ツバキ大戦<第弐章>


ツバキ大戦 表紙へ
前へ 次へ


       (七)


日比谷公園。明冶36年、江戸城の南、松本楼の跡地に造成された、日本初の洋式公園である。 井伊直弼の暗殺で有名な桜田門の東、日比谷濠をはさめばそこには外苑が広がっている。 太正天皇の住まう皇居の、まさに、目と鼻の先であった。

「……いわば、最悪の人質、に近いな」

大神の表情は厳しかった。翔鯨丸で急行し、何とか全員の神武を外苑に降り立たせたものの、背後に皇居を控え、苦戦を強いられるのは必須だった。 それでも大神は、出来うる限りのことをするつもりだった。

「……マリア。君は桜田門の前で待機してくれ。紅蘭は内堀、二重橋のたもとだ。すみれくんは大手門をかためてくれ。 さくらくんはマリアの前面、桜田濠に。カンナ、君は俺とともに、日比谷濠を固める。アイリスは外苑で待機。どこで戦闘が始まっても援護に回れるようにしていてくれ。
いいか。まずは皇居の防衛だ。帝國陸軍が来るまでは、現状を維持。皇居防衛の指揮を委託した後に、敵のせん滅にかかる」

「了解!」

通信機から緊迫した返答が返ってくる。大神は、やや表情を緩め、落ち着いた声を、通信機に投げかけた。

「みんな。夜の公演までには戦闘を終わらせよう。疲れているだろうけど、これも帝都のみんなを守るためだ。よろしくな」

「……隊長」「大神さん」「大神はん」「少尉」「隊長!」「お兄ちゃん」

ほどよく緊張をゆるめた声が、次々と大神の耳にとびこんでくる。喜びと感謝と決意に満ちた、頼りがいのある花組の少女たちの声。 それは、大神自身の緊張も、ほどよくゆるめてくれた。ひとつ深呼吸して、大神は、強い口調で通信機に声をかけた。

「いくぞ、みんな!」

「はい!」



「……さあ、どれほどのものか、見せてもらおうか。帝國華撃團」

にたり、と気味の悪い笑いを、その醜い顔に浮かべながら、屍炎はゆっくりと、おのれの使い魔、造魔の軍勢を眺め回した。
造魔は、40体ほどがそこにいた。一見すると、降魔にも似ている。ぶよぶよとしたいやらしい紫色の体に、てらてらと異様に白く輝く牙と爪を持っている。 コウモリに似た骨ばった翼を持ち、トカゲに似たしっぽを持った、四足歩行の魔物であった。
だが、ひとつだけ、降魔とは異なる点があった。 その醜い姿の中、それは、その造魔と呼ばれるものが、いかに呪われた存在であるか、いかに自然界の摂理を冒涜するものであるかをまざまざと見せつけていた。
それは、こぶのように浮き出ていた。だが、普通のこぶでは決してなかった。 落ちくぼんだ、あるいは逆に突き出た部分がところどころにあり、一つの見慣れた形を形成している。
そう、それは――

てきとーだなぁ・・・(苦笑)

「隊長、ありゃあ……」

大神の白い神武の横、鮮やかな赤橙色の神武から、震える声が、大神の耳にとびこんできた。だが、大神もその声にすぐに反応することはできなかった。
大神は、息をのんで、目の前にぞろりと現れた造魔の姿を凝視していた。特に、その、額とおぼしき場所に浮き出たものに。

「人間、なのか――?」

それは、思わず吐き気をもよおすほどのものだった。青白く、ぬめぬめとした粘液のような油膜に覆われたそこには、まぎれもない、苦悶と底知れぬ恐怖に顔を無残にゆがめた人間の頭部が、突き出ていたのだ。 ちょうど首の下、普通なら肩口にあたる部分は、すでに造魔となっている。だが、首から上は、それこそ見間違いようもなく、人間のそれであった。 ただし、その髪も、その瞳も、その唇も、すべてがいやらしい青白い肉塊になっている。 まるで屍肉をこねくりまわして作り上げた粘土細工のような、見るものにこれ以上ないほどの嫌悪感と不快感と、そして、このような生物を作り上げたものに対する例えようもない怒りとを呼び起こすものであった。

「……許せねぇな!」

低く唸るような声が、通信機から聞こえる。大神は冷静に諭した。

「カンナ、落ち着け。まだだ。まだ、帝國軍が到着していない」

「わかってるよ……けど、我慢にも限界ってもんがあるんだ!」

赤橙色の神武が、やにわに、ぐいっと突出した。その拳に、霊気の輝きが宿る。

「カンナ!」

慌てて、大神もカンナの後ろについた。その時、通信機から、待ちに待っていたものがとびこんできた。

「隊長! 帝國陸軍が到着しました。今から指揮権を委託します!」

「こちらも、今到着なさいましたわ。すぐにかけつけます、少尉!」

マリアとすみれの声が届くや、大神はすぐに決断した。通信機に向かって、叫ぶ。

「カンナ。敵をせん滅するぞ! 思う存分にやれ!」

「おっしゃあ! その言葉、待ってたぜ!!」

嬉々とした声で、カンナが答えた。霊気を宿した拳が、蹴りが、炸裂する。たちまちのうちに、造魔が吹き飛ぶ。肉塊がえぐりとられ、のたうち回る。
大神も、すぐに剣を抜き放ち、彼女のそばへと急いだ。



「……こ、これは……」

その頃。
ようやく路面列車の車両から抜け出した椿は、呆然と、自分の目の前にある光景を眺めていた。椿の横で、四葉も震えながら、椿にしがみついていた。
彼女たちの目の前には、奇怪な造魔の群れがあった。べとり、べとりと、奇妙なくらいにゆっくりした動きで、街路を徘徊している。 逃げ惑う人々を、ほとんど無視しているかのように、その造魔は、ゆっくりとした歩調で、あてどもなくうごめいていた。
だが、ふいに、ほとんど何の気なしといった感じで、その前脚がふるわれた。

「ぎゃあああああっ!」

凄じい悲鳴が、轟いた。椿はびくり、と体を震わせた。彼女の目の前に、毒々しい赤い液体が、まるで水鉄砲からふっ、と飛ばされたかのように、きれいな円弧を描いた。 奇妙な物体が、宙を舞う。細い、五本の枝のようなものがついたそれが、人間の腕であると知ったのは、かなり後だった。

「ひっ……!!」

息をのむ気配がする。椿は、傍らを見た。青ざめ、恐怖に血の気を失った美しい顔があった。

「四葉ちゃん」

小さく声をかける。だが、四葉は返事をしない。濁ったような青紫色に唇を染め、まるで石になってしまったかのように、固く、椿にしがみついていた。
椿は、周囲を見回した。人々は、犠牲となった人を残し、ほとんど逃げ出している。 後に残っているのは、恐怖に腰を抜かして呆然と魔物を見上げていたり、あるいは、逃げ出そうともがいているのか、はいつくばって、必死に手足を動かしているものばかりだった。
他は――そう、他には、生きているものは、いない。おかしなふうにねじ曲がった体、ひきちぎられて転がっている四肢、白い骨がわずかに見える、噛みくだかれた頭。 ひくひくと、まだ蠢きをやめない、ピンク色の臓物をはみださせて痙攣している、赤い液体にまみれた肉の塊――
その中で、まだ動いているのは、忌まわしき造魔の群れだけだった。

「――四葉ちゃん。四葉ちゃん!」椿は、震える声を、四葉にかけた。「ここは危険よ! 逃げよう、四葉ちゃん!」

いらえはなかった。椿は、四葉の顔を見た。薄茶色の瞳は、長く濃いまつげに閉ざされていた。血の気を失い蝋のように白くなった顔は、もう何も表情を浮かべてはいなかった。
四葉は、失神していたのである。
椿は、ほうっと、ため息をついた。むしろ、そのほうが四葉にはいいかもしれない。 目の前の凄惨な光景を、これ以上か弱い少女に見せつけるのは、酷というものであった。
椿は急いで、周囲を見回した。建物の一部が、壊れている。その陰に、少女が二人ぐらいは隠れられそうな場所があった。 失神した四葉を抱きかかえ、引きずるようにして、椿はそちらへ向けて、歩き出した。

だが――

生きているものがいなくなった街路で、その行動は、非常に目立った。 よろよろとよろめきながら歩いている二人の少女の姿を、造魔は、その白く濁った瞳で見すえた。 そして、新しいおもちゃをみつけた赤子のように、ゆっくりと向きを変え、ぎりぎりときしむような声を発して、少女たちへ向かって歩き出した。

「!!」

椿の顔に、恐怖が浮かんだ。造魔が目指しているのが自分たちであることを、はっきりと椿は悟った。 急いで、建物の陰へと逃げ込もうとするが、力を失った四葉の体を抱えていては、ほんのわずか速度をあげるのが精一杯だった。
椿が急ぎ出したのを、造魔も感じ取ったのだろう、造魔の歩く速度も早くなる。たちまちのうちに、椿の背後に、造魔の醜い姿が迫った。
生臭い息と、ぬめるような体液が、椿にふりかかる。とてつもない恐怖が、椿の足をすくませ、鈍らせる。その瞳に、建物の陰が映る。

(ここからなら――!!)

椿は瞬時に決断した。抱えていた四葉の体をおろす。そして、渾身の力を込めて、四葉の体を投げ飛ばした。建物の陰へと向けて。 小さな体は、椿の期待通り、陰の中へと転がっていった。造魔からは完全に見えない位置に、そのか弱い体が隠れるのを見て、椿はほっと安堵のため息をついた。

(これなら、少なくとも、私よりも助かる確率は高いわ!)

くるり、と身を翻して、椿は造魔に向き直った。その前脚が振り上げられる。その瞬間を狙って、椿は駆け出した。造魔の脚の間を駆け抜け、反対側に出る。

「こっちよ!!」

鋭く、椿は叫んだ。造魔がゆっくりと、振り向く。その濁った瞳に、狂暴な光が宿った。さきほどとはうってかわった素早い動きで、造魔は椿に向き直った。
椿は、自分を造魔が狙い始めたのを感じた。思惑通りだった。あとは、四葉のいる場所から造魔を引き離せばいいのだ。

「ほら、こっち! こっちに来なさい!!」

椿は叫んだ。そして、ゆっくりと、造魔が彼女を見失わないように気をつけながら、歩き出した。
造魔は、白い牙をむき出した。気味の悪いだ液が、滴り落ちた。椿を狙って、造魔は駆け出してきた。それは、椿の予想よりも素早い動きだった。

「こんなに早く動けるのっ!?」

慌てて、椿はかけだした。誘導するだけですむか、と思っていたが、椿は全力でかけだすことになった。それほど造魔の移動速度は、さきほどののろのろとした動きがうそのように、早かった。

(――だめ、追いつかれる!)

それほどいかないうちに、息があがってきた。必死になって、椿はかけだした。生臭い息が、ぶしゅうと後ろから吹きつけてくる。ほとんどすぐ後ろにまで、造魔は迫っていた。 例えようもない恐怖感が、椿を襲う。

(こわい、こわい――こわい!――誰か、誰か助けて!)

椿の瞳が、うるんできた。視界がゆがむ。震える口が、酸素を求めてあえぐ。心の奥底から、恐怖が椿の感情を覆いつくす。

「………大神……さ……ん―――
大神、さん――大神――さん…………大神さん……大神さん、大神さん……
……大神さん、大神さん、大神さん、大神さん……大神さん!………

大神さん!!

いつしか、椿の唇は、一つの名前を呼んでいた。切れ長の、鋭い、だが、優しい光を宿す瞳。すっと通った鼻筋。そして、精悍な顔に浮かぶ、強く優しい微笑――
脳裏にその顔が浮かんだとき、椿の心の何かが、はじけとんだ。心の裡から、何か、凄じいまでの力が、ほとばしり出てくる気が、椿はした。 知らず知らずのうちに、椿は立ち止まり、全ての力を振り絞るようにして、その名前を叫んでいた。

「大神さん!!!」

その時――

「グギャアアアア!!!」

凄じい悲鳴を上げて、造魔が転がった。その、醜い前脚が、半分のところから無くなっていた。 切り口にはわずかな光の粒子がいびつな棒状にまとわりついている。 まるで、その部分が瞬時に光に変わったかのように、かすかに以前の形状を保ちながら、粒子はちろちろとひかり、そしていずこへともなく消えていった。

「――え!?」

椿は、その大きな茶色い瞳を丸く見開いた。耳障りな悲鳴を上げながら、造魔はのたうっている。
奇妙な感触が、椿の手にあった。何か、きらりと輝くものを握っているように思えて、椿は手元に目をやった。 だが、そこには何も見えなかった。ただ、何かを握っているという感触だけがある。

「グォォォォォ!!」

唸り声が聞こえ、はっ、と、椿は我に返った。前脚を失った造魔が、ぎろり、と椿を睨み付けていた。 そこには、見まがうことのない憎悪と憤怒と呪詛が満ちあふれていた。ぐわり、と造魔はあぎとを開いた。 ただれた醜い口蓋に、ずらりと牙が並ぶ。ぬめぬめと粘液質のよだれがしたたり、生臭い息が、ぶふうっと吐かれた。
そして、いきなり、凄じい勢いで、造魔は椿めがけて突進してきた。ぎらぎらとぎらつく瞳が椿を見すえ、彼女は思わず、身を固くしてしまった。

「あ……ああ、あああ……」

小さな口が、ぱくぱくと開く。だが、そこには意味をなす言葉はない。ただただ、造魔が自分を喰らい尽くそうとするのを、呆然と見たままだった。 造魔のあぎとが、椿の頭上にふりかかろうとした、その刹那――

「ふせろ、椿ちゃん――!!」

突如耳に飛び込んできた声に、椿は思わず、座り込んだ。その頭上で、がきっ、と鈍い音が響いた。同時に、排気された蒸気が、ぶしゅうという音と共に椿の姿を覆い隠した。

「今のうちに逃げろ!」

叫び声に、なかば無意識のうちに、椿は身を翻していた。たちこめる蒸気にまぎれ、駆け出す。 振り向いた彼女の目に飛び込んできたのは、異様に巨大な鉄の鉤爪で造魔の頭をつかんでいる人型蒸気だった。 六輪の車輪が鈍い音を立てて回り出す。造魔の頭を掴んだまま、その人型蒸気は、凄じい力で後退した。 引きずられるように造魔の体がひねられる。そのタイミングを見計らったかのように、巨大な鉤爪がぐるりと回った。 ごきりと嫌な音を立てて、造魔の頭がねじ切られた。絶叫が響く。だが、人型蒸気は情け容赦なく、片方の鉤爪ででねじ切った造魔の頭部をつかんだまま、もう片方の鉤爪を、造魔の醜い体へとずぶりと突き立てていた。
ぐおん、という作動音と共に、両腕が引き伸ばされる。造魔の体が、ゴムのように伸び、ぶちぶちと音を立ててはじけた。

「グギャォォォォォ!!」

断末魔の悲鳴が轟いた。それきり、造魔の体から力が失われた。びたり、とその穢れた体が道路へと落ちた。 ひくり、ひくりとそれでもまだ造魔の体は蠢いていたが、やがてそれも途絶えた。
それを確認したのか、人型蒸気は、勝利の雄たけびをあげるかのように、盛大に蒸気を吐き出した。もうもうと、熱い蒸気が吹きつけてくる。

どかたくん(どこが?)

「……大丈夫か、椿ちゃん!?」

聞き慣れた声が、椿の耳朶を打ち、少女ははっと我に返った。人型蒸気へと向けられた瞳に、長身の男の姿が映った。

「……神代、さん?」

「何とか間に合ったみてえだな」

人型蒸気から降り立ち、神代はにやり、と不適な笑みを浮かべた。

「怪我はないか、椿ちゃん?」

「あ……大丈夫、です」

まだどこか呆然としたままで、椿は答えた。その彼女を、頭から足の先までじろじろと見て、神代は、安堵したようにため息をついた。

「よかった。どこも怪我はないみたいだ。こわかったか?」

「……は、はい」

こくん、と頷いた椿だったが、はっと気づいて、神代へと駆け寄ってきた。
その瞳が、うるむ。桜色のくちびるが、何かを言いたそうに開く。
満面に優しい笑みを浮かべ、神代は両手を広げた。
だが、椿は彼の手前で立ち止まり、訴えかけたのだった。

「それより、神代さん、四葉ちゃんが大丈夫かどうか、見てきてくれませんかっ!?」

「……」

明らかに何かを期待していたのだろう。がばっと両腕に空を切らせた神代の顔には、情けないまでの惚けた表情がありありと浮かんでいた。 気遣わしそうにあせりの表情を浮かべる椿の顔を、眺める。自分の体を抱きしめる結果になった両腕が、さみしげに力なくたれさがった。

「何をやってるんですか、神代さん。早く四葉ちゃんのところに行きましょう!」

言い置いて椿は人型蒸気の操縦席へと昇っていった。
ひとり地上に残された神代は、ひどく哀れみを誘う表情で呟いた。

「もうちぃとばかり、感謝されてもいいと思うんだが……」

「神代さん、早く! 置いていきますよ?」

「……ああ、今行くよ」

ひとつ首を振って、気持ちを切り替えたらしく、神代は操縦席へと昇った。
人型蒸気の内部は狭い。本来軍事用に造られた人型蒸気は、重装歩兵の特殊なものとして位置づけられているため、一人乗りを前提に設計されている。 土木作業用に紅蘭の手によって改造されたとはいえ、神代の乗ったこの人型蒸気も、多分に漏れず、一人乗りになっていた。 しかも、細部に凝る紅蘭により、あちらこちらに用途不明のボタンやレバー、スイッチ、計器パネルが所狭しと並べられ、接続コードがほとんど蜘蛛の巣状態にからみあっているため、居住空間は極端に狭かった。
椿はその操縦席のシート脇の空間に、上部にある何かのパイプをつかんで立っていた。

「椿ちゃん。その姿勢、苦しくない? よかったら、俺のひざの上へ……」

「結構です!!」

「あ、そう……」

気落ちした風情でシートに座り、神代は人型蒸気を始動した。

「……で、どこだい、四葉ちゃんは?」

「こっちです」

目の前の二本のスティックを動かし、椿の指さす方向へ、人型蒸気を向ける。蒸気バルブを緩め、ギアをシフトして、圧力弁に直結しているペダルを踏み込んだ。 ぐおんという作動音と共に、蒸気が噴き出し、二人の乗った人型蒸気は猛然と人通りのない街路を驀進し始めた。
街路のあちこちに、造魔に襲われた人々の屍骸が転がっている。眉をひそめて、神代は呟いた。

「それにしても、何だってあんな変な化けもんが帝都に現れたんだ? ――なあ、椿ちゃん。あれは、今年の1月に現れたとかいう化けもんと同じものか?」

「え……そ、それは……」わずかに逡巡したが、椿は正直に話すことにした。 このくらいならば、帝都市民ならば答えられないほうがおかしい。そう判断したのである。 「たぶん、違うと思います。あの時に出てきた魔物は、四本足じゃなかったし、あんな、人の頭みたいなものなんかありませんでしたから」

「ってことは、今回の敵は、前の化けもんを操っていたサタンとかいう奴じゃねえってわけか」

「……サタン?」

椿は首をかしげた。サタンの事に関しては、帝都市民には知られないように十分に情報制御が行われている。 例え元士官学校生であっても、神代のような一般市民がそのような名称を知っているはずはなかったのである。
だが、椿が問いかけようとしたとき、いきなり、神代はぐいと人型蒸気の向きを変えた。

「きゃっ!!」

小さな悲鳴を上げて、椿は上部のパイプにつかまった。だが、ついと手が滑り、思わず倒れ込む。 かろうじてシートごと神代にしがみついて、椿は抗議の声を上げた。

「ちょ、ちょっと、神代さん! いきなり何するんですか?」

「すまねぇ、椿ちゃん! ちょいとそのまんまでいてくれ」驚くほど真剣な声で、神代が答えた。 「この、目の前の奴をどけなきゃならねぇんだ」

「え……?」

椿は目を見開いた。人型蒸気の前部に、見慣れた物体があった。造魔であった。 生臭い息を吐き、嫌悪感をもよおすぶよぶよとした体を動かして、何かをつかもうとしている。 その先を無意識のうちに追った椿は、思わず声を張り上げていた。

「神代さん、四葉ちゃんが!!」

「なにっ!?」

それはまさしく、四葉であった。
造魔の前脚の先、道端のかげに、彼女は倒れていた。力なく青ざめた顔に黒絹のような髪がふりかかっている。 椿が投げ出した姿勢のままに彼女は物陰に倒れていたのだが、その、彼女を隠していた木箱や壁が、造魔によって破壊されていたのだ。 獲物を見つけた造魔は、滴り落ちるだ液もそのままに、ぐったりとなったかぼそい少女を、今まさに喰らおうとしていた。

「四葉ちゃん!!」

「ちぃ!」

神代の腕が動いた。瞬時に人型蒸気の鉤爪が伸びる。同時に駆動輪が激しい擦過音を立てた。 腕の伸長と車体の回転により、下からすくい上げるように人型蒸気の腕が造魔の体を捉え、はねあげた。 空中に浮かんだ造魔の、あらわにされた柔らかな腹を、さらに神代はもう一方の腕で貫く。グビャアアと苦しげな悲鳴を造魔はあげた。

「……す、凄い……」

椿は思わず息をのんでいた。造魔の力がどれほどのものかは知らないが、このような魔物を、神代はほとんど瞬時に倒してしまったのである。 それも、霊子甲冑をまとうこともなく。

(単純に戦闘力だけなら、大神さん以上かもしれない……)

直接大神の戦うところを見たことはないが、椿も花組の少女たちから、いかに大神が強いかを聞き及んでいる。 だが、目の前で見る神代の力は、その大神の強ささえも凌駕しているかに思えたのだ。

(――そんなこと、あるわけないわ!!)

神代が聞いたら気落ちしそうなことを椿は心の中で呟いた。

(大神さんが、一番だもの!!)

整った顔、優しさと厳しさと、何より意志の強さをうかがわせる眉目。どのような時にも輝きと強さを失わない黒い瞳――
だが――
心の中に、大神の姿を思い浮かべた椿は、ぎくり、と身を震わせたのだった。

(大神さん!?)

苦悶と恐怖に満ちた大神の姿が、ふいに、椿の脳裏に浮かび上がったのである。 その端正な顔は青ざめ、額からだらだらと血を流し、大神は凄じいほどの苦痛に耐えるかのように顔をしかめていた。 左腕がだらりとたれさがり、その白い軍服の半分が赤い不吉な色に染まっている。 その瞳はそれでもなおあきらめず、鋭く前を見すえてはいたが、かえってそれが、彼の窮地を如実に示していた。

「大神さん!!」

思わず椿は叫び、そして、人型蒸気の操縦席から出ようとした。だが、その細い腕が、がしっとつかまれた。

「おい、椿ちゃん、どこ行くんだ?」

「離してください、神代さん」あせりの表情で、椿は神代を振り向いた。 「大神さんが、危ないんです! すぐに行かないと!!」

「……何でそんなこと、わかるんだ?」

「わかりません! でも、早くしないと、本当に危ないんです!」

必死の形相で、椿は神代に叫んだ。そのせっぱつまった表情に、さすがに神代もそれ以上問いかけるのをやめた。

「わかった。四葉ちゃんを拾ってから、すぐに行こう」

「それじゃ間に合わない!」

椿がそう叫んだときだった。

ふいに――

神代の目前に、光が出現した。あたり一面が、白濁した光の中に埋没していく。

「うわっ、な、なんだ、こいつはっ!?」

思わず手をかざして、神代はうめいた。強い光線が満ちあふれ、ほとんど目を開くことが出来ない。 だが、逆光の中で、神代は見た。椿の細い体が、光に溶けていくのを。そして、その背に、奇妙なものがあるのを。

「……つ、翼!?」

呆然と、神代は呟いた。

光に満ちたその世界の中、その神々しいまでの輝きを秘めた翼を広げて、椿は、光の中へと埋没していった。

「お、おい、ちょっと!!」

慌てて、神代は手を伸ばした。少女の体をつかもうとしたのだが、無駄だった。その手が宙をかいたとき、すでに光は、現れたときと同様に、瞬く間に消えうせていた。

「……なんなんだ、いったい!?」

何もつかむことができなかった自分の手を見て、神代は眉をしかめた。不快そうに宙を見、考え込むように腕を組んだ。
だが、結局は神代は考えることが出来なかった。いきなりぐらり、と人型蒸気が揺れ動いた。

「なっ……!?」

反射的に神代は人型蒸気の体勢を立て直した。ぎゅん、とうなりをあげて駆動輪が回転し、とびのくように人型蒸気がその場を離れる。
そこには、もう一匹、造魔が姿を現していた。

「……またお出ましか」不機嫌そうに、神代は呟いた。「悪いけど、てめぇらに構っている暇はねぇ。椿ちゃんのあとを追わなけりゃならねぇんだ」

言うや、神代は人型蒸気を突進させた。鋭い鉤爪が、造魔めがけて繰り出された。

だが――

「――な、なにぃ!?」

慌てて、神代は人型蒸気の鉤爪を引き戻した。すぐさま車体を後退させる。
さっきまで確かに有効だった攻撃が、まったく通じなかったのである。 ぶよぶよとした造魔の肉体を易々と貫くはずの鉤爪は、まるで鋼鉄か何かを貫こうとしたかのように、ひしゃげ折れ曲がっていた。 衝撃が人型蒸気の腕を走り、付け根の駆動機構を粉砕した。ギアがはじけ飛び、火花が散る。駆動用の圧搾蒸気がパイプの亀裂から吹き出し、奇妙な音を立てた。

「なんで、通じねぇんだ?」用心深く、残ったもう一本の腕で造魔を牽制しながら、神代はうめいた。 「傷の一つくらい、つけられたはずだぜ?」

造魔の体に異常はない。その醜い肉体は、どこにも傷一つついてはいなかった。ゆっくりと造魔は振り向き、あざけるようにその口を開く。 そして、グォンと吼えるや、人型蒸気に向かって突進してきた。
神代の腕が、人型蒸気を半身にさせる。同時に、無傷の腕が造魔のあごをとらえる。横合いから造魔を押し倒そうとしたのだが、それも今度はうまくいかなかった。 先ほどまでならばもんどりうって転がったはずの造魔は、まるでその攻撃がなかったかのように、そのまま人型蒸気に体当たりしたのである。 きしみ音が響き、左側の車輪のうち2つがはじけとんだ。頑強なフレームがひしゃげ、パイプが吹き飛ぶ。爆発音が轟き、人型蒸気は動くことをやめた。

「……やれやれ。これじゃあ、あとでどやされるな、紅蘭ちゃんに」

小さく笑って、神代は人型蒸気から飛び降りた。その手に、布に包まれた奇妙なものが握られていた。

「こればっかりは使いたくなかったんだが……仕方ねぇ。生きるためだからな」

低く呟いて、造魔を見すえる。人型蒸気をスクラップに変えた造魔は、勝ち誇ったように高々と吼えていた。
その濁った瞳が、神代に向く。神代の口元がゆるんだ。笑ったのであった。

そして――

世界が白濁した。




前へ 次へ
ツバキ大戦 表紙へ