ツバキ大戦<第壱章>


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       (七)


「……私、どうしたんだろ……」

帝劇の中。
駆け込んだはいいものの、椿は売店の中で、途方に暮れていた。
自分がどうして大神の言葉にショックを受けたのか、彼女自身ですらもよくわかっていなかったのである。
だが、記憶からよみがえる、大神の言葉。

(椿くんは、俺の彼女じゃない……)

神代に答えた大神の言葉を思い出すたびに、椿の心にはざわめきが走り、胸が締めつけられるように苦しくなり、何かを叫び出したくなる。 その大きな瞳が潤み、何故か涙が流れ出してくるのだ。

「なんで、大神さんの言葉が、こんなに苦しいんだろ?
大神さんの彼女――そう、大神さんの彼女は、私じゃない。それは、ほんとのことなのに。 今までそんなこと、あたりまえだったのに。
なのに――なのに、なぜ? どうして、そんなあたりまえのことが、こんなに嫌なんだろう……?」

またじわりと浮かんできた苦しい思いに無意識のうちに小さな体を丸め、椿は売店の売り場の中にしゃがみ込んだ。
売店の裏、いつも椿が立っている場所の足元には、ふろしきに包まれて幾つもの商品が置かれている。 帝劇のスタァの似姿が描かれた扇子、ポスタァ。記念用に作られた、小さな細工品。 今はまだ公演が決定されていないためにプログラムは置いてはいない。 そのかわり、帝劇でも一番の人気商品であるブロマイドが、きちんと四隅を整えていつでも追加分を手に取ることが出来るように置かれていた。

さくらさんて、か、かわいいかも・・・(ぽっ)<大ウソ(爆) ――ふと、そのブロマイドの一枚を、椿は手にとった。
桜色の小袖を着、つややかで光沢のある美しい長い髪をなびかせ、微笑みを浮かべる少女の姿の描かれた、ブロマイド。
誰もがその微笑みに見とれ、幸せを感じるかのような、不思議な魅力を秘めた少女。大きなハシバミ色の瞳が優しさに満ちて、椿を見返してくる。

(さくらさん……)

椿は、小さく呟いた。何か、奇妙な思いが、胸に去来してくる。
――いつの間にか、椿は、ブロマイドを握りしめていた。 それほど厚い紙ではないブロマイドが、椿の小さな手の中で、くしゃりと折れ曲がっていた。優しげなさくらの顔が二つに折られ、見苦しい皺がブロマイドに走っていた。

「……あ、いっけない!」

椿は慌てて、折り曲げられたブロマイドを元に引き伸ばした。だが、ブロマイドに走った皺は、元には戻らなかった。そればかりか、引き伸ばしたために、皺になった部分から紙が破け、醜くめくれあがってしまっていた。

「あーあ、これじゃあ、お店に出せないや……」

独りごちて、椿はそのブロマイドを脇の屑入れへと入れた。同時に、なぜか胸の苦しみがわずかに和らいだ気がして、椿は小首をかしげた。

(なに……何を私、考えたんだろ? 何を思ったんだろ?)

椿の奥底で、何か、奇妙な思いが湧き上がる。椿は、急に怖くなって、思わず後ずさった。屑入れを見、自分の小さな手を見る。 胸の奥から、何かひどくいやなものが渦巻いてきたようで、思わず自分の体を抱きしめて、椿は壁にもたれた。

「……どうしたの、椿ちゃん?」

ふいにかけられた声に、びくり、と椿は大きく体を震わせた。揺れる瞳が、笑顔を浮かべて歩み寄ってくる背の高い女性に向けられた。 派手な紅色の洋装に身を包み、小造りの端麗な容貌の中、快活そうにきらめく栗色の瞳が優しく椿に向けられている。

「あ……由里さん」

「なあに、いったいどうしたのよ? 元気ないわよ、椿ちゃん!」

明るい声で、由里は椿に話しかけた。だが、椿の様子に何かを感じたらしく、ほっそりとした眉をひそめて、少女の顔をのぞきこんだ。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

「いえ……そんなこと、ないです。別に、何でも……」

小さく椿は答えたが、その視線がすっ、とはずされるのを見て、由里はやや厳しい顔になった。

「何でもないって顔じゃないわね。――ねぇ。よかったらあたしに話してみない? 一人で悩んでたって、解決しないわよ? 誰かに話した方がすっきりすると思うんだけど」

「……いえ、そんな、たいしたことじゃあ……」

「いいから!」

半ば強引に彼女の手をつかんで売店からロビーへと椿を引っ張り出した由里は、きょろきょろと周りを見て、そして、二階へと通じる階段の影へと引っ張り込んだ。

「ここなら、ほかの人に聞かれる心配もないでしょ? 大丈夫だから、話してみたら?」

「でも……」

「こら!」明るい声で、由里は椿の肩を叩いた。 「うじうじしてるなんて、いつもの椿ちゃんらしくないわよ? いいから、話してみてよ! あたしにできることなら、どんなことでも力になってあげるから、ね?」

「い、いえ……ごめんなさい、由里さん!」

椿は、ぺこり、と頭を下げると、由里のわきを抜け、たたたっとかけ去ってしまった。
あとには、意外な椿の反応に目を丸くした由里だけが残されていた。




「――米田支配人。いかがいたしましょう?」

帝劇の支配人室で、大神とマリアは、米田に対して神代についての報告を行っていた。
二人の目の前には、くたびれた洋装に身を包み、大事そうに一升瓶を抱えた赤ら顔の男が座っている。 だらしなく机に投げ出された足といい、ちびりちびりと杯を重ねて、聞いているのかどうか不安になるほどつまらなそうに顔をしかめている彼こそ、帝劇の支配人であり、さらには、帝國華撃團の総司令官である米田一基であった。
だが、今の彼を見てそうとわかるものがどれだけいるだろうか。 帝國陸軍ではその人ありといわれたほどの輝かしい戦歴の持ち主であり、名将とまで謳われた人なのだが、大神の前に座る人物はどう見てもそこらへんにいる酔客とかわりがなかった。

「……まあ、そこまでして雇われたいっていうんなら、雇ってやるのがいいんじゃねぇか?」

大神が報告を終えてから5杯ほど酒を呑み、ぷはぁと満足そうに息を吐いてから、米田は興味もなさそうに答えて見せた。
大神は顔をしかめ、マリアの形のよい眉がぴくり、とはねあがった。

「しかし、司令官。普段ならともかく、今の帝劇の中を外部のものに見られるのは、得策とは思えませんが!?」

マリアがやや険しい声をあげたが、米田はそれを片手で制し、大神に酔ったまなざしを向けた。

「大神。その、神代とやらのことを、詳しく話してくれないか? いってぇ、どんな奴なんだ?」

「はい」大神は姿勢を正した。帝劇のモギリの青年ではなく、帝國華撃團の指揮官、隊長としての厳しい顔つきになり、話を始めた。 「自分と神代は、帝國海軍の士官学校で共に学びました……」

大神が神代と出会ったのは、海軍士官学校の武術大会であった。 これは鍛錬の成果というよりは、誰がどれだけの実力をもっているかを見極めるためのテストでもあり、全ての仕官候補生の試練でもあった。 ここで大神は、射撃を始め、柔道、空手といった種目全てに対してその実力のほどをたっぷりと士官学校の全てのものに知らしめてきたのだが、ただ一つ、剣道だけは、違っていた。
準決勝で大神は、神代誠一郎と名乗る男に、敗北したのである。

「神代の剣の腕は、明らかに自分より上でありました」淡々と、大神は話を続けた。そこには全く私情ははさまれておらず、常に客観的な視点のみがあった。 「常に攻め込んでいたのは自分でありましたが、最後まで竹刀を持っていたのは、神代でした。 油断は、決してしておりませんでした。ですが、自分は胴と左腕を打たれ、転がされていました。
完全な敗北でした」

「隊長が、完全に敗北……」

マリアの目に驚きの色が走った。冷静に見ても、大神の剣の腕前は、比類なきものである。 大きな剣道の道場を構えることが出来るほどの腕前であり、特に霊力を蓄積して放つ必殺技の破壊力は、長年戦場で暮らしてきたマリアでさえも震えが走るほどのものだった。
その大神にして、神代に勝てなかったとは……

「人物としては、どうだ?」

米田は一言聞いただけだった。あいかわらず杯を重ねている。

「友人、上官、部下、いずれにしてもこのうえないものです」大神の答えにはよどみがなかった。 先刻は、帝劇前で言い合いをしていたはずだったが、それだけに大神が客観的な評価を下していることがあきらかだった。 「戦術的才能も、戦略的才能もあります。また、人を見る目も確かであり、上に対しても憶することなく、下に対しても驕ることはありませんでした。 正義感も強く、頭の回転も速い。そのまま仕官学校を出ることが出来たならば、出世は早かったでしょう」

「士官学校を出ることが出来たならば、か……」米田は酔眼を大神へと向けた。「ということは、神代という男、士官学校はでなかったのか?」

「はい」

大神の瞳が無念そうに揺れた。

「彼が、純粋な日本人ではないことが、災いしました。 南蛮の血を引くやつだから、という理由で彼を忌み嫌った教官の一人が彼を挑発し、彼はその教官を殴って、士官学校を出ていきました。
全く、残念でした」

「どこにでもそんな奴がいるんだな。あきれたものだ」嘆息して、米田はマリアに目を向けた。彼女とて、その血のゆえに迫害を受けたのである。 こうしてここ帝劇に籍をおき、帝都市民に愛される花組のスタァとはなっているが、それでもまだ世間の目は日本人以外の者に対しては冷たい。 今でも道行く人のほとんどは、マリアやアイリスを見ると、顔をしかめ、よけて通るのである。 マリアはおくびにもださないが、そのことがどれだけ彼女を傷つけているか、米田も大神も良く知っていた。

「……それにしてもよ。それほどおめぇが買っている男がいたとはな」

にやり、と笑って、米田は大神を見た。

「こいつは面白れえじゃねえか。そこまでの男ならば、いくら隠したってしょうがねぇ。 うまく断ったとしても、どこからか必ず嗅ぎ付けてきそうだ。 それに、へたにあっちこっち動き回られると、そこからもっと厄介な方面に情報が漏れることだってある。
それよりもむしろ、こちらに引き入れた上で、目の届く範囲に置いておいたほうがいい。
そうは思わねぇか?」

「はあ……確かに、そういう考えでしたら、神代を引き込んでおいた方が良いのですが」

大神がやや不本意そうな顔になるのを見て、米田は白い眉を上げた。

「なんだ、大神。ずいぶん嫌そうだな?」

「いえ、別に。ただ、神代は軽い男でして。花組のみんなの迷惑にならなければ、と……」

しどろもどろに大神が答えるのを見て、米田の口元がにやりと大きく崩れた。

「なんだ、大神。おめぇがその男を雇うのに反対なのは、大事なさくらに手を出されるのが嫌だからだったのか?」

「ち、ちちちち違います! 支配人!!」

顔を真っ赤にして大神はわめいた。だが、米田は相好を崩したまま、どこ吹く風といった感じで大神の言葉を受け流した。

「おい大神。けじめははっきりしておいたほうがいいぞ?」

「支配人!」

大神が悲鳴じみた声で米田に言いかかるのを見ながら、マリアはそっと後ろに下がり、静かに支配人室を後にした。 ああは言っているが、大神とさくらとの仲が帝撃の隊長と隊員という以上に進展していることは、マリアには薄々感じられていた。

「ほんとに、はっきりしてくれたらいいのに……」

支配人室の扉を閉めて、マリアは自分自身気づかずに独りごちていた。翡翠色の瞳がわずかに揺れたが、それでもすぐにマリアは顔を上げ、歩きだした。 まだ、帝劇は再建の途中なのである。彼女には、やることがたくさんあるのだ。
そして、それは彼女にとって、大神とさくらのことを忘れていられる貴重な時間だったのである。




――夜の帳が周囲を包み、ほのかに灯る蒸気ランプが、光を路上に投げかけている。 だがそれも、夜天にきらめく青白い月をかすめさせるほどではなく、弱々しく頼りない光は、路上のあちこちに暗い影を色濃く残していた。
しんと寝静まった丑の刻。すべてが闇に閉ざされていた昔とは違うとはいえ、まだまだ夜は暗く、人々は安らかな夜闇のかいなに抱かれて、深く浅く眠りについている。 夜鳴き鳥がときおり思い出したかのように鳴く以外には、物音さえも闇の中に吸い込まれているかのように、静かな時が帝都の町中を流れていた。

だが――

銀座の一角、元通りに石が敷き詰められている中央通りを照らす蒸気ランプのすぐ後ろ。
漆黒に塗り固められたように黒くべたりと張りついた影の中に、奇妙なものが浮かび上がってきた。
夜の闇よりもなお黒く昏いマントのようなものをまとった、小柄な人影。
ゆらゆらと不安定にその存在を揺らめかせながら、人影はゆっくりと周囲を見回した。 マントの奥に鈍く輝く金色の瞳が、寝静まった帝都銀座の街の中に、何かを探すかのように巡らされる。
やがて――
人影は、ふわり、とマントを揺らめかせた。次の瞬間、その影は、銀座の中央通りからはずれた、小さな路地裏へと移動していた。
建築資材がまだ残る、小さな空き地。柔らかな地面がのぞき、雑草があちらこちらに生えた場所であった。 その一角、一時的に置かれたものか、瓦礫が山となって積んであるところへ、音もなく人影は滑るように移動した。 割れた硝子、砕けた煉瓦や、壁の漆喰、ぼろきれのようにちぎれた布きれが積み重なったその地面には、奇妙にこんもりと、土が隆起していた。 まるで何かが埋もれているかのような盛り上がったそこを、人影は興味深そうにその金色の瞳でしばし、眺めていた。 そして、ようやく目的のものと判じたのか、にやり、と、人影はくちびるをゆがめた。 鋭い小さな牙が何百と並ぶ、禍々しくも奇怪な口が、金色の瞳の下に開かれる。 そしてそれは、なにかを吸い込むかのように、どくり、どくり、と蠢き出した。

(―――!!)

声にならない絶叫が、その時、どこからか響いてきた。だが、それを知るものは、この場所にはいなかった。 やがて、満足そうに人影は口を閉じ、かすかにその瞳を細めた。人影を包み込むマントが揺れる。
そして、いずこへともなく、怪しい人影は忽然と姿を消した。
後には、いつの間にかぺたりとへこんだ地面、そう、まるで何かがそこから吸い上げられたかのように、醜くへこんだ地面だけが残されていた。
そして、帝都は、また再び安らかな時を迎えた。
少なくとも、その夜の明け、東の空にまばゆい光輪が輝き出すまでは、帝都は平和だった――



―― 第壱章・完 ――




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