まだわしにも、人間としての心が残っておるのかのう・・・」

 多くの政敵、競争相手を蹴り落とし、あるいは陰謀によって排除し、築き上げてきたこの地位。
多くの血が流れ、命を奪ったことさえもある。
 そんな自分が、このような幸福を手に入れている。暖かく優しい、とても心優しい孫娘に、誕
生日を祝ってもらえる。

「・・・・世の中は不公平なのじゃな・・・・わしのような極悪者に、このような幸せを与える
など・・・・」

 答えるものはない。あるとしたならば、忠義の見る悪夢の中でであろう。
 だが………夢の中でさえも、忠義に訪れるのは、幸せな夢なのかもしれない。さきほどのよう
な、平凡な老人の見る、ありきたりの夢のような。

「・・・・もしかしたら、そのような幸福な夢こそが、わしに与えられた罰なのかもしれぬな・・
・・ならば、神はやはり、万人に平等なのか・・・・」

 自嘲的な笑みがこぼれる。だが、それでも忠義は幸せだった。

 それがどんな罰であれ、愛する孫娘が、誕生日を祝ってくれたのだから・・・・



    (了)




  櫻大戦諸説話へ戻る