ツバキ大戦

第弐章 「椿・参戦」





       (一)


太正十三年、九月。

盛夏を過ぎ、ようやくしのぎやすい季節へとうつろい、人々の心にも余裕というものが出来始めていた。
帝都の復興は目に見えて進み、すでに八月末には、銀座から日本橋、浅草あたりまでの繁華街が生まれ変わったように整備された。 新しく建築された建物に続々と店が並び始め、奥まった所にある市民の家々も、ほとんど昔の姿へと戻ってきている。 もちろんすべてが元に戻るのにはまだまだ時間が必要だったが、来年の今ごろには帝都も完全な復興を遂げていよう。 そう思うと、市民の心も湧きたち、明日への希望に胸を高鳴らせる。
行き交う人々の顔には輝きが宿り、繁華街に出された店の店主のかける売り言葉にもいさましさと力強さが戻ってきていた。



銀座。有楽町から築地本願寺へと向かうはるみ通りを、一台の蒸気六輪車が走っていた。 英国の有名な蒸気四輪製造会社の手による、おそらく帝都でも数えるほどしかないであろう、高級車である。 長くのびたフロントに、さんぜんと輝くエムブレムは、両肩から美しい銀の羽を伸ばした女神の像。
だが、その内に座している少女は、さらに美しい容貌をかいま見せていた。

「……お嬢様。じきに大帝国劇場へと到着いたします」

「そう」

運転手の言葉に優雅にうなずいた少女は、気のなさそうな返事を返すと、再び窓外を流れる銀座の風景へと目をやった。 切れ長の美しい瞳に浮かぶのは、あふれるばかりの喜びと、そして、ぬぐいきれない不安の影。 紫を基調とした仕立てのよい和装に身を包み、優雅なしぐさで小首をかしげる少女は、すみれであった。

(もう、どのくらいになるのかしら、わたくしがこの銀座から離れてから……)

すみれの脳裏に浮かぶのは、まだまだ瓦礫に埋め尽くされた、荒野のような銀座の町並みの光景だった。 ぼうぜんと立ちすくみ、絶望のまなざしを向けていた人々の姿が、つい先日のことのように思い起こされる。
そして、そのたびにすみれの心には、つらく苦しい思いで、全力を挙げて街を復興させた人々に対する後ろめたさ、華やかな世界に戻っていた自分に対する腹立たしさが去来するのだった。

そう――

帝國華撃團による最終決戦の後、すみれは、祖父であり、神崎財閥の実質的な支配者である神崎忠義によって神崎家へと強制的に連れ戻されたのである。
ほとんど挨拶らしい挨拶もせずに帝劇を立ち去ることになったすみれは、車の窓から仲間たちが名残惜しそうに手を振ってくれるのを見て、子供のように泣いたものだった。 傷つきやすい繊細な心に空いた巨大な穴は、今でもそのあぎとを開いていて、ともすれば彼女の心を喰らい尽くそうとしている。
だが、これからは――

(これからは、皆さんと一緒にいられるのだわ……)

そう思うと、心が湧き立つ。嬉しさに顔がほころび、はしゃいだ笑い声をあげたくなる。 だが、同時に去来するもう一つの思いが、彼女の貌を曇らせるのだった。

(皆さんは許してくださるかしら……わたくしを。大事なときにいなかった、帝劇を再建するための仕事を何もしなかったわたくしを……)

美しい貌にかげりがさし、目を伏せて、すみれは自分の思いの中に沈んだ。 実際には彼女は彼女なりに努力はしてきたのだが、それでも仲間たちがまた自分を受け入れてくれるのか、また共に舞台へと立ってくれるのか。 ぬぐおうとしてもぬぐいきれない巨大な不安が、彼女の心を締めつけるのである。
どんなに誇り高くても、すみれはやはり、十七の少女であった。

「――お嬢様。大帝國劇場に到着いたしました」

ほとんどわからないくらい静かに車が止まり、運転手がそう告げるまで、すみれはもの思いにふけっていた。 だが、運転手の声に、ぎゅっと一回固く目をつぶり、顔を上げたすみれには、すでに先ほどまでの思い詰めた表情はなかった。 柔らかな声で「ごくろうさま」と告げると、居ずまいを正す。車の横に回り込んだ運転手がドアを開けると、優雅な仕種でほっそりとした足を車外に下ろし、すみれは降り立った。
そして、ゆっくりと目の前に建つ建物を見上げる。
ビクトリア調の建築様式で立てられた帝劇は、荘厳な様相でどっしりと銀座の一角にその威容を見せている。 だが、その巨大な玄関の扉は、広く帝都の市民に向かって開かれていた。
現在、その玄関の脇には、巨大な看板がかけられている。

「――帝都復興記念公演『椿姫の夕』近日公開予定」

すみれは看板に描かれた文字を呟くように読んだ。それは、かつてすみれが主演し、大盛況を呼んだ舞台であった。 そして、今も再び、すみれは椿姫を演じるべく、この帝劇へと戻ってきたのである。

(また、舞台に立てる――帝劇の舞台に――)

なつかしさと嬉しさが、すみれの胸に去来する。
舞台。光に満ちあふれ、きらびやかな夢の世界へと人々をいざなう場。 スポットライトを浴びてそこに立つ自分は、神崎という一大財閥の後継者ではない、芝居を愛し、舞台を愛するただの少女にすぎない。 そして観客たちは、彼女の家柄ではなく、彼女の才能に対して、惜しみない称賛を送ってくれる。 それがすみれにはとても嬉しく感じられるのだ。

「……それにしても」

形のよい細い眉をしかめ、すみれはひとりごちた。

「帝劇のトップスタァ、この神崎すみれが戻って参りましたというのに、誰も出迎えに現れないなんて……」

大きく開かれた帝劇の扉ではあるが、そこからすみれの到着を知って出てくるものの姿はない。
すみれの顔に、かげりが再びさした。一抹の不安が、彼女の心に去来する。

「……わたくしは、必要とされていないのかしら……」

思わず唇から出た言葉に、すみれはびくり、と身を震わせた。 たちまちのうちにその不安は広がり、すみれの脆弱な心を縮こまらせる。

そのとき――

すみれだすみれだすみれだあっ!

いきなりすみれの目の前に、金色の光がほとばしった。同時に、愛らしい笑い声が、彼女の耳を打った。

「わぁい、やっぱりすみれだぁ! きゃはははっ!」

「……あ、アイリスっ!?」

目を丸くして、すみれは自分の胸に文字通り飛んできた少女の体を抱きしめた。 ふわふわとした金色の髪が柔らかくなびき、大きな蒼い瞳が無邪気に自分を見つめてくる。その愛らしい唇がにこやかに開いた。

「おかえりっ! すみれ! 待ってたんだよ、みんな!」

「あ……あ、そ、そうでしたの?」呆然としたようすですみれは胸の中の少女を見た。アイリスは満面に笑みを浮かべてすみれを見返してくる。 唐突に、すみれの胸に、何か暖かなものがわき上がってきた。思わずアイリスを抱く腕に力がこもる。

「……すみれ、痛い」

幼い顔をしかめて、アイリスが抗議した。あわててすみれは、アイリスを降ろした。

「ご、ごめんなさいね。アイリス」

優しくそのふわふわの金色の髪をなでて、すみれが謝ると、アイリスはたちまちのうちに機嫌を直し、笑顔を見せた。

「そういえば、アイリス。他のみなさんは――」

どこにいるの、とすみれが聞きかけたときだった。聞き慣れた声が、すみれの耳に届いた。

「……あら、すみれさん! お久しぶりです!」

「すみれはん? ――えらいひさしぶりやんか! 元気してはったん?」

「おう、すみれ! あいかわらず派手だな!」

「すみれ! 良く戻ってきてくれたわね!」

見上げたすみれの瞳に写ったのは、帝劇の扉からのぞいた、懐かしい人たちの笑顔だった。 喜びもあらわに次々と階段をおりて、すみれのそばへと駆け寄ってくる。 アイリスの顔を見たときと同じく、また熱いものがこみあげてきて、すみれは慌てて表情を取り繕った。

「まあ皆さん。あいかわらずお元気そうですわね。わたくしがいなくて、寂しかったのでしょう? この帝劇のトップスタァ、神崎すみれがいなければ、何も始まりませんものね?」

「ったく、素直じゃねぇのはあいかわらずだな。ちったあ成長しろよ!」

「んまあ、あなたこそ、脳みその方は少しは成長したのかしら、カンナさん?」

「……てめえ、戻ってくるなりそれか!?」

「カンナ! すみれ! 今日ぐらいは喧嘩をするのはやめなさい!」

「そうですよ。久しぶりにみんな揃ったんだし」

「でも、なんや懐かしいわぁ。すみれはんとカンナはんの喧嘩も。もう何年も見とらん気がするわ」

口々にしゃべりかけてくる仲間たち。すみれはすでに自分が彼女たちの中に溶け込んでいることを感じていた。 同時に、ここに来るときに抱いていた不安が、まるで嘘のようになくなっていることに気づいた。

(ああ――戻ってきて、よかったですわ……)

密かに心の中で、すみれは思った。心に空いていた穴がたちまちのうちに埋まり、そして熱いものが心の隅々にまで広がっていく。 瞳が潤みかけ、慌ててすみれはぐっとこらえた。 だが、もう一人の、すみれが一番聞きたかった声が聞こえたとき、すみれの中にしまい込んであった熱い思いが一気に吹き上がってくるのを、彼女は押さえきることができなかった。

「……おかえり、すみれくん」

「――しょ……少尉……!!」

すみれの美貌に、歓喜の表情が広がった、切れ長の瞳に涙が浮かび上がる。
だが、誇り高い少女は、すぐに自分の感情を引き戻した。優雅な微笑を浮かべ、ゆっくりと階段を降りてくる青年へと目を向ける。 本当は恥も外聞もなく駆け出して、大神の元へと行きたかったのだが、周囲にいる花組の仲間たちの目の前でそのようなことができる彼女ではなかった。
内心じりじりしながら、大神が近づいて来るのを待つ。
ひどく長い時間が過ぎたかのようにすみれは感じたが、実際にはそれほどの時間がたったわけでもなく、大神は彼女の前に立ち、端正な顔に暖かい微笑を浮かべた。

「よく戻ってきてくれたね、すみれくん」

「も……もちろんですわ、少尉」すみれはややどもりつつ、答えた。押さえたはずの感情が、大神を目の前にして再び湧きたち、言葉を紡ぐ唇の動きを鈍らせる。 それでもすみれは最大限の努力でそれを封じた。 「帝劇のトップスタァ、この神崎すみれがいなければ、帝都復興記念公演もただのつまらないお芝居に終わってしまいますもの。 ねぇ、そうでしょう? 大神少尉?」

「は、ははは……」

大神は苦笑した。否定も肯定もしなかったのは、他の花組の少女たちの顔を見たからである。
うかつに肯定しようものならどうなるか、そのことを身にしみて感じている大神であった。

「とにかく、ありがとう、すみれくん。君のおかげで、帝都は復興できたのだから」

「え……な、なんのことですの?」

唐突に感謝され、すみれは困ったように小首をかしげた。だが、繊細な顔にわずかに走った狼狽に、大神はすぐに気づいた。 苦笑しながら、大神は、不思議そうな顔をしている他の少女たちのために説明を始めた。

「帝都の復興のために政府が特別予算を組んだだろう? それに、国庫をはじめとして有力貴族も資金を提供し始めた。 国はともかく、貴族が資金を提出したのは何故だろうと思ってね。少しばかり調べさせてもらったのさ。すみれくん」

「……」

押し黙ったまま、決まり悪そうにもじもじしているすみれを、花組の少女たち全員が見た。

「あちらこちらの貴族の舞踏会や会合に出席して、帝都復興のための資金援助を働きかけてくれた少女がいる、と聞いたとき、すぐにわかったよ、すみれくん。
君が、働きかけてくれたんだね?
神武の時も、そうだった。君が働きかけてくれたおかげで、ずいぶん助かった。 今回の件、やはり君がからんでいるんだろう?」

「そうだったの、すみれ――」

「すみれはん――」「すみれ、てめぇ……」「すみれさん……」

口々にいいかかる少女たちの声に、すみれはたまりかねたように、大きな声を上げた。

「あーっ、もう、騒がしいですわねっ! わたくしはただ、優雅に舞踏会で踊っていただけですわっ! 勘違いなさらないで下さいませんことっ!?」

「――すみれはん、顔、真っ赤やで?」

「そ、そんなことはありませんわっ!
それよりも、どいてくださらないかしら? わたくし、まだ、荷物を部屋へと運び入れていただいていませんのっ!」

顔をほてらせながら、すみれは強引に花組の少女たちの輪から抜け出し、車の横で忠実に待機していた運転手に向かって細いあごをくいっと動かした。 無言で運転手は車のトランクを開け、巨大な衣装箱などを取り出し、きびきびとした動作で帝劇内へと運び入れ始めた。

「では、わたくしは荷物の整理がございますので。これで失礼いたしますわ」

優雅に一礼して、すみれはさっさと帝劇の中へと入っていく。仲間たちの追及をかわすための口実であることは明白であり、花組の少女たちと大神は顔を見合わせて、苦笑した。

「……にしても、すみれもあいかわらずだな。ちったあ素直になればいいのによ」

やれやれ、という感じで、カンナが頭をかいた。他の少女たちもうなづく。

「でもまあ、素直過ぎるすみれってのも、不気味だけどな」

続けたカンナの言葉に、笑い声が帝劇の前に流れた。




       (二)


「――なあ、椿ちゃん。今日か明日、空いてる? どっか遊びに行こうぜ?」

帝劇の売店の中。
せっせと商品を仕分けして、取り出しやすいように並べていた椿は、軽々しくかけられた声に、振り向くこともなく答えた。

「もうすぐ公演が始まるので、空いてません」

「え? だって、記念公演は1週間後じゃない。まだたっぷり時間はあるぜ?」

「いろんな準備のために、目の回るほど忙しいんです。いずれまた」

「あ、つっめてぇ! この前も誘ったのに! まだだめなの?」

不服そうに声を上げたのは、もちろん神代だった。 大神と同じく、帝劇の従業員服に身を包んでいるが、金赤色の髪と彫りの深い顔だち、何よりも軽々しい雰囲気は、とても帝劇のような場所の従業員は見えない。 むしろ退廃した場末のカジノかどこかの用心棒のように、崩れた印象を与える。

「じゃあさ。せめて今夜、一緒に食事に行かない? 煉瓦亭のいい席、取れたんだけど」

懲りずに神代は椿に誘いをかけた。だが、椿は全く神代を見ようとはしない。熱心に仕事をしている。というより、そういった振りをしているのだ。 小柄な体を丸めて背を向ける椿の姿からは、はっきりと神代を拒絶する意志が感じられた。

「ねぇ、椿ちゃんてば……」

身を乗り出してなおも誘いをかけようとした神代だったが、そのあごの下にひた、と冷たいものがあてられたのを感じて、身を固くした。

「……どなたかは存じませんけれど、椿さんが嫌がっておられるでしょう? とっとと立ち去りなさい」

「物騒だねぇ……」

小さく呟いて、神代はのどにあてられた刃先を軽くつまんでどけ、首をひねった。 その視線の先には、紫色の和装に身を包んだ少女がいた。
そう、すみれである。
仲間たちの追及から逃れ、帝劇の中へと入ったすみれは、売店によりかかるようにして椿を口説いている神代を見つけたのである。 椿が承知するならば、すみれとて野暮な事はしないつもりであったが、話を聞いて神代が一方的に詰め寄っていることに気づき、椿を助けようとしたのだった。 折り畳み式の長刀をなおも油断なく構えながら、すみれはきっ、と神代を睨み付けた。

「あなた、何者ですの? 見かけない顔ですわね」

「あ、すみれさん。この人は、今帝劇で働いている人で、別に怪しい人じゃあ……」

さすがに椿も、物騒な雰囲気に気づいたらしい。慌てて顔を上げて、すみれに話した。
やや表情を和らげて、すみれは長刀の刃先を下げた。 だが、すかさず神代が軽い調子で同意したので、すみれは思わず長刀を振りかぶった。

「そうそう。俺は椿ちゃんのボォイフレンド。怪しいものじゃあ……」

「ボォイフレンドなんかじゃありません!」

「どちらにせよよからぬ者ですわねっ!」

椿が抗議の声を上げたとたんに、すみれの長刀が優雅に舞った。普通のものならば首の後ろを打たれて床に倒れるはずの斬撃はしかし、軽く腕を上げた神代によってぴたりとはさみ止められていた。

「……なかなかやりますわね」

すみれの瞳が細くなった。十分に手加減していたとはいえ、すみれの振るった長刀の速度は並大抵ではない。 修業を積んだ者でさえも、かわすのがやっとのはずであった。 だが、神代は全く動じることもなく、片手を上げ、親指と人さし指ですみれの長刀をはさみこみ、その勢いを見事に止めたのである。 このような芸当が出来るのは、すみれの記憶にも数人しかいない。

「いったい、何者ですの、あなた……」

すみれが再び詰問しようとしたとき、その後ろから、2つの声がかけられた。 明るく元気のよい、快活そうな声と、対照的に落ち着いた、物静かな声。

「……あ、すみれさん。お久しぶりですね!」

「ご無沙汰でした。すみれさん。お元気そうで何よりですね」

「……まあ、由里さん、かすみさん」

すみれの表情が明るくなった。長刀をひっこめ、向き直る。 彼女の目の前には、紅色の洋装に身を包んだ由里と、落ち着いた藤紫の着物をしっとりと着こなしたかすみが立っていた。 懐かしさに顔をほころばせたすみれであったが、はっと気づいて、神代を指さした。

「ご挨拶したいところですけれど、その前にひとつ質問がありますの。――この方は、いったいどなたなのです?」

「ああ、神代さんね!」

おかしそうに、由里が笑った。明るい栗色の瞳が、神代へと向けられる。

「また椿ちゃんに言い寄っていたの? 懲りない人ね!」

ぽりぽりと頬をかきながら、神代は苦笑して答えた。

「そんなに楽しそうに言われると、ショックだなぁ。俺はただ、自分の気持ちに正直なだけだぜ?」

「あまりしつこいと、嫌われますよ?」

眉をひそめてかすみが告げる。整った貌には、やや不快感さえ浮かんでいた。
それと察したのか、神代は、一転して真面目な顔でかすみに対した。

「いえね。椿ちゃんの様子が変だから、元気づけようとしていたんだけど。だめだったかな?」

「それほど変とは思えませんが……」

小首をかしげて、かすみは椿へと目を向けた。椿はまた商品の整理を始めるために、売店の中にもぐりこんでいる。 神代がまた何か話しかけているが、ほとんど聞こえない振りをしているのがかすみの目には明白だった。

「椿ちゃんにしては、珍しいわね。ああまで人を無視するなんて」

意外そうに由里が呟いた。
椿は、誰とでもすぐに仲良くなる才能があり、ほとんど人を嫌ったことはない。 明るく無邪気な彼女の笑顔を目当てに、帝劇に通ってきた客もいるほどである。 そして彼女は、彼らに対しても分け隔てなく、常に笑顔で接していたのである。

「そういえば、そうね」とかすみも思い出したようにうなづいた。 「神代さんが、いらしてからね。何かよほど嫌われることでもしたのかしら、神代さん」

「けっこう、抱きしめられて告白されてたりして」

きゃらきゃらと笑いながら由里が言う。
実はそうなのだが、さすがの由里も、そこまで知る由はなかった。

「……それよりも、かすみさん。その、神代さんて、何者なんですの?」

ふくれっ面で、すみれがかすみに問いただした。何か自分だけが蚊帳の外にいるようで、面白くなかったのである。
かすみは慌てて振り向いて、すみれに説明した。

「あ、神代さんは、大神さんの親友で、士官学校時代の同期だったかただそうです。 私も詳しくは知らないのですが、大神さんの知り合いですし、それなりに仕事をしていただけるので、そう――だいたい、半月ほど前から、この帝劇で働いていただいてます」

「大神少尉の知り合いの方ですの?」とても信じられない、とでも言いたげに眉をひそめて、すみれは神代を見た。 「……何やらずいぶん調子がよろしいかたですのね。誠実な少尉さんとは大違いですわ」

「ま、軽いのは事実ですね。でも、結構、椿ちゃん一途みたいで、見ていて飽きないのよねー!」

「由里! 椿ちゃんの事も考えなさい!」

かすみの叱咤に、由里はちろ、と舌を出した。 そして、何を思ったのか、すみれとかすみの横を抜けて、売店の椿へと駆け寄った。

「ねぇ、椿ちゃん。ちょっと頼みがあるんだけど。いいかな?」

「え? 何ですか?」

「この紙に書かれているものを、買ってきて欲しいの。ちょっと足りなくなっちゃって」

「でも、売店の整理が……」

困った顔で椿は売店の中を見回したが、明るい声で由里はとんでもないことを言った。

「あ、それなら大神さんに頼んじゃえばいいわ。今、暇そうだし――あ、そうだ、神代さん。椿ちゃんのボディガード、よろしくねっ!」

「えええっ!?」

「おっけぃ、任せなさいって!」

椿の抗議の声と神代の嬉々とした声が重なった。

「ちょっと、待ってください、由里さん! お使いはやってもいいですけど、何でまた、神代さんと――!」

「そんなのいいじゃん。なぁ、椿ちゃん、行こうぜ! ボディガードはもちろん、荷物持ちだってやるからよ!」

喧嘩するほど?

「何であなたなんかと行かなくちゃならないんですか!?」

「そりゃあ相思相愛の二人だから……」

「勘違いもはなはだしいです! 別に私とあなたはそんな関係じゃないじゃないですかっ!!」

「そんな照れなくったって」

「照れてるんじゃありませんっ! 怒ってるんですっ!」

「あ、怒った顔ってのも、可愛いな。――じゃ、行こうか」

「ち、ちょっと、神代さん!?」

椿の抗議をどこ吹く風と聞き流し、神代は勝手に由里の手からメモを受け取り、椿の手を引いて玄関へと歩き出した。 神代にひっぱられながら、椿も仕方なさそうに歩いていく。
言い合いしながら二人が帝劇を出ていくのを、すみれとかすみは呆然と見送った。
ややあって、かすみがふと気づいて由里を睨みつけた。

「由里。あれは、あなたの仕事じゃあ……」

「ええ。そうなんだけど。――でもね、かすみさん。実際、椿ちゃんて最近、変じゃない?」

ふと真剣な表情になって、由里はかすみに向いた。

「あたしも結構気になっていたんだけど、どうも、時々ぼぉーっとしていたり、かと思えばなぜか赤くなったり、ブロマイド握りしめていたり。 ほんと、おかしいのよ」

「そうなの?――私は、気づかなかったけれど」

「ええ」由里はきっぱりとうなづいた。明るい栗色の瞳が、真剣味を帯びて輝いた。 「今日だって、ブロマイドの整理するからって、午前中からあの通りだったのよ!? いくら何でも、そんなに時間がかかるものじゃないはずなのに。 いつもの椿ちゃんなら、店頭にどのように商品並べるかを考える頃合いでしょ?」

「そういえば、確かにそうね」かすみも思案顔でうなづいた。 「普段の椿ちゃんには考えられない不手際だわ。何かあったのかしら?」

「何があったか知らないけれど、とにかく、気分転換をさせてあげなくちゃ。 ちょっとした外出でも、気分を少しは和らげてくれると思うの」

「そうね。それもいいかしらね」

表情を和らげて、かすみも同意した。そしてすみれに向き直り、声をかけた。

「すみれさんもお疲れになったでしょう? お部屋にお荷物を置かれたら、事務室にいらっしゃいませんか? サロンほどではありませんが、紅茶の用意ぐらいはできますし」

「――ええ。そうさせていただきますわ」首をふりふり、すみれは頷いた。 「どうもわたくしには、最近の帝劇のことがよくわかりませんの。できましたら、もう少し詳しく教えていただけませんかしら?」

「そうですね。積もる話もありますし」

うれしそうに、かすみはほほ笑んだ。この誇り高い年下の少女を、かすみはとても好いている。 彼女と語り合うのは、かすみにとっても嬉しいことだった。



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