「……く、くそう……!!」
神武の中、大神は、左目に流れ落ちようとする血を、右手で乱暴にぬぐった。すでに左腕は弛緩し、痛みも感じなくなっている。時折うずくのが、まだほんのかすかに神経が通じていることを示していた。 純白の帝國華撃團の軍服は、半分以上が濁った赤い色に染め上げられている。すでに胸のところは乾いてこびりついているようだった。 荒い呼吸をするたびに、耳元でどくりどくりと心臓の鼓動が響く。
「……まだ、生きているようだな。ならば、まだ戦えるということだ」
小さく笑って、大神は、目の前の敵へと意識を戻した。容易ならない相手が、大神の目前に立ちはだかっていた。
「……どうした、帝國華撃團!? この程度で、もう降参か!?」
あざけるような声が、響き渡った。それは、大神の目前の、奇怪な物体から発せられていた。
それは、それまでの造魔とは、全く異なっていた。いや、さらに冒涜的と言ってもいいくらい、ひどく呪わしく、穢らわしいものであった。
姿形は、腕が長い、人型をしている。硬質の、水晶のような透明な鱗が、びっしりとその全身を覆いつくしている。
頭部は、造魔と同じく、魔物独特の赤黒い歯ぐきと白いぬめぬめとした牙からなっている。腕には鉤爪があり、一見したら、造魔の大きなものにすぎないかと思われた。
だが、それは違っていた。青白い、燐のようなほむらがゆらめくなか、その透明な鱗の中に、ぬめりと蠢く肉塊が詰まっていた。
どす黒い液体、青黒い液体がまとわりつき、どくり、どくりと脈打つ、人の拳大の臓物――それは、まぎれもなく、心臓であった――が、いくつもその内に存在していた。
それは、十数人、いや、もしかしたらもっと多くの人間の、心臓をはじめとするすべての器官をとりこんで造られたものに、思えた。
「く……!!」
大神は歯ぎしりした。彼と、その目の前の敵のほかに、この場に立っているものは他にはない。
全ての造魔は、彼をはじめとする帝國華撃團の少女たちの活躍によって倒されてはいたが、そのかわり、多大な犠牲を、大神は払っていた。
獅子奮迅の活躍をしていたカンナが、まず最初に、目前の敵によって倒された。
サタンとの戦いの後、紅蘭の手によって整備され、より強化されていたはずの神武が、いともたやすくあしらわれた。
凄じい勢いで繰り出されたカンナの連続攻撃を、その敵は、何の防御もせずに受け止めたのである。
だが、造魔でさえもなすすべなく倒されたその連続攻撃を、ほとんどダメージらしいダメージを受けないまま、敵はカンナの攻撃を受け止め、その後、軽いそぶりでカンナの神武を殴りつけた。
それこそ紙でできているかのように、あっさりと、カンナの神武の腕がちぎれ、吹き飛んだ。無意識のうちに防御していたのだろう。
その一撃をまともにくらっていたら、カンナの神武は散々になっていたに違いなかった。
続いて、さくらとすみれが、倒された。マリアと紅蘭の援護を受け、連携プレーで追いつめたはずの彼女たちまでもが、たった一機の敵によって倒されるのを、大神は信じられない気持ちで見ていた。
マリアの援護により、何とか彼女たち三人の神武を撤退させたが、それも、僅かな時間を稼ぐにとどまった。
アイリスによる回復も間に合わず、マリア、続いて紅蘭までもが、ほとんど敵にダメージを与えることなく撤退してしまったのである。
「……お兄ちゃん、ごめんなさい……」
か細い声で、アイリスが呟く声が聞こえたのが、つい先刻のことだった。大神に近づいてきた最後の造魔を倒したとたん、アイリスも力尽きたのである。 最後の力で何とか瞬間移動をしてくれたのが、大神にとっては助かった。だが、もはや頼る力は、己自身しか残ってはいなかった。
「さあて、お前で最後だが、どうするかね、帝國華撃團の隊長さん!?」
明らかに、屍炎――そう、大神の目前にいる敵は、魔晶甲冑に身を固めた屍炎であった――は、大神をあえて残していた。
仲間を次々と倒したのも、それを見て大神が憤り、怒り狂うのを娯しむためであった。
それを、あからさまに見せつけ、さらに大神の怒りを掻き立てる。屍炎は、愉悦にその醜い体を揺すらせていた。
「――お前だけは、絶対に許さん!!」
心のうちからほとばしる怒りをぐっとこらえ、大神は叫んだ。先ほどの攻撃で、左腕を完全にやられてはいたが、まだ右手には剣がある。 全身に残った全ての霊気を、その右手の剣へと集中させる。ほのかに、霊気をまとった剣がきらめいた。
「狼虎滅却・無双天威!!」
ぐぉん、とうなりをあげて、大神の白い神武が屍炎の魔晶甲冑の懐に飛び込んだ。同時に、かわすことなど不可能な早さで、剣が魔晶甲冑に襲いかかる。 凄じい霊気のエネルギーが、周囲を席巻した。青く清浄な霊気の刃が、呪われた甲冑をまさに切り裂こうとした時――
「屍炎・穢虐崩滅(ぎぎゃくほうめつ)!!」
屍炎の周囲の空間が、沸騰した。無数の死屍のあげる苦悶のうめき声、地獄からの絶叫が、轟きわたる。青白い燐光がゆらめき、そして、大神は、自分の乗る神武が崩壊する音を聞いた。
「ぐうわぁぁぁぁぁ!!」
魂の内側から苦痛が押し寄せたかのように、大神は感じた。胸を押さえる。その指のすき間から、燐の放つ炎がゆらめいて立ちのぼる。魂が蒸発するかのような感覚が、大神を襲った。
かつて神武を構成していた部品の中に、埋もれるように大神は倒れ込んだ。その口が苦痛にあえぐ。霊気が、大神のからだから抜けていく。
それらの霊気は、屍炎の乗る魔晶甲冑の中へと、吸い込まれていった。
「ぐわっはっははははははは!!」
屍炎の、勝ち誇った笑い声が、日比谷公園に響いた。全く無傷のままに立つ魔晶甲冑が、大きく腕を振り上げた。
「どうだ、黒水!! 俺様の力がわかったかっ!? 帝國華撃團など、くだらない相手であることが、わかったか!? 俺様の前には、何人たりとも立ちはだかることはできんのだ! ぐわっはっはっはっははははははは!!」
「……く、くそ……!」
大神は、ぐらり、と体をよじらせた。想像を絶する苦痛が全身をさいなむ。それをこらえ、上体を起こすことは、大神ほどの男でさえも容易なことではなかった。
「……ほう。霊気をとられ、魂を蒸発させられながらも、まだ立ち上がれるか? 見上げたものだ」
侮蔑の声が、魔晶甲冑から発せられた。臓器をうごめかせた腕が、ゆっくりと伸ばされる。
「さぞや苦しい思いをしていることだろう。何しろ、お前の魂を、俺様の炎が焼き尽くそうとしているんだからな。 それでも立ち上がろうとするその根性に免じて、終わらせてやろう、その苦痛を。慈悲深い男だからな、俺様は」
くつくつくつ、と、陰惨な笑い声が響く。伸ばされた腕の鉤爪が、大神の体を捉えた。ひと思いに握りつぶそうと、その鉤爪に力が加わろうとした、まさにその時だった。
世界全てを飲み込むかのような、純白の、巨大な光が出現した。
白い、清浄な輝きが、魔晶甲冑を黒ぐろとした影にする。さらに、光の中へと飲み込もうとする。
「な、な、何事だああああ!?」
思わず、屍炎は魔晶甲冑の腕で、その顔を覆った。掴まれたままの大神が、その光にさらされる。
と、見る間に、大神のからだが、青い、美しい光を放ち始めた。その端正な顔から苦痛が消え、そして、その全身に、戯れるように、霊気がまといつき始めた。
「な、何だと!?」
驚愕に、屍炎はその醜い顔をゆがめた。だらりとたれさがっていた左腕が、見る見るうちに元のように力強く再生される。 奪い取ったはずの霊気が、大神へと戻っていく。さらに、魂を焼き包んでいたはずの燐炎が、またたくまに消えうせてしまっていた。
「……こ……れは、一体……?」
小さくうめいて、大神は目を開いた。全ての感覚が、元へと戻されていく。霊気が満ち、その全身に、例えようもない力が湧きあがってくるのが感じられた。 その耳に、聞き覚えがある声が、飛び込んできた。
「大神……さん……大神さん!!」
「……つ、椿、くん!?」
大神は見た。その、白い清浄な光の中心にいる少女の姿を。その小さな体を覆うように、光り輝く羽根が彼女を包み込んでいる。
そして、その背後に、何か懐かしい、慕わしいひとの姿があるのを、大神は見た気がした。
ゆっくりと、椿の腕が上がる。背後にいる何かが、椿を抱きすくめた。その時、椿の胸に、きらり、と輝くものが出現するのを、大神は見た。
まばゆいばかりの光が、その輝くものから発せられる。
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
凄じい悲鳴が、大神の背後で起こった。振り向いた大神は、それこそ目を疑った。 大神の必殺技でも傷つけることができなかったはずの、魔晶甲冑の透明な鱗が、まるで太陽の光に照らされた薄氷のごとく溶けていく。 そして、その柔らかい肉が、むきだしになっていく。
(――さあ、今です。あの、呪われた魂を救ってあげてください!)
大神の脳裏に、柔らかな、そして穏やかな声が響いた。それは、聞き覚えのある、とても懐かしいものだった。
大神の両手に、青く清浄な輝きを宿す剣が、出現した。香ぐわしい香気が、大神の鼻孔をくすぐる。
大神は、なすべきことを瞬時に了解した。
「狼虎滅却・癒穢浄魂(ゆぎじょうこん)!!」
大神の口から、彼自身でさえも知らない言葉が発せられた。両手に持った霊気の剣が、ぐさり、と魔晶甲冑に突き刺さる。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴が、轟いた。どろどろと、魔晶甲冑が、溶け始めた。
だが、次第にそれは、清浄なほどに美しい粒子へと変わり、まるで歓びの歌を奏でるかのような澄んだ音を立てて、天へと向かって流れていった。
かすかな声が、聞こえた。白濁した意識の中で、椿は、夢うつつにその声を聞いていた。
心が満ち足りた、とても安心できる声。優しく暖かく、自分を包み込んでくれるようなその声。
まどろみに似た心地で、椿はしばらく、その声に聞きほれていた。
「……つば……く……つばき……くん……つばき、くん……椿くん、椿くん!!」
「……?」
その声が、自分を呼んでいるのに、椿はようやく気づいた。うつらうつらと、意識が揺れ動く。
そして、まるで海の底から海面へと浮上するかのように、意識が少しずつ、少しずつ、はっきりとして来――
いきなり、椿は、目を覚ました。
「椿くん、気がついたか!?」
気ぜわしそうにかけられた声。椿は、目をしばたたいた。まだ意識ははっきりしていない。 ぼんやりとした顔で、椿は、自分を抱きかかえている人物に目を向けた。
「……あ……大神、さん?」
「よかった。気がついたんだね?」
小さな唇から自分の名前が漏れたのを聞いて、大神はほっと胸をなで下ろした。 軍服は血に染まったままだが、体は不思議と痛みを感じない。 大怪我をしたはずの左腕で椿の小柄な体を抱いて、大神は優しい笑顔を浮かべた。
「よかった。椿くん。君のおかげで、敵を倒すことが出来た」
「大神さん……お怪我は、ありませんか……?」
かすかな、心配そうな声が、椿から発せられた。大神は即座に頷いた。
「ああ、大丈夫だ。――不思議だな。この左腕は、かなりやられたはずなんだが、今では傷一つない。いったい、どうして君は――」
「よかった……」
問いかけようとした大神の言葉が止まった。安堵した様子で、椿が大神の胸に体を預けてきたのである。 困惑した顔で、大神は自然と椿を抱きしめることになった。 その腕の中で、椿は、うつらうつらとまどろむように、幸せそうな笑顔を浮かべた。
「大神さん……」
「――な、何だい?」
奇妙に、大神の心がざわついた。どぎまぎとした心持ちで、大神は、腕の中の少女を見た。
ふっくらとした小さな顔。そばかすの残る、あどけない顔に、満ち足りた、安心しきった表情が広がっていた。
その小さな桜色の唇が、かすかに息づく。
甘やかな吐息のたてるかすかな音が、大神の耳朶を打った。
どきん、と、大神の鼓動がわずかにはねあがった。
(……お、おい、いったい俺は、何をそんなに慌ててるんだ!?)
思わず自問自答したが、大神はその答を出すことはできなかった。椿が、かすかな声で、しかしはっきりと、つぶやいたのである。
「……大神さん……私、大神さんのことが、大好きです……」
「……」
大神の思考が、停止した。
(つ……椿くんが、お、俺を……)
(俺を……すき……)
(すき……すき……すきって……えーと……)
「……え、え、えええええっ!?」
混乱の極致に達した大神は、思わず大声をあげていた。だが、椿が身じろぎするのを感じて、慌てて口を手で押さえた。 大神の腕の中で、安心しきった表情で、椿はすうすうと寝息を立て始めていた。 そのあどけない顔に満足そうな、幸福そうな微笑みが浮かんでいるのをみて、大神は途方にくれたようにつぶやいた。
「……どうしたもんかなぁ……」
抱きしめたままの椿を眺める。柔らかな髪が、ふっくらとした頬に優しくふりかかる。
大きな茶色い瞳は閉ざされていたが、よほど楽しい夢を見ているらしい、淡い微笑みをその健康そうな頬に浮かべて、椿は寝入っている。
それは、全てをゆだねきって安堵の中に眠る少女の姿だった。
可憐で健気なその椿の姿に、思わず知らず、大神も微笑みを浮かべていた。優しく、その髪をなでる。
だが、その折も折であった。聞き覚えがある声が、大神の耳朶に触れた。
「……あ、大神さん、ご無事でしたかっ!?」
ぎくりっ、と、大神は身を震わせた。
慌てふためき、わたわたと手足を振るが、寝入っていた椿が、うーん、とかすかにうめくのを聞いて、凍りついたようにその動作をやめる。
そして、そぉっと椿をどかそうと試みたが、それよりも早く、声をかけてきた少女が大神の目の前に現れてしまった。
しっとりとした美しい黒髪をなびかせ、急いで来たことを証明するように軽く息を弾ませ、ばら色に頬を染めて、その少女がたどりつく。
ハシバミ色の瞳が大神を見、潤む。その小さな口元に、輝くような笑みが浮かんだ。
「ああ、よかった! 心配したんです、大神さ――」
安堵の表情を張りつけたまま、さくらの顔が強ばった。にこやかな笑みが、まるで凍りついたように固まった。 明るい瞳が、大神の胸の中で眠る少女にくぎ付けになったのを、大神は感じ取った。
「……あ、さ、ささささくらくん。あ、あの、こ、これは――」
大神の背に、冷たいものが伝った。ある意味では屍炎に対していたとき以上の恐怖が、大神を襲った。
「……」
さくらの細い眉がきゅっとねじれた。明るい瞳が険しくなった。疑惑のまなざしが、大神に降り注ぐ。 必死になって思考を巡らし、大神は口を開いた。
「……じ、実はね、つ、椿くんが戦いにまきこまれかけて、で、助けたんだが……」
「……ほんとですか?」
ほんのわずか、さくらの表情が柔らかくなった。だが、大神の言葉を全面的に信用したわけではない。確かに、大神は嘘をついている。 椿が戦いにまきこまれかけていたことは事実であるが、大神が助けたわけではないし、椿がどうしてここに現れたのかについては、彼にも全くわからないのである。 だが、多分に自己保身のために、大神はうんうんと頷いた。
「ほんとだよ。それで、気を失った椿くんを、こうして介抱していたんだが……」
その時だった。ふいに、椿が目を開けて、大神を仰ぎ見たのである。大神の顔に、はた目にもはっきりと狼狽の二文字が浮かんだ。 冷や汗がその端正な顔にどっと吹き出す。
「あ、つ、椿くん、気がついたかい?」
白々しく問いかけた大神を、椿はぼんやりと見上げた。まだまどろみの中にいるような表情だった。
「椿ちゃん、大丈夫?」
さすがに心配そうな顔になって、さくらが椿をのぞき込む。だが、椿はぼおっとした顔でさくらを見るのみだった。
「大丈夫でしょうか、大神さん……」
「あ、ああ、大丈夫だと思うんだけど……」
同意を求められて、大神は頼りなさそうに頷いた。そして、改めて自分の腕の中の椿の顔を見た。
「どこか気分は悪いところはないかい、椿くん?」
「あ……」椿の顔に、ぱあっと無邪気な笑顔が広がった。「大神さん……?」
「あ、ああ、俺だよ。大神だ」
頷いた大神に、いきなり、椿は抱きついた。そのあどけない顔に、幸せそうな笑顔が浮かんだ。
「大好きです、大神さん!!」
「……!!」
大神の脳裏に、想像するだに恐ろしい光景が、まざまざと広がった。
そしてそれが訪れるのは、そう遠くないことを、大神は知っていた。
「さ……さくら、くん……」
大神はぎくしゃくと振り向いた。そこには、想像通り、いや、それ以上の形相のさくらが立っていた。
「お・お・が・み・さ・ん――ずいぶん、いい雰囲気ですね。まるで恋人どうしみたい……」
「こ、これは、その……」
「弁解はいいです!!」
ぷい、と、さくらはふくれっ面で大神に背を向けた。そして、ずんずんと、その場から立ち去っていく。
「あ、さ、さくらくん!」
大神の情けない声が、響く。だが、さくらはもう構わなかった。その脳裏には、椿の笑顔が焼きついていた。
(なんで、なんで椿ちゃんまで、大神さんを好きになっちゃうのっ!?)
さくらの耳に、まだ、椿の声が響く。それは、明らかに恋する乙女の熱い想いがこめられた声だった。
(大好きです、大神さん!!!)
――それは、大神を巡る女の戦いへの、椿の高らかな参戦の布告だった。
じっとりと湿った空気がよどむ、洞窟のような空間。
ざわざわと、不定型に壁がゆがむ。そこに、ちろちろとした青白いほむらが立ち上り、やがて、醜い小男の姿が現れた。
洞窟内に、腐った肉が放つような、不快な異臭が漂った。
屍肉をさらに崩れ落ちさせたような顔をゆがませ、屍炎は、その前に立つ漆黒のドレスの女へと何かを求めるようにどろどろと肉が灼けただれた腕を伸ばした。
「黒水――俺に、きゃつの力を分けてくれ……天海、きゃつに埋もれた、あの力を、俺に……」
「……」
黒水は、ゆっくりと、振り向いた。その白い美貌には、何の感情も浮かんではいなかった。その漆黒の瞳が、じっと、屍炎を見すえる。
そして、静かに、冷酷なまでに優しい声を、屍炎へと投げかけたのである。
「お前は、だれ?」
「な……!?」
屍炎のただれた顔に、驚愕が走った。屍炎にかけられるべき、あらゆる返答の、そのいずれとも、それは異なっていた。
それはまさしく、屍炎という、その存在全てに対する、明確な拒否であった。そこには、一片の感情も存在しなかった。
それだけに、屍炎は、あらゆる全てのものが自らの手から離れたことを、自分という存在そのものが、この場から失われたことを、はっきりと悟ったのであった。
低い、うめくような声が、屍炎の口から漏れた。
「……頼む。いま一度、いま一度、やつらと戦う機会をくれ! 今度こそ、やつらを倒す! だから……」
「……」
もはや、黒水は、屍炎に一瞥さえもくれることはなかった。再び背を向け、その声さえも聞こえぬかのように、ゆったりとした様子で、天井に巣くう、黒い塊を見上げ続けた。
「く……く、くそぉぉぉぉぉ!!」
屍炎は、怒りにその小さな体を震わせた。絶望が、全ての理性を彼から吹き飛ばしていた。
やにわに、彼は、その小さな体を跳躍させた。信じられないような素早さで、黒水の、その黒ぐろとした長い長い髪に覆われた小さな頭へと飛びかかる。
ただれ、崩れ落ちた細い腕が、その頭を捉えようとした刹那――
「!!」
声にならない悲鳴が、屍炎の口からほとばしった。その醜い顔に、これ以上はない恐怖が広がる。 だが、それもほんの一時のことに過ぎなかった。ぶくぶくと、泡立つような音を立てて、屍炎の体が溶けていく。 そのただれた肉も、穢らわしい魂も、何もかもが溶け崩れ、空中へと消えていった。 その後には、一片の肉塊も、一本の髪の毛さえも、残ることはなかった
「……やれやれ、哀れなやつだ。身の程をわきまえるということを、知らなかったとはな」
憐憫と、それにも増して侮蔑の入り交じった声が聞こえた。それは、明らかに黒水の声ではなかった。
じっとりと淀んだ空気の中、むうっとした密度の濃い風が、漂う。ゆっくりとそれは黒水の脇へと降り、やがて人の形をとった。
やせぎすの、ぼろぼろのマントをまとった、奇妙な男だった。そのほっそりとした手は、まるで骸骨のように、肉の一片さえもまとってはいなかった。
「今度は俺がやろうか、黒水? あの屍炎よりは、役に立つと思うが?」
「いいえ。あなたは造魔の統制に回って頂戴」黒水はその男を見ることもなく、告げた。 「陸邪が、俺にやらせろと言ってきたのよ。どうやら、面白い遊び相手だと思ったらしいわね、あの帝國華撃團を」
「先を越されたか」その男は舌打ちをしたが、さして残念そうな様子は見せなかった。 「まあいいさ。陸邪にやられるようじゃ、俺の相手なぞ、つとまらん。しばらくは退屈な作業にかかるさ。 だがな、黒水。陸邪の次は、俺だ。俺にも少しは退屈しのぎをさせてくれ」
「しょうがないわね」くすくすと、おかしそうに笑いながら、黒水は初めて男を見やった。その毒々しい赤い唇が、にっと笑った。 「わかったわ、魔風。もしも陸邪がやられたら、あなたに任せましょう」
「うけたまわった、黒水」軽く、しかし物騒な微笑を浮かべ、魔風と呼ばれた男は、身を翻した。 その体が、たちまちのうちに透明になり、風にまぎれ込んだ。 「出番が回ってくるのを楽しみにしているぞ、黒水。それまではおとなしく、屍肉の相手をしておこう。あのお方のために」
「よろしくね」
黒水が呟くのと同時に、その存在は、一陣の風となって消えうせた。
再び、じっとりとした暗い洞窟に、静けさが戻った。だがそれは、どこかしら穢らわしく、厭わしいものであった――