紅玉色の世界の中に、黒ぐろとした影がうねる。樹木のように大地からその触手を伸ばし、苦悶の叫びを上げ、救いを乞う人々の影。
ゆらゆらとかぼそい影がゆらめき、その折れ曲がった黒い枝のようなものが、紅のなかにくっきりと浮かび――折れ、崩れ落ちる。
どくり、どくり、と蠢く腕が、ゆっくりと伸びてくる。そこにまとわりつく、幽玄の霊気。いや、邪気といったほうが正確か。
魂の底から冷えるようなおぞましい叫び声が、耳の中でこだまする。
すべてを呪い尽くしてなお成仏できない魂の苦悶の絶叫、贖罪を求めてただよう、瘴気に腐り果てた魂の悲鳴。
それらを圧して、その腕は伸びてきた。人間の魂を糧とし、生き物の臓器を血肉とする、呪われた存在。
その、見るだに穢らわしい腕が、ゆっくりと、ひたり、ひたりと伸びてくる。脂がこびりつき、腐臭が染み込んだ爪がぐわりと開く。
その爪が、頭上高く振り上げられ、そして――
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
自らの絶叫が、彼女の意識を悪夢から呼び覚ました。明るい紫色の瞳が大きく見開かれ、その口が、新鮮な空気を求めてあえいだ。 健康的に日に焼けた肌が青ざめ、その表面には玉のような汗が幾筋も伝っていた。
「……ゆ、夢、か……」
額に落ちかかる赤褐色の髪をかきあげて、彼女は小さくうめいた。髪の合間に、いまだに恐怖の浮かぶ瞳が、焦点も定めずにふらふらと揺れ動いている。
「……カンナ」
低く、小さな声が、ドア越しに彼女へとかけられた。
「眠れないのならば、何か薬でももらう?」
囁くような、優しい声。そこには、親友を気遣う気持ちが込められていた。彼女はぶるり、とひとふり頭を振ると、声を大きくして答えた。
「……心配ねぇ、大丈夫だ、マリア。ありがとよ」
だが、扉の向こうの人の気配は、なくなろうとはしなかった。数刻、躊躇う様子があり、その後、落ち着いた声が再びかけられた。
「カンナ……よかったら、サロンでお酒でも飲む? 何か話でもしましょうか……」
「いや……」カンナは、右手を胸に当てた。ぎゅっと服をつかむ。その眉が険しくひそめられ、わずかに苦しみの混じった声を、ようやく彼女はしぼりだした。 「悪い。そんな気分じゃねえんだ……」
「そう……」
ドアの外の気配は、それでもなお、立ち去ろうとしない。カンナは小さく苦笑して、できるだけ明るい声で言った。
「悪かったな。起こしちまったか? 大丈夫――あたいは大丈夫だ。もう、ぐっすり眠れるよ。だから、安心してマリアも眠ってくれ」
「……わかったわ。お休みなさい、カンナ」
「ああ」
ドアの外の気配が消える。カンナは、ベッドの上でひざをかかえた。その紫色の瞳が、痛々しいほどに切なく細められた。
「情けね……この、桐島カンナともあろうもんが、よ……」
幼子のようにひざをかかえたまま、カンナは、じっとそのまま、夜の明けるのを待った――
”帝都に、再び悪夢がよみがえった!!”
”帝國華撃團、かろうじて敵を撃退! しかし、大きなダメージを受けた模様”
”帝國首相、全帝都市民に、通達。再び魔の到来! 銀座に市民の影なし”
「……どれもこれも、嫌な見出しばっかりだ」
机の上に新聞を投げ出し、米田は苦々しげに吐き捨てた。彼の目の前には、直立不動の姿勢で、大神が立っていた。 端正な顔は険しく、鋭い眼光が、米田の投げ出した新聞へと注がれる。
「米田司令――敵は、想像以上に強敵でした。それは、すでに報告した通りです」
「わかってる。俺も、平和の中に安寧としていた、と、おめえたちを非難する気はねぇよ」米田はふん、と鼻を鳴らした。
「一撃で神武をぼろ屑同然にされちまうほど、おめえたちがだらけていたとは、思えねえからな。
――にしても、だ。当分の戦力ががた落ちしちまったのは、事実だ。紅蘭はどう言っている?」
「戦力の増強は、難しいということです」大神の答える声も、苦みがかなり含まれていた。
「とりあえず、自分とカンナの神武以外に関しては、修理は完了していますが……カンナの機体はまだしばらくかかるそうですし、自分の機体については、もはや手がつけられないそうです。
新しく一から作り直すしかないそうです。
残った他のメンバーの神武も、新しい敵に対抗するだけのパワーアップを施すには、一朝一夕ではとても無理だそうで……」
「そうか……」
はあ、と、米田はため息をついた。
「帝都もまだ、完全に復興したわけじゃあねぇ。新規に霊子甲冑を開発する予算を分捕ることもできねえとなると、お手上げだな」
「……」
大神は、わずかに眉をあげた。以前までの彼であれば、声を荒げて米田の弱気を叱咤するところである。
だが、帝都の情勢、特に、復興も完全には遂げていない帝都の市民たちの現在の苦労と、新しい敵に対する不安、恐怖を考えると、米田の苦悩も分かるのだった。
全てが自分の力でどうにかできる、と考えられるほど、大神も未熟な青年ではなくなっていた。
「長官……」しばらく躊躇った後、大神は、静かに語りかけた。「それで、椿くんの件ですが……」
「ああ。今、調査させている」分かっている、といいたげに、米田は片手を振った。 「今ある神武の力じゃ対抗できねえ、しかも新しい霊子甲冑も開発ができねえとなりゃあ、敵に対抗できる力があるとしたら、おめえの報告にもある通り、椿くんの力だけだ。 今、帝撃月組、夢組を使って、そこいらへんを調べさせている。 ――それで、大神。その力ってのは、霊力とは、違うんだな?」
「少なくとも、自分の感知できる種類の霊力ではありませんでした」
大神は、よどみない口調で答えた。その内容は、すでに米田の元に報告書として届けてあるものとほとんど同一であった。
大神に限らず、強い霊力をもつ者には、同様に霊力をもつ存在を感知することが出来る。相互に霊力が干渉しあう、そのわずかな気配を、察知することが出来るのだ。
最も霊力が高いアイリスなどは、感知した霊力の強さ、種類までもがわかる。
しかし、そのアイリスにしてさえ、椿からは何の霊力も感知することは出来なかったのである。
「――それで、大神。繰り返すようだが、その時、椿くんの力によって敵の装甲が溶かされたとき、不思議な声が聞こえたんだな?」
「はい――」大神は目を伏せ、そして、きっぱりと言った。「自分には、あやめさんの、声に聞こえました」
「あやめくんか――」
米田は目を閉じた。その脳裏には、おそらく、彼が最も信頼した、女性の姿が映し出されていたのだろう。
藤枝あやめ。帝國華撃團の前身、陸軍対降魔迎撃部隊で米田と共に戦い、華撃團では花組の少女たちの心強い味方となり、支えとなっていた女性であった。
そして、米田にとっては忘れられない、失うべからざる女性であったのだ。
大神はじっと、米田が口を開くのを待った。
やがて、米田は目を開き、中空を見ながら呟いた。
「――もしかしたら、霊力じゃない、神力とも言うべきものなのかもしれんな」
「神力、ですか――」大神は驚かなかった。サタンとの戦いのとき、あやめが大天使ミカエルとして現れ、そして今、椿の背後にその女性の気配を感じたときから、もしかしたら、と考えていたことだった。 「椿くんに、あやめさんの力――いえ、大天使ミカエルの力が、宿っている、と?」
「さあてな」低く、米田は笑った。はぐらかすように肩をすくめ、米田は大神を見た。
「ほんとに神の力なのかどうかは、俺にはわからねぇ。とにかく、今俺たちにできるのは、調査の結果を待つことぐらいだ。
……ま、最終的には椿くんにも協力してもらわなけりゃならねえがな。
どんなもんか、その判断はそれからにしようぜ。それまでは、とやかく言っていても始まらねえや、な?」
「はい」
大神は頷いた。確かに、今、彼が出来ることは何もなかったのである。
それに構わず、米田は、机に置いてある書類の一つを取りあげた。
「……ところで、大神。あの男――神代の様子はどうだ?」
「はあ、あいつ、ですか――」顔をしかめて、大神は首を振った。 「やはり、薄々は自分たちのことを感づいていると思います。それなりに勘の鋭い男ですから。 しかし、表立っては、以前と変わった様子を見せていません」
「ずいぶんと、タヌキらしいな」書類を繰りながら、米田は面白そうに言った。 「かすみくんたちの報告にも、あいつがおそらく感づいていることが書かれている。 この帝劇に、武器はないかと言ってきたらしい。 それに、かすみくんを手もなく組み伏せたのはともかく、人型蒸気であの化け物を倒した実績は、無視出来ねえな」
「人型蒸気で――?」
「ああ。椿くんがそう報告している。ほれ、見てみろ」
米田は、ぽいっと無造作に書類を投げた。あわてて大神はその書類を受け取る。
書類の端がやや折れたが、米田は大して気にしていないようだった。乱暴な、と言いたげに大神は米田を睨んだが、無言のまま、書類をめくる。
そこには、おそらく椿の自筆であろう、やや丸みを帯びた丁寧な字で、神代に救われたときからの報告が綴られていた。
しばらく無言で読み進んでいた大神の顔が険しくなっていくのを、米田はいつの間にか抱え込んだ日本酒の一升瓶を抱えて飲りながら見ていた。
「……にわかには信じられませんね」
やがて、大神は軽いため息をつきながら、視線を米田に戻した。丁寧に端を揃え、報告書を米田の前に置く。
「あの魔物は、普通の人間では倒すことは不可能です」
「ほう?」ちびりちびりと杯を傾けながら、米田は気のなさそうに言った。 「おめえたちは、その魔物を倒した。その感触からして、普通では倒せんか?」
「はい。少なくとも霊力、あるいは、それに匹敵する力がなければ。
――実際、通常の攻撃では、魔物は倒せませんでした。霊力を集中して攻撃しなければ、傷一つつけることは出来ませんでした」
大神は米田に、詳細な戦闘の経過を語った。
大神よりも一歩早く戦闘に突入したカンナによって造魔を一匹倒せはしたのだが、それは、カンナが霊力をその拳に集中させたからであった。
霊力を使わずに切りつけた大神の剣は、造魔の、一見柔らかそうな外皮をまったく傷つけることは出来なかったのである。
まるで鋼鉄に切りつけたかのように、大神の剣ははじき返された。剣が折れなかったのは、シルスウス鋼であったからである。
普通の剣であったら小枝のようにあっさりと折れ飛んでいただろう。
そのことに気づき、大神はすぐに霊力を集中させて造魔を倒したのであった。
「それでも、かなりの霊力を集中させなければ、あの魔物は倒せませんでした。 生半可な霊力ではたいした傷はつけられず、すぐに反撃が来ました。その攻撃を防ぐのにも、霊力を集中しなければなりませんでした」
「――ってことは、霊力がないものには、攻撃することも、防御することもできねぇってことか?」
「はい」
大神の脳裏に、先の戦闘の光景が浮かびあがった。全霊力を傾けて造魔の群れに挑み、幾度となく必殺技を出し、ようやく全滅させたのだが、大神たちは疲弊しきり、彼らの乗る神武はかつて光武で降魔に対した以上の痛手を被っていた。
もしあの時、屍炎の乗る魔晶甲冑も造魔と共に攻撃をしていたら、大神たちはおそらく破れ去ったであろう。
屍炎の敗因は、造魔が全滅するまで、大神たちの苦戦するさまを愉しんでいたことにあったのである。
だが、大神には、そのような事情はわからなかった。造魔を全滅させた後、哄笑する屍炎が近寄ってくる間にアイリスの霊力で全員を回復させることができたことが唯一の救いであった。
それにより何とか屍炎に攻撃を行うことが出来たのである。
だが、それでも屍炎の魔晶甲冑には全く歯が立たなかった。霊力を全開にしても、ほとんどダメージを与えることが出来なかったのだ。
そして、おそらく霊力を持たないものが造魔に対したときに感じるであろう無力感、絶望感を、大神は屍炎に対したときに感じたのだった。
だから、大神には、霊力を持たないと思われる神代が、どうして造魔を倒すことができたのか、首をかしげるばかりだった。
「神代にも、霊力があるのでしょうか? 自分も、おそらくさくらくん達も、神代からはそのような気配は感じられなかったのですが……」
「まあいい。霊力があるにしろないにしろ、少なくとも、魔物相手に戦えるんなら、な」
米田は、ぐいっと大神に身を乗り出した。
「そこで、だ……おめえの意見を聞きたい。
あいつはおめえの目から見て、信頼するに足りる男か? おめえたち、帝撃の背中を任せるに足りる男だろうか?」
「……」ほんの少し、大神は躊躇った。だが、真剣なまなざしで問いかける米田の顔を見て、何かを決意したらしく、きっぱりと頷いた。 「十分信頼するに足りる男です。彼にならば自分たちの背を預けることが出来ます」
「……わかった」米田は苦みを帯びた笑みを浮かべた。「おめえに保証してもらえると、俺としても助かる」
「――やはり、神代を帝撃に迎えるのですね」
確認の言葉を投げる大神に、米田は頷いた。その顔にかげりが浮かんだ。
「……すまねえな、大神。おめえの親友を巻き込む事になっちまって」
「お気になさらずに、長官」大神は微笑を浮かべた。「あいつの性格から言えば、むしろ喜んで巻き込まれたがるでしょうから。
――それよりも、長官。これだけは申し上げておきます」
「ん? 何だ?」
「あいつは自分の親友ではありません! たんなる腐れ縁と言うやつに過ぎませんから!!」
「……」
米田の口が大きくゆがんだ。もちろんその顔には大神の言うことを全く信用していないことがあからさまに浮かんでいた。
呆れた様子でしばし米田は大神を眺めていたが、やがて、小さく一つせき払いをし、言葉を続けた。
「……親友だか悪友だかはともかくとして、だ。大神。おめえにちょいとばかり確かめてもらいてぇことがあるんだ」
「何でしょう?」
米田のしばしの沈黙を故意に無視して大神が訊ねると、米田は机の引き出しを開け、ひとつの紙の束を取り出した。 どさっと投げ出すようにそれを机の上に広げる。
「こいつを見てくれ。神代の経歴調査の報告書だ」
「……」
やはり、という顔で、大神は広げられた報告書をのぞき込んだ。 米田があのように神代を迎えることを表明した以上、神代がどのような男であるか、その身辺調査をしていないはずはなかった。 また、神代を帝劇に雇い入れる、と決断した時点ですでに調査の手は伸びていたに違いない。 大神の予測通り、報告書の調査開始日は神代と出会ったその日になっていた。
神代誠一郎。
1902年8月。浅草の片隅で、神代密(ひそか)の男児として生誕。父親は不明。
母親の密はフランス座の売れっ子モデルであり、複数の男と関係していた。その中には数名外国人が混じっており、彼らのうちの誰かが父親と思われる。
1915年、母親の密、死去。1918年、士官学校に進学。1920年、教官に暴行を働き、退学――
「米田長官。神代の後ろ盾にお心当たりがありますか?」
「……やはり気づいたか、大神」小さく一つ頷いて、米田は厳しいまなざしで報告書に目を落とした。
「母親が死去して天涯孤独の身になりながら、3年で士官学校に入る。
そんなことができるのは、軍関係にかなり深いかかわりを持つ人物の後ろ盾が必要不可欠だ。
この報告書には概略しか載ってないが、こっちの資料の方にそのへんのことが書いてある。見てみろ」
「は……」
大神は、指し示された薄めの資料を手に取った。その目が瞬間、険しくなった。じっと、そこに書かれている人物の名前を見つめる。資料を持つ手が震え、その指先がきつく握られた。
「……これは……本当ですか?」
「……おそらく、な」
短く、米田は答えた。その皺深い顔に、言いようのない苦悩が見てとれた。
「長官は……このことを、ご存じだったので……?」
「確認したわけじゃあねえが……聞いたことは、あったな。だが、こいつがそうだとは思わなかった」
「……そうですか」
大きくため息をついて、大神は首を振った。その端正な顔に、米田と同じく苦悩が見てとれた。 握りしめて皺の走る報告書を丁寧に広げ、机の上に置くと、大神は何かを決心した目で米田を見た。
「……長官、それでも俺は、あいつを信じています。まぎれもなく、あいつは信頼できる男です」
ひたと当てられた真剣なまなざし。そこに宿る決意を見て、ようやく米田は安心したように笑みを浮かべた。そして深く、頷いた。
「その言葉が聞きたかった。これで決心がついた。
大神――神代を帝撃に入団させる。この件に関しては、お前に一任する」
「はっ」
大神は敬礼した。そしてそのまま、米田のうながすままに退出していく。
その後ろ姿が扉へと消えた後、米田はふと、机の隅に立てかけてある写真へと視線を向けた。
ややかすれた色合いではあるが、はっきりとした写真。去年の暮れ、天海との戦いの後に撮った、写真。
笑顔のあふれる帝劇の少女達の姿。大神を囲んで微笑む少女達の晴れやかな姿。楽しそうにふざけた米田の姿もある。
そして――
彼らを見守るように、ひっそりと佇み、微笑む女性。慈母のようなその笑顔にはあふれるばかりの愛情と信頼、そして、どこか寂しげで悲しげな色もあった。
「あやめくん……」
知らず、米田の口が言葉をつむいだ。その皺深い瞳が細められ、力がなくなる。急激に年をとったかのように米田の姿は小さかった。
「また、あの娘たちを、危険にさらすことになってしまったよ……しかも、今度は椿くんまでもだ。
あの娘も、結局戦場に送り込むことになってしまった……
やれやれ、罪深いことだ。果たして、何回地獄とやらに落ちれば、私の罪はあがなえるのかな……」
「ふう……ようやく終わったわ」
小さく呟いて、椿は顔を上げた。年より幼く見える顔は晴れ晴れとしており、その瞳はきらきらと輝いている。 秋とはいえ、売り物の整理を一生懸命にこなしていた彼女の額にはわずかに汗の粒が浮いており、軽く上気した頬はほんのりと朱を帯びていた。 きちんと整理された店内を見回して、一つ大きく頷く。満足そうな微笑が広がった。
「うん。これでいつ公演を再開しても大丈夫だわ!」
あの日、帝都に再び魔物が現れた日、好評のうちに初日を終えるはずだった帝劇の「椿姫の夕」は、結局公演中止となってしまった。 花組の少女達には大した怪我もなく、帝劇自体にも被害は及ばなかったのだが、さすがにこの状況下で公演を続行することは不可能だった。 いつなんどき、再び化け物が現れないとも限らない。しかも、頼みの綱である帝撃の損害はかなりひどく、また化け物を退治できるかどうかわからない。 そのような不安が帝都を席巻し、帝劇だけではなく街のあちらこちらで、客足は遠のいているのだった。
だが、そのような世相のことなど、椿はほとんど気にもとめていない。明るく元気な笑顔で、帝劇の売店で商品整理をしたり伝票整理を手伝ったり、楽しそうに掃除などもしている。 花組の少女達をはじめとする他の人々が多かれ少なかれ打ちひしがれ沈んでいるのとは、対照的だった。
「……何や、ずいぶん楽しそうやな、椿はん?」
後ろから声をかけられ、椿は振り向いた。チャイナドレスに身を包んだ少女を確認して、笑顔になる。 その後ろにもう一人、桜色の小袖と赤い袴の少女がいることにも気づき、元気良く挨拶した。
「……あ、紅蘭さんにさくらさん! おはようございます!!」
「おはようさん……って言っても、もうお昼やけどな」
軽く笑って、紅蘭は椿の所へと近づいてきた。ちょっと小首をかしげて、椿の顔をのぞき込む。
「何か、いいことでもあったん? 椿はん、嬉しそうやで」
「え? そうですか? 私、普通だと思いますけど」
きょとん、とした椿だったが、朗らかな様子は変わらない。 それでも真面目に考える様子でしばらく椿は黙っていたが、ふと思いついたように言った。
「あ、もしかしたら今朝見た夢のせいかなぁ?」
「夢? どないな夢見はったん?」
興味津々、といった感じで紅蘭が訊ねると、椿はぱあっと頬を染めてうつむいた。
その様子に、紅蘭の後ろにいるさくらが反応した。ぴくっと眉をひそめ、椿を凝視する。
普段ならばにこにことそんな椿の様子に笑顔を向けるはずの彼女のその反応に、紅蘭はちょっと驚いた。
(なんやろ……さくらはん、心当たりでもあるんかいな?)
不思議に思った紅蘭だったが、それよりも頬を染めたままもじもじとしている椿のほうに興味を引かれた。
眼鏡を光らせて、面白そうにのぞきこむ。
「んで、何の夢見はったん? 教えてくれへん?」
「そ、それは……えー、そ、そのぉ……」
ますます顔を赤らめる椿。小さく縮こまる彼女はとても可憐で愛らしく、紅蘭は面白くなってさらに突っ突いた。
「なあ、誰にも言わしまへんから、こそっと、な?」
「……や、やっぱり言えません!」
「なに、そんなにえらいもん、見はったん?」
「……紅蘭。もうそのくらいにしたら?」
なおも面白そうに問いかけた紅蘭を、その時、さくらが止めた。 そのほっそりとした手を紅蘭の肩におき、ハシバミ色の瞳をやや気遣わしげに椿に向ける。
「あんまり椿ちゃんを調戯ったら悪いわよ」
「調戯ったつもりはあらへんのやけどな、ウチは」
ちょっと口をとがらせたものの、紅蘭はすぐに微笑を浮かべて、頷いた。
「ま、ええわ。そないに隠したがるん見ると、椿はんにとっては大事なもの見たいやし、な?」
「……そ、そんな、大事だなんて……」
小さく消え入りそうな声で椿が呟いたが、紅蘭はもう追及しようとはしなかった。
かわりに少し真面目な顔になって、椿に問いかけた。
「……それはそうと、椿はん。大神はん見いひんかった?」
「え……お……おおお大神さんっ!?」
ぼっ
音を立てて、椿の顔が真っ赤に染まった。
「……な、なんやの、素っ頓狂な声出してぇ!?」
思わず耳をふさぎながら、紅蘭は大きな瞳を丸くして椿を見た。意外な反応にとまどい、声をかける。
「どないしはったん、椿はん?」
「わ、わわわ私、そ、そんな……お、大神さんの夢なんて……
み、みみみ見てません!!」
「……ゆめ?」
「あ……」
きょとん、とした顔をした紅蘭を見て、椿は自分が墓穴を掘ったことに気づいた。幼い顔がさらにさらに紅く染まる。 呆然とした表情でその椿の様子を眺めていた紅蘭だったが、ふいに、にやり、と意味ありげに笑った。
「ほっほう……椿はん、もしかして、大神はんのことを……」
「そっそんな、私は、そんな……」
もはや小さく縮こまってしまった椿であった。羞恥に頬を染めてうつむく椿の姿は、それこそ恋をしている少女の姿に他ならなかった。
何とも言えない、初々しく、ほほ笑ましい反応である。
じっくりとその椿の様子を堪能した紅蘭だったが、ふいにはっと気づいて、後ろを振り向いた。
彼女の後ろには、つややかな黒髪を流した清楚な少女がいたはずだったが、そこに紅蘭は誰の姿も見ることができなかった。
(あ――さくらはん……)
あちゃあ、という顔をした紅蘭である。
さくらが大神を好きなことは、すでに周知の事実であった。それも、他の花組の少女達の想いでさえもかなわないほどであることも。
誰よりも強く大神を想い、そして誰よりも、他の少女達の大神に寄せる信頼と愛情に敏感な少女がさくらであった。
それだけに、また新たに大神に思いを寄せる少女が登場したことに衝撃を受けないはずはなかった。
しかしさくらが、あの魔物との戦いの折りにすでに椿の告白を聞いていたとは、紅蘭も知る由がなかった。
「すんまへん、椿はん! ウチ、ちょっと用がありますねん。失礼させてもらうで!!」
「……え?」
また追及されるものとばかり思っていた椿は、慌てた様子で紅蘭が走り去っていくのを、やや呆然とした様子で見送った。
だが、椿にはなぜ紅蘭が去ったのか、分かりはしなかった。そこにさくらがいないことにも、気づかなかった。
ただその胸に、不思議な熱いものがこみあげてくるのを感じていた。
「……私、どうしたんだろ? 何だか、とっても嬉しい……」
小さな手を胸にあてて、椿はひとり、自分の中の想いに身を任せる。脳裏には、いつもすぐとなりでモギリをしている青年の姿が浮かんでいた。
ふつふつと泉のように湧きあがる、熱く、けれど心地よいその想いに、椿はしばらくひたっていた。
それは、恋を自覚した乙女の姿だった。